ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ジェームズ・バルジャーくん殺害事件 ④ [裁判から仮釈放まで]

2013-03-22 19:16:00 | 事件

イギリスの近代史において、最も若い殺人事件の容疑者となったロバート・トンプソンとジョン・ヴェナブルズ。裁判を待つ間、二人は10歳より年上とされ、偽の身元と勾留理由を与えられ、別々の収容所に勾留された。カウンセリングは、事件時の記憶に影響する可能性があるとの懸念から、裁判が終わるまでは二人に与えられなかった。

ロバート・トンプソンとジョン・ヴェナブルズの家族は、怒って家の周りに集まってきた群衆から身を守るため、二人の逮捕直後、家から避難しなければならなかった。二人の親に対する殺害予告があったため、両家族は別の土地に引越し、偽名で新生活を始めるようだった。

 

裁判を待つ間、二人の精神鑑定が行われた。精神科医が人形を持ち込むと、ロバートは人形を積極的に使って事件を再現した。“ジョン人形”が容赦なく“ジェームズ人形”を打ちのめす。“ロバート人形”はそれを止めようとして“ジョン人形”を引き戻し、二人は後ろにひっくり返る。しかし“ジェームズ人形”への性的暴行に話が進むと、ロバートは興奮してむきになり、はっきりと答えようとはしなかった。

ロバートによるとジェームズは、自分の一歳半の弟ベンよりおとなしかったが、終始母親を求めてぐずった。自分は弟もいるし小さい子が好きだが、ジョンは小さい子が嫌いだ。精神科医が家族を話題にすると、ロバートは母親の飲酒癖をかばうような発言をした。自分が繰り返しみる悪夢のことも話した。誰かを追いかけているとき誤って車道に飛び出してしまい、車に轢かれるというものだった。

“ロバートは平均以上の知能を持ち、精神病や鬱病の徴候は認められない。ただし現在、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状が見られる”との報告がまとめられた。

 

ジョンの両親は、ジョンは活動過多の気味はあったが、良い子だと信じていた。母親のスーザンは、ジョンは学校でいじめに遭い、そのせいで転校を余儀なくされたと主張した。新しい学校で、ロバートに同情したジョンは彼と友達になったが、スーザンはロバートが息子をいじめていないか心配だったと言った。

ジョンの兄のマークは言語障害と学習障害があり、特別養護学校に通っていた。マークはまた、抑制不可能なかんしゃくをよく起こした。ジョンの妹ミシェルも、学習障害のため特別養護学校に通っていた。兄と妹に親の時間と関心の大半を奪われていたジョンは、二人に対し嫉妬していたのかもしれない。またジョンの両親は何度も別れてはよりを戻して、を繰り返していた。不安定な家庭環境は、ジョンに不安を与えていたのかもしれない。

裁判を待つ間のジョンは常に心配そうで、じっとしていられず、精神的にもろそうに見えた。すぐに苦悩に陥り、事件のことが話せなくなった。ジョンは母親に、ジェームズの口から血が吹き出す場面がフラッシュバックして彼を苦しめていると告白した。またジョンは、自分がジェームズを救い出して母親の元に返してヒーローになるという空想も持っていた。

ジョンの精神鑑定を担当した精神科医は、“ジョンには問題行動の原因となるような根本的な障害も脳損傷も見られない。鬱病・幻覚・妄想を含む精神疾患にもかかっておらず、善悪の違いを認識しており、裁判に出廷できる”と結論づけた。

 

裁判は、1993年11月1日に始まった。事件の重大性や世間に与えた影響を鑑みて、二人は大人と同様の裁判を受けることになった。年若く小さい被告たちのため、被告席は特別に上げ底された。二人は離れて座り、言葉を交わすことはなかった。通常の未成年の被告のように家族と並んで座ることは許されず、それぞれが被告席に一人で座り、傍らにソーシャルワーカー(社会福祉課員)が控えた。しかし家族が出廷したときは、二人の隣に座ることはできなかったものの、二人のごく近くに腰を下ろせた。

傍聴席の椅子は、傍聴人が持ち上げて投げつけることのないようボルトで床に固定された。裁判の時間は、学校の時間とだいたい同じになるよう10時半から15時半とされた。被告たちは一緒に裁かれ、裁判中は二人は少年A(ロバート・トンプソン)、少年B(ジョン・ヴェナブルズ)と呼ばれることになった。11歳になっていたロバートは歳より大人びて見えた。彼は前方か天井を見据え、靴を脱ぎ捨て、あくびをし、ほとんど感情を示さなかった。二人の子供が悪さをするとき、普通どちらかが主導者で、もう一人は追従者となる。傍聴人たちは、頑丈な体格をして感情を表さないロバートが『悪い方』だと考えた。それにひきかえジョンは、ある程度傍聴席の同情を獲得することに成功した。彼は悔恨の表情を見せ、何度も不安そうに母親を振り返っていた。ジョンは時折神経質そうにロバートを見たが、ロバートはそれを完全に無視した。

ジェームズの家族も毎日傍聴したが、7ヶ月の身重だったデニーズは欠席した。

ロバートとジョンは、裁判に出廷し被告席に座ったものの、発言を要請されることはなかった。裁判の過程を理解することは不可能とみなされたためだ。二人はジェームズの拉致および殺害容疑に加え、別の2歳男児の拉致未遂でも起訴されていた。容疑をすべて否認した二人は、取り調べの際の録音テープが流されると、強い関心を示した。お互いが相手を非難した部分にさしかかると、二人とも怒った表情を見せた。ジェームズの拉致はロバートの発案だったが、ジェームズを線路へと連れて行ったのはジョンのアイディアだったと考えられた。証拠品も次々と披露された。防犯カメラの映像、血のついた27個のレンガ、石、衣類、青ペンキの缶、重さ10kgもある錆びた鉄の棒。二人の靴についていた血は、ジェームズのものとDNAが一致した。遺体の頬に残された靴跡は、ロバートの靴底の型と一致した。二人の衣類についていた青ペンキも、ジェームズに浴びせられたものと全く同じものだった。法科学者は、遺体に残された損傷が42箇所(頭部22箇所・体に20箇所)と多過ぎたため、どの傷が致命傷になったのか判断できなかった。頭蓋は数箇所で骨折し、脳損傷は広範囲に及び、脳内出血もあったと報告した。

原告側は、二人の少年は同等に有罪であると結論した。「彼等はジェームズの安全よりも、自分たちの悪行の発覚を阻止することを優先させたのです。一緒になってジェームズに暴行を加えました。ロバート・トンプソンは彼の顔を蹴り、ジョン・ヴェナブルズはジェームズを激しく揺さぶった。ヴェナブルズがジェームズをショッピング・センターから誘い出し、トンプソンは先に立って二人を誘導した。しかし線路に達したとき、二人の役割は交代しました。ヴェナブルズが先に立ち、トンプソンがジェームズを抱えて上がった。取り調べではお互いに罪をなすりつけようと嘘をつきました。彼等が共に有罪であるのは明らかです。」

弁護側はこう反論した。「彼等はどちらも、過去に暴力行為をはたらいたことはありません。万引きと不登校のみです。これは、ちょっとしたいたずらが手に負えない状況に発展してしまったものと考えられます。もし彼等が最初から被害者を殺すことを計画していたのなら、被害者を運河で溺れさせることもできたし、車道に突き飛ばすこともできました。でも彼等は、それをしなかった。もし線路で被害者を殺す計画だったなら、なぜ交通量の多い通りに沿って歩き、多くの人に目撃され、多くの大人と会話したのでしょう?彼等は被害者を「見つけた」と言った。もし彼を殺すことを既に決めていたのなら、なぜ大人に干渉する機会を与えるようなことを言ったのでしょう?疲れた二人は、どうやっていたずらを終えたらいいのか、被害者をどうしたらいいのかわからなかったのです。」ロバートの弁護人は、ジョンが「僕があの子を殺したんだ」と言ったことを指摘し、ジョンが主導的立場にあったと主張した。ジョンの弁護人は、ジョンも多少暴力に加担したが、ジェームズを殺す意図はなく、『主導者』はロバートだったとほのめかした。実際それは、大多数にとって信じやすいことだった。

裁判長は陪審員席を向き、言った。―――ここで焦点となるのは、ロバートとジョンに、ジェームズを拉致した時点、あるいは彼を連れ回していた間にジェームズを殺害する意図があったかではない。争点は、ロバートとジョンに、線路でジェームズを殺す意図があったかどうである。

裁判の開始から3週間以上経った11月24日午後。二人に有罪判決が出た。判決を聞いたときジョン・ヴェナブルズはすすり泣いたが、ロバート・トンプソンはじっと身動きしなかった。判事は両名に、「君たちは過去に例がないほど悪質で残虐な犯罪を犯した。君たちの行為は狡猾で邪悪だったと私は考える。」と述べた。刑期については、未成年犯罪者に対する終身刑の代替である“at Her Majesty's Pleasure”(女王陛下のお赦しがあるまで)とされ、裁判長は二人の刑期を「最低でも8年」とした。「君たちは、内務大臣が君たちが成長し、完全に更生し、社会にとって脅威でなくなったと信じられるようになるまで、安全な環境で何年もの間拘束されることになる。」裁判長はまた、この事件の重大性と社会に与えた衝撃の大きさを鑑みて、それまで少年A・少年Bとされていた二人の氏名・生い立ち・逮捕時の写真の公開を許可した。年若い二人の殺人者の詳細を知った大衆は、大きなショックを受けた。

裁判が終わって間もなく、ゴスフォース大法官は、「二人の刑期は最低でも10年であるべきだ」との意見を述べた。世論も、もっと長い拘禁を望んだ。28万人近い署名が集められて当時の内相に届けられた。このキャンペーンが功を奏し、1994年7月に、ハワード内相は「二人は最低でも15年間拘束される」と発表した。しかし貴族院がこれに反対し、「拘束期間は内相の一存で左右できるものではない」と、内相の決定を違憲とした。高等法院も貴族院の意見を支持した。

 

裁判後、当時は公表されていなかったが、ロバート・トンプソンはマンチェスターにある、ベッド数14のバートン・モス更生施設に入れられた。ジョン・ヴェナブルズはマージーサイド州セント・ヘレンにある、ベッド数8のヴァーディー・ハウスに送られた。施設で働くスタッフによって毎日2回、彼等の様子が記録された。二人は偽の名前を名乗ること、収監理由は嘘を言うことを教えられた。ジョンの両親は定期的に息子に面会に行き、ロバートの母親も3日に一度は息子に会いに行った。二人は教育と更生プログラムを受け、当初は問題のあったジョンは、刑期の終わりには大きな進歩が見られるようになった。ロバートは頭がよく収監態度も模範的で、自分が投げ込まれた状況によく適応したが、自分が犯した罪に関して改悛の情を見せることはなかった。報告によると二人ともPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患い、特にジョンは殺人の悪夢やフラッシュバックや不眠に悩まされていた時期があった。

1999年、トンプソンとヴェナブルズの弁護人は欧州人権法廷に、二人の裁判が公平ではなかったとの訴えを起こした。1999年3月15日、欧州人権法廷は14対5で訴えの一部を認め、二人に大人と同様の裁判を受けさせるべきではなかった、またハワード内相の“干渉”も違憲だったとする評決を下した。この決定により新しい大法官ウルフが二人の最低刑期の見直しに入った。2000年10月、ウルフは「トンプソンとヴェナブルズを“腐食した雰囲気の”少年院に移してしまっては、この8年間に小さい施設で培われた二人の進歩が無駄になってしまう」との理由から、二人の最低刑期を8年間に戻した。ウルフはまた、「二人が犯した犯罪は重大ではあったが、あれが数ヶ月前の、二人がまだ9歳だった時に犯されていたら、二人は起訴されることも罰されることもなかった」と指摘した。

2001年6月。ジェームズの両親の熱心な反対運動や世論の猛烈な反発にもかかわらず、6ヶ月に及ぶ再審理を経て、仮釈放委員会は二人の仮釈放を是認した。「二人はもはや社会の脅威ではなく」、8年という最低刑期も同年2月に満期に達していたためである。当時の法相がこれを認可し、マスコミには緘口令が敷かれ、やがて二人は秘密裏に釈放された。18歳になっていた二人は、偽名・嘘の過去や生い立ち・偽のパスポート・偽の資格証明書・偽の医療記録などを与えられた。仮釈放は、次のような条件つきだった。―――決してお互いに連絡を取らない。ジェームズの家族に連絡を取ることも近づくこともしない。事件のあった地域に近寄らない。門限が科された場合は保護観察員に報告する。親密な関係の女性ができたら、自分の過去を打ち明ける。―――これらの条件を破ったり社会の脅威となるような行為を犯したら、二人はふたたび収監されることになり得るのだった。

 

≪敬称略≫

≪ につづく ≫

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3 コメント

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めぐみです! (めぐみ)
2013-03-23 16:50:43
はじめまして、初コメントです!
はじめまして!めぐみっていいます、他人のブログにいきなりコメントするの始めてで緊張していまっす( ̄▽ ̄) ニヤ。ちょくちょく見にきてるのでまたコメントしにきますね(*^^*)ポッ
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いらっさいませ~! (ハナママゴン)
2013-03-25 04:29:47
コメントありがとうございます。
めぐみさんって、たぶん私のムスメ世代に近い方では?と思いますが・・・ 
よろしかったら、また来てくださいね!
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Unknown (美香)
2019-10-05 23:40:10
約束を守る気ない2人にムダな約束をさせて釈放させるなんてバカじゃないですか?
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