ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

アカデミー・ハプニング!

2017-02-27 22:46:31 | エンターテインメント

今朝は早番で午前6時20分に家を出たのですが、カーラジオで聞いていた BBC Radio Gloucestershire の30分毎の

短いニュースでのトップニュースのひとつは、アカデミー賞授賞式でした。 でも誰が何を受賞したかではなくて、

誤った受賞作品が告げられたこと! 

アカデミー賞授賞式のトリを飾る作品賞のプレゼンターとして登場したのは、50年前(!)にボニーとクライドを演じた

フェイ・ダナウェイ(76歳)とウォーレン・ビーティー(79歳)だったそうです。

 

(ビーティーの名は現在ベイティと表記されているようですが、どちらもアリみたいだし個人的にはビーティーが好きなのでこれで通します。)

 

しかし! 何と二人には、作品賞ではなく主演女優賞(ACTRESS IN A LEADING ROLE)の受賞者名が入った封筒が渡されていたのです。

先に封筒の中身を見たビーティーは、作品賞のはずなのになぜか(すでに主演女優賞を獲得していた)エマ・ストーンの名がまずあり、

下に小さめにラ・ラ・ランドと入っていたので、困惑してダナウェイに中身を見せます。 しかし自分に花を持たせようとしてくれていると

思ったらしいダナウェイは、「ラ・ラ・ランド!」 と高らかにアナウンス。

 

 製作者の一人のジョーダン・ホロウィッツがオスカーのうちのひとつを受け取り、他の製作者や出演者を背後に控えてスピーチを始めます。

 

 しかし誤りに気づいた授賞式スタッフが、別の人のスピーチが続く中ステージ上に上がり、封筒と中身をチェック。

 

 実際に作品賞を受賞したのは、実はムーンライトだったのでした。 本物の作品賞の封筒の中身を見せられた

ジョーダン・ホロウィッツは、半ばひったくるようにビーティーから封筒の中身を取り上げ、

「作品賞を受賞したのはムーンライトでした。 これは冗談ではありません。」 と宣言。

 

 ステージに上がったムーンライトの製作者・出演者たち。 ホロウィッツはムーンライトの製作者をハグし、栄誉を讃えます。

一方ビーティーは、誤った封筒が渡されたことを説明。

 妙な動きに (・・・?) 状態だった観客は、(えー!まさかでしょー!!)と驚きの表情に。

 

 

大きな失望を味わっていたムーンライトの関係者は、当然のことながら驚きと歓喜に包まれたのでした。

 

 「おめでとう、これは貴方がたのものだ」  そして始まった、真の受賞者のスピーチ。

 

授賞式後のパーティーでのビーティーとダナウェイ: 「さんざんな夜になったね」 「このトシであんなビックリは勘弁して欲しいわぁ」 (私の想像です

 オスカー像に受賞作品名を彫ってもらうムーンライトの製作者。 これはあてつけではなく、受賞者の伝統だそうです。

 

 

私の好きな面白CMを連発してくれる SpecSavers が、早速このハプニングをおちょくる広告を作ってくれました

 いいわぁ~、このユーモアのセンス

 

 しかし! なぜに世界一有名な映画祭の授賞式で、このようなミスが起こり得たのか???

・・・は、長くなるので、また次回に。

 

 

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ジョンベネちゃん殺害事件 ⑤ ラムジー邸内部: 1階と地階

2017-02-25 16:19:04 | 事件

《  からのつづき 》

 

次はいよいよ、事件の舞台となる 1階 です。

 

 

 

1階はこのような構成になっていたようです。 わかり易くなるようアルファベットをふってみました。

 

事件との関わりは後回しにして、まず画像でそれぞれの部屋を見てみることにします。

事件後に撮影された画像が見つからなかったときは、元ラムジー邸が売りに出されたときの画像を使っていますことをご了承ください。

下左は玄関ホール。 画像左手に2階への階段、右端に居間への間口が見えます。 下右は居間から見た間口と2階への階段。

         

下左は居間に立ってサンルームとダイニング・ルームを臨んだ画像のようです。 事件前のものなのか事件後のものなのかは

不明。 一見広~い間口があるように見えますが、じつはクリスマス・ツリーの背後に、サンルームとダイニング・ルームを仕切る

壁を背負った居間の狭い壁が隠れています。

下右は事件を検証するドキュメンタリー番組で映し出された、ラムジー一家が転出したあとのラムジー邸の映像の一部の同じ場所。

  

居間の隅っこ。 下右は元ラムジー邸が売りに出されたときの画像で、左端にダイニング・ルームのアーチ形の窓が見えます。

  

元ラムジー邸の居間。 間口に扉はついていなかったようですね。 2階への階段が見えます。

 

元ラムジー邸の南東の角にあったサンルームの画像です。

 

ダイニング・ルーム。 西側にガラス入りのダブル・ドアが見えます。 日当たりがいいから居間として使っても素敵。

 

下左画像では左端にサンルームが、下右画像では左端にブレックファスト・ルームが見えます。

   

ダイニング・ルームとキッチンに挟まれた、ブレックファスト・ルーム。 ダイニング・ルームはお客様をお招きしての

正餐のときに使用し、普段の家族だけの食事にはこのブレックファスト・ルームを使っていたのでしょう。

元ラムジー邸の下左画像では奥にキッチンが、下右画像では奥にダイニング・ルームが見えます。

  

下左は事件後に撮影されたらしいキッチンの画像。 下右は元ラムジー邸のキッチンの同じ辺りの画像かと思います。

  

キッチン。 内装はラムジー家当時のものらしいですから、事件後片付けられてから撮影された画像でしょうか。

      

キッチンを西に進んでいくと、廊下に突き当たる手前左側に電話があります。 パッツィーが警察を呼ぶのに使った電話です。

画像の右端に、ジョンの書斎らしき部屋の一部が見えます。

内装を一新された、元ラムジー邸のキッチン

左手にブレックファスト・ルームとダイニング・ルーム、右手に廊下とジョンの書斎が見えます。

東側の玄関に近い端に立って見たキッチンと、反対側から見たキッチン

 

(当時のラムジー邸の内装は、今の水準と比べるとかなり安っぽかったような・・・ と、勝手なことをぬかしてみる。

 

下左は事件後に撮影された廊下。 身代金を要求する手紙が残されていたという螺旋階段が、突き当たりに見えます。

下中はラムジー一家が転出してからの画像でしょう。 緑色のアーチをくぐるとガレージに到達します。 手前の扉口はジョンの

書斎のもの。 パッツィーが警察を呼ぶために使った電話(下右)は、下中画像の右手にある壁の反対側にあることになります。

     

ジョン・ラムジーの書斎G。 書斎というよりは居間ですが、画像に入っていない右手に本棚があったようです。

扉の向こうはトイレ。

元ラムジー邸の、元ジョンの書斎

  

廊下の突き当たりにある螺旋階段の右手には、パントリーへと下りる階段があります。

下左は、事件を検証する番組でパントリーへと下りる二人の男性。 下右はパントリーから見上げた螺旋階段。

 

元ラムジー邸のパントリー。 ここには裏口がありました。

  

         

“裏口” としてこんな画像(下)も出てきましたが、これは螺旋階段の背後にあるらしい収納庫の扉では?と思います。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

広~いラムジー邸、最後は 地下室。 1階と並んで事件の舞台となった階です。

 

 

 

ジョンベネちゃんの遺体が発見されたのも、“侵入者の侵入/逃走” に使われた疑いのある窓があるのも、その他の

主な手がかりが残されていたのも、すべて地階でした。

 

地階の画像はほぼすべてが事件後に撮影されたもののようです。 当然ですよね、地下室で普段の写真を撮る人って

あまりいませんから。 よほど素敵に改装して自慢したいならともかく。

では画像でラムジー邸の地階に馴染んでみましょう。

 

1階の玄関からまっすぐ進み、キッチンに入る手前で右に折れると下りの階段が3段あり、最下段の右手にドアがあり、

そこを開けると地階に下りる階段が続いているようです。 階段を下りて突き当たりの壁の右手にあるのはトイレのドア。

  

 

地階の間取りです。 ここでもわかり易いようにアルファベットをふってみました。

 

元ラムジー邸となってからの映像のようですが、地下への階段を下りて壁に突き当たって右(南)を向くと、こんな感じ(下左)だったもよう。

向かって左が通路で、突き当たりにあるドア(下右)がジョンベネちゃんの遺体が発見されたワイン・セラー

右はホビー・ルーム。 この部屋にはバークのトレイン・セットが置かれていたことから、トレイン・ルームとも呼ばれていたようです。

 

通路を進んでいくと、こんな感じみたいです。

 

事件直後に撮影されたと思われる Crime Scene Photo (下左) ではワイン・セラーのドアが異なりますが、これはその後

ドアが交換されたということでしょうか。

下右は、ワイン・セラーの入口あたりから通路を振り返ったところのようです。 この右手には、・・・

          

・・・暖房炉・温水ヒーター(Water Heater)・ボックス型フリーザーなどが置かれたスペースがあり、ここはボイラー・ルームとも

呼ばれていたようです。 温水ヒーターとフリーザーの画像は見つかりましたが、暖房炉のは見つかりませんでした。

このボイラー・ルームには窓があり、当時はこのように ↓ ダクトの残骸らしきものがぶら下がっていたようです。

  

窓の外が明るい?と思ったら、この窓は地上に出ていたんですね。 (下左はバークの部屋?を示した画像を使い回しております。

 

事件のあった深夜、ラムジー邸の向かいの住人が “耳をつんざくような女の子の悲鳴” を聞いたと証言しており、もしその悲鳴がジョンベネ

ちゃんのものだったとしたら、そのとき彼女はこの部屋にいたのではないか?と見る向きもあるようです。 (下右: 窓から見た外)

 

ジョンベネちゃんの遺体が発見されたワイン・セラーはのちに詳しく見ることになるので、ここでは一旦階段近くまで戻り、

次は地階の真中に位置するホビー・ルームを見てみましょう。

下左は事件検証番組のため再現された “ラムジー邸地階のモデル” (=つくりもの)ですのでご注意ください。 下右は

犯罪現場ビデオからの画像のようです。 なるほどトレイン・セットがあります。 日付通り‘96年12月26日に撮影された

ものなら、ジョンベネちゃんが遺体で発見された当日ということになります。

 

 あれこれ乱雑に置かれた部屋です。 下右画像のポスターは、・・・

 

 ・・・『ナイル殺人事件』 のもの! 1978年の映画。 なつかし~い! ラムジー夫妻のどちらかが好きだったのかな、この映画?

♪ みすてりぃ~・    なぁい~る ♪

 ホビー・ルームの正面(南)の壁に突き当たってから右に折れて西へと進むと物置(下左)があり、突き当りの壁(西)の上部にある

小窓が、外部からの侵入者の侵入/逃走に使われたのではと疑われています。 窓の下にはスーツケースが置かれていたため、

犯人はこれを逃走するときの足がかりにしたのではないか?と。 (ですがこのスーツケース、いつこの場所に置かれたかが

はっきりせず、事件発覚後にラムジー邸にいた人物が無意識にこの場所に移動した可能性もあるそうです。)

 

ホビー・ルームと物置の南側はクロール・スペースということですが、クロール・スペースとは何ぞや?と思い調べてみたら、

配線や配管のためのスペースで、通常は人が立って歩くことができないほどの高さしかないスペースなので

クロール(這う)・スペースと呼ばれているようです。 (下: クロース・スペースの資料画像。)

なのでここでは地下室には数えないでおきます。 間取り図の中にも、クロール・スペースは省略されているものがありますし。

 

 物置を出、ホビー・ルームを抜け、階段近くに戻って西に進むと、洗濯室と物置

 下右は “ラムジー邸地下室の窓” とだけ付されていたので物置のものかは不明ですが、地階には限られた数の窓しかないし

すぐ右手にドアが見えるので、おそらく物置の北側の窓ではないかと思います。

      

地下のトイレはタンクの蓋が外されているけれど、これは捜査のためだったのでしょうか。 ラムジー邸らしからぬ

みすぼらしいトイレなので、おそらくほとんど使われてはいなかったのではないかと。

 

 

 新しい住人により改装された、元ラムジー邸の地階。

見違えるように素敵になってほっとします。 目の保養にもなるし

 

 《 ⑥ につづく 》

 

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ジョンベネちゃん殺害事件 ④ ラムジー邸内部: 3階と2階

2017-02-17 22:07:37 | 事件

《  からのつづき 》

 

事件の詳細に入る前に(って、こればっか? )、ラムジー邸の内部を階ごとに見ていきたいと思います。

まずは最上階の 3階 ですが、ここは両親のスイート・ルームだったんですね。

 いくつか間取り図が出てきましたが大体似たような感じで、階下(2階)へと下りる階段はふたつあったようです。

  

 パッツィーのクローゼットの大きさが多少異なりますが、事件とは関係なさそうなので見逃してあげます。

贅沢なことにジョンもパッツィーも、それぞれ独立したバスルームを持っていたんですねぇ。   ・・・って、お金持ちなら当たり前か。 )

  

  こんな間取り  になっていたようです。 上が北で。

  下の画像の階段と暖炉の位置と天井の形状からして、ベッドは頭部を東側の壁の方に向けて設置されていたものと思われます。

 

 その後 “元ラムジー邸” が何度か売りに出されたときの3階の画像も、参考までに貼っておきます。

   

   

 「子供を殺害され得る状態に放置したことは虐待にあたるので、ラムジー夫妻を起訴すべき」

との結論を大陪審が出していたと知ったとき、

(我が子を殺してくれって頼んだわけじゃないんだから、それはちょっと厳し過ぎるのでは・・・?) と思いました。

でもその後、考えを変えました。

 だって、この部屋割りなんだもの。 ありえない~!!

 悪人て、大抵の場合はヘリコプターから宙吊りになって屋根から侵入してくるんじゃないから。

重力の関係で、地表をやってきて侵入できそうな場所を探すわけだから。

地表に近い階ほど、危険度が高いことになります。

なのに子供が2階に眠って、両親はペントハウスを気取ったのか知らないけど、最上階の3階って!

ありえない~!! 

これじゃあ悪者が1階・2階もしくは地階から侵入した場合、無防備な子供に先に到達されてしまうではないの。

何も気づかないまま親が3階で眠りこけてる間に子供を人質にとられるかもしれない。 誘拐されるかもしれない。

 

だいいち子供がティーンになっていたならともかく、まだ9歳と6歳だったんですよ。

怖い夢を見てうなされて 「ママ~」 と泣き出すかもしれない。 ベッドから落ちてパニックするかもしれない。

私だったら絶対、下の子がせめて12歳くらいになるまでは、子供と同じ階に眠りますけどね?

何かあったときすぐに駆けつけられるように。

 

しかもここは、地元の名士で富裕なことで有名なラムジー家。 強盗や誘拐の標的にされる可能性は、

一般庶民の家庭よりずっと高い。 なのにこの部屋割り・・・ 

邸宅が頑丈な門つきの高い塀に囲まれていて、夜間はよく訓練されたドーベルマンが庭に放たれていたのならともかくですが、

実際にはそうじゃなかったのだから。

しかも悪人が三面鏡の裏側みたいに出っ張った部分の2階にあるバルコニーに何とかして上ってしまえば、

窓ガラスの向こうはジョンベネちゃんの部屋だなんて。

ラムジー夫妻って、それなりに頭のいい二人だったろうに、この部屋割りはアタマ悪すぎ!  

 

 まぁ3階の大きな窓には手すりもついていなかったようだから、子供には不向きだったかもしれません。

でももちろん手すりをつけることくらい、ラムジー家の財力があれば何でもなかったでしょう?

否、ラムジー家の財力なら、24時間常駐の警備員を雇うことだってできたし、当時の最先端を行く

警報システムだって導入できただろうに。

なぜにそうしなかったんだろう?

そうしてくれていれば、ジョンベネちゃん殺害事件の展開は、かなり違ったものになっていたことでしょう。

残念。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

続けて 2階 です。 少しずつ事件の舞台に近づいていきます。

2階には子供たちの2寝室、遊び部屋と客用の寝室がふたつあったようです。 客用寝室は2つとも、ジョン・ラムジー氏の

最初の妻との間の成人した子供たち――メリンダとジョン・アンドリュー――に定期的に使われていたようで、

間取り図にも彼らの部屋との説明が入っています。

 

下右の間取り図ではメリンダとジョン・アンドリューの部屋が逆になっていますが、多数決で他の間取り図の方を信じることにします。

 

 2階の間取り図。 (私が入れた日本語部分が読みにくくてすみません。)

  

3階と1階に挟まれたバルコニーの奥に、ジョンベネちゃんの部屋があったことになります。

      

 

= ジョンベネちゃんの部屋 =

     

ジョンベネちゃんの部屋はツインになっていて、ベッドのひとつにジョンベネちゃんが眠り、もうひとつはおそらく友達が泊まりに

来た時用の予備ではないかと。 普段はこうしてお人形さんを飾っておいて。 下右は明らかに、事件後の検証が済み

片づけられたあとの画像。

    

ジョンベネちゃんはこのベッドから、誰かに無理矢理連れ出されたのか。 それともこのベッドを、自分の意志で出たのか。

あぁ~壁が、ベッドが、家具が、部屋が、喋ることができたら・・・!

 

事件を検証するドキュメンタリー番組で再訪された元ラムジー邸。 すっかりシンプルになった元ジョンベネちゃんの部屋にはこのとき

「法学生が住んでいる」 とのことでした。 下左画像、元ジョンベネちゃんの部屋の外の奥に、シンク・エリアが見えます。

 

廊下から見たジョンベネちゃんの部屋。 バルコニーへと通じるドアが見えます。

ジョンベネちゃんの部屋の外のバルコニーからの眺めと、もうひとつのバルコニーの画像。

ジョンベネちゃんも同じ風景を目にしたことでしょう。

 

 ジョンベネちゃんの部屋と隣接する、異母兄ジョン・アンドリューの部屋。 クリスマス直前にアトランタに戻ったはずですが、

ベッドの上にまだいろいろ載っていてスーツケースみたいなものまで見えるし、まるでまだ滞在していたかのよう。

(もう20歳になっていたんだから、出立する前にちゃんと片付けんかいっ!

   

上左画像のベッドシーツのプリーツが一部ふくらんでいるため、「家族がホワイト家のクリスマス・パーティーに出掛けている間に

何者かが忍び込み、ここに隠れていたのでは?」 と疑う人もいるようです。

上記と同じドキュメンタリー番組での、廊下から見た元ジョン・アンドリューの部屋。 窓は西向きで部屋の下はガレージ

だったことになります。 画像左手に元ジョンベネちゃんの部屋の入口、右手にシンク・エリアが見えます。

 ジョンベネちゃんの兄バークの部屋は、家の東側。 「ベッドがきちんと作られているのが怪しい」 という人もいるようですが、

ベッドを整えたのはラムジー夫妻の友人のフリート・ホワイトだったそうです。 事件でごった返すラムジー邸からバークを

一時預かることになり、仕度を手伝うときにベッドを作ったようです。

   

下は元ラムジー邸が売りに出されたときの画像ですが、3つ並んだ小さな窓があるから、この部屋は元バークの部屋かな?

 ここでまた、元ラムジー邸が売りに出されたときの画像をば。 下左は外にバルコニーが見えることから、子供のプレイ・エリアの

南部分かと思います。 下右はバルコニーを背にして眺めたプレイ・エリアで、右端に見えるバスルームはメリンダの部屋の

はす向かいにあるものでは。

 

 下左は、ふたつある階段のうち西側にある方を、3階から2階に下りてきたところ。 右手奥に見える窓は南向き。

下右は、1階へと下りる螺旋階段の始まりです。

 

下はメリンダの部屋の向かいにある、もうひとつの階段。 左のドアがメリンダの部屋の入口、右のドアがバスルームの入口。

奥のカーペット敷きの部分が子供のプレイ・エリア、一番奥の壁の向こう側がジョンベネちゃんの部屋だったことになります。

 

(・・・なんて広い家なんだ。ぜいぜい。)

 

 《  につづく 》

 

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ジョンベネちゃん殺害事件 ③ 事件後の20年間

2017-02-09 22:06:51 | 事件

《  からのつづき 》

 

= 事件から現在に至るまでの大雑把な経過 =

 (事件の詳細は長たらしくなりそうなので、先に “その後” をやっつけちゃいます。)

 

1996年

12月26日: パッツィー・ラムジー、コーヒーを淹れるため早朝に起床。 「キッチンへと降りる途中で “娘を誘拐した” という

脅迫状を発見し」、午前05:52、警察へ通報。 約7時間後の午後1時過ぎ、ジョンベネちゃんの遺体がジョン・ラムジーにより

自宅の地下室で発見される。

12月27日: 遺体の検死が行われる。

12月28日: 警察、ラムジー家全員の血液と髪のサンプルを採取する。 メリンダ・ラムジーとジョン・アンドリュー・ラムジー

(ジョンベネちゃんの異母姉兄)は殺人のあった時刻には遠く離れた土地にいたことが確認される。

12月29日: ジョンベネちゃんの葬式のため、ラムジー一家、ジョンが自ら操縦する自家用ジェット機でジョージア州

マリエッタに飛ぶ。

12月31日: ジョンベネちゃんの葬式が、ジョージア州アトランタの Peachtree Presbyterian Church で執り行われる。

  

   

ジョンベネちゃんはジョージア州マリエッタにある St. James' Episcopal Church Cemetery の、1992年に亡くなった

異母姉エリザベスさんの隣に埋葬された。

 

 

 

1997年

1月1日: ラムジー夫妻、CNNのインタビューに出演し、自分たちの無実を主張。 ジョンは 「家族の誰かの仕業だと

疑われるなど、吐き気を催すほどに信じ難い」 と述べ、パッツィーは 「人殺しがうろついている」 と世間に警告する。

1月2日: ラムジー一家、ボルダーに戻るも友人宅に滞在。

1月3日: ボルダー警察、脅迫状はラムジー邸にあったパッドの紙に書かれていたらしいと発表。

1月4日: ジョンベネちゃんの頭蓋骨が折られていたことが明らかになる。

2月13日: ボルダー警察とボルダー郡地区検事アレックス・ハンターは記者会見を開き、「犯人は正義の裁きを受ける」

ことを誓う。 ハンター検事は専門家による特別捜査チームの結成を発表する。

アレックス・ハンター地区検事

 

3月6日: ジョンベネちゃんの異母姉メリンダと異母兄ジョン・アンドリューは、容疑者リストから正式に除かれる。

3月7日: コロラド州捜査局の筆跡鑑定専門家による脅迫状の筆跡鑑定の結果が明らかになる。 それによると

ジョン・ラムジーは除外されたが、パッツィー・ラムジーに関しては(彼女が書いた可能性ありとして)

結論が出なかった。

4月18日: ハンター検事、ジョンとパッツィー・ラムジーを “捜査の焦点” であることを公式に認める。

4月27日: ラムジー夫妻、『ジョンベネ殺害犯の逮捕と告発につながる情報に10万ドルを提供する』 という

新聞広告を出す。

  

4月30日: ラムジー夫妻、警察の公式尋問に事件後4ヶ月にして初めて応じる。

7月9日: ラムジー夫妻、アトランタに家を買い、ミシガンの別邸で夏を過ごしたあとアトランタに引越す。

7月14日: 検死結果の詳細が公表される。

1997年12月26日: ジョンベネちゃんの一周忌に供えられた追悼のキャンドルその他

 

 

1998年

1月15日: ラムジー夫妻、「証拠を検証させてもらえるのでない限り」 警察による再尋問を拒否する。

1月16日: フリート&プリシラ・ホワイト夫妻がコロラド州知事に宛てて書いた、ラムジー事件の担当検事を(アレックス・

ハンターから別の検事に)替えることを要請する手紙が地元紙によって公表される。

1月29日: ラムジー夫妻、事件後一年以上経過してから、ジョンベネの遺体発見の前夜に着ていた服を

警察に提出する。

2月6日: ラムジー夫妻の友人たちが、“投資家グループ” を結成してラムジー邸を65万ドルで買い取る。

2月13日: ボルダー郡地区検事アレックス・ハンター、「ラムジー夫妻の不協力のため捜査は難航している」 と発言。

3月12日: ボルダー警察、 「ジョンベネ・ラムジー殺害に関し誰かを告発できるだけの十分な証拠がない」 として

ハンター検事に事件を大陪審にかけることを要請する。

6月1-2日: ボルダー警察、捜査の結果をハンター検事の検察/アドバイザー・チームに2日かけて提示する。

6月24-26日: ジョンとパッツィー、3日にわたって捜査/検察チームに、時には一緒に、時には別々に、尋問される。

11歳になっていたバークも、初めて仔細に尋問される。

  

8月6日: ボルダー警察のスティーヴ・トーマス刑事が8ページにわたる憤りに満ちた辞表の中で、ハンター検事の

オフィスが 「屈従し切っており」、 「捜査に害をもたらした」 と激しく批判した。 彼はまた、「重要な証拠が集められず、

集められた証拠もきちんとテストされていない」 ことを明らかにした。

スティーヴ・  トーマス

8月12日: コロラド州知事、「ラムジー事件は大陪審にかけられる」 ことを発表。 ハンター検事もこれを確認する。

8月19日: フリート・ホワイト、ハンター検事以外の誰かに捜査を率いて欲しいと再度要請する。

8月20日: デンバー・ポスト紙によると、脅迫状を発見したパッツィーがかけた緊急電話の通話を高精度の分析にかけた

ところ、バークの声が背景に含まれていた。 この分析結果は 「バークは警察が到着するまで眠っていた」 という

ラムジー夫妻の供述とは矛盾する。

  

9月15日: 大陪審が召集され公聴が始まる。

10月13日: 大陪審、筆跡鑑定、犯罪現場で採取されたDNA、毛髪、繊維などの分析結果を提示される。

10月29日: 大陪審、元ラムジー邸を訪問。

 

1999年

3月18日: ボルダー警察のリンダ・アーント刑事が辞職する。 アーントはラムジー邸に到着した最初の刑事

だったため、警察の初動捜査ミスの責任を負わされ、批判と嘲りにさらされてきた。

リンダ・  アーント

5月19日: 12歳になっていたバーク・ラムジーが大陪審に密かに尋問されていたことが明らかになる。 翌日

ボルダー当局は、バークは容疑者ではなく証人だったと公式に断言した。

9月30日: ジョン・ラムジーの成人した子供たち、ジョン・アンドリュー・ラムジーとメリンダ・ラムジー・ロングが、

大陪審で証言する。 二人はすでに1997年3月に、公式に容疑者リストから外されていた。

10月13日: 大陪審が結審後解散され、ハンター検事は 「これまでに捜査の対象となった誰をも告発するだけの

証拠が十分にない」 と起訴を断念したことを発表。

 

 

 2000年

3月15日: ジョン&パッツィー・ラムジー、 “The Death of Innocence” を出版。

4月1日: ボルダー警察の元刑事スティーヴ・トーマス、 “JonBenét: Inside the Ramsey Murder Investigation

を出版。 「おねしょをしたジョンベネをかっとなったパッツィーが過失で死なせてしまい、ジョンの協力を得て

真相を隠蔽した」 というのが、彼の出した結論。

        

 5月31日: ラムジー夫妻とスティーヴ・トーマスがCNNのラリー・キング・ライブに出演。 パッツィーは “おねしょをした

ジョンベネをかっとなったパッツィーが殺した” と考えることで 「誤った方向に進んでいる」 とトーマスに告げる。

2001年3月29日: ラムジー夫妻、ボルダー警察のトーマス元刑事らを相手取り、名誉毀損を理由に8千万ドルの賠償を求める

訴訟を起こす。 この訴訟は法廷外で示談が成立した。

  

2003年12月: ジョンベネの下着から採取された微量の血痕のDNAは、ラムジー家の誰でもない男性のDNAであったこと、

またFBIのデータベースに保存されたサンプルには一致するものがなかったことが発表される。

 2006年6月24日: パッツィー・ラムジー、子宮癌のため49歳で死去。 ジョンベネちゃんと同じ墓地の、

ジョンベネちゃんの手前に葬られた。

  

8月16日: 米国人教師ジョン・マーク・カー(41歳)、ジョンベネ殺害を告白しタイのバンコクで逮捕される。

8月17日: カー、報道陣に 「ジョンベネが死亡したときその場にいた」 が、 「彼女の死は事故だった」 と語る。

8月20日: カー、米国に送還される。

8月26日: カーのDNAはジョンベネの下着から採取されたDNAと一致しなかったため、不起訴に終わる。

ジョン・マーク・カー

  

 2008年7月9日: ボルダー郡のレイシー検事がラムジー家に宛てて送った手紙が公表される。 手紙の中で検察局は、

「新しいDNA証拠によりラムジー家の誰もが完全に嫌疑の外に置かれる」 ことを言明し、また

「恐ろしい損失を被ったラムジー家を今後は犯罪の犠牲者として扱う」 ことを約束。

2009年2月2日: ボルダー警察署長マーク・べックナーとボルダー郡新地方検事スタン・ガーネットは、「ラムジー事件の

捜査を地方検察局からボルダー警察に戻す」 と発表。 また事件を新たに見直すため、FBI、コロラド州警察、コロラド州

検事局の代表者を含む捜査チームを結成することも公表された。

2010年9月: ラムジー事件の見直しのため、警察がジョンベネの兄で23歳になっていたバークに尋問することを

考えていることが明らかになる。

2011年7月21日: ジョン・ラムジー(67歳)再々婚。 相手はラスベガスのデザイナーで二度の離婚歴のある

ヤン・ルーソー(53歳)。 二人の結婚はミシガン州シャーレヴォイにて、内輪で祝われた。

  

2013年10月25日: それまで封印されてきた裁判資料が公開され、1999年10月13日のアレックス・ハンター地区検事による

「大陪審の結論は “誰をも起訴できるだけの証拠は不十分” というものだった」 との印象を与える発表は事実とは異なっていた

ことが明らかになった。 実際には大陪審は、「ラムジー夫妻を “未成年者をその健康を損なわせる、あるいは死に至らしめる状態に

放置した虐待罪” で起訴するべき」 という結論に達していた。 しかしハンター地区検事が起訴状に署名することを拒んだため

起訴には至らなかったのである。 (ハンター検事は2001年に引退。)

2014年1月23日: ジョンベネの遺体が発見されたときラムジー邸にいたフリートとプリシラのホワイト夫妻が

“事件には何ら関わっておらず潔白である” ことが、三度目の公式確認を受ける。

着々と成長するジョンベネちゃんの兄・バーク

  

      

 

2016年

9月12日: 29歳になったバーク・ラムジー、沈黙を破ってトーク番組 Dr. Phil に出演し、妹の殺害に関して

話す。 彼の公開インタビューはこれが初めて。 自らの事件への関与を一切否定し、ジョンベネちゃんはおそらく

「美少女コンテストで彼女に目をつけた小児性愛者に殺害された」 と推測した。

 

終始笑みを絶やさず妹の死の状況を話す際までにこやかだったため視聴者の反発を買い、後からフィル博士が

「にこやかなのは緊張しているときによくあること」 と異例のフォロー。

 

(上左画像のバークの右肩背後に見えている写真はジョンベネちゃんが3歳のときのクリスマスの家族写真みたいだけど、

そうするとここは彼の家!? ジョン・ラムジー氏は近年のインタビューで 「(ジョンベネちゃん殺害の)犯人探しや訴訟などで

資産を使い果たしてしまった」 ようなことを言っているけれど、結婚披露宴会場も豪華そうだったし、彼の言う 「お金がなくなった」

状態は庶民の言うところのそれとはまったく意味合いが違うんだろうな。 彼の目には、私の人生なんて最初から最後まで

「お金がない」 状態なんだろうな。 ・・・と、ヒガミではなく、素直に思う。)


9月18日・19日: ジョンベネ事件を再検証する番組 The Case of: JonBenét Ramsey が米CBSで放映される。

同番組は 「ジョンベネはかっとなった兄バーク(当時9歳)に殺され、両親が息子を守るため外部の人間の犯行に

見せかけるよう工作した」 という結論に達する。

12月28日: バーク・ラムジーの弁護団は、CBS、同番組を制作したクリティカル・コンテントLLC、番組に貢献した7人の

専門家やコンサルタントたちを、名誉毀損で訴える民事訴訟を起こした。 彼らは2億5千万ドルの補償的損害賠償と

5億ドルの懲罰的損害賠償を求めている。

 

 

《  につづく 》

 

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ジョンベネちゃん殺害事件 ② 事件までの経緯 / ラムジー邸外観

2017-01-31 22:47:06 | 事件

《  からのつづき 》

 

1996年12月

13日(金): ラムジー家でクリスマス・パーティーが開かれる。 招待客は60人。

19日(木): ジョンベネちゃんの異母兄ジョン・アンドリュー(20歳)、クリスマスを母親・姉・友人たちと過ごすため

ラムジー家を離れて飛行機でアトランタに戻る。 (ということは、それまでラムジー家に滞在していたらしい。)

20日(金): ジョンが社長を務める Access Graphics 社の収益(売上?)10億ドルを祝うランチョン・パーティーが、

ホテル・ボルデラード(?Hotel Boulderado)で催される。

  

  

 

22日(日)か23日(月): パッツィー、ホリデーを過ごす予定のミシガン州シャーレヴォイの別邸に電話し、屋内を飾りつけるよう指示。

112 Belvedere Ave.   Charlevoix, MI  49720

地理に弱い自分のため、地図上で位置関係を確認。

これだけ離れていたんじゃ、飛行機で飛ぶつもりだったかな? ジョン・ラムジー氏はライセンスを取得し自家用機もお持ちだったそうだから。

 

23日(月): 夕方ラムジー家で子供のためのクリスマス・パーティーが催される。 当時ラムジー家に仕えていた

通いの家政婦によると、パーティーで着る服をめぐってパッツィーとジョンベネちゃんの間で諍いがあったが、

ジョンベネちゃんが半袖ビロードのワンピースを選んで着て一件落着。 子供たちはジンジャーブレッド・ハウス作りを

楽しんだ。 ジンジャーブレッド・ハウスをデコレするジョンベネちゃん(下左・下右)。 招待客は31人を数えた。

  

 

24日(火): ラムジー一家、教会のクリスマス・イブの礼拝に出かけたあと、パスタ・ジェイズ(Pasta Jay's)で食事。

25日(水): クリスマス・デーの朝、プレゼントを開けるジョンベネちゃんと兄のバーク(下左)。 パッツィーは特注で作ってもらった

“そっくり人形” がジョンベネにそれほど喜んでもらえなかったためがっかりする。 ビデオカメラのバッテリーが充電されて

いなかったため、ジョンは代わりに写真を数枚撮影。

「長女のベスの死以来、ビデオや写真の撮影に身が入らなくなりました。 貴重な瞬間は、カメラに気を取られることで簡単に

失われてしまうからです。 将来の楽しみのためその時を保存するよりも、その時を一緒に生きたいと思うようになったのです。」

 

「 “ビデオカメラのバッテリーを充電するのを忘れてしまったんだ。 でもカメラがあるから何枚か写真は撮れる。

(ジョンベネちゃんに)ママのところに行きなさい” と言いました。」

そして撮られた、ジョンベネちゃんの生前最後の一枚。

「開けられたクリスマス・プレゼントが散らばる部屋で、幸福を噛みしめながら子供たちの写真を撮りました。 これらが

私の最も歳若く最も無防備な娘の最後の写真になるなど、その時は知る由もありませんでした。」

 

子供たちがプレゼントに夢中になっている間、両親はキッチンで伝統のクリスマス・ブレックファストを準備。 ジョンは

パンケーキを焼き、パッツィーはテーブルを整えてベーコン、コンビーフ・ハッシュ、ハッシュ・ブラウンなどを料理した。

ジョンベネちゃんは調理台の脇で椅子の上に立ち、パンケーキ生地を注いでお手伝いした。

 

その後ジョンベネちゃんは、近所の友達と遊んだり、クリスマス・プレゼントにもらった新しい自転車を試してみたり。

夕方一家は、友人のフリート&プリシラ・ホワイト夫妻のクリスマス・パーティーに出掛ける。 このときパッツィーは

ジョンベネちゃんに自分と似た服装(赤のタートル・ネックと黒のビロードのズボン)をして欲しかったが、ジョンベネちゃんは

自分で着るものを決めて譲らなかった。 種々のコーヒーを詰め合わせた籠をプレゼントに、一家はホワイト夫妻の家へ。

ホワイト家にはプリシラの両親や姉とその家族なども滞在していた。

ラムジー家からホワイト家までは、せいぜい1.5kmといったところでしょうか。 (1000フィート≒305m)


フリート&プリシラ・ホワイト夫妻

   

 

ジョンベネちゃん(左下)・バーク(左上)・ホワイト家の子供たち

 

翌朝ミシガンの別邸への出発を控えていたため、ラムジー一家は午後8時半頃ホワイト家を辞去した。 途中でウォーカー家と

シュタイン家に寄り、クリスマス・プレゼントを渡し、帰宅。 シュタイン夫妻が、4人そろったラムジー一家を目撃した

最後の人々となった。

 

1996年12月26日(木)

午前5時52分: パッツィー、「娘が誘拐され脅迫状が残されている」 と警察に通報。

幸せを象徴したような家庭の舞台だったラムジー邸は、・・・

  

  

・・・クリスマスの夜を境に犯罪現場となった。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

ウィキによると “15室ある” という(旧)ラムジー邸。 玄関のある側からはそれほど大きく見えませんが、実際は奥行きが深く、

そのうえ奥の半分は手前とはかなり異なるデザインでもあるみたい。 ・・・奥の半分はあとから増築したとか?

 

地上3階・地下1階の計4フロアーもあって、3階が両親のプライベート・フロアー、2階が子供部屋と客間、

1階が生活空間。 地下は洗濯や収納・保管などに使われていたようです。

 

 

 

ラムジー邸の外側を、時計回りに画像で追ってみましょう。 (注: 撮影年月日はバラバラです。)

  

玄関は東向きなので、突き出たように見えるフォーマル・ダイニング・ルームのあるこの側は、南向きということに。

 

フォーマル・ダイニング・ルームの手前の角部屋はサンルームになっており、その隅に外へと通じる扉が見えます。

  

フォーマル・ダイニング・ルームの上は、2階のバルコニーになっています。 そこからの眺め(下右)。

 

南西方向から見たラムジー邸(下左)と、西側から見たフォーマル・ダイニング・ルームとその上のバルコニー(下右)。

ジョンベネちゃんの部屋は、三面鏡の裏側のような形に出っ張っている部分の、2階のバルコニーの奥にあったことになります。

 

フォーマル・ダイニング・ルームの西面には、外へと通じる扉があったようです(上右・下左)。 フォーマル・ダイニング・ルームの西側、

上の間取り図で “テラス” となっていた屋外空間に立って北を向くと、そこにも扉(下右)。 2人の男性が腰をかがめて見ている部分には

鉄格子がはめられており、その下のスペースは壊れた窓とスーツケースが発見された地下の部屋の、窓の外にあたります。 (後述。)

 

両親・ジョンベネちゃん・兄バークの寝室の位置関係です。

 

 “テラス” に立って北を向き、中央奥に見える扉(下左)から屋内に入ってまっすぐ進むと、脅迫状が発見されたという螺旋階段

突き当たることになります。 (後述。)

誰かが苦心してつなげたらしい画像(下右)で見てみると、まったく異なるデザインが繋がった妙ちくりんな家であることがよくわかります。

 

  

テラス(下左)と、家の西側にあるガレージの扉(下右)。

 

  

家の北側の画像は、殺風景なせいかこんなんしか見つかりませんでした。

  

   

(家の東半分は素敵だけど、西半分は味気ないデザインで私はあまり好きじゃないなぁ。 ・・・って、誰も訊いてないか。

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

事件から約半年後の1997年の夏、三人になったラムジー一家はボルダーを離れ、ミシガンの別邸も引き払い、以前住んでいた

ジョージア州アトランタに戻った。 ボルダーの家は1998年2月に投資家に買われ、その後何度か持主を替え、現在に至る。

住所の番地が 755 15th St. から 749 15th St. に変わったのは、2001年6月。 旧ラムジー邸を買い取ることを

考慮中だった当時の賃借人の要請により変更された。

事件当時は家の周囲はオープンだったが、その後塀がめぐらされたもよう。

 

 

 

こんなふうに観光名所と間違えてしまう人が煩わしかったのかもしれない。

   

内装を整えられた家が売りに出されたときの画像が素敵なので、女性週刊誌的好奇心でもってべたべた貼っときます。

  

  

お金って、あるところには、あるんだなぁ・・・

  

  

でもムダに広すぎて、私には落ち着けないような気がする。 この家。 (←負けおしみ

  

  

いずれにせよ (掃除が大変そうだなぁ・・・) とまず思ってしまう私には、不似合いで不必要な豪邸なのでした。

 

 

《  につづく 》

 

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ジョンベネちゃん殺害事件 ① ラムジー家の人々

2017-01-23 16:21:25 | 事件

私は非常勤で病院のヘルスケア・アシスタント(=介護ヘルパー)をしているわけですが、

クリスマスあとに思いがけず仕事が入らず、何と夢の10連休を家でまったり過ごしてしまいました。

ムスメも家にいたことだし、(ま、たまにはいいか~) なんて。

焦ったって仕方ない。 仕事が入らないときは自分ではどうしようもないのだから。

 

そこで、思いがけずできた余暇時間を利用して、すでに見たオットーが 「面白かったよ」 と教えてくれた動画を見ることに。

有名なジョンベネ殺害事件を検証し犯人を推理する番組です。

ほんと、なかなか面白かったので、これからしばらくジョンベネちゃん事件についてつらつら書いていこうと思います。

少しずつ書き進めていって、しょっちゅう加筆や訂正に戻って、次数制限がオーバーしたら一旦区切って次の部に続く。

という形式をとりますので、どうぞよろしく。

 

ジョンベネちゃんといえば、やはり何といってもきらびやかなイメージがつきまといますよね。

何せたった6歳にして、美少女コンテストの常連で何度も優勝経験もあったのですから。

う~ん。 たしかにかわいい子です。

  

ただ私、こんな幼い子にお化粧や大人のような服装をさせるのには絶対反対! たとえ本人がこういうことが大好きで積極的に参加していたとしても。

お化粧なんて、大人っぽい服装なんて、15歳以上からで十分だと私は思う。 そんなに急いで大人の真似しなくたっていいの。

どうせ嫌でも歳は取るんだから! 幼いうち若いうちは、ありのままで十分かわいいんだから!

お化粧なんて、どうせ嫌でもしなくちゃならないときが来るんだから! (そう言う私はしてませんが・・・世間の迷惑をかえりみず。

  

ジョンベネちゃん本人はこういうことが大好きだったという証言はあったけれど、それでもなぁ・・・・・

歌やダンスのレッスンや衣装の仮縫いや試着(お決まりの裁縫師がいたそう)やその他、私には思いつかない

あれこれに、貴重な子供時代の時間の多くが取られてしまったのではないかと思うと・・・・・

  

ミス・アメリカの夢を娘に託すことを決めた母親のパッツィーさんがジョンベネちゃんを積極的に後押ししていたようだけど、

なにも娘の年齢が一ケタのときから始めなくてもなぁ、と思う。 でもきっとアメリカではそれが普通なんだろう。

スタートで遅れをとりたくなかったら、幼児のうちから参加させるのが当たり前なんだろう。

 

・・・下左の画像はパッツィーさんが間に入っているからまだいいとして、下右は何?!

9歳と6歳の兄妹に、なに艶っぽいポーズと目つきさせてるの!?

 

これは私には、(キモチワルイ)というレベルなんですが・・・


*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

《 ここよりジョンベネちゃん以外は敬称略 》

 

ジョンベネちゃんの家族。

 

父親のジョン・ベネット・ラムジーは1943年12月7日生まれ。 (よって事件当時は53歳になったばかり。) ミシガン州立大学卒業。

軍務を経て1989年に Advanced Product Group 社を設立。 この会社は他の2社と合併して Access Graphics 社となり、

ジョンは社長に就任する。 1996年に同社は10億ドルを超える収益を上げ、ジョン・ラムジーは同社の本社がありラムジー一家が

在住していた都市でもあるコロラド州ボルダーの商工会議所から、『今年度の最優秀起業家』 に選ばれた。

私生活では1966年に結婚し3人の子供に恵まれたが、1978年に離婚。 1980年に13歳年下のパッツィー・プァーと再婚し、

2人の子供に恵まれる。 1992年に最初の妻との間に生まれた長女のエリザベス(1969-92年)を交通事故で亡くす。

次女メリンダ(1972年-)と長男ジョン・アンドリュー(1976年-)は健在。

ジョンベネちゃんはファースト・ネーム(JonBenét)に父親のファースト・ネームとミドル・ネームの混成語、ミドル・ネームに

母親のファースト・ネームをもらっている。

 

母親のパトリシア “パッツィー” ・プァーは1956年12月29日生まれ。 (よって事件発覚当日は40歳になる3日前。)

ウエストバージニア大学でジャーナリズムを学び、学士号を授与されて1978年に卒業。

1977年度のミス・ウエストバージニアの栄冠に輝いた。

  

  

 1980年11月5日、24歳の誕生日を翌月に控えてジョン・ラムジーと結婚。

1987年1月27日、ジョンベネの兄となる長男バークが誕生した。

 

                     ジョンとパッツィー          /      ジョン、パッツィーとエリザベス(1988年撮影)

 

 

1990年8月6日、ジョンベネ・パトリシア・ラムジーちゃん誕生。

翌年11月、一家は Advanced Product Group 社が本社を構えるコロラド州ボルダーに引越した。

  

ジョンベネちゃんの画像をググってみたら、美少女コンテストでないものもたくさん出てきました。 普通の女の子してるジョンベネちゃんが

新鮮でウレシイので、画像をたくさん貼っちゃいます。 (順番は適当です。 それと、プロのカメラマンによる写真も混じっています。)

  

  

  

  下は1993年、ジョンベネちゃん3歳4ヶ月のときのクリスマスだそうです。

 

下中は1994年春の撮影。 前年7月に卵巣癌と診断され治療のため髪を失ったパッツィーさんにキスするジョンベネちゃん。

  

  

ジョンさん、多忙の身だろうに、家族との時間を大切にしてできるだけいいお父さんしていた様子がうかがえます。

  

  

下中は、ラムジー一家+ジョンの最初の妻との間にできた子供たち(次女メリンダと長男ジョン・アンドリュー)ではないかと。

  

犬が欲しかったジョンベネちゃんは1994年の夏(誕生日かな?)に犬を贈られ、ジャックと名づけてとてもかわいがっていたそうです。

  

下右は、事件“発覚”後にラムジー夫妻の要望に応じて駆けつけ(て、その結果犯罪現場を撹乱してしまっ)た友人のホワイト夫妻とその子供たちと。

  

こうして画像でジョンベネちゃんの短かった一生を振り返ってみると、大富豪のお嬢様として生まれて何不自由なく育っていたことと

容姿と才能に恵まれて美少女コンテストの常連であったことを除けば、両親に愛され守られて健やかに成長しつつあった

ごく普通の女の子だったことが実感できます。

(もちろん大富豪のお嬢様でなおかつ美少女だったというのはそれはそれでかなりすごいことですが、

別に珍しいことではないかな、と。 特にアメリカでは。)

 

下は1994年7月撮影の集合写真だそうです。 左側にラムジー一家+ジョンベネちゃんの異母兄姉。

右側はパッツィーさんの側の親類だそうだから、たぶんご両親と姉妹たちかと。

 

異母姉・異母兄・兄のバークとジョンベネちゃん  /  ジョンベネちゃん一家+異母姉兄

    

 

もう一人いた異母姉のエリザベスさんは、1992年1月8日に交通事故で亡くなりました。

   

 恋人とシカゴの美術館に行く途中、高速道路を走行中にトラックに横から衝突されたそうです。

享年22歳でした。

 

 

《  につづく 》

 

 

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類稀なる一女性の訃報

2017-01-15 23:32:23 | ひと

今月5日、ジル・サワード(51歳)の訃報がニュースで伝えられた(敬称略)。

ずっと昔オットーがちょこっと話してくれたことのある、驚くべき女性。 訃報を機会に、彼女のことを調べてみた。

ジルは1965年1月14日、牧師マイケル・サワード(1932-2015)を父に誕生。 父親がロンドン・イーリングの聖メアリー教会に着任したため、1978年から一家(両親とジルを含めて4人兄弟)は同教会の牧師館に住むようになった。

ジルとデイヴィッド  /  ジルの父親

     

1986年3月6日の晩(昼下がりとする情報源も)。 父親は書斎で礼拝での説教の準備をし、ジル(当時21歳)は恋人のデイヴィッド・カー(同21歳)と一緒に居間でテレビを見ていた。 そこに突然覆面・武装した4人組の強盗が押し入ってきた。 彼等はジルとデイヴィッドを書斎に追い込み、現金収納庫を要求した。 それが空だとわかると、4人組のうち2人は処女だったジルにナイフを突きつけて2階に引き摺っていき、代わる代わる何度も彼女の口・膣・肛門を暴力的にレイプした。 2人のうち1人はとくに乱暴で、ナイフをちらつかせながら 「肛門からこれを突き刺して子供ができない体にしてやる」 と脅しさえした。 レイプされている間、ジルには縛り上げられた父親とデイヴィッドが残る2人から激しい暴行を受けているのが聞こえた。 やがて2人はジルを縄跳びの紐で縛り上げ、寝室の床に置き去りにした。 クリケットのバットで散々打ちのめされ意識を失っていた父親とデイヴィッドは頭蓋骨を骨折する重傷を負い、デイヴィッドは片耳の聴力を失った。

事件の舞台となった牧師館

 

性犯罪被害者は匿名であるはずだったが、4日後に目の部分だけを隠された彼女の画像が、自宅の画像とともに大衆紙 “サン” にすっぱ抜かれた。 「レイプ被害者は容疑者が告発されてからのみ匿名でいる権利を得る」 というのが、同紙の編集者の言い逃れだった。 「他のレイプ被害者のためにも発言するよう」 女性警察官に励まされ、ジルは自らの身元を公にした。 牧師館=神の家におけるレイプ事件ということで、同事件は海を越えて報道され、 『イーリング牧師館のレイプ事件』 として有名になった。

ジルが表面上は沈着さを保ち取り乱した様子を見せなかったためだろう。 翌年の裁判において、ジョン・レオナード判事はジルが受けた害は 『大きなトラウマではない』 と発言。 4人組のリーダーだったがレイプには加わらなかったロバート・ホースクロフト(事件当時34歳)には加重強盗と暴行で14年の刑が、ジルをレイプした2人のうちより暴力的だったマーティン・マッコール(同22歳)にはレイプで5年・加重強盗で5年の刑が、クリストファー・バーン(同22歳)にはレイプで3年・加重強盗と暴行で5年の刑が宣告された。 レイプには加わらなかったもう一人のアンドリュー・バーン(クリストファー・バーンの兄)は警察に尋問される前に留置所で別の囚人に襲撃され、昏睡状態のまま4年後に29歳で死亡した。

マーティン・マッコール

 

クリストファー・バーン / 犯行に使われたナイフと、クリケット・バット(ジルの父親のもの)

  

軽すぎた判決はサッチャー首相と野党党首ニール・キノックを含む当時の政治家たちに批判され、「女性の体よりも資産の方が価値があるとみなすものだ」 と大衆からも激しく非難された。 もちろんジルも納得がいかず苦情を述べた。 その結果1988年に法が改正され、軽すぎると考えられる刑には被害者が控訴できるようになった。 また容疑者が告発される前でも、レイプ被害者の匿名が守られるようになった。

「判事の 『大きなトラウマではない』 という言葉で、私は彼が、私が受けた苦難について無知であり、レイプがどんなものなのか全くわかっていないんだと思い知ったの。 怒りで一杯になったわ、だって彼のように権威ある地位にある人は、もっとましな知識を備えていると思っていたから。」

    

事件が起きたときに付き合っていたデイヴィッド・カーにとって、事件は深いトラウマになった。 彼は事件後ジルにプロポーズしジルはそれを受け入れたものの、事件を引き摺って苦しむ彼と信仰を支えに事件から前に進もうとしていたジルの間に溝が深まり、数ヵ月後にジルから別れを告げた。 レイプ被害者として有名になってしまったことから、ジルは自分と結婚したいなどという男は現れないだろうと覚悟した。 そのためギャリー・ハクスリーにプロポーズされたときは、深く考えずに結婚してしまった。 1988年のことだった。 ロンドンからウエスト・ミッドランズに移り、ジルはバーミンガムの学校で教師の補佐を務めた。 しかし4年後に二人の結婚生活は終わりを告げた。

ギャリーとの結婚式の日

 

その後ジルはジャーナリストのギャヴィン・ドレイクと出会い、1993年6月に2人は結婚。 3人の息子に恵まれた。

両親、ギャヴィンジル

  

1990年にジルは、友人の助けを借りて自らの体験を綴った Rape: My Story という本を著した。その中で彼女は、悪夢やフラッシュバックに苦しみ自殺を考えたこと、またレイプによって妊娠していたら・・・?と悩み苦しんだことを明かした。 しかし堕胎には反対の立場をとる彼女は、モーニング・アフター・ピル(緊急避妊薬)の服用を拒んだ。 本を著すことにしたのは 「最悪の苦難に遭っても、それを乗り越えて生き続けることは可能だと人々に知って欲しかった」 からだ。 さらに彼女は、家に押し入ってきた男たちを赦したことも明らかにした。 “人生は短すぎて、すぐ先の未来に何が起こるか誰も知らない。” “赦すことは自由を与えてくれる。 過去に縛られることなく先へと歩んでいく自由を。”

  

彼女はさらにBBCテレビのドキュメンタリー番組にも出演し、“レイプ被害者の匿名権を放棄した最初のイギリス女性” となった。 このドキュメンタリーは、レイプ被害者が被るトラウマについて判事たちが学ぶ際の教材となった。 1990年以降ジルは、DVと性的暴行の被害者をサポートし、性的暴力犯罪に携わる警察関係者のトレーニングの向上に協力し、レイプと性的暴行に関して国会を含む公的な場で関与するなどして、犯罪(特に性犯罪とDV)被害者への対応改善と尊厳の保護を求めて活動してきた。 ジルは人々に、レイプされた事実ではなくレイプされたことに対する自分の反応をもって自分を定義して欲しいと願い、それを成功させたのである。

 1993年に引退したレオナード判事は、あの判決を 「汚点だ――疑いの余地はない」 と述べて、ジルに公式に謝罪した。 ジルのトラウマが 「大きなものではない」 と発言してしまったこと、そして彼女をレイプした2人に軽すぎる刑を与えてしまったことを、最期まで後悔したという。 2002年に76歳で死去。

レオナード  判事

ジルは1994年にレイプ被害者とその家族のためのサポート・グループを結成し、またレイプ容疑者が被害者を反対尋問できないように法を改正する運動にも協力した。 1997年にはTVインタビューとデイリー・メイル紙において 「デート・レイプはそれ以外のレイプよりは軽い犯罪行為として扱われるべき」 だし、「女性の衣類の身につけ方は犯罪行為の誘発剤となる可能性がある」 と発言して物議を醸した。 「被害者に非があったと言っているわけではないの。 ただ、被害者は自分を守るために何もしなかったということ。」 フェミニスト達はこれに対して否定的に反応した。

4人組のリーダーで14年の刑を宣告されたロバート・ホースクロフトは、10年後の1996年に釈放された。 ジルは彼の求めに応じて、事件から12年後の1998年に彼と会い、「あなたは私を傷つけなかったのだから謝る必要はない」 と彼を赦した。 ホースクロフトによると、あの日彼には決して、誰も傷つけるつもりはなかった。 しかしあの日のマーティン・マッコールは 「まるで動物だった。 止めに入ったら自分を殺して被害者三人も皆殺しにしかねないと思い、何もできなかった」 と語った。

ホースクロフトとジル

ジルをレイプした2人のうちでより暴力的だったマーティン・マッコールは5年8ヶ月後に釈放され、警備員としての職を得、BBCでも勤務したという。 ジルは、刑務所にいる間に 「殺してやる」 と自分を脅してきたマッコールには、二度と会わない決心をしていた。 ジルをレイプしたもう一人の男クリストファー・バーンは釈放されたあと1993年に結婚し、娘に恵まれた。 しかし彼の妻は彼の過去を知ると彼の元を去り、やがて自殺したという。

2006年のインタビューで、ジルは語った。 「レイプは人生を変えるわ。 二度と以前と同じ自分には戻れない。 もちろん私だって、憎悪と復讐心で一杯でいるのもなかなか悪くないと時には思ったわ。 でもそうすることはバリアを生み出してしまい、結局最後に傷つくのは自分になると思うの。 赦すことが実際には自らを自由にすることになる。 キリスト信仰がなかったら、私は今日ここにこうしていなかったでしょうね。 信仰が私を支えてくれたの。」

  

 

2009年には、『無罪になった人々のDNAはデータベースから6年後に、また重犯罪の場合には12年後に、削除されなければならない』 とする欧州人権法廷の決定に反対してキャンペーンを展開。 2015年には 『レイプ容疑者の身元は告発されるまでは伏せられるべき』 という案に、 「被害者に対する侮辱であり、本当に落胆させられる動き」 だとして公に反対した。

信仰を支えに犯人たちを赦して性犯罪被害者のための活動家になったジルとは対照的に、事件当時ジルの恋人だったデイヴィッド・カーは事件が大きなトラウマとなり、犯人たちを赦すことができず 「できることなら殺してやりたい」 と思い続けた。 屋根葺き業を自営し、パートナーとの間に二人の子供も生まれたが、PTSD双極性障害のため12年前から働いていない。 彼はPTSDはもちろんのこと、双極性障害も、あのときクリケット・バットで執拗に殴られたため発症したと信じている。 友人女性に嫌がらせをしているという相手を脅したかどで投獄もされた。 彼は、もしあの事件が起きなかったらジルと結婚し、平凡な幸せな家庭を築いていただろうと思う。 「誰だって当然、愛する人を守りたい。 でも自分にはそれができなかった・・・」

ジルとデイヴィッドはイーリングのYMCAで出会った。 デイヴィッドはそこで警備員、ジルは世話係を務めていた。 スコットランドの労働者階級家庭出身のデイヴィッドは、仕事を探すためロンドンに引越してきたところで、一方ジルは中産階級の牧師の娘だった。 しかし2人は出会って間もなく意気投合し、交際を始めて3ヶ月後には一緒の未来も描き始めていた。 ジルは結婚するまでは処女でいたいと彼に言い、彼はジルの意思を尊重した。 事件の日、マッコールがジルにしようとしていることを悟ったデイヴィッドは戦慄し、マッコールに 「彼女を傷つけないでくれ、愛しているんだ。 彼女に触れないでくれ!」 と懇願したという。 彼によると、ジルは暴力的にレイプされている間も法廷でも決して取り乱すことはなく、彼自身とは対照的だった。

デイヴィッド・  カー

「ジルは自分よりずっと勇敢だった。 彼女の代わりに自分が死ねばよかったと思う。」

 

ジルは今月3日に自宅で脳出血を起こして病院に救急搬送され、2日後に息を引き取った。 本人の生前の希望により、ジルは “最後の最後まで人々を助けられるよう” 臓器提供したという。 遺族は 「私たちの素晴らしい妻であり母であり妹だったジルが最後まで人々を助けられたということは、私たち家族にとって大きな慰めになります」 とのコメントを発表した。 3人の息子たちは、現在22歳・20歳・18歳になっている。

 

 

昨日がジルさんの52歳の誕生日でした。 ご主人によると 「近年ずっとそうしてきたように(ジルの誕生日には)家族でチャイニーズ・レストランに行きます」 ということだったから、たぶんそうしたことでしょう。

恐怖と苦痛に満ちた体験を、驚くべき勇気でもってポジティブなものに昇華させたジルさん。 51歳で逝ってしまうなんて、早すぎました。

 

ジル・サワードさんのご冥福をお祈りします・・・

 

 

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“No Trousers on the Tube Day”

2017-01-09 22:49:07 | イベント

昨日8日(日曜日)は、“地下鉄ノー・ズボン・デー” 。

ロンドンの地下鉄でも、このイベントに参加する勇気ある人々が数百人いたそうだ。

 

『下半身にズボンを穿かない以外は普通の冬の格好をしていつも通りに地下鉄に乗り、普段通りに振る舞う』

というのが趣旨。

 

勇敢なのは若者だけじゃなかった! おじ様(下右)エライ!!  (って、私と同年代だったりして

 

私は参加する勇気はなかっただろうけど、実際見てみたかった。 思わず笑みがこぼれただろうな。   ロンドン近くに住んでいなくて残念。

 

ワンコ(下右)が心なしか (目のやり場に困るんですがぁ~) と訴えているように見えるのは気のせい?

 

殺伐とした世の中だから、こういう悪気のない、笑みを誘うだけのジョークはいいと思う。

 

 

去年も話題になっていたこの “地下鉄ノー・ズボン・デー” だけど、詳しくは知らなかったので調べてみた。

事の起こりは2002年

仕掛け人は、ニューヨークで2001年夏に結成された Improv Everywhere というイタズラ好き集団。

見知らぬ人々を害のないイタズラで驚かせ笑わせることを目的とする。

最初の No Pants Subway Ride (←本家は米語なので) は、2002年の1月5日。

ズボンを履いていない7人の男性が、連続する7つの地下鉄駅から一人ずつ乗車した。

イタズラ参加者は、冬用のコート、防止、マフラー、手袋などを身につけ、お互いを知らないフリをする。

唯一普通と違うのは、ズボンをはいていないことだけ。

なぜズボンをはいていないのか訊かれたら、「忘れたんだ」 と答えることになっていた。

写真は撮られなかったが、隠しカメラで乗客の一女性の反応が撮影された。

2003年、2回目のノー・パンツ・サブウェイ・ライドには、女性数人を含む約30名が参加。 中にはビジネスマン、観光客などを 「演じる」 参加者もいた。 イタズラに気づいた車掌に 「ここは子供の遊び場じゃないぞ!」 と怒鳴られた。

その後少しずつ参加者を増やしながらイベントは続く。

2006年、5回目のときは警官に部分的に中止され、参加者8人が手錠をかけられ連行された。 が、一ヵ月後に不起訴処分に。 ニューヨークで公共の場を下着姿で歩くのは違法ではないからだ。 この年の参加者数は約150名に増えていた。

2008年、7回目の参加者数は約900名で、しかも初めて男女ほぼ同数になった。 ニューヨーク以外の都市にも飛び火し、バルティモア、ボストン、シカゴ、ポートランド、サンフランシスコ、ソルト・レイク・シティー、トロント、ワシントンDC、オーストラリアのアデレイドでも行われた。

2009年、8回目はニューヨークのみで1200名が参加。 世界の21都市でも1000人以上が参加した。 ニューヨークでは初めて、吹雪の日の開催となった。

2010年、9回目は世界の44都市で5000人以上が参加。 ニューヨークだけでも3000人以上が参加した。

2012年、11回目は27ヶ国59都市で数万人、ニューヨークでは4000人近くが参加。 イスタンブールでも参加者が出たが、逮捕されてしまった。

2015年、14回目のときはラトビアの開催が当局に禁止されかけたが、メディアに報じられたことで無事開催にこぎつけた。

2016年、15回目。 ニューヨークは温暖な雨模様の日になった。 東京()やエルサレムでも開催された。 モスクワでは開催責任者が数日後に警察で尋問されたが、起訴されることなく釈放された。

 

 

・・・とここまで書いてきて日本語ウィキで調べたら、ちゃんともうページがあったんじゃない! 

パンツを穿かずに地下鉄に乗ろうよ運動

でも日本で言うパンツはアメリカで言うパンツと違うから、これは

『ズボンを穿かずに地下鉄に乗ろうよ運動』 の方がいいのでは!?

イギリスのオンライン・ニュースではちゃんとイギリス風に、この記事のタイトルのように言っているし。

・・・東京でも昨日、パンツ姿の乗客が地下鉄駅を闊歩したのかな?

 

最初の No Pants Subway Ride に話は戻るけれど、いきなりズボンなしの男性が乗り込んできたら、誰だってビックリすると思う。

しかも次の駅に止まったら、また一人。 盗撮されていた女性の不安げな表情、大いに頷けるわ~。 (その上読んでる本が RAPE だし!)

一人目を目にして落ち着かなげな表情を見せ(下左)、二人目のときは警戒心露わ(下右)。

 

二人目が近寄ってきたときは、思わず本をしまって臨戦態勢に(下左)。 でも向かい側の隠しカメラマンの隣に座っていた2人のデンマーク人男性乗客が笑い出した(下下左)ので、彼女もつられて笑顔になり、リラックスできたそうだ。

 

このビデオはしばらく放置されていたが、仕掛け人が5年後に YouTube に投稿。 すると例の女性の友人が彼女であることに気づき、彼女に教え、彼女が 「これ、私よ!」 とコメントしたそうです。 それまでの5年間、仕掛け人は彼女がどこの誰だったのか知らず、彼女はあの日のあれ(ノーズボンの乗客)はいったい何だったのか知らずだったわけで。

 

5年前のナゾが解けたケイトさんは、 「見て見て! 私インターネットのスターなんだから!!」 と友達に連絡しまくったそうです。

という、ノーズボン・デ―のこぼれ話でした。

 

 

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ハイジャックされたトラック運転手の葬儀

2017-01-07 22:25:18 | ひと

先月29日(木曜日)。

ベルリンのトラック・テロ事件(前編/後編)最初の犠牲者となったポーランド人トラック運転手

ウーカシュ・ウルバン氏(?Łukasz Urban)の葬儀が執り行われた。

ポーランド北西部、ドイツとの国境に近いバーニエ(?Banie)村。

教会に到着する棺。 カトリックの葬儀のしきたりはよくわからない。 棺はそれまで自宅に安置されていたのだろうか。

それとも葬儀屋の遺体安置所とか?

 

 

遺族にお悔やみを述べるポーランド大統領アンジェイ・ドゥダ

ウルバン氏の奥さんと17歳だという息子さん(下左)、ウルバン氏のお母さん(下右)。

 

ベルリンから帰宅すれば仕事納めで、クリスマスの準備に入る予定だったというウルバン氏。

 

クリスマスも新年も迎えることなくこの世を去るなど、誰が想像できたろう。

母君も、まさか息子さんに先立たれるとは思いもしなかったに違いない。

 

 

その後の検死の結果、ウルバン氏はテロがあった日、現地時間で午後4時半から5時半の間に頭部を撃たれたと発表された。

よってテロが実行されたときには、「まだ絶命はしていなかった可能性はあるものの、意識はなかったはず」 とのこと。

つまりトラックが左に折れて停止したため犠牲者が増えずに済んだのは、

単純にテロリストの未熟な腕のおかげだったということになる。

 

それでもウルバン氏には、深い同情を禁じ得ない。 ケバブ屋の監視カメラ映像(下右)が、生前最後の姿の記録になるなんて。

そこを出て数時間後には刺され、撃たれていたなんて。

大型トラックでさえあれば、どのトラック、誰のトラックでも良かった。 つまり無差別襲撃の対象になったわけだ。

そのうえ自分のトラックを無差別大量殺人の凶器にされたのだから、彼の無念は測り知れない。

 

 教会での葬儀を終え、墓地へと移動する棺。

 

 

弔意を表するため、棺につづいて歩く大勢の人々。

 

棺に花を供える奥さん。

 

 

ウルバン氏のご冥福をお祈りします。・・・・・

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *

 

 葬儀のあとポーランドのトラック野郎たちは、夕暮れの高速道路を帰途についたそうだ。

コンボイを組んで、弔意を表しながら。

 

 

 

そして、当地イギリスはウエスト・ヨークシャー

ウルバン氏の不運に深い同情をおぼえた同業者のデイヴィッド・ダンカンは、

ウルバン氏の遺族のための募金を立ち上げた。 総額はすでに目標額を達成し、20万ポンドに迫っている。

 

不幸な出来事、悲劇的な出来事からこのようなポジティブな行為が発生すると、

(人間もまだ捨てたもんじゃないな) と慰められます。

ダンカンさん、上出来!

 

 

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新年明けた!

2017-01-01 20:07:25 | 日記

新年明けましておめでとうございます。

今年も拙ブログをなにとぞよろしくお願い申し上げます。 

 

・・・と、とりあえずはご挨拶してみるも、テンションの低い我家には盛り上がりは皆無。 

イギリス――スコットランドはともかくイングランド――には新年を迎えるにあたっても特別な食べ物があるわけじゃなし。

年越しそばと紅白/ゆく年くる年は、日本の食料品店から材料を取り寄せて年越しそばを作り、

衛星放送を入れて日本のテレビ番組を見られるようにすれば実現するのでしょうが。

近年テレビ離れが著しい私には有料の衛星放送は必要ないし、

誰かが作ってくれるならともかく自分で作るほど年越しそばに執着があるわけでもなし。

家族そろって下戸なので、年明けとともにカンパーイ! することにも興味ない。

我家はいつも通り地味~に夜更かしし、新年の到来とともに始まった花火がおさまるのを待ち、床に入ったのでした。

 

私はデイリー・メールから画像をよく拝借するのですが、新年到来のロンドンの画像は、過去とおんなじ。

あまりにも見飽きた感があったので、今回はデイリー・メールが紹介した東京の様子をUPしてみます。

 最初は、渋谷のスクランブル交差点での新年へのカウントダウンの模様。

ハチ公像のそばですよね。 外国の方も混じって、すごい熱気!

 これらの小道具、甥っ子たちに買ってあげたいなぁ。

(キレイな人、スタイルも私よりいい) と思ったら・・・ 男性!?   おみそれしましたぁ~。

あ、右端の方ですよ、左端じゃなくて。

 着物姿の若い女性。 皆さんよくお似合いで素敵です

 明治神宮だそうだけど、まだこれほど空いてるってことは、かなりの早朝?

 

日本はイギリスより9時間も早いから、イギリスの大晦日の午後3時には年が明けちゃうんですよね。

以下、グリニッジ標準時(GMT)で何日の何時にどの国が2017年を迎えたかの一覧です。

 

 31日(土曜日) 10:00時 - トンガサモアクリスマス島キリバス

13:00時 - オーストラリアの大部分

15:00時 - 日本、韓国、ロシアの一部、インドネシア

18:30時 - インド、スリランカ

20:00時 - アゼルバイジャンアルメニアを含む8ヶ国、アラブ首長国連邦オマーンセーシェル共和国

 22:00時 - ギリシャ、南アフリカシリア、フィンランド、ラトビア、他26ヶ国

23:00時 - ドイツ、ノルウェー、フランス、イタリア、チュニジア、他39ヶ国

1月1日(日曜日) 00:00時 - イギリス、アイルランド、モロッコガーナ、他23ヶ国

04:00時 - カナダの小さな地域、ボリビアベネズエラバルバドス、他26ヶ国

06:00時 - アメリカ合衆国の大部分と中央アメリカ

09:00時 - アラスカ州、フランス領ポリネシアの一部地域

12:00時 - 米国の離れ小島の大部分

 

・・・というのはニュース記事からの受け売りですが、そっか、新年て26時間もかけてようやく明け終えるのかぁ。

今年の日本の元旦は、好天に恵まれてダイヤモンド富士まで見られたそうですが、

イギリスの少なくとも我が町ダーズリーでは、一日どんより空から小雨がそぼ降る冴えない天気でした。

おかげで窓から写真を撮る気にもならず。

 

 おせち料理のような特別な食べものもないイギリスの元日。

我家の夕飯は、ムスメのリクエストによりおにぎらずにしました。

 

そしてもうすぐ、午後8時半からは、シャーロックの新シリーズを見ます!!

 

 

前シリーズの終わり方が私好みでなかったので待ち焦がれていたというほどではないにせよ、

カンバーバッチの高慢で尊大で無礼なホームズがまた見られるのがウレシイ

でも早口についていけない ので、字幕つきで録画しながら見るとしますわ。

第4シリーズも3話きりなので、すぐ終わっちゃうんですけどね。

前シリーズから2・・・ 3年も!  待たされたというのにぃ~!

(途中でクリスマス・スペシャルはあったものの。)

 

ということで、今夜はこれにてシツレイ。
 

 

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