ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

類稀なる一女性の訃報

2017-01-15 23:32:23 | ひと

今月5日、ジル・サワード(51歳)の訃報がニュースで伝えられた(敬称略)。

ずっと昔オットーがちょこっと話してくれたことのある、驚くべき女性。 訃報を機会に、彼女のことを調べてみた。

ジルは1965年1月14日、牧師マイケル・サワード(1932-2015)を父に誕生。 父親がロンドン・イーリングの聖メアリー教会に着任したため、1978年から一家(両親とジルを含めて4人兄弟)は同教会の牧師館に住むようになった。

ジルとデイヴィッド  /  ジルの父親

     

1986年3月6日の晩(昼下がりとする情報源も)。 父親は書斎で礼拝での説教の準備をし、ジル(当時21歳)は恋人のデイヴィッド・カー(同21歳)と一緒に居間でテレビを見ていた。 そこに突然覆面・武装した4人組の強盗が押し入ってきた。 彼等はジルとデイヴィッドを書斎に追い込み、現金収納庫を要求した。 それが空だとわかると、4人組のうち2人は処女だったジルにナイフを突きつけて2階に引き摺っていき、代わる代わる何度も彼女の口・膣・肛門を暴力的にレイプした。 2人のうち1人はとくに乱暴で、ナイフをちらつかせながら 「肛門からこれを突き刺して子供ができない体にしてやる」 と脅しさえした。 レイプされている間、ジルには縛り上げられた父親とデイヴィッドが残る2人から激しい暴行を受けているのが聞こえた。 やがて2人はジルを縄跳びの紐で縛り上げ、寝室の床に置き去りにした。 クリケットのバットで散々打ちのめされ意識を失っていた父親とデイヴィッドは頭蓋骨を骨折する重傷を負い、デイヴィッドは片耳の聴力を失った。

事件の舞台となった牧師館

 

性犯罪被害者は匿名であるはずだったが、4日後に目の部分だけを隠された彼女の画像が、自宅の画像とともに大衆紙 “サン” にすっぱ抜かれた。 「レイプ被害者は容疑者が告発されてからのみ匿名でいる権利を得る」 というのが、同紙の編集者の言い逃れだった。 「他のレイプ被害者のためにも発言するよう」 女性警察官に励まされ、ジルは自らの身元を公にした。 牧師館=神の家におけるレイプ事件ということで、同事件は海を越えて報道され、 『イーリング牧師館のレイプ事件』 として有名になった。

ジルが表面上は沈着さを保ち取り乱した様子を見せなかったためだろう。 翌年の裁判において、ジョン・レオナード判事はジルが受けた害は 『大きなトラウマではない』 と発言。 4人組のリーダーだったがレイプには加わらなかったロバート・ホースクロフト(事件当時34歳)には加重強盗と暴行で14年の刑が、ジルをレイプした2人のうちより暴力的だったマーティン・マッコール(同22歳)にはレイプで5年・加重強盗で5年の刑が、クリストファー・バーン(同22歳)にはレイプで3年・加重強盗と暴行で5年の刑が宣告された。 レイプには加わらなかったもう一人のアンドリュー・バーン(クリストファー・バーンの兄)は警察に尋問される前に留置所で別の囚人に襲撃され、昏睡状態のまま4年後に29歳で死亡した。

マーティン・マッコール

 

クリストファー・バーン / 犯行に使われたナイフと、クリケット・バット(ジルの父親のもの)

  

軽すぎた判決はサッチャー首相と野党党首ニール・キノックを含む当時の政治家たちに批判され、「女性の体よりも資産の方が価値があるとみなすものだ」 と大衆からも激しく非難された。 もちろんジルも納得がいかず苦情を述べた。 その結果1988年に法が改正され、軽すぎると考えられる刑には被害者が控訴できるようになった。 また容疑者が告発される前でも、レイプ被害者の匿名が守られるようになった。

「判事の 『大きなトラウマではない』 という言葉で、私は彼が、私が受けた苦難について無知であり、レイプがどんなものなのか全くわかっていないんだと思い知ったの。 怒りで一杯になったわ、だって彼のように権威ある地位にある人は、もっとましな知識を備えていると思っていたから。」

    

事件が起きたときに付き合っていたデイヴィッド・カーにとって、事件は深いトラウマになった。 彼は事件後ジルにプロポーズしジルはそれを受け入れたものの、事件を引き摺って苦しむ彼と信仰を支えに事件から前に進もうとしていたジルの間に溝が深まり、数ヵ月後にジルから別れを告げた。 レイプ被害者として有名になってしまったことから、ジルは自分と結婚したいなどという男は現れないだろうと覚悟した。 そのためギャリー・ハクスリーにプロポーズされたときは、深く考えずに結婚してしまった。 1988年のことだった。 ロンドンからウエスト・ミッドランズに移り、ジルはバーミンガムの学校で教師の補佐を務めた。 しかし4年後に二人の結婚生活は終わりを告げた。

ギャリーとの結婚式の日

 

その後ジルはジャーナリストのギャヴィン・ドレイクと出会い、1993年6月に2人は結婚。 3人の息子に恵まれた。

両親、ギャヴィンジル

  

1990年にジルは、友人の助けを借りて自らの体験を綴った Rape: My Story という本を著した。その中で彼女は、悪夢やフラッシュバックに苦しみ自殺を考えたこと、またレイプによって妊娠していたら・・・?と悩み苦しんだことを明かした。 しかし堕胎には反対の立場をとる彼女は、モーニング・アフター・ピル(緊急避妊薬)の服用を拒んだ。 本を著すことにしたのは 「最悪の苦難に遭っても、それを乗り越えて生き続けることは可能だと人々に知って欲しかった」 からだ。 さらに彼女は、家に押し入ってきた男たちを赦したことも明らかにした。 “人生は短すぎて、すぐ先の未来に何が起こるか誰も知らない。” “赦すことは自由を与えてくれる。 過去に縛られることなく先へと歩んでいく自由を。”

  

彼女はさらにBBCテレビのドキュメンタリー番組にも出演し、“レイプ被害者の匿名権を放棄した最初のイギリス女性” となった。 このドキュメンタリーは、レイプ被害者が被るトラウマについて判事たちが学ぶ際の教材となった。 1990年以降ジルは、DVと性的暴行の被害者をサポートし、性的暴力犯罪に携わる警察関係者のトレーニングの向上に協力し、レイプと性的暴行に関して国会を含む公的な場で関与するなどして、犯罪(特に性犯罪とDV)被害者への対応改善と尊厳の保護を求めて活動してきた。 ジルは人々に、レイプされた事実ではなくレイプされたことに対する自分の反応をもって自分を定義して欲しいと願い、それを成功させたのである。

 1993年に引退したレオナード判事は、あの判決を 「汚点だ――疑いの余地はない」 と述べて、ジルに公式に謝罪した。 ジルのトラウマが 「大きなものではない」 と発言してしまったこと、そして彼女をレイプした2人に軽すぎる刑を与えてしまったことを、最期まで後悔したという。 2002年に76歳で死去。

レオナード  判事

ジルは1994年にレイプ被害者とその家族のためのサポート・グループを結成し、またレイプ容疑者が被害者を反対尋問できないように法を改正する運動にも協力した。 1997年にはTVインタビューとデイリー・メイル紙において 「デート・レイプはそれ以外のレイプよりは軽い犯罪行為として扱われるべき」 だし、「女性の衣類の身につけ方は犯罪行為の誘発剤となる可能性がある」 と発言して物議を醸した。 「被害者に非があったと言っているわけではないの。 ただ、被害者は自分を守るために何もしなかったということ。」 フェミニスト達はこれに対して否定的に反応した。

4人組のリーダーで14年の刑を宣告されたロバート・ホースクロフトは、10年後の1996年に釈放された。 ジルは彼の求めに応じて、事件から12年後の1998年に彼と会い、「あなたは私を傷つけなかったのだから謝る必要はない」 と彼を赦した。 ホースクロフトによると、あの日彼には決して、誰も傷つけるつもりはなかった。 しかしあの日のマーティン・マッコールは 「まるで動物だった。 止めに入ったら自分を殺して被害者三人も皆殺しにしかねないと思い、何もできなかった」 と語った。

ホースクロフトとジル

ジルをレイプした2人のうちでより暴力的だったマーティン・マッコールは5年8ヶ月後に釈放され、警備員としての職を得、BBCでも勤務したという。 ジルは、刑務所にいる間に 「殺してやる」 と自分を脅してきたマッコールには、二度と会わない決心をしていた。 ジルをレイプしたもう一人の男クリストファー・バーンは釈放されたあと1993年に結婚し、娘に恵まれた。 しかし彼の妻は彼の過去を知ると彼の元を去り、やがて自殺したという。

2006年のインタビューで、ジルは語った。 「レイプは人生を変えるわ。 二度と以前と同じ自分には戻れない。 もちろん私だって、憎悪と復讐心で一杯でいるのもなかなか悪くないと時には思ったわ。 でもそうすることはバリアを生み出してしまい、結局最後に傷つくのは自分になると思うの。 赦すことが実際には自らを自由にすることになる。 キリスト信仰がなかったら、私は今日ここにこうしていなかったでしょうね。 信仰が私を支えてくれたの。」

  

 

2009年には、『無罪になった人々のDNAはデータベースから6年後に、また重犯罪の場合には12年後に、削除されなければならない』 とする欧州人権法廷の決定に反対してキャンペーンを展開。 2015年には 『レイプ容疑者の身元は告発されるまでは伏せられるべき』 という案に、 「被害者に対する侮辱であり、本当に落胆させられる動き」 だとして公に反対した。

信仰を支えに犯人たちを赦して性犯罪被害者のための活動家になったジルとは対照的に、事件当時ジルの恋人だったデイヴィッド・カーは事件が大きなトラウマとなり、犯人たちを赦すことができず 「できることなら殺してやりたい」 と思い続けた。 屋根葺き業を自営し、パートナーとの間に二人の子供も生まれたが、PTSD双極性障害のため12年前から働いていない。 彼はPTSDはもちろんのこと、双極性障害も、あのときクリケット・バットで執拗に殴られたため発症したと信じている。 友人女性に嫌がらせをしているという相手を脅したかどで投獄もされた。 彼は、もしあの事件が起きなかったらジルと結婚し、平凡な幸せな家庭を築いていただろうと思う。 「誰だって当然、愛する人を守りたい。 でも自分にはそれができなかった・・・」

ジルとデイヴィッドはイーリングのYMCAで出会った。 デイヴィッドはそこで警備員、ジルは世話係を務めていた。 スコットランドの労働者階級家庭出身のデイヴィッドは、仕事を探すためロンドンに引越してきたところで、一方ジルは中産階級の牧師の娘だった。 しかし2人は出会って間もなく意気投合し、交際を始めて3ヶ月後には一緒の未来も描き始めていた。 ジルは結婚するまでは処女でいたいと彼に言い、彼はジルの意思を尊重した。 事件の日、マッコールがジルにしようとしていることを悟ったデイヴィッドは戦慄し、マッコールに 「彼女を傷つけないでくれ、愛しているんだ。 彼女に触れないでくれ!」 と懇願したという。 彼によると、ジルは暴力的にレイプされている間も法廷でも決して取り乱すことはなく、彼自身とは対照的だった。

デイヴィッド・  カー

「ジルは自分よりずっと勇敢だった。 彼女の代わりに自分が死ねばよかったと思う。」

 

ジルは今月3日に自宅で脳出血を起こして病院に救急搬送され、2日後に息を引き取った。 本人の生前の希望により、ジルは “最後の最後まで人々を助けられるよう” 臓器提供したという。 遺族は 「私たちの素晴らしい妻であり母であり妹だったジルが最後まで人々を助けられたということは、私たち家族にとって大きな慰めになります」 とのコメントを発表した。 3人の息子たちは、現在22歳・20歳・18歳になっている。

 

 

昨日がジルさんの52歳の誕生日でした。 ご主人によると 「近年ずっとそうしてきたように(ジルの誕生日には)家族でチャイニーズ・レストランに行きます」 ということだったから、たぶんそうしたことでしょう。

恐怖と苦痛に満ちた体験を、驚くべき勇気でもってポジティブなものに昇華させたジルさん。 51歳で逝ってしまうなんて、早すぎました。

 

ジル・サワードさんのご冥福をお祈りします・・・

 

 

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“No Trousers on the Tube Day”

2017-01-09 22:49:07 | イベント

昨日8日(日曜日)は、“地下鉄ノー・ズボン・デー” 。

ロンドンの地下鉄でも、このイベントに参加する勇気ある人々が数百人いたそうだ。

 

『下半身にズボンを穿かない以外は普通の冬の格好をしていつも通りに地下鉄に乗り、普段通りに振る舞う』

というのが趣旨。

 

勇敢なのは若者だけじゃなかった! おじ様(下右)エライ!!  (って、私と同年代だったりして

 

私は参加する勇気はなかっただろうけど、実際見てみたかった。 思わず笑みがこぼれただろうな。   ロンドン近くに住んでいなくて残念。

 

ワンコ(下右)が心なしか (目のやり場に困るんですがぁ~) と訴えているように見えるのは気のせい?

 

殺伐とした世の中だから、こういう悪気のない、笑みを誘うだけのジョークはいいと思う。

 

 

去年も話題になっていたこの “地下鉄ノー・ズボン・デー” だけど、詳しくは知らなかったので調べてみた。

事の起こりは2002年

仕掛け人は、ニューヨークで2001年夏に結成された Improv Everywhere というイタズラ好き集団。

見知らぬ人々を害のないイタズラで驚かせ笑わせることを目的とする。

最初の No Pants Subway Ride (←本家は米語なので) は、2002年の1月5日。

ズボンを履いていない7人の男性が、連続する7つの地下鉄駅から一人ずつ乗車した。

イタズラ参加者は、冬用のコート、防止、マフラー、手袋などを身につけ、お互いを知らないフリをする。

唯一普通と違うのは、ズボンをはいていないことだけ。

なぜズボンをはいていないのか訊かれたら、「忘れたんだ」 と答えることになっていた。

写真は撮られなかったが、隠しカメラで乗客の一女性の反応が撮影された。

2003年、2回目のノー・パンツ・サブウェイ・ライドには、女性数人を含む約30名が参加。 中にはビジネスマン、観光客などを 「演じる」 参加者もいた。 イタズラに気づいた車掌に 「ここは子供の遊び場じゃないぞ!」 と怒鳴られた。

その後少しずつ参加者を増やしながらイベントは続く。

2006年、5回目のときは警官に部分的に中止され、参加者8人が手錠をかけられ連行された。 が、一ヵ月後に不起訴処分に。 ニューヨークで公共の場を下着姿で歩くのは違法ではないからだ。 この年の参加者数は約150名に増えていた。

2008年、7回目の参加者数は約900名で、しかも初めて男女ほぼ同数になった。 ニューヨーク以外の都市にも飛び火し、バルティモア、ボストン、シカゴ、ポートランド、サンフランシスコ、ソルト・レイク・シティー、トロント、ワシントンDC、オーストラリアのアデレイドでも行われた。

2009年、8回目はニューヨークのみで1200名が参加。 世界の21都市でも1000人以上が参加した。 ニューヨークでは初めて、吹雪の日の開催となった。

2010年、9回目は世界の44都市で5000人以上が参加。 ニューヨークだけでも3000人以上が参加した。

2012年、11回目は27ヶ国59都市で数万人、ニューヨークでは4000人近くが参加。 イスタンブールでも参加者が出たが、逮捕されてしまった。

2015年、14回目のときはラトビアの開催が当局に禁止されかけたが、メディアに報じられたことで無事開催にこぎつけた。

2016年、15回目。 ニューヨークは温暖な雨模様の日になった。 東京()やエルサレムでも開催された。 モスクワでは開催責任者が数日後に警察で尋問されたが、起訴されることなく釈放された。

 

 

・・・とここまで書いてきて日本語ウィキで調べたら、ちゃんともうページがあったんじゃない! 

パンツを穿かずに地下鉄に乗ろうよ運動

でも日本で言うパンツはアメリカで言うパンツと違うから、これは

『ズボンを穿かずに地下鉄に乗ろうよ運動』 の方がいいのでは!?

イギリスのオンライン・ニュースではちゃんとイギリス風に、この記事のタイトルのように言っているし。

・・・東京でも昨日、パンツ姿の乗客が地下鉄駅を闊歩したのかな?

 

最初の No Pants Subway Ride に話は戻るけれど、いきなりズボンなしの男性が乗り込んできたら、誰だってビックリすると思う。

しかも次の駅に止まったら、また一人。 盗撮されていた女性の不安げな表情、大いに頷けるわ~。 (その上読んでる本が RAPE だし!)

一人目を目にして落ち着かなげな表情を見せ(下左)、二人目のときは警戒心露わ(下右)。

 

二人目が近寄ってきたときは、思わず本をしまって臨戦態勢に(下左)。 でも向かい側の隠しカメラマンの隣に座っていた2人のデンマーク人男性乗客が笑い出した(下下左)ので、彼女もつられて笑顔になり、リラックスできたそうだ。

 

このビデオはしばらく放置されていたが、仕掛け人が5年後に YouTube に投稿。 すると例の女性の友人が彼女であることに気づき、彼女に教え、彼女が 「これ、私よ!」 とコメントしたそうです。 それまでの5年間、仕掛け人は彼女がどこの誰だったのか知らず、彼女はあの日のあれ(ノーズボンの乗客)はいったい何だったのか知らずだったわけで。

 

5年前のナゾが解けたケイトさんは、 「見て見て! 私インターネットのスターなんだから!!」 と友達に連絡しまくったそうです。

という、ノーズボン・デ―のこぼれ話でした。

 

 

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ハイジャックされたトラック運転手の葬儀

2017-01-07 22:25:18 | ひと

先月29日(木曜日)。

ベルリンのトラック・テロ事件(前編/後編)最初の犠牲者となったポーランド人トラック運転手

ウーカシュ・ウルバン氏(?Łukasz Urban)の葬儀が執り行われた。

ポーランド北西部、ドイツとの国境に近いバーニエ(?Banie)村。

教会に到着する棺。 カトリックの葬儀のしきたりはよくわからない。 棺はそれまで自宅に安置されていたのだろうか。

それとも葬儀屋の遺体安置所とか?

 

 

遺族にお悔やみを述べるポーランド大統領アンジェイ・ドゥダ

ウルバン氏の奥さんと17歳だという息子さん(下左)、ウルバン氏のお母さん(下右)。

 

ベルリンから帰宅すれば仕事納めで、クリスマスの準備に入る予定だったというウルバン氏。

 

クリスマスも新年も迎えることなくこの世を去るなど、誰が想像できたろう。

母君も、まさか息子さんに先立たれるとは思いもしなかったに違いない。

 

 

その後の検死の結果、ウルバン氏はテロがあった日、現地時間で午後4時半から5時半の間に頭部を撃たれたと発表された。

よってテロが実行されたときには、「まだ絶命はしていなかった可能性はあるものの、意識はなかったはず」 とのこと。

つまりトラックが左に折れて停止したため犠牲者が増えずに済んだのは、

単純にテロリストの未熟な腕のおかげだったということになる。

 

それでもウルバン氏には、深い同情を禁じ得ない。 ケバブ屋の監視カメラ映像(下右)が、生前最後の姿の記録になるなんて。

そこを出て数時間後には刺され、撃たれていたなんて。

大型トラックでさえあれば、どのトラック、誰のトラックでも良かった。 つまり無差別襲撃の対象になったわけだ。

そのうえ自分のトラックを無差別大量殺人の凶器にされたのだから、彼の無念は測り知れない。

 

 教会での葬儀を終え、墓地へと移動する棺。

 

 

弔意を表するため、棺につづいて歩く大勢の人々。

 

棺に花を供える奥さん。

 

 

ウルバン氏のご冥福をお祈りします。・・・・・

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 葬儀のあとポーランドのトラック野郎たちは、夕暮れの高速道路を帰途についたそうだ。

コンボイを組んで、弔意を表しながら。

 

 

 

そして、当地イギリスはウエスト・ヨークシャー

ウルバン氏の不運に深い同情をおぼえた同業者のデイヴィッド・ダンカンは、

ウルバン氏の遺族のための募金を立ち上げた。 総額はすでに目標額を達成し、20万ポンドに迫っている。

 

不幸な出来事、悲劇的な出来事からこのようなポジティブな行為が発生すると、

(人間もまだ捨てたもんじゃないな) と慰められます。

ダンカンさん、上出来!

 

 

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新年明けた!

2017-01-01 20:07:25 | 日記

新年明けましておめでとうございます。

今年も拙ブログをなにとぞよろしくお願い申し上げます。 

 

・・・と、とりあえずはご挨拶してみるも、テンションの低い我家には盛り上がりは皆無。 

イギリス――スコットランドはともかくイングランド――には新年を迎えるにあたっても特別な食べ物があるわけじゃなし。

年越しそばと紅白/ゆく年くる年は、日本の食料品店から材料を取り寄せて年越しそばを作り、

衛星放送を入れて日本のテレビ番組を見られるようにすれば実現するのでしょうが。

近年テレビ離れが著しい私には有料の衛星放送は必要ないし、

誰かが作ってくれるならともかく自分で作るほど年越しそばに執着があるわけでもなし。

家族そろって下戸なので、年明けとともにカンパーイ! することにも興味ない。

我家はいつも通り地味~に夜更かしし、新年の到来とともに始まった花火がおさまるのを待ち、床に入ったのでした。

 

私はデイリー・メールから画像をよく拝借するのですが、新年到来のロンドンの画像は、過去とおんなじ。

あまりにも見飽きた感があったので、今回はデイリー・メールが紹介した東京の様子をUPしてみます。

 最初は、渋谷のスクランブル交差点での新年へのカウントダウンの模様。

ハチ公像のそばですよね。 外国の方も混じって、すごい熱気!

 これらの小道具、甥っ子たちに買ってあげたいなぁ。

(キレイな人、スタイルも私よりいい) と思ったら・・・ 男性!?   おみそれしましたぁ~。

あ、右端の方ですよ、左端じゃなくて。

 着物姿の若い女性。 皆さんよくお似合いで素敵です

 明治神宮だそうだけど、まだこれほど空いてるってことは、かなりの早朝?

 

日本はイギリスより9時間も早いから、イギリスの大晦日の午後3時には年が明けちゃうんですよね。

以下、グリニッジ標準時(GMT)で何日の何時にどの国が2017年を迎えたかの一覧です。

 

 31日(土曜日) 10:00時 - トンガサモアクリスマス島キリバス

13:00時 - オーストラリアの大部分

15:00時 - 日本、韓国、ロシアの一部、インドネシア

18:30時 - インド、スリランカ

20:00時 - アゼルバイジャンアルメニアを含む8ヶ国、アラブ首長国連邦オマーンセーシェル共和国

 22:00時 - ギリシャ、南アフリカシリア、フィンランド、ラトビア、他26ヶ国

23:00時 - ドイツ、ノルウェー、フランス、イタリア、チュニジア、他39ヶ国

1月1日(日曜日) 00:00時 - イギリス、アイルランド、モロッコガーナ、他23ヶ国

04:00時 - カナダの小さな地域、ボリビアベネズエラバルバドス、他26ヶ国

06:00時 - アメリカ合衆国の大部分と中央アメリカ

09:00時 - アラスカ州、フランス領ポリネシアの一部地域

12:00時 - 米国の離れ小島の大部分

 

・・・というのはニュース記事からの受け売りですが、そっか、新年て26時間もかけてようやく明け終えるのかぁ。

今年の日本の元旦は、好天に恵まれてダイヤモンド富士まで見られたそうですが、

イギリスの少なくとも我が町ダーズリーでは、一日どんより空から小雨がそぼ降る冴えない天気でした。

おかげで窓から写真を撮る気にもならず。

 

 おせち料理のような特別な食べものもないイギリスの元日。

我家の夕飯は、ムスメのリクエストによりおにぎらずにしました。

 

そしてもうすぐ、午後8時半からは、シャーロックの新シリーズを見ます!!

 

 

前シリーズの終わり方が私好みでなかったので待ち焦がれていたというほどではないにせよ、

カンバーバッチの高慢で尊大で無礼なホームズがまた見られるのがウレシイ

でも早口についていけない ので、字幕つきで録画しながら見るとしますわ。

第4シリーズも3話きりなので、すぐ終わっちゃうんですけどね。

前シリーズから2・・・ 3年も!  待たされたというのにぃ~!

(途中でクリスマス・スペシャルはあったものの。)

 

ということで、今夜はこれにてシツレイ。
 

 

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ベルリンのトラック・テロ事件 《後編》

2016-12-27 22:27:51 | 事件

前編からのつづき 》

 ベルリンのクリスマス・マーケットに突っ込んだトラックの運転席の下から発見されたという身分証明書。 書類の身元は、チュニジア生まれのアニス・アムリ(24歳)だった。 下の画像をもとに、ベルリンへと続いた彼の足跡を追ってみると・・・

1: チュニジア、2011年(アムリ18/19歳) - 1992年チュニジアのタタウイヌに生まれたアムリは暴力的な強盗事件を起こして欠席裁判で5年の刑を宣告されるが、刑務所行きを免れるため国外に逃亡。 6つ以上の偽名を使っていたことから、リビアとエジプトに入国して偽名で偽造書類をととのえた可能性がある。

2: ランペドゥーザ島、2011年 - アラブの春の騒乱を逃れる何千人の人々に混じってボートでイタリア領の小島ランペドゥーザに到着。 19歳だったにもかかわらず年齢を偽り未成年を装った。 学校の難民受け入れセンターに収容されたが、大規模な暴動に参加し学校は焼き払われた。

3: シチリア島、2011年 - 学校を焼き払ったかどで4年の刑を宣告され、シチリア島の2ヶ所の刑務所で収監生活を送る。 イタリアは「その間彼を二度国外追放しようと試みたが、チュニジアが拒否した」。 釈放されたアムリは北に向かい、アルプスを越える。

4: クレーヴェ、2015年7月(アムリ22/23歳) - ドイツに入り、オランダとの国境に近いクレーヴェで難民申請をする。 彼が3つの異なる国籍のもと6つの偽名を使ったことを発見した当局は申請を拒否するも、彼を国外追放することはかなわず。

5: ドルトムント、2015年12月 - のちに ISIS と関係があったとして逮捕されることになるヘイト・プリーチャー(憎しみの説教師)と、ドルトムントで一緒に生活する。 若者を過激化させたかどで先月逮捕されたアブ・ワラー(?Abu Walaa)の “憎しみの集会” にも参加していた。

6: ベルリン、2016年2月(アムリ23/24歳) - 今年2月にベルリンに移ったアムリは、警察の情報屋(囮捜査中の警察官だったという情報源も)から自動拳銃を買おうとしたため監視下に置かれる。 7月にベルリンに向かうバス内で内容不明の犯罪行為で逮捕され、麻薬がらみのナイフを使った闘争に関しても追及される。 8月にも偽造のイタリア書類に関係したかどで逮捕されるも、釈放される。 テロ対策当局は、最近では先月にもアムリに関する情報を交換していた。

 

別のニュース源の画像 ↓ では内容は微妙に異なるものの、大筋は同じかと。

アムリのヨーロッパの5年間

1: チュニジア南東部でトラックを盗んだ罪により欠席裁判で5年の刑を宣告される直前に、故郷である Oueslatia の町を離れる。

2: Sfax からボートに乗って国外へ脱出する。 6つ以上の偽名をもっていたことから、必要書類に偽名を使った可能性あり。

3: アラブの春を逃れてきた何千人もの人々に紛れてランぺドゥーザ島に着き、子供難民を装う。

4: パレルモの難民センターに移送される。 2011年10月、カターニアに近いベルパッソの難民センターで逮捕される。 複数の刑務所に収監され、2015年5月に釈放される。

5: イタリアを出るよう命じられ、スイスで3週間過ごしたあとドイツ入りする。

6: 南ドイツのバーデン・ヴュルッテンベルク州でしばらく暮らす。

7: ノルトライン=ヴェストファーレン州クレーヴェで過激派説教師のアブ・ワラー(?Abu Walaa)に接近する。

8: ベルリンに住み始める。 今年4月、クレーヴェで難民を申請。

9: 南ドイツのボーデン湖近くで、偽造のイタリアの身分証を持っていたかどで逮捕される。 2日間拘留される。

10: 拠点にしていたベルリンから姿を消す。 今月19日、ベルリンのクリスマス・マーケットに大型トラックを突入させる。

 

以下は 『ザ・ガーディアン』 からの情報。

アニス・アムリの故郷は、チュニジアの首都チュニスから220km南に離れた Oueslatia の町。 山に囲まれた貧困にあえぐ地域で、9人兄弟の末弟として育った。 学校に行かなくなったアムリは、けちな窃盗と麻薬に手を染めはじめた。 トラックを盗んだ罪で5年の刑を受けると、難民に混じって違法のボートに乗り込み、国外に脱出してイタリア入りした。 難民収容センターでは窃盗や暴力行為で警戒される存在となった。 難民申請がなかなか進行しないことに苛立った彼はランペドゥーザの宿泊施設に火を放ち、4年の刑を受けた。 彼が過激思想に染まり始めたのは、シチリアでの収監時だったとするむきもある。 脅迫的な態度を取り、反抗を煽り、実際には3年半だった収監期間中にカターニアとパレルモにある6ヶ所の刑務所を渡り歩いた。

「アムリは乱暴で攻撃的でした」 と、パレルモの刑務所のある看守。 「看守や他の囚人に喧嘩をふっかけるのです。 彼の暴力行為はすべて記録し警察に送りました。」 釈放されたアムリはチュニジアに送り返されることになっていたが、身元を証明する書類がなかったためそれはかなわなかった。 国外退去を待ちながらカルタニッセッタで数週間足止めされたあと自由の身となったアムリは、イタリアを出ることにした。

チュニジアの家族によると、アムリはシチリアの刑務所にいた間小さな仕事に携わることができ、家族にいくらか送金もしてきた。 しかし釈放された後は 「『仕事に就けないので別の国に行く』 と言いました」 と、アムリの母親。 その別の国とはドイツだった。 2015年7月にドイツ入りしたアムリは、政治的迫害から逃れてきたエジプト人を装って難民を申請した。 しかし彼の申請は 『根拠なし』 としてこの夏却下された。 それにもかかわらず、彼が有効な身分証明書を持っていなかったため、彼の国外追放は実現しなかった。 彼自身がチュニジア人であることを否定し、チュニジア当局も彼が自国民であることを認めなかったからだ。

アニス・アムリの額入り写真を抱えた母親  /  父親(左から二人目)、叔父(右端)、兄2人と姉

  

交渉の末ようやく8月になって、チュニジア当局は彼に再発行したパスポートを送ることに同意した。 アムリのチュニジア返還を可能にしたであろうチュニスからの書類がドイツに到着したのは、ベルリンのトラック・テロ事件の二日後だった。 事件がなければ彼は、年末までに故国に送還されていたはずだという。

「息子はイタリアの刑務所時代に過激化されたに違いない。 あのような事件を起こしたのが本当に息子なら、家族は彼とは縁を切る。 でももし無実なら、息子の権利は守られねばならない」 と、母親。

ISIL のメンバーって、チュニジア出身者が最多とは知らなかった。 日本語版ウィキ英語版ウィキでは数が異なり、日本語版では3千人、英語版では5千人となっているけど。)

 

ベルリンのトラック・テロから3日と7時間後の、12月23日(金)午前3時。

イタリア・ミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニ

普通でない時間帯に駅前を歩いていた若い男に、パトロール中だった2人の警官が身分証の提示を求めた。

最初男は 「身分証は携帯していない、カラブリアから来た」 と応えたが、なおも追及されるとバックパックに手を伸ばし、22口径の拳銃を取り出し、警官の一人 Christian Movio (36歳)を撃った。 男は車の陰に逃げ込んだが、もう一人の警官 Luca Scatà (29歳)が発した銃弾が男の胸に命中。 蘇生措置が施されたものの、男は約10分後に死亡した。

 

死んだ男の指紋が取られ、照合の結果アムリと判明したときは、イタリアの関係者全員が驚いたに違いない。 そしてドイツ警察も。 何せこの日の午前中、アムリの死が確認される前、ドイツ警察上層部の偉い人が 「アムリはベルリンかノルトライン=ヴェストファーレン州に潜伏しているものと思われる」 なんて言っていたのだから。

 

 

現場の遺留品。 ナイフと拳銃は、不運なポーランド人トラック運転手の命を奪うのに使われたものだろうか。

    

撃たれた警官は、幸い撃たれたのは肩で、命に別状はなかった。

   

そして、アムリに応戦したもう一人の警官。 彼は9ヶ月前に警察に入ったばかりで、まだ訓練中だという。

(なかなかのイケメンだし、その後世界中からラブレターが届いていることうけあい!?

   

 

その後アムリの指紋がトラック内外についていた指紋と照合された結果、一致したとのことだ。 でもそうなると、アムリはテロ事件後国際指名手配されていたにもかかわらず、ドイツを出てフランスを通過し、イタリアに入れたことになる。 アムリがまだ身につけていた切符から、彼が辿ったルートが推定された。 彼はフランスのシャンベリからの切符は持っていたが、ベルリンからシャンベリまでは列車移動したのかそれとも車で移動したのか、まだわかっていない。

アムリがミラノ中央駅に着いたのは、23日(金)午前1時。 その2時間後にセスト・サン・ジョヴァンニ駅の外で射殺された。

ミラノ中央駅に到着したアムリの映像、23日00:58時。

セスト・サン・ジョヴァンニ駅とその周辺の画像。

 

アムリが事件後ドイツを出てフランスを通過しイタリアまで逃亡できたのは、シェンゲン協定のせいだとする意見もある。 “イギリス独立党の顔” ナイジェル・ファラージは早速ツィートしている。 「ミラノで射殺された男がベルリンの犯人なら、シェンゲン圏は一般大衆の安全へのリスクであることの証明だ。 撤廃されなければならない。」

このオジサンにはイラつかされるけれど、テロ対策やテロ犯追跡のためにはシェンゲン協定は確かに障害だろう。 今回の場合だって、アムリがドイツ/フランス国境で身分証の提示を求められていれば、ずっと早く正体がバレて逮捕なり射殺なりされていただろうから。 重大事件の容疑者が逃亡中だったのだから、せめてその間くらい一時的に、ドイツとその近隣諸国との国境を封鎖できなかったものかと思う。 ・・・といっても地続きだから、簡単にはムリか。

アムリ射殺で一応の結末を迎えたベルリンのトラック・テロ事件だが、このように、多くの謎や問題を残した。 不審なパキスタン難民を拘束したのはいいとして、トラックの運転席の下からアムリの身分証が発見されたと発表されるまで、なぜあれほど(24時間以上)時間が要ったのか。

政治団体『西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者』を設立したルッツ・バッハマン(Lutz Bachmann)は、事件後すぐに 『ベルリン警察上層部からの内部情報: テロ実行犯はチュニジア出身のムスリム』 とツィートしていたという。 事件後最初の24時間は 「現場近くで拘束されたパキスタン難民が容疑者」 と発表されていたにもかかわらず。 ツィートした時間は午後9時16分――事件後2時間も経っていない――となっているが、これが本物なら、警察は何らかの理由で真実の情報を伏せていたことになる。

ツィート後 「なぜそんな情報が入る?」 との質問を多く受けたため、バッハマンは再ツィートした。 「簡単なことだ・・・ 正しいコネと嘘に辟易している内部告発者を知ってさえいれば。」

ルッツ・バッハマン

 

でも一番大きな謎は、なぜアムリがわざわざ身分証を持ってトラックのハイジャックに臨んだのかということでは。 おそらくは死を覚悟してテロ行為に及ぶときに、「できるだけ早く自分の身元が判明して欲しかった」 から? ISILの同胞たちに尊敬されるように? 身分証の携帯なんて、死に急ぐときには私には一番どうでもいいことに思えるけれど。 自分の身元なんて、特定されるのは時間の問題だろうし。 と、そう考えるのは私だけではない様子。 このナゾのため、『アムリ冤罪説』 『アムリは囮説』 などの陰謀説がネットに流布しているようだ。 (身分証が小さいもので、お財布に入れっぱなしになっていたのだろうか。 だったら納得がいくけれど。 テロリストだってお腹は空くし、移動にだって現金が要っただろうから。)

「ベルリンのクリスマス・マーケットに突っ込んだトラックのドライバーは、なぜ身分証を座席下に残していったんだろう? 都合が良すぎるように思えるけど」

 「大勢を殺そうとする人間が、お財布と身分証を持参するって? 冗談でしょ!」

 

安全対策としてコンクリートのブロックで会場を囲んだのち、クリスマス・マーケットは再開された。

 

ものものしい武装警官とクリスマス・マーケットほど似つかわしくないイメージもないが、テロ防止のためとあっては仕方ない。

 

 悲しいことだが、武装警官もコンクリート・ブロックもなしにクリスマス・マーケットを楽しめた日々は、もう二度と戻らないのかもしれない。

 

今回の事件をきっかけに初めて知ったのだが、監視カメラ天国?のイギリスとは正反対に、ドイツでは公共の場所への監視カメラ設置はほぼ全面的に禁止されているそうだ。 例外的に設置が許されているのは、鉄道駅と公共交通機関のみ。 そのため今回のテロ事件を捉えた映像は、個人がたまたま撮影していたスマホやデジカメ映像、または前編の記事内でリンクを貼ったような、たまたま現場を通りかかった車の車内搭載カメラが捉えたものしかないことになる。 これがイギリスだったら、おそらく監視カメラの映像が、事件の進行状況もトラックから逃げていく犯人の姿も捉えていたことだろう。 次から次へと監視カメラをリレーすることで、逃走する犯人の姿をかなりの間追えていたかもしれない。

ドイツ国民の監視カメラ嫌いは、昔ドイツ国民がナチスに、そして冷戦時代には東ドイツ国民がシュタージによって、徹底的に監視され個人情報を知り尽くされ隙あらば弾圧されたことの反動だそうだ。 実際今年の6月にも、当時の内相が犯罪発生率の高いベルリンの主だった広場に監視カメラを設置しようとしたが、地元議員の反対に遭い断念せざるを得なかったという。

今回の事件は、最重要容疑者であるアニス・アムリが事件前に容易にヨーロッパ入りし、事件後でさえ国境を二度もまたいで遠距離を逃亡できてしまったことで、大きな弱点を見せつけた。 アムリのような過激派の若者が、すでに数百人単位でヨーロッパに潜伏し機会を窺っていないと、誰が断言できるだろう? テロを百パーセント未然に防ぐことは不可能だから、一般市民は普段と同じ生活を続けるしかない。 今回の事件はまた、来年のメルケル首相の4選を阻むことになるかもしれない。

今回のトラック・テロで命を落とした12人の国籍は、ドイツ7人、イタリア1人、イスラエル1人、チェコ1人、ウクライナ1人、そしてトラックのもともとの運転手だったポーランド人運転手だそうだ。 犠牲者の遺族にとっては、その後はクリスマスどころではなかっただろう。 楽しみにしていたクリスマスが、一転大きな悲しみに包まれてしまい・・・・・

アムリの死により、疑問点や露呈した問題点がこのままうやむやにされてしまわないことを祈る。 でなければ被害者が浮かばれない。

 

犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。

 

 

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クリスマス・ベイキング

2016-12-26 22:01:13 | 暮らし・生活

あっという間に終わっちゃいました、今年のクリスマス。

イギリスは25日はクリスマス・デー、26日はボクシング・デーという祭日ですが、

 私は24日・25日・26日(一昨日・昨日・今日)と早番・遅番・早番が入っていたので。

 

クリスマスに働くのは苦になりません。 どのみち日本ではクリスマスは祭日じゃないし。

オットーの家族と集まって、たらふく食べて、おしゃべりして・・・ と毎年同じだし。

どうせ食べ過ぎたあとは退屈する(シツレイ)だけなら、働いて時間を有効利用しようと思うのですよ。

 

ちなみにオットーは、今年はホリデーに行き損ねて有休を溜め込んでいたため、今月14日から1月2日まで

有休を消化しての丸3週間のお休み中です。 しかも10月最後の週から毎週水曜日にも有休をとって、

“ひとり週労働4日制” を楽しんでいました。

じつは私も、明日から10日間、仕事が入っていないんですよね・・・

緊急のシフトが入ったら働くべきだよな・・・ とは思いつつ、オットーとムスメが家にいる今は

自分も家でまったりしたいという気持ちが強くて。 家族3人水入らずができる日々なんて、もうこの先

あまりないでしょうから。 ムスメが社会人として独立生活を始めたら、とくに・・・・・

 

クリスマス前の19日から23日までも、シフトが入らなかったので5連休がありました。

なのでそれを利用して、重い腰を上げてクリスマスのお菓子づくりをしました。

まずは定番のミンス・パイ

  

 フィリングに使うのはミンスミート。 といっても 『挽き肉』 ではなくて、ドライフルーツ、スパイス、スピリッツなどの、すご~く甘い混ぜもの。

定評ある料理家のデリア・スミス(Delia Smith)さんが 「自家製のミンス・パイは市販品とは段違いにおいしい」 と言っていたので

一度頑張って手作りしてみましたが、あいにく味オンチの私には味の違いはわかりませんでした。

だから手作りはそのとき一度きり。 あとはずっと市販品を使っています。 高いものじゃないし。 (一瓶1ポンドだったかな?)

  

 パイ生地を作ってミンスミートを入れ(とても甘いので薄めに入れれば十分)、上に飾りの生地をのせて焼くだけ。

 

 上にのせる飾り生地に卵液を塗ればもっと照りがでておいしそうに見えます。 面倒臭がりの私はやりませんでしたが。

 

 

「ミンス・パイ作りで疲れちゃった~」 とオットーに訴えて、その日の夕食は珍しくオットーに受け持ってもらいました。

ラム肉のステーキ、ネギのパセリソース(インスタントのソース使用)、チップス(冷凍もの)です。

(ラムに添えられているのは、  江戸むらさきではなくて・・・・・、)

 ラム料理にはつきもののミント・ソース。 (酸味があって、私はあまり好きじゃないですが。)

 

 自分で料理しなかったものって、ほんとおいしく感じるんですよね。 オットーに感謝。

 

日を改めて、クリスマス・プディング・ビスケットも作りました。 これはほんと、見た目がカワイイ

 

 さらに、これも定番のクリスマス・ケーキも。 カップケーキなら焼けるのも速いしカットする手間も

いらないので、ここ数年はカップケーキ・バージョンばかり作っています。

クリスマス・プディング・ビスケットと一緒に小分けして、オットーの家族にもおすそ分け。

 

 今月半ばに帰宅してから忙しそうに勉強しているムスメも、従弟②の誕生日用にビスケットを作りました。

 

蒸して作るクリスマス・プディングは、面倒臭そうなので私は一度も挑戦したことがありません。

時間と手間を考えると、買っちゃった方が早いし。 いつもは3~5ポンドのもので済ませるんですが、今年は雑誌で

高評価を得ていたモリソンというスーパーの “ポート&オレンジ・クリスマス・プディング” というのを買ってみました。

8人前で7ポンド。 クリスマス・プディングはクリスマス・ディナーのデザートとして食べるのが普通ですが、

我家はクリスマスを待たずにいただいちゃいました。

3人家族なのに8人前なので、一度に全部をチンしてお皿の上にひっくり返して出すことはせず、

一人分ずつほじってボウルに盛り、それぞれをチン。

 

 プディングの外側になるよう貼りつけられたオレンジはゴールドに染められていてゴージャス

クリスマス・プディングはブランデー・バター(バター・砂糖・ブランデーの混ぜもの)を添えていただくのが伝統のようですが、

プディング自体がもうかなり甘いので、我家では砂糖を加えずに泡立てただけのクリームを添えていただきます。

 

 この “ポート&オレンジ・クリスマス・プディング” の評価ですか?

残念ながら、50点。

甘すぎてポートの香りもオレンジの風味も何もわからなかったんですもん。

この甘党の私に甘すぎると言わせるなんて。 イギリスのお菓子、やはり侮り難し・・・! 

 

過去の関連記事:

クリスマスのお菓子 - イギリス編    クリスマス・ケーキとクルミのピクルス

クリスマス・ケーキと雪の結晶     いよいよ明日はクリスマス!

 

 クリスマス・ディナーは、今年は義妹一家がやってくれました。

義妹の次男の10歳の誕生日が24日だったので、ムスメはすでに義妹宅に泊まりに行っていてそのままクリスマスに参加。

でも食べものに興味ないし家族との集まりにも(いつでも集まれる面々なんだからと)興味ないオットーはパス。

私も仕事を口実にパス。 オットー両親と独身の義弟②は、オットー父90歳の運転で片道50分の義妹宅に往復して参加。

(独身の義弟②の車は2人乗りのヴァンなので両親を運べなかった。)

 

オットーは年々食べものへの興味を失くしていくし、私も年々メンド臭がりがひどくなっています。

今年はクリスマス・ツリーすら出しませんでした。 いつもはムスメが出して飾るんですが、今年は

勉強が忙しくてタイミングを逃していたので、 「出さなくていいよねっ!」 と説得しちゃいました。

ツリーがあると掃除のとき邪魔だもの。 どうせ片付けは私がすることになるんだし。 たまにはいいさ。

このテンションの低さ・・・・・ 5年後10年後を想像すると、

ちょっとコワい気が・・・・・

 

 

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ベルリンのトラック・テロ事件 《前編》

2016-12-24 18:17:31 | 事件

19日にベルリンで、またまた無差別テロ事件が起きてしまった。

今年7月14日にニースで起きたトラック・テロを模倣したような、大型トラックを使用したテロ。

 ドイツでは、ニースの事件の衝撃が覚めやらぬ7月22日に、ミュンヘンで無差別銃撃事件があったというのに・・・・・。

19日夜、買物客でにぎわうベルリンのクリスマス・マーケットに大型トラックが突っ込み、11名が死亡、49名が負傷。

 

 現場は大混乱だったろう。

  

  

  

 

午後3時から4時の間: イタリアからベルリンへ鋼鉄材を運搬したウーカシュ・ウルバン(?Łukasz Urban)運転のポーランド籍大型トラックがハイジャックされる。 ウルバンはハイジャック犯ともみ合って射殺される。 (注: その後の調べでウルバンが射殺されたのはハイジャック犯がトラックから逃走する直前だったと訂正された。)

午後7時: トラックが時速64kmでブライトシャイド広場のクリスマス・マーケット会場に突っ込み、多数の死傷者を出す。 覆面していた運転手は逃走。 (犯行時間は現地時間で午後8時02分だったとする情報源も。)

午後8時: (事件現場から1.6km離れた)ティアーガルテン公園内で、容疑者 Naved B が追跡後逮捕される。 ベルリン警察はのちに、彼は事件とは無関係だったと発表。

  翌日午前4時: 捜索チームがテンペルホーフ空港の格納庫を急襲。 4人の男性が尋問されラップトップが差し押さえられる。

 

ベルリンには行ったことがないから調べてみた。

有名なブランデンブルク門から南西に3kmほどの距離にベルリン動物園がある。 そのすぐ南にカイザー・ヴィルヘルム記念教会が立っているが、今回の事件の現場となったのは、その足元のブライトシャイド広場で開催されていたクリスマス・マーケットだ。

  カント街を走ってきたトラックが急に道路を離れて右に方向転換し、進入禁止柱を避けて歩行者専用地域に乗り入れクリスマス・マーケット会場を暴走。

 出店をなぎ倒し12名を死亡・50名を負傷させ、45m(50~80mという情報源も)走ったところで停止する。 (死亡した12名にはウルバン氏も含まれていると思われる。 また負傷者数は49名とする情報源も。)

 近隣の動物園で容疑者が逮捕される。 トラック助手席にはもう一人いた(=射殺されたウルバン氏)。

 

最優先となる負傷者の救助・搬送が落ち着いたところで、警察の現場検証がスタート。

  

下は、テロ事件翌朝の画像かと。 下の2枚では左が北で右が南だが、・・・

 

・・・下左画像では、左が南で右が北。

 

 事件現場となったカイザー・ヴィルヘルム記念教会のすぐ南側を走る広い通りはクアフュルステンダム(Kurfürstendamm)、通称クーダム。 “ベルリンのシャンゼリゼ” とも称され、西部のシャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区に3.5kmに渡って伸びる、ベルリンで最も有名な通りのひとつだそうだ。

 下は、教会を中心にしたグーグル・アース画像。

 現場検証後に撤去される、犯行に使われたトラック。 フロントガラスを突き破ったクリスマス・マーケットの残骸が、衝撃の激しさを物語る。

 

 白い粉が撒かれているのは、流血のあった部分だそうだ。 現場を訪れたメルケル首相(下右)。

 

 

テロ実行犯にハイジャックされたらしい大型トラックは、ポーランドの運送会社の所有で、運転していたのはウーカシュ・ウルバン(?Łukasz Urban、37歳・妻と17歳の息子あり)。 イタリアのトリノからスチール・ビームをベルリンのティッセンクルップ社所有の倉庫に運搬したあとポーランドに戻る予定だった。 ウルバンが最後に目撃されたのは午後2時頃で、ティッセンクルップ社の倉庫近くのケバブ・ショップに向かうところだったという。 警察は彼のトラックは同倉庫に隣接する道路上でハイジャックされたとの見方を強めている。

しかしながら別の情報源によると、ウルバンがトラックを停めたのは Friedrich-Krause-Ufer にあるハブ(トラック・ターミナル?英語ではDepot)だった。 Friedrich-Krause-Ufer は通りの名前のようで、その位置(赤ピンの先)は事件現場から北に4km弱というところか。

 

ウルバンが勤務していた運送会社の社長で彼の従兄弟でもあるアリエル・ジュラウスキ(?Ariel Żurawski)は、事件直後からウルバンのテロ事件への関与を強く否定。 彼はウルバンと、事件のあった日の正午頃に電話で話していた。 ウルバンは彼に 「ベルリンに一日早く着いたから、積荷(24トンのスチール・ビーム)を降ろすのに明日の朝まで待たなければならない。 腹が減ったからケバブ・サンドイッチでも買いに行くよ」 と語ったという。 ティッセンクルップ社のスポークスウーマンは 「19日の午前中に到着した運転手に一日早く荷降ろしするスロットが残っていないか訊かれたが、一杯だったので予定通り翌日午前中に戻ってくるよう頼んだ」 としてウルバンの話を裏付けている。 また近所のケバブ・ショップの防犯カメラに、ウルバンの生前最後の姿が捉えられていた。

午後3時頃、ウルバンから彼の妻に電話があった。 勤務中だった彼女は 「今仕事中で話せないから午後4時に自分から電話する」 とウルバンに言ったが、午後4時に電話したところ、応答はなかった。 トラックのGPS記録から、ハイジャックは午後3時から4時の間に起きたと考えられている。 午後3時19分と44分に、エンジンをかけようとして失敗したことが記録された。 トラックは午後5時前と午後5時半過ぎに、事故現場に向かって短距離を移動した。 移動中トラックは “チョーキング” を起こしているようだったので、ウルバンを雇っている運送会社は彼に連絡を取ろうとしたが、応答はなかった。 それはまるで、トラックを運転できない誰かが運転の仕方を習っているようだったという。 午後7時34分に、トラックはクリスマス・マーケット会場へと移動を始めた。 最後のGPS記録は午後8時のもので、ヘッドライトを消したトラックは、マーケットに突っ込んでいったと考えられている。

 

「彼(ウルバン)は木曜日(22日)までに帰宅して、クリスマス・プレゼントを用意する予定だった。 彼の死は、家族にとっては二重の悲劇だ――というのは彼の兄が、数年前に自殺したからだ。 気の毒に、父親はショックで病院に運び込まれたよ・・・」 と、アリエル・ジュラウスキ。 ウルバンの妻と息子が悲嘆にくれていたため、代わりに家族の別の一員が、事件後トラック内部で発見された遺体の身元をウルバンと確認した。

 ウーカシュ・ウルバン(下左) / 防犯カメラに写ったウルバンの最後の画像を見せるアリエル・ジュラウスキ / 不鮮明なその画像

 トラックの助手席で遺体で発見されたウルバンは、刺されたうえ、頭部を一度だけ小口径の銃で撃たれていた。 警察は、ハイジャックに抵抗しテロを防ごうとして刺されたものの、クリスマス・マーケット会場に接近した時点ではウルバンはまだ生きていて、ハンドルを掴んで左に切ってトラックを停止に追い込んだため射殺されたと見ている。 彼の行為により多くの人命が救われた可能性が高い。 凶器はトラック内部には残っておらず、未だ発見されていない。

事件発生直後、事件を目撃したという一市民が、警察と連絡を取りながらトラックから逃走した実行犯を追跡した。 その結果大ティアーガルテン公園中央にある戦勝記念塔付近で Naved Baluch という名の23歳のパキスタン人難民が逮捕された。 容疑者と間違われることを怖れて現場から逃げ出したため疑われたものらしい。 警察は彼が6人の男と一室に同居していた、現在難民キャンプとして使用されているテンペルホーフ空港の格納庫を急襲し、ラップトップ一台と彼の携帯電話を押収し、分析した。 逮捕された男はテロ行為への関与を否認。 硝煙反応や衣服に付着した血痕を含むウルバン殺害の証拠が皆無なうえ押収品の分析をしても何も出なかったため、ベルリン警察は彼を “間違った男” だったとして事件翌日の20日夜に釈放した。

 

 翌21日、ベルリン警察は 「トラックの運転席の下からチュニジア生まれのアニス・アムリ(24歳)の身分証明書を発見した」 と発表。 アムリは直ちに10万ユーロの賞金をかけて国際指名手配された。

 

  

警察は、事件の翌日未明にベルリンのモスクに出入りしたこの男  がアムリだったと考えている。

  

 

  《 そろそろ文字数制限に引っかかりそうなので、後編につづく 》

 

 

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“Just One Dog”

2016-12-23 20:57:11 | どうぶつ

まためぐってきました、12月23日・・・ 私にとっての 『スタンリーの日』。

それゆえ今日は、過去6年間の今日と同じ記事になりますが、どうぞご勘弁くださいますよう 

 

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動画は   こちらです。

 


たくさんの犬がいて・・・ たくさんの物語があります

 

でもこれは、ただ1匹の犬の物語です

 

同時にある人の物語でもあります

 


2009年12月23日 午後3時

 


 アニマル・レスキュー・グループからきた人が、殺処分率の高いアニマル・シェルターの通路を歩いていきます

 

クリスマスの2日前・・・ でもこれらの動物のうち多くは生きて新年を迎えることはないというのが、辛く悲しい現実です

 

その人は今日、ある犬を救うためにここに来ました

 

もう一ヶ月もここにいる、ネグレクトされていたコッカーの女のコ

 

そのコッカーの顔は神経質に引きつり、頭はひくつきます

 

でもこれは、そのコッカーの話ではありません・・・

 

そのコッカーは手厚く世話をされ、やがて新しい家族を見つけてもらえます

 

 

 ではいったい だれの物語?

 

 

 その人はその犬を見て立ち止まります・・・ 心臓の鼓動が 一瞬止まります

 

そう・・・ これはこの犬の物語です 

 
 

この犬は悲しみにあふれ 打ちのめされ すべての希望を失っています

 

皮膚はひどい、しかしながら治療可能な感染症に侵されています 

 

赤むけた皮膚は 痛むに違いありません ― 片目も感染症にかかっているようです

 

右目は閉じたまま 左目もべたついています

 

そしてその人 初めてその犬を見たその人は・・・

 

その犬のことが頭から離れなくなります ― その犬は、いつ殺処分にされてもおかしくありません

 

犬はおどおどと内気そうですが、ビスケットを取るしぐさはやさしいものです

 


 何ができるでしょう?

 

このシェルターには、まだ若く健康で、新しい家族を見つけてやれる犬がたくさんいます

 

すべての犬が、同じように救われるに値します

 

でもこの犬は、特別に救いが必要にみえます

 

そこでその人は・・・ あるひとつのことをすることにします

 


2009年12月23日 午後8時


 

その人はその犬の写真と動画を人々にメールで送り、助けを求めます

 

メールを受け取った人たちは、それぞれが・・・

 

あるひとつのことをすることにします

 

自ら付け加えた救いを乞うメッセージとともに、メールを転送します

 

 

 午後10時までには、寄付の申し出が入り始めます・・・ でもその犬を受け入れるというレスキュー・グループはまだありません

 

その犬はまだ知りません・・・ が、たくさんの人々、その犬を見たこともない人々の一人一人が、

 

ただひとつのことをしています

 


ただ一匹の犬のために

 

 

そして、夜のうちに、何かが起こります・・・

 

 

2009年12月24日 午前10時

 

あるレスキュー・グループが、受け入れを申し出ました!

 

さらに多くの人々が、助けを申し出てきました

 

ある獣医は低料金でその犬の治療をすることを申し出ました!

 

ある人は、その犬を連れ出すためにシェルターに急行します ― 今日は早じまいするからです

 

別の人は、クリスマス・イヴであるにもかかわらず遅くまで待っていてくれるという獣医のところに犬を運びます

 

また別の人は、犬に名前をつけました・・・ もう番号ではありません・・・

 

 

 犬の名前はスタンリーです!

 

 

別の人、また別の人、そのまた別の人・・・

 

皆が皆、寄付を申し出るため獣医のところに電話しています

 

その間中ずっとスタンリーは、自分に何が起ころうとしているのかまったく知りません

 

尻尾をよく見ていてください・・・ その尻尾は今まさに、ちょっぴり、ほんとうにちょっぴり、振られようとしています

 

あぁ・・・ こんな光景を見たいがために、私たちは生きているのです!

 

 

 よしよし、スタンリー! いい子だね!
 

 

『クリスマスの奇跡』 でしょうか? 

 

それともこれは、たくさんの人が、

 

ほんのちょっとだけ手を休めて、ただひとつのことをすることにしたから・・・?

 

 

ただ一匹の犬のために



スタンリーはあなたを知らず、あなたにありがとうも言えず、あなたに会うことも多分ないでしょう

 

でもあなたがクリスマスを祝っているとき、

 

スタンリーは動物病院で手厚く世話され、あなたのおかげで取り戻した命を慈しんでいます

 

 

 アニマル・レスキュー・グループをサポートしてくれてありがとう!

 

 そしてスタンリー、私たち人間に二度目のチャンスを与えてくれてありがとう

 

 

メリー・クリスマス、スタンリー!



 

  スタンリーはその後このカップルに    引き取られ、今は幸せに暮らしています。

 

 ケイトーを亡くしたあと悲しみを紛らわせるため、『新しい家族募集中の犬』 のサイトを見ていた私。

 この動画はそこにリンクされていて見つけました。 ちょうど一年前に投稿されたものでした。

 今年も多くのペットが、暖かい家で優しい家族とクリスマスを迎えることでしょう。

 でもその陰で、多くの動物が明日の命も知れずにシェルターで過ごしています。

 

 シェルターにいる動物の一匹でも多くが、スタンリーのように新しい家族に恵まれますように・・・

 

 ≪ 2010年12月23日 ≫

 

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人間に遺棄されても自分では運命を逆転できない動物にとって、アニマル・レスキューやアニマル・シェルターは最後の希望。

名声を求めることも高額の報酬を望むこともなく、ひたすら動物のため活動を続ける動物愛護・保護グループのスタッフには頭が下がります。

 個人的には褒章って、各界の成功者・功労者よりも、そのような人にこそ贈られて欲しいです。


動物愛好家の方は、ぜひ “Just One Dog” を転載して普及にご協力下さいませ! 

 
 

 

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とことん間違いだらけの夫選び

2016-12-19 23:51:58 | 義理の家族のこと

この秋、学業の一環としてホロコーストについてあれこれ読まなければならなかったムスメ。

ある日 “似たような話を聞いた覚えが・・・” とのコメントつきで、

こんな画像  を送ってきました。

  

息子 「一体どうしたっていうの?」

継母 「お父さんよ! 私をまるでメイドか看護師みたいに扱って・・・ それに、ひどいの!

私にひと月50ドルしかくれないのよ。 ストッキングが必要になると、自分の貯金を使わなきゃならないの!」

息子 「うーん・・・ 父さんは相変わらずだな・・・」

 

これはアート・シュピーゲルマン作のグラフィック・ノベル 『マウス』 からの一シーンだそうです。

もともとは2巻に分かれて刊行された(下左)ようですが、ムスメが講師から安く譲ってもらったのは、

2巻がひとつに収まった完全版(下右)。 日本でも1991年と1994年に出版されていたんですね。

       

 作者の、ホロコーストを生き延びた父親の過酷な体験を中心に、迫害されたユダヤ人家族の戦後の苦悩をも描いたというこの漫画。

ユダヤ人はネズミ、ドイツ人は猫、ポーランド人は豚、アメリカ人は犬、フランス人は蛙として描かれているんですね。

作者の母親が戦後自殺してしまったため父親は再婚しますが、冒頭のシーンは、作者の継母が作者に、

父親のケチぶりを嘆いているところ。

 

前置きが長くなりましたが、ムスメがほのめかした 『似たような話』 の主は、もちろんオットー父。

老後の沙汰は、カネ次第 ② に書いたように、オットー父は去年の春、不安障害(?神経衰弱?)にかかったわけですが。

じつはあの時、それまでオットーも知らなかった事実が判明したのです。

何と・・・


・・・と気を持たせつつ暴露しようとした事実ですが、自分のブログを読み返してみたら、もう暴露してました。

間違いだらけの夫選び で。 この部分です。


銀行口座は二人の共同名義ながら、オットー母はクレジットカードはおろかキャッシュカードも持っておらず、小切手は書けるものの、

あくまでオットー父の許可があった場合のみ。オットー父は生活費を下ろしてくると、毎月30ポンドをオットー母に、自分のものを買うための

『ポケット・マネー』として渡すそうです。

 これ聞いたとき、驚きのあまり力が抜けましたよ。80代の妻にお小遣いって・・・ つまりオットー父は、オットー母の年金までも、がっちり

握ってしまっているわけですから。車庫は立派にし車は3年ごとに買い替えても、キッチンはひどい状態のまま放置。共働きなのに、

家事も育児も一切手伝わなかった。今で言う『モラハラ夫』? オットーですら、「なぜ母が離婚せずにここまできてしまったのか、

息子ながら理解に苦しむ」と言っています。本当に、あの義母以外には、耐えられる人はいなかったでしょうね。

オットー父、一生理解できないでしょうけど、あなたは本当にラッキーなんですよっ!


しかもこの事実が私たちにも知れることになったのって、去年の春じゃなくて3年も前の春だったんだ!

自分でブログに書いた以上、そうだったに違いない。 勘違いしてお騒がせし、皆さん申し訳ありませんでした。

(・・・自分の記憶力が非常にヤバイ・・・ 認知症!?

 

オットー母の苦労については、過去の関連記事をお読みください。

家庭内独裁者だった義父

Second Class Citizen の母

間違いだらけの夫選び

やっぱり間違いだらけの夫選び

 

私、おばあちゃんというものは、孫ができるとかわいくてたまらなくて、衣類やおもちゃを買い与えずには

いられないものと思っていました。 だから初孫だったムスメが生まれたあと、オットー母にそういう傾向が

見られなかったので、意外に思ったんです。 でもきっと、老後のため浪費を控えて堅実に生活しているのだろうと。

それならそれでこちらも安心だからいいか、と。 (ワタシの好みでなくてムスメに着せたくならないような衣類を

たくさんいただいても困るし。

オットー両親がムスメを初めとする孫たちにプレゼントをくれるのは、誕生日とクリスマスのみで、教育的なおもちゃが多くて、

チャリティー・ショップで買った中古の絵本やゲームなども混ざっていたりして。 新品の既成服などは一度もいただいたことがなく、

ムスメにいただいた衣類といえば、ムスメが2歳のときにオットー母が手作りしたワンピースのみでした。 でも

そうして将来介護が必要になった時のために倹約してくれているなら、こちらとしても助かるな、と。

 

そういった過去も、オットー母は自分の年金すら自由に使えないという事実を知ってから、納得できました。

月額30ポンドしか自由にできるお金がないのでは、自分の必需品(衣類・靴下・下着など)を買うにも苦労することでしょう。

だいいち、携帯電話の使用料金。 オットー母は週一回は子供たちに電話をする習慣がありますが、独身の義弟②は

固定電話を持っていないので、彼の携帯に電話するしかありません。 なのにオットー父が 「携帯への電話は高くつく」 と

オットー母に家電を使わせてくれないので、オットー母は自分の携帯で義弟②に電話するしかなく、その料金だけでも

30ポンドの半分は消えてしまうのです。 ほんと、冒頭の 『マウス』 の継母の状況にそっくり。 否、それよりひどいかも・・・

 

そんなオットー父に、あくまでも添い遂げる決意であるらしいオットー母。 以前はその忍耐心にただただ感服していましたが、

近頃は私、見方を変えつつあります。 オットー母って、たぶん、一人では暮らせない人なのではないかと。

誰かしら面倒をみる、世話をする対象がないと、自分の存在意義がなくなるようで、一人ではいられない人ではないかと。

この夏オットー父にボロクソに言われたにも関わらず、オットー父と一緒にいたいと言い切りましたからね。

ごく普通の男性と結婚していたら、定年退職後の自由を一緒に楽しんで、日帰りで出かけたり、時には

外食したり、旅行に行ったりできたでしょうに。 経済的には余裕があるのですから。 なのにオットー父に

くっついていることで、可能であったであろう多くのことをせずに終わりそうです。 でもきっとオットー母は、

そういう事は考えず 「夫に添い遂げた」 という満足感だけを持ってこの世を去れる人なのでしょう。

 

この夏オットー両親の家に、義妹一家も一緒に集まっていた時のことですが。 引越すための家探しがなかなか

うまく行かないことに苛立っていたらしいオットー父の機嫌がことさら悪く、キッチンまで出向いてオットー母の

料理の仕方を批判して声を荒げ、義妹の息子たち(12歳と9歳)に 「静かにしろ!」 と怒鳴り・・・・・

このような両親の初子として成長したオットーは、友達の家にお邪魔したとき初めて、自分の家庭が普通と違うことに

気づいたそうです。

父親が怒鳴らない。 子供に手を上げない。 食卓で会話できる。 父親が笑顔を見せる。

父親が家事を手伝う。 子供と遊んでくれる。 ・・・・・

この夏に話が戻りますが、自分の機嫌の悪さを隠すどころか八つ当たり的に苛立ちを撒き散らすオットー父を見ていて、

(注: オットー父は自分が他人の目にどう映るかなどお構いなしなので、オットーは父親に人格障害があるのではと疑っています、)

成長期にあったオットー兄弟やムスメがしたように、(この甥っ子たちも 『お母さん方のお祖父ちゃんは普通の

お祖父ちゃんとは違うみたいだ』 とそろそろ気づいているんだろうな・・・) と考えたら、何だか切なくなってしまいました。

オットー母がオットー父に添い遂げるというのは自らの選択ですが、それによって影響を受けるのは、決して本人だけじゃない。

その子供のみならず孫たちまで、否応なしに影響を受ける・・・・・

 

安易に離婚を選ぶのは考えものですが、自分に忍耐を強いて結婚生活を続けるのもどうかと思います。

そりゃオットー父は妻や娘には手を上げず、殴ったのはもっぱら息子たちでしたが。

定年まで働いて(オットー母もですが)、経済的な心配はありませんでしたが。

飲酒やギャンブルにのめり込むわけでも浮気をするわけでもありませんでしたが。

もっとひどい父親は、世間にたくさんいますが。

それでももし、オットー母が抑圧された結婚生活から自らを解き放っていたら・・・?

と、つい想像してしまいます。


少し前に寒気が訪れたとき、オットー母がオットーに電話で愚痴ったそうです。

「お父さんが暖房を入れてくれないので、屋内が寒い」 と。 オットー父に 「寒いから暖房を入れて」 と頼んでも

「フン」 と鼻を鳴らし、「寒いのは動かないからだ、体を動かすよう心がけていれば寒さなど感じない」 と主張して・・・

90歳が、88歳に対してですよ!

「父さんは意地悪だから、母さんに寒くてみじめな思いをさせるためなら自分も我慢するからなぁ・・・」 とオットー。

でもオットーがオットー父に 「暖房を入れてあげてよ」 とでも頼もうものなら、オットー母が “告げ口” したことが

オットー父にばれてしまい、そうなるとつむじを曲げたオットー父がオットー母とはしばらく口もきかなくなるので、

それもできない。 (あ、もちろん、オットー母が自分で暖房を入れるというオプションはありません。 テレビのチャンネル権と

同様、暖房のスィッチ権もオットー父が握っていますから。 そういう夫婦として、過去59年間暮らしてきましたから。

・・・来年はダイヤモンド婚じゃないっ!


気の毒になってしまったので、私が日本で買ってきて重宝しているユニクロのヒートテックをオットー母にも! と思い立ち、ついでに

厚手のタイツ(オットー母はスカートしかはかないのでレギンスは買えないから)とベッドソックスも注文しました。

 

でもオットー母にだけだと妙だし “告げ口” がバレるかもしれないので、オットー父にもヒートテックの肌着の上下とベッドソックスを注文。

 

先週クリスマス・ホリデーで帰宅したムスメも一緒に三人でオットー両親宅に顔見せに行ったとき、2人にこれらをプレゼントしてきました。

オットー母の “告げ口” を勘ぐられないよう、「私が重宝している温かい肌着なので、お二人にもどうかと思って・・・」 というスタンスで。

オットーの家族内では大人同士のクリスマス・プレゼントの交換はやめたので、これくらいは、たまにはいいかと。

(それとなく観察していたら、その日オットー両親は、ほとんどお互いと目を合わせず、口もきいていませんでした。

私たちが行く前に、一戦交えたのかもしれません。)


これでオットー母が、なんとか寒さをしのげますように・・・・・ 


 

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旧友の訃報

2016-12-14 22:27:05 | 夫のこと

 週末ネットでニュースを見ていたオットーが、驚きのニュースを発見し私に教えに来た。

中高校(11歳から16歳まで通った学校)で仲良しだった友人が、自殺したというニュースだ。

友人の名は、ティム・マスリング(Tim Masling、下左、下右は奥さんと)。 享年57歳。

 

ボウリングに似た競技スキットルズ (Skittles)が得意だった彼は愛好会に所属し、何度も賞を獲得したことがあるらしい。

(現在ではスキットルズは、もっぱらパブで愛好されるゲームのようだけど。)

  

 マスリング氏は中高校を卒業したあと、すぐにチェルトナムのGCHQ政府通信本部)に就職したという。

2003年頃に新しい本部ビルが完成し、その形から “ドーナツ” と呼ばれるようになったGCHQは、オットーが生まれ育ったチェルトナムの町にある。

 

 私はチェルトナム南郊の病院で働くので普段は近寄らないが、我家からまっすぐチェルトナムに買物に行く際は、

M5高速道路のJ11(J=ジャンクション=インターチェンジ)でM5を降りてタウン・センターに向かう途中でドーナツの脇を通る。

ドーナツからタウン・センターまでは、約2.5km。

 3億3700万ポンドをかけて建設されたという、高さ21m、外郭の直径183mの “ドーナツ”。

敷地全体の面積は71ヘクタールだそうだ。

 

外壁は外側も中庭に面する部分もガラス張りで、採光が良さそう。

 

           

 職員の憩いのため、中庭には意図的に緑が多いのだろう。

  

 建て直される前のGCHQはこんな感じだったらしい。

そういえば昔、脇を通りかかったとき、車の窓からバラックみたいな味気ない建物が見えていたのを覚えている。

以前はここだけでなく他にも小規模なGCHQの建物がチェルトナム北東部にあったが、建て直しを機会に一ヶ所にまとめられたそうだ。

 

ネットで拾った、建設中のドーナツの画像。 引越しには一年かかったそうだが、ナットク。 さぞかし大変だっただろうな~。

  

 

マスリング氏はオットーが中高時代に親しくしていた3人の友人のうちのひとりで、ある日マスリング氏の家に遊びに行ったオットーは、

彼に誘われて彼の父親が隠し飲んでいたお酒を悪ふざけで少し飲ませてもらった。 マスリング氏も飲んだが、オットーが

帰途についたときは彼は絶対に酔っていなかったという。 オットーは自転車で帰宅したが、少ししか飲まなかったので

自転車に乗るのに影響はなかった。 ところがその晩マスリング氏の父親からオットーの家に電話が。

マスリング氏が酔って歩けなくなっているという。 どうやらオットーが帰ったあとも飲み続けた彼は、

急性アルコール中毒で?一時的に下肢が麻痺してしまっていたらしい。 翌日彼は学校を休むようだったという。

おかげで飲酒がバレてしまい、オットーは両親にたっぷり絞られたそうだ。

 

オットーはマメな性質ではないので、マスリング氏を含む友人たちとは卒業後は音信不通になった。

私と出会う少し前・・・だから25年くらい 前、スーパーでばったり彼と会ったが、会話の流れで仕事の話になったら、

彼は 「仕事に関しては何も話せないんだ」 と不自然に会話を打ち切り、素気なくその場を立ち去ったそうだ。

GCHQの職員に厳格な守秘義務があるのは知っていたが、あまりにもぶっきらぼうな去り方に、しばらくは

(自分のせい?) (何か気に障ることを言ったかな?) と気になったという。

オットーが中高校を卒業後彼に会ったのは、そのときが最初で最後。

 

マスリング氏夫妻(右端)、左端は娘のローラさんと息子のマシューさんらしい。 中央は兄弟とその伴侶かと。

 

マスリング氏が自殺したのは半年前のことだが、なぜ今ニュースになったかというと、死因審問が終わったかららしい。

 

マスリング氏は今年6月16日(木)午後6時頃、在宅中に突然逮捕された。

「玄関の扉を開けたら警官が3人立っていました。 ティムは尋問のため連れて行かれて、真夜中過ぎに私が迎えに行きました。」

と、奥さんのデボラさん。

 

「次の日雇用主から電話があったし、警備部門はティムが彼らの助けが必要になるだろうと通達してきました。

ティムは前夜起きたことを詳しく説明しました。 自分の側の話を聞いてもらうため、できるだけ早くミーティングを

開いてもらいたがっていました。 でもミーティングが調整されることはありませんでした。」

 

デボラさんによると、マスリング氏の次の勤務日は19日(日)だったが、彼が出勤するとセキュリティー・パスは無効になっていて、

彼は建物内に入ることができなかった。 警備員にパスを見せると、車に戻って車内で待つように言われた。

彼が言われた通りにして待っていると、かなり長い間待たされたあとで警備員がやってきて、

“金曜日の警備部メンバーとのミーティング後、マスリング氏はGCHQに出入り禁止となった” ことを伝えた。

 

マスリング氏が20日(月)の朝一番でGCHQに状況説明を求めるため電話をかけると、

「彼らはとても弁解がましく聞こえました」 と、デボラさん。

検死官に当時のマスリング氏の精神状態を問われたデボラさんは答えた。

「彼についてなされた申し立てに関して、とてもポジティブでした。 我が身の潔白を証明することに意欲的でした。

最初から――逮捕された瞬間からそうでした。 すべてがシロだと証明されることを確信していました。」

 

その翌日も、マスリング氏はミーティングを求めて上司に連絡を取ったが、

「あれやこれやと理由をつけられて、それは不可能だと言われました。 彼は、誰一人として自分の話に耳を貸そうとしてくれないことに、

腹を立て始めていました。 それでも申し立ての結果に関しては、変わらずポジティブでした。」

 

その日GCHQの同僚――目撃者A――がマスリング氏に接触してきて、上司がマスリング氏の同僚たちに

彼が逮捕され、つづいて自宅待機状態に置かれたことを告げた。 マスリング氏は同日遅くに主治医に会い、

8週間の病欠証明をもらい、抗鬱剤を処方された。

 

「何度も何度も訴えたにも関わらず自分の側の話を聞いてもらえないことに、彼はますます苛立ってきていました。

でも自殺を願望するような言動は、私を含む家族の誰にも見せませんでした。 彼に同行して主治医に会いにも

行きましたが、自殺をほのめかすようなことは一度もありませんでした。」

 

7月1日の午前中、2人は近所のビストロに行ってコーヒーとケーキを注文し、週末の予定を話し合った。

月末にドイツにいる息子を訪問すること、また9月にクロアチアに行く計画についても話した。

2人は徒歩で帰宅し、そのあとマスリング氏はジムに、デボラさんは午後のボランティアの仕事に行った。

ジム・バッグを手に車に向かって歩くマスリング氏の姿が、デボラさんが見た彼の最後の生きた姿となった。

2人の最後の会話は、外出前の午後3時頃。 他愛ない5分ほどの会話で、マスリング氏は普段と変わらなかったという。

「じゃあまた5時頃ね」 と言うデボラさんに、彼は 「ああ、5時に」 と応えた。

 

デボラさんが帰宅したとき、マスリング氏がジムで使うタオルはあったものの、彼の姿はなかった。

彼の携帯電話に電話をしてみたが応答はなく、眠っているのかと思い2階に行ってみた。

マスリング氏が今回の出来事の詳細を記録するのに使っていたコンピューターの前を通りかかったのでキーのひとつに触れてみると、

遺書がスクリーン上に現れた。

 

「それは夫からの詳細な指示書でした。 私がするべきこととするべきでないことの。

信じられない思いで、また読み返しました。 信じられなかったものの、本当に起きていることだとわかっていました。」

デボラさんは近所に住む実父フランクさんに電話。 フランクさんはすぐに駆けつけてくれ、ガレージの中で

首を吊って死亡しているマスリング氏を発見した。

 

「夫は、皆を守らねばならないと感じたのだと思います・・・・・

死にたくはなかったけれど、置かれた状況には希望がないと思ったのでしょう。

精神的苦痛、私をも蝕みつつあると感じた苦痛を終わりにするため、死を選んだのです。」

 

審問では、警察に押収されたマスリング氏の私物が返却されたかについては明らかにされなかった。

マスリング氏に関してなされた申し立ての内容も公表されなかった。

マスリング氏の死は自殺と結論づけられた。

 

『家族は、証拠を伴わない申し立てがなされ、それに関して雇用主から何のサポートも得られなかったことが、

ティムを自殺に追い込んだのだと信じます。 これらのことがなかったら、ティムは今日も私たちと共にあったでしょう。』

という声明を、マスリング氏の死後、家族は発表した。

 

『ティム・マスリングはGCHQで、尊敬され愛される同僚であり友人でした。 ご家族に深いお悔やみを申し上げます。』

と、死因審問後にGCHQのスポークスマンは語った。

 

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ティーン時代のオットーの友達が、自殺だなんて・・・・・ でも私は、ご本人より家族に同情してしまう。

だって本人死亡により、 『申し立て』 の真偽のほどは、たぶんもう永遠に明らかになることはないだろうから。

なのに今後はご家族は、子や孫まで 「あの自殺したGCHQの・・・」 と陰で囁かれるわけで。

本当に潔白だったのなら、ティムさんにはもっと頑張って闘って欲しかった。 こんな五里霧中のままで話を終わらされたら、

(火のないところに煙は立たないから・・・)と、彼の潔白を疑う人も出てくることでしょう。

逮捕からわずか半月で、発作的にだったのかもしれませんが、自殺を選んでしまったのですから。

とはいえ、GCHQはスパイの本部。 適当な証拠を捏造することなど、お手の物だったりするのかも。

第一、彼に関してどんな申し立てがなされたのかすら不明のままだし。

まさかまさか、自殺というのは、間違いない。 ・・・んですよね・・・!?

それともティムさんは、本当に 『GCHQ職員としてすべからざる事』 をし、後ろめたいところがあったから

これ以上の追及で自身のみならず家族まで恥にさらすことから逃れるために、自殺を選んだ・・・ ・・・?

 

オットーと父親のお酒を盗み飲みした頃は、ティムさん、まさか自分が60歳の誕生日を迎えずに死ぬとは、

しかも自殺するとは、思いもしなかっただろうな・・・・・

GCHQに勤めることがなかったら、たぶんずっと長生きできたろうな・・・・・

 

ティム・マスリングさんのご冥福をお祈りします。

 

 

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