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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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箴言19章

2016年12月30日 05時31分16秒 | 箴言
 人生においてお金のあるなしは、決定的なことのように思われるものだ。「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」(4節)。確かに、お金があれば多くの友ができるだろう。貧しい者の友になろうとする者などまずいない。「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」(7節)実に、貧しさは、友ばかりか、兄弟をも失わせる。「高貴な人の行為を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる」(6節)何よりもお金様々だ。
ただ聖書は、そういう現実の一面を手放しで肯定しているわけではない。1節。貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」誠実に歩む貧乏人は、金があっても人を騙すような人間よりはましである、ということだろう。金持ちが悪だと言っているわけではない。しかし、「愚かな者にぜいたくなくらしはふさわしくない」(10節)と言うように、よい収入を神の恵みとして受け止め、正しく用いる心のない金持ちに、富は不釣り合いなものなのである。それは、貧しいはずの奴隷が主人を支配する状況に似ている。
人の値打ちは、お金では測れない。人は裸で生まれ、裸で帰っていく。人はすべて神の恵みに浴して生きている。だから多く任された金持ちは、その責任を自覚しなくてはならないのだし、少なく任されたとしても、それなりに任されたものに誠実に歩むことが求められている。神は誠実な者を決して見過ごされることはない。実際、主は、全てをご覧になっており導いておられる「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(17節)。「貧しい人に施すのは、神に貸すことと同じで、後でたっぷりその利息がついてくる」とリビングバイブルは訳している。人間社会には、勝ち組と負け組があるわけではない。人はそのような区別をするが、神はそうではない。むしろ、神は勝ちでも負けでもなく、人が互いに分かち合い、互いに助け合い、支え合うことを期待しておられる。金持ちであるということは、神の祝福である以上に、神の委託であり、信頼である。神は、貧しい者たちと分かち合い、活用するために、その富を任されている。だから富にあぐらをかいたような生き方に祝福はない。「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」(23節)。主を恐れ、正しく物事を見極め、正しく自分の役割や務めを果たす者は、その豊かさを生かすことができ、災いに会うこともない。
 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」人にとって絶対的なものは、金でも権力でもない。主のはかりごとである。その事実に気付かねばならない。神にとって奴隷を宰相にすることは容易いことだからだ。よきものは、主が上からすべて与えてくださる(14節)。
 22節、「人の変わらぬ愛」ヘブル語ではヘセド、感情的な愛ではなく、誠実で忠実な意志的な愛である。確かに、愛は冷めやすく熱しやすい。それは意識されて守られていくものである。だから貧しくとも神の御教えに生きる者は、まやかしの愛を語る富めるような者よりはましだということではないか。神の御教えに誠実に生きる人柄が大事なのである。

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