ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

No more 認知症病棟! & 訪問介護

2016-08-27 17:29:05 | 仕事

危険や危害にさらされる可能性が高い仕事って何だろう?

 真先に思いつくのは警察官。 それから消防士。 山岳・湾岸救助隊や自衛隊員も、人命救助のため

自らを危険にさらすことがあるだろう。

顧客や顧客のトラブル相手に逆恨みされた場合、弁護士さんとかも危害を加えられそう。

恨みを持たれた政治家とか裁判官・検察官とか司法関係の人も。

そして・・・ メンタルヘルスの看護・介護スタッフ!

実際2年前には、私と同じくヘルスケア・アシスタントをしていた女性が刺殺されたという戦慄のニュースが入ったし。

なぜこんなことに思いを巡らせたかというと・・・・・


更年期障害?のせいか、去年から勤労意欲が失せ気味だったワタクシ。

今年1月からは早番(7:00-14:50)は一切やめて遅番(13:40-21:30)オンリーにしていたけれど(No more 早番!)、

あのあと認知症病棟ではもうどうしようもなく働きたくなくなってしまったので、4月からは、

認知症以外の精神疾患を患う患者さんをお世話する残りの2病棟でしか働かないことにした。


認知症病棟での仕事前はどよ~んと気分が沈んでしまって。

(今日も何もされずに無事帰宅できるといいけど・・・・・) なんて心配をしながら出勤するのが嫌になってしまって。

認知症が進んで本来のその人が完全に失われてしまった患者さんを見るのが辛くて。

そんな心境で仕事に、患者さんの介護に行くのは、患者さんに対しても失礼だと思ったから。


患者さんのもともとの人格・性格を完全に変えてしまう認知症は、精神病だとつくづく思う。

今年の初めにまだ70歳の体格のいい男性が認知症で入院してきたけれど、

不穏状態になると壁や家具に頭をぶつけたり椅子のないところに座ろうとしたりして危ないので、

1対1での見守りが必要になった。 危ないとき方向転換を促したり椅子へと誘導したりするためだが、

あいにく私は151cmのチビ。 自分より頭2つ分背が高い男性患者さんに攻撃的になられたらと思うと、

最近の70歳はまだまだ元気なので、正直こわい。

そりゃアラームは携帯させてもらえるけど、他のスタッフが駆けつけてくる前に何かされることは十分有り得る。

でも1対1の見守りは交代でしなきゃならないし・・・・・


そんなこんなで、認知症病棟ではもう働かないことにした。

そうスタッフバンク (非常勤スタッフを采配するオフィス) に明言したら、あらまぁスッキリ!

もうあの環境に戻らなくていいと思ったら、心が軽く明るくなった。

当初は数ヶ月認知症病棟から離れてみるだけのつもりだったけど、この状態があまりにも心地いいので、

今はもう二度と戻るつもりはない。


認知症病棟では働かないという非常勤スタッフは、他にもいる。

そして認知症病棟は、常時スタッフ不足につき、一番非常勤スタッフが必要とされる病棟。

私の場合、他の2病棟では早番もやらず遅番のみ希望なので、そうするとやはり、思うようにシフトが入らなくなってきた。

それで以前から興味をもっていた、訪問介護をやってみることに。

私ももう50代半ばだし、これからは自分の心身の健康にもこれまで以上に気をつけなきゃならない。

そこで、自分が一番大事な私は考えた

仕事内容は大きくは変わらないけれど、訪問介護なら認知症を患う被介護者は少ないだろう。

たとえ認知症と診断されていても、皆さん自宅で生活できているのだから、

かなり進行していて不穏行動があるような人は、まずいないだろう。 ・・・と。


病院での非常勤の仕事が減り出したのが6月。 でも6月7月は骨休めのつもりで自宅でのんびりしちゃった。

ちょうどペーパーフラワーづくりに凝り出していたところだったし。

そうするうちにわりと時給のいい訪問介護者の求人広告を見つけたので、

7月に面接に行って、内定をもらい、書類をやりとりし、犯罪前歴証明書を申請し、それが届いたので提出に行き、

ようやく働き始められたのが今月半ば。 それでここ2週間ほどは急に忙しくなり、ばたばたしてました。

まぁ最初の数週間は、 shadowing (実際に訪問介護するスタッフに見習いとして付き添い仕事を覚える) するだけなんだけど。


あ、病院での非常勤ヘルスケア・アシスタントも辞めずに続けますよ。

月2日以上働けば雇用を継続できるそうなので。

訪問介護が性に合わなくて辞めても、まだそっちがあると思えばちょっぴり心強いし。

訪問介護は午前7時スタート。 イギリスのお年寄りは早起きだなー!

私は仕事がない日は少なくとも8時半までは寝ていたいけどな。


訪問介護の雇用契約は、週20時間でスタートすることにした。 遅番のみ希望とか、狭~い山・・・丘道の先にある家は

運転に自信がないから行きたくないとか、結構希望をきいてくれるそうだ。 今は季節がいいので早番も

やってみて、どうしても嫌になったら遅番だけにしてもらおうかと思う。


早朝の、丘の上の平地。 8月24日の午前6時40分頃でした。

道路脇に並べられた木の幹は、駐車させないため。 地面が荒らされると冬場はドロドログチャグチャになってしまうからだそう。

ここには春先から10月まで、牛が放牧されます。 牛優先なので、牛が道路にさまよい込んだらどいてくれるのを辛抱強く待たねばなりません。

訪問介護のオフィスは、病院通いとは全然別方向。 なのでこれまであまり通る機会のなかった隣村ユーリーUley)を通って行きます。

同じ日の帰り道、あまりにも上天気だったのでユーリーで車を降り、皇太子も訪問した村で唯一のお店の写真を撮りました。

下画像の右下の の先に面白いものがあったので、あとで紹介します。

 

 

矢印の先の家にあったのは、面白い門柱でした。

 

ガソリンのポンプ?!

 

道路からは段差があってここにガソリンスタンドがあったとは思えないから、ポンプ好きの人がわざわざレトロなのを買ってきて、

門柱代わりにすえたものかと思います。 いいなぁ~これ。 家の目印にもなるし。

ユニーク!!    


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イアン・ハントリーの家族 (後編)

2016-08-24 22:03:48 | 事件

《 イアン・ハントリーの家族 (前編) からのつづき 》

 

 ハントリーと離婚後彼の弟ウェインと2000年7月に結婚したクレア・エヴァンズは、警察がハントリーを逮捕にきたとき、

彼を含む家族と一緒にいた。 ハントリー逮捕時の彼女の回想。

 

「尋問から解放されたイアンを、ケヴィン(父親)とウェインが迎えに行ってケヴィンの家に連れてきたの。 リンダ(母親)は

居間に来るのを拒否し、ウェインは落ち着かなげに歩き回るだけ。 それで私がイアンの隣に座り、彼に訊いたの。

『本当のことを言って。 何があったの?』

彼の返事は 『何でもない。 全部マキシーンだ。』 だったわ。

そこで言ったの。 『イアン、答えて。 そんな風に言わずに。』

私は段々イライラしてきた。 真実を話すまで、彼を殴りつけてやりたかった。 イアンは警察が彼に濡れ衣を着せようとしていると

ぶつぶつ言っていたわ。 相変わらず尊大で高慢な態度で微笑みながらね。」

しばらくして警察が、玄関ドアから突入してきた。

「修羅場だったわ。 2人がイアンに近づいて言ったの。

『イアン・ハントリー、ジェシカ・チャップマンとホリー・ウェルズの殺害容疑で逮捕する』。

私は叫び声を上げた。 耳に入った言葉が理解できなかった。

警官たちがイアンに手錠をかけると、尊大で高慢だった彼は急にしょぼくれた老人のようになって、両腕と両脚を

ぶるぶる震わせて・・・ 私は彼に向かって叫んでいたわ。 『人でなし! この人でなし!』 ってね。」

 

下右: ハントリー、弟ウェインとクレア

   

           下左: ウェイン・ハントリーとクレア            下右: イアン・ハントリー、彼の母親とマキシーン・カー

            

 

 間もなく質問のため警察に呼ばれた家族は、ハントリーが精神病棟に移されたことを聞いた。

「イアンは震えが止まらない、精神に異常をきたした人のふりをしていたの。 でもウェインにはわかっていた。

あれは刑を軽くしてもらうための演技だってね。 ウェインと私は彼にどこもおかしなところがないことを証明する

決心をして、次に彼に面会に行ったとき、彼を騙したの。 まるで何事もなかったかのように、普段と同じように

彼に話しかけて。 彼はすぐに演技を忘れ、震えるのをやめて普通に話をしたわ。

その様子は防犯カメラに録画されていたから、すべての看護師がイアンは正常なことに気がついたの。」

数日後ハントリーは警察に戻され、裁判にかけられることを教えられた。

 

ソーアムの事件後、ウェインとクレアの結婚も破綻に向かい、2人は2005年に離婚した。

その後再婚した彼女は、新しい夫との間に2人の子供をもうけて現在に至る。

 

ハントリーの弟ウェインによると、ハントリーは小学校在学中に徐々に、常軌を逸した暴力性を見せるようになった。

いじめっ子だったハントリーには、弟も格好の標的だった。 ウェインはハントリーに目の下に傷跡が残るほど殴られた。

母親の制止にもかかわらず集中的に頭を執拗に蹴られたときは、恐怖のあまり14km離れた父親が働く工場まで歩いたほどだった。

ハントリーが隣家の庭から自宅の庭にいたウェインに向かって投げたレンガがウェインの頭に当たって血だらけになったときは、

救急車が呼ばれた。 境の塀が高くて誰が投げたのか見えなかったのをいいことに、ハントリーはそれを隣家の

年下の女の子のせいにし、数年してから笑いながら自分だったと告白した。

成長したウェインがハントリーに向かって 「今度同じことをやったら、まっすぐ警察に行くからな」 と警告してはじめて、

ハントリーの弟いじめは止まった。

 

ハントリーの弟ウェインによる逮捕時の状況は以下の通り。

(ネット・ニュースで紹介されていた、ウェイン・ハントリーの著書からの抜粋。 のシロウト意訳。)

 

2002年8月16日の午後11時に電話が鳴った。 リンダがキッチンで電話をとった。 ハントリーからだった。

彼は警察によって入れられたケンブリッジ郊外のホテルの部屋にいた。

彼女をサポートするため家族が周囲に立つ中、リンダは息子に、その答を絶望的に怖れながら、訊いた。

「おまえがやったの?」

短い間のあと、ハントリーは言った。

「愛してるよ、母さん。」

その瞬間、母親は息子がやったのだと悟った。

ウェインは父親ケヴィンとともにハントリーを迎えに行き、クレアとともにあとに残ったリンダはつぶやいていた。

「あの子がやったのよ。 私にはわかってる。」


8月17日、午前0時半。 裏口のドアが開いた。 リンダはそろそろと寝室から出てきた。

憔悴しきった息子の顔を見て、リンダは泣き出した。 息子の体に腕をまわしたが、息子は母親を抱き返そうとはしなかった。

「僕が母さんを愛してること、知ってるよね?」

「わかってる、私も愛してるわ。」

「マキシーンの面倒をみてくれるよね?」

息子は母親を少しばかり押し戻し、二人はお互いを正面から見つめあった。

数滴の涙が息子の頬を伝い落ちた。 息子は何か言いたそうにしていたが、言えなかった。

神経質な生徒のように体重を片脚からもう一方の脚へと交互に移しつつ、床を見つめるだけだった。


誰かがハントリーにお茶をいれた。 リンダは彼に風呂に入りたいか訊いたが、彼は入りたくないと答えた。

クレアはタオルで彼の顔を拭いてやった。 クレアがリンダに、イアンの隣に座るよう言ったが、リンダにはできなかった。

息子を拒みたくはなかったが、二人の母親の世界を自分の息子が破壊したという事実は、重すぎた。

ハントリーは低い声でつぶやき続けた。 「もうすぐ逮捕される・・・」

父親と弟にも、ハントリーに訊きたいことは山ほどあった。 「やっていないというのなら、濡れ衣を着せられるというのは

どういうことだ? 自分に注意が向けられるような、どんなことをしたんだ?!」

突然ハントリーが切れた。

「警察に何時間も尋問されて、ようやく解放されたんだぞ! 同じことをされるためにここに来たんじゃない!」


その頃ソーアムでは、刑事たちが中学校の倉庫に押し入ろうとしていた。 そこでは2枚の鮮やかな赤色のマン‐Uシャツが、

ホリーとジェシカの他の衣類とともに発見された。 ハントリーのベッド脇のキャビネットからは、彼が預かっていないと

申し立てていた倉庫の鍵が発見された。

午前4時15分、4台の車がハントリーの父親の家の外に到着し、平服の刑事たちが玄関ドアから突入してきた。

刑事の一人がウェインに突進して襟首をつかみ、右腕を背にねじ上げて叫んだ。 「こいつか?」

ウェインは落ち着いた声で応えた。

「僕は弟だ。 イアンを探しているのなら、彼は居間にいるよ。」


2人の刑事がハントリーに近づいた。 ハントリーは立とうともしなかったので、座ったまま手錠をかけられた。

彼の膝はがくがく震えていた。 状況が理解できないように見えた。 ぐったりと前のめりになって、手錠をかけられた

両手を見つめていた。 ウェインは兄の、先ほどの喧嘩越しの態度からの豹変ぶりに驚いた。 まるで撮影開始の

合図を受けた俳優のようだった。 ハントリーは煙草を吸わせて欲しいと頼み、その願いは叶えられた。 次に彼は、

テーブル上にあった財布にゆっくりと手を伸ばした。 「マキシーン・・・」 とつぶやき、赤毛の恋人の写真を一緒に

持っていきたいと頼んだが、その願いは叶えられず、動かないよう指示された。

刑事の一人が 「さぁ、行く時間だ!」 と言い、刑事たちはハントリーをゆっくりと立ち上がらせた。

午前5時05分に、ハントリーは去った――すすり泣く母親を後に残して。

母親は刑事たちに向かって叫んだ。 「さよならも言わせずに連れて行ってしまうのね!」

それを聞いたウェインは、 (ホリーとジェシカの両親にだって、さよならを言うチャンスなどなかった) と思わずにはいられなかった。


ハントリーの父親の家は、犯罪現場の可能性があるため徹底的に捜査されねばならず、ケヴィンは家族とともに、

できるだけ早く家を出るよう告げられた。 家を離れる車中でリンダは声を上げた。

「何てこと・・・ まさかあの子、ガレージに入れたりはしなかったわよね?」

数晩前に引っ掻くような金属的な音や、ドスンという何かを落としたような音を聞いていたからだった。

ケヴィンにはリンダの言葉がほのめかしていることはすぐにわかった。

まさか息子は、殺害した2人の少女の遺体を父親の家に隠したりはしなかったわよね?

考えられないことだった。 しかしハントリー家の人間には、考えられないことが日常になりつつあった。 ・・・・・


弟のウェイン・ハントリー    /    母親リンダ     /     説明書きがなかったけれど、おそらくイアン・ハントリーの両親?

    

 

 2004年7月23日、マキシーン・カーの母親シャーリー・キャップは、裁判中に目撃者を脅迫したかどで6ヶ月の刑を受けた。

キャップの隣人のマリオン・ウエスターマンはホリーとジェシカが行方不明になったすぐ後に 「キャップの家の前で車の後部を

見つめながら泣くカーとハントリーを見た」 ことを警察に話していた。 キャップの脅迫により、ウエスターマンは証言を翻して

法廷での証言も拒否するところだったという。

(カーと母親の姓が違うのは、カーだけが母親の結婚前の姓に変えたため。 カーは、自分が2歳のときに

母親と自分を捨てて出て行った父親を嫌悪するあまり改姓した。)

 2005年9月14日、ハントリーは別の囚人に襲われ熱湯で火傷を負わされた。

2006年9月5日薬剤を大量服用し監房の床に意識不明で倒れていたハントリーは病院に救急搬送されたが、

翌日には刑務所に戻された。

2007年にハントリーは、1997年に起きた11歳の少女の性的暴行を告白した。

2010年3月、囚人のダミアン・フォークスに襲われ、咽喉を切られた。


 服役を始めたハントリーは、その後面会に来た父親に対して、裁判中に嘘の証言をしたことを告白している。 彼によると

ジェシカを窒息させたのは叫ぶのをやめさせるためではなく、彼女が携帯電話で助けを呼ぶのを止めるためだった。


ハントリーが過去の告発歴にも関わらず中学校に職を得ていたことを重くみた当時のブランケット内相は、警察やソーシャル・サービスを含む

関係機関への調査を開始。 離れた地域同士の横の連絡や情報交換の不備が明らかになり、犯罪者リストの全国ネットワーク作りや

社会的弱者(高齢者・子供・障害者など)に接する職に就いている人間の犯罪歴チェックが義務化された。

またハンバーサイド警察のトップは、停職処分を経て早期退職に追い込まれた。


精神疾患患者を演じていた頃のハントリー

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *


これまでに二度、囚人仲間に襲われたハントリー。

同情できるかって? もちろん、・・・・・ぜぇ~んぜんっ!

同じ凶悪犯の中でも子供殺しやレイプ殺人の犯人は、ことさらに囚人仲間に蔑まれ嫌悪されるそうです。

彼の咽喉を切りつけたフォークスという囚人は、その後7歳の子供を殺して服役していた囚人の殺害に成功(?)し、

二度目の終身刑を受けました。 ハントリーは自分が標的であることを重々承知していて、毎日刑務所内のジムで

筋トレに励んでいるそうです。


弟ウェインの言葉:

「イアンは老齢に達するまでは生きないような気がする。 きっとまた自殺を試みるだろう。

でもそれは許されるべきではないと思う。 安易すぎるからだ。

イアンは死の直前の数分間に、自分が2人の少女に味わわせた苦痛と恐怖を感じるべきだ。

自分が襲われたことによって、自分の命のために闘うということがどういうことなのか、身をもって知ったはずだ。

僕自身はイアンに死んでもらいたい。 でも両親や僕がどう思うかなど、ここでは問題じゃない。

問題なのは、あの子たちの遺族だ。 遺族が投げ込まれた状況に比べたら、僕らの気持ちなど比較にすらならない。

だから彼が死ぬのなら、自分の手で死ぬべきじゃない。 それは卑怯者の選択だ。

イアンは毎日自分のしたことと向き合い、殺されるかもしれないという可能性に怯えながら生きるべきだ。

事件後謝罪の一言すら漏らさず、改悛の情の片鱗すら見せず、あの日なぜ、どのように2人の少女が

死に至ったのかを、未だに語ろうとしないのだから。」


同じ両親の元に生まれ、同じ家庭環境で育った二人。 一人は至極真っ当に成長したのに、一人は悪の化身へと変貌。

イアン・ハントリーの悪は、生まれたときすでに遺伝子として組み込まれていたのだろうか。

でももしそうだとしたら、犯罪を犯したのは遺伝子のせいで、本人には罪はない?

それゆえ (イギリスにも死刑があって、とっとと縛り首になっちゃえばいいのに!) というような私の考えは間違ってる!?

科学/化学に弱い頭で、いろいろと考えさせられます・・・・・

 

 

《 つづく 》

 

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イアン・ハントリーの家族 (前編)

2016-08-22 22:48:07 | 事件

 《 ソーアムの殺人 ② からのつづき 》

 

イアン・ハントリーは1974年1月31日に、ケヴィンとリンダ・ハントリーの初子としてグリムズビーGrimsby)で生まれた。

ケヴィンとリンダは7ヶ月前に、共に18歳のときに結婚したばかりだった。 2年後、ハントリーの下に弟が生まれた。

喘息もちだったハントリーは学校でいじめの対象になったが、彼自身もいじめっ子だった。 友達は少なかった。

成績は良い方だったにも関わらず、義務教育を終えた1990年6月に学校を離れた。 仕事が見つからず秋には学校に戻るも、

翌年2月に退校して両親が勤める食品加工工場での仕事に就いた。 その頃から少女への関心を深めたらしく、18歳のときに

13歳の少女と付き合う彼が目撃されている。

  

警察の調べでは、ハントリーは少なくとも30人の女性と性的関係をもった。 そのうちの多くが未成年だった。 「ノー」 を

答として受け入れない彼により、多くが身の危険を感じて彼との性的関係を強いられた。 うち何人かは彼を強姦で

告発したものの、起訴には至らずに終わった。 彼と恋人関係になった女性の多くが、異常なまでの支配欲、独占欲、

暴力行為、早すぎる求婚におののいて彼の元を去った。

16歳のときにハントリーと暮らし始めたアマンダ・マーシャルは、彼が突然怒り出したり暴力的になったりする様を

よく覚えている。 ある日ビリヤード棒で頭を殴られた彼女は失神してしまった。 ふたたび激しい口論になったあとで、

発作的に薬剤を大量服用したハントリーは死にかけた。 マーシャルは精神科にかかったハントリーに付き添って

病院通いを数ヶ月間続けたが、彼に階段から突き落とされて流産したあと彼との関係を終えた。 1994年のことだった。

  

 

同年12月。 ハントリーが勤める工場に、18歳のクレア・エヴァンズが入った。 翌月の1995年1月28日――

ハントリーの21歳の誕生日の3日前――に、二人は結婚。 新郎の付添人は、弟のウェイン(当時18歳)が務めた。

しかしハントリーの支配欲と身体的・精神的暴力のため、結婚生活はものの数ヶ月で破綻した。 ソーアムの事件後

クレアは、新聞記者に涙ながらに語った。 「ハントリーに首を絞められて窒息しかけたことがあったの。 だから今でも

ひどい罪悪感を感じている。 私があのとき殺されていたら、あの子たちは死なずに済んだだろうから・・・」

 

キッチンで洗いものをしていたクレアの背後に忍び寄ったハントリーは、いきなり両手で彼女の首を締め上げた。

げらげら笑いながら。 パニックしたまま気が遠くなりかけたとき、偶然調理台の金属性の蓋をつかむことができ、

それでハントリーの頭部を思いきり叩いて彼から逃れた。 外に飛び出し、彼から離れたい一心で結婚指輪を質に入れ、

10ポンドを得た。 しかし彼女をつけてきたハントリーにつかまり、脇道に連れ込まれ、頭を何度もレンガの壁に

打ちつけられた。 必死に逃げ出し、バスに飛び乗り、ハントリーが嫌っていた彼の父親の家に逃げ込んだ。 それまでにも

何度か、彼から避難するため行ったことのある家だった。 自分自身の家族の所へは戻れなかった。 ハントリーとの

結婚を反対されると思い、何も言わずに結婚していたからだ。 もちろん警察にも相談に行ったが、夫婦喧嘩とみなされて

取り合ってもらえなかった。

その後まもなく、妊娠していることがわかった。 父親の家でそう告げられたときのハントリーは無表情だったが、

あとでクレアを部屋の隅に追いつめ囁いた。 「もし産んだら、赤ん坊にいろいろとやってやるからな。 ものすごく

熱いミルクを飲ませて火傷させてやろうか。 ソーシャル・サービスに電話して、おまえが駄目な母親だから

子供をおまえから取り上げるよう言ってもいいな。」

 ハントリーの元妻のクレア・エヴァンス

    

子供の安全のためには養子に出した方がいいと考えた彼女はソーシャル・サービスに相談に行ったが、

彼女がハントリーと結婚している以上、父親の許可なしにはできないことだと言われた。 行き詰まった彼女は、

断腸の思いで中絶を選んだ。 そのことを話したのは、義弟のウェインにだけだった。 秘密を共有することが、

クレアとウェインの仲を近づけたのかもしれない。 彼女は中絶を慰めてくれたウェインと相思相愛の仲になり、彼と

一緒に暮らし始めた。 怒ったハントリーは1999年まで、クレアとの離婚に応じなかった。

同じ頃、彼の両親の結婚も暗礁に乗り上げた。 母親のリンダは同性愛の恋人を見つけて出ていき、父親のケヴィンは

別の女性と暮らし始めた。 (しかし両親はその後よりを戻し、事件の頃にはまた同居していた。)

ソーアムの事件が起こり、 “ホリーとジェシカと最後に話した人間である可能性が高い” ハントリーがテレビのインタビューに

応えているのを見たクレアは、(彼がやったんだ!) と即座に確信した。 警察に電話しようと思ったが、しかし、

思いとどまった。 そんな風に思うのは、ハントリーに対する自分の嫌悪のせいだろうと。


結婚が破綻したあとのハントリーは一所に落ち着かず、みすぼらしい部屋を賃借して渡り歩き、職を転々とし、複数の女性と関係を

もった。 そのうちの一人は15歳のケイティー・ウェバーで、一緒に暮らし始めると彼は彼女に家族との連絡を絶ち、学校をやめて魚の

加工工場で働くよう命じた。 彼の暴力に身の危険を感じたウェバーは逃げ出し、公衆電話から父親に電話をかけ、父親が迎えに

来るまで近くに隠れていたという。 彼女はハントリーと別れたあとに彼の娘(イアン・ハントリーの娘)を産んだ。


  

 

判決後に明らかにされた、イアン・ハントリーの驚くべき過去。 彼は1995年から2001年の間に、判明しただけでも

11人の未成年の少女と性的関係をもった(強姦を含む)かどで告発されていたことがわかった。

告発され記録に残った違法行為の一部。 (空巣一件を含む。)

 

1995年8月: 未成年者との性行為。 性的関係をもった15歳の少女の父親に怒鳴り込まれたハントリーは、

身の危険を感じて警察を呼び、警察とソーシャル・サービスに調査される。 少女の希望で告訴には至らず。

1995年11月15日: 共犯者とともにグリムズビー(Grimsby)の隣家に屋根裏から侵入し、空巣をはたらいた疑い。

電気製品と貴金属と少額の現金を盗んだとされ翌年3月に逮捕・告発されたが、ファイルに記録されるに留まった。

1996年3月: 未成年者との性行為。 ソーシャル・サービスに苦情が入り調査されるも、少女が告発内容を否定。

警察を巻き込むことなく調査は終了。

1996年4月: 未成年者との性行為。 15歳の少女の母親が学校に通報し、ソーシャル・サービスにも連絡がいく。

ソーシャル・サービスは警察と情報交換するも、少女の家族が警察の介入を望まず、調査は打ち切りに。

1996年5月: 13歳の少女との性行為。 少女は告発内容を否定。 少女は母親ともども、医師の診察を拒否。

前月にも同じ違法行為で告発されていたにもかかわらず、ハントリーが警察に尋問されることはなかった。

1998年4月: 強姦。 ある女性が、ハントリーにレイプされたと彼を告発。 彼女によると、ナイトクラブでハントリーと

出会った彼女は、帰宅するためタクシーをシェアして彼女の家に行った。 彼女はレイプの後、医師の診察は

受けなかった。 ハントリーは、性行為は同意の上だったと主張。 証拠不十分と判断され起訴には至らず。

1998年5月: 強姦。 16歳の女性が、ナイトクラブから帰宅途中にハントリーにレイプされたと彼を告発。

ハントリーは彼女を、人気のない場所で 「殺すぞ」 と脅しながらレイプしたという。 ハントリーは性行為は

同意の上だったと主張。 ナイトクラブの防犯カメラの映像が調査され、女性とハントリーが一緒に踊り、

ハントリーが彼女にキスする様子が映っていたため、証拠不十分として起訴には至らず。

1998年7月: 性的暴行。 ある少女が 「12歳だった10ヶ月前にイアンという名の男に性的暴行を受けた」 と

申し立てる。 当時彼女と同じ通りに住んでいたハントリーは逮捕されたが、告発を否定。 当時ハントリーは

15歳の恋人とともにキャラバンに住んでいたが、事件当日恋人は不在だった。 ハントリーを告発した少女によると、

ハントリーは 「自分は武術の達人だ」 と言って彼女の首に両手をまわし、「誰かに言ったら殺す」 と脅した。

少女は警察に尋問されソーシャル・サービスも介入したが、ハンバーサイド警察は捜査を打ち切る。

少女はその後、精神疾患を患った。

1999年2月: 強姦。 17歳の女性が、「ナイトクラブで知り合ったハントリーにレイプされた」 と彼を告発。 ハントリーは

性行為は同意の上だったと主張。 警察は証拠不十分として処理。

1999年7月: 強姦。 レイプ事件があり、過去の告発からハントリーが取り調べを受ける。 当時ハントリーは “ニクソン” を

名乗っていた。 DNAサンプルを提出。 彼にはマキシーン・カーが証言したアリバイがあった。 被害女性は

ハントリーは犯人ではなかったとした。 被害者からハントリーが犯人ではないとされたのは、この一件のみ。


 1999年2月ハントリー(当時25歳)マキシーン・カー(当時22歳)はナイトクラブで出会い、4週間後には一緒に暮らし始める。

諍いを繰り返しながらも関係は続き、2人は2001年に、ハントリーが管理人チームのマネージャー職を得たリトルポートの町に引越す。

2001年11月――ソーアム事件の前年――ハントリーはソーアムの中学校の管理人の職に応募。 過去の告発にもかかわらず

職を獲得し、二人は管理人用住宅に引越した。 カーは小学校教師のアシスタントとしての職を得た。


ソーアムの事件後中学校は、ハントリーの過去については何も知らなかったし、もし知っていたらハントリーを雇うことは

なかったと釈明した。 当時は異なる地域間での犯罪者や違法行為者の情報交換が確立されておらず、

引越しによりハントリーは、 “クリーンな” 一市民となってしまっていた。


 

 《 イアン・ハントリーの家族 (後編) につづく 》



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映画 『クワイ河に虹をかけた男』

2016-08-13 22:46:31 | 戦争

皆さんもうご存知でしょうか?

永瀬隆さんの実録映画が制作され、8月27日(土)から東京で公開されます!


クワイ河に虹をかけた男

    


永瀬さんの故郷・岡山市では7月9日から15日まで、先行上映されたようです。

監督は、『クワイ河に虹をかけた男』 を著したジャーナリストの満田康弘さん。

私は満田さんのドキュメンタリーはまったく拝見していませんが、この本のおかげで

永瀬氏の贖罪と和解の活動を詳しく知ることができました


私が本書の存在を知るきっかけになったのは、“The Railway Man” の著者エリック・ローマックス氏の死亡記事でした。

(私の過去のブログ記事:  “The Railway Man”      


その後 “The Railway Man” が 『レイルウェイ 運命の旅路』 として映画化され、私も見に行きました

興行作品だから、ドラマチックなシーンが必要だったのはわかります。 わかるんです。 が・・・・、

永瀬氏の描写やローマックス氏の行動に、とても納得できませんでした。

 


映画とは対照的に穏やかだった、永瀬氏とローマックス氏の実際の再会場面。

 

カンチャナブリでの再会後、ローマックス氏は日本も訪れたそうです。

 


戦争中だった若き日、支配する側とされる側だった日本軍人と捕虜たち。

(下左画像・左端が永瀬氏だそうです。)

 

思い出の地を、2人はどんな思いを胸に、歩いたのでしょうか。

 

 

 「戦時中だったから、命令に従うしかなかった。 仕方がなかったんだ。」 として過去を封印し、戦後の民主主義と自由とやがて迎える

経済的繁栄を楽しむこともできました。 実際 “身に覚えのある人” の多くがそうしたでしょうし、たぶん私もそうしたと思います。

でも永瀬氏はそうしなかった。 自分の良心に従って行動を開始し、生涯それを続けました。

      

個人主義でなく“長いものには巻かれろ” の集団主義が好まれる日本において、そうすることはとても勇気が要ったはずです。

新世紀に入った現在ならともかく、戦争の記憶がまだ人々の心に鮮やかだった頃、国全体が戦争の傷を癒すことを

最優先にしていた頃に、日本の戦争責任を訴え行動を起こしたのですから。

そして永瀬氏は、旧日本軍の外国人捕虜に対する戦争責任だけでなく、徴兵され異国に散ったまま遺骨を回収する

努力も供養もされることなく無視されてきた同胞兵士に対する責任も、言葉鋭く批判しました。


永瀬さんが「わしは言いたいことがあるんじゃ」と言ってカメラに向かってしゃべり始めた。

「私たち南方軍の人間は、輸送船の上で『海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍』と歌ってやってきた。

ところが55年経ってみてどうですか。

歌の通り、『山行かば草生す屍』となって兵隊さんたちは草むらの下に眠っている。

私は去年初めてここに来た時、日本人として本当に恥ずかしいと思いましたよ。

私たち戦中派の人間は一体何のために戦ったのか。この間もある兵隊さんが言いましたよ。

『私たちは犬死ではなかったのか』と。

靖国神社に名簿は祀られていますけど、天皇陛下は参ることもできない。

戦後処理が何もできていない。そのことを日本人はなんとも思っていない。

私たちはもう先はないかもしれないが、私は訴えたい。

日本の人たち、しっかりしてください」

『クワイ河に虹をかけた男』より抜粋―


映画 『レイルウェイ 運命の旅路』 を見てから、心の底に不満をくすぶらせていた私。

永瀬さんを主人公にした映画ができないかと望んでいた私。

なので、永瀬さんの実録映画、永瀬さんの本当の姿を見せてくれる映画ができて、嬉しいです!

実は、ブログに 『レイルウェイ 運命の旅路』 の感想を書いたあと、それを読んでくださった満田康弘さん――

『クワイ河に虹をかけた男』 の著者で映画版の監督でおられる満田さん――からメールをいただいていました。

そのご縁で今回も、永瀬さんの映画が完成し公開されることをお知らせいただきました。

最近は私、怠けて全然ニュースをチェックしていないので、お知らせいただかなかったら気がつかないところでした。

「次は英語版とタイ語版を作ってイギリス他各国で上映するのが目標です」 とのことなので、

ぜひぜひそれが実現し、イギリスで公開の運びとなるよう祈りつつ待つことにします。

2019年のラグビーW杯と2020年のオリンピック開催を控え、日本はこれから注目される機会が増えるはず。

時期的にもタイムリーなのでは。

ということで私はイギリスでの上映を待つしかありませんが、日本、特に東京とその周辺に在住の皆さんは、

ご興味があったらぜひ見にお出掛けくださいね。


映画 『クワイ河に虹をかけた男


は、2週間後の8月27日(土)から9月16日(金)まで、毎日12:30より、ポレポレ東中野で上映されます。


*       *       *       *       *       *       *       *      *       *       *       *


話は変わって、『クワイ河平和基金』。

(動画: 故永瀬さんの平和基金 タイの看護学生に奨学金20年


1946年7月、永瀬さんはタイを離れ、引揚船で帰国の途についた。タイから日本に復員した日本兵は、ビルマ方面から

撤退してきた人たちも含めて12万人に膨れ上がっていた。バンコク・クロントイの埠頭から乗船する直前、

日本兵一人ひとりに飯盒いっぱいのコメと中蓋一杯のザラメ砂糖が支給された。ザラメは当時は貴重品である。

船が出港すると、永瀬さんはその米を船のデッキで食べた。本当においしかったという。

『クワイ河に虹をかけた男』より抜粋―


自国に侵略してきて好き放題してきたが、敗戦したためボロボロになって帰国する日本軍。 その兵士たちに、タイ政府とタイ国民は

米とザラメを支給してくれた。  『クワイ河平和基金』 は永瀬氏がその恩に報いるため私財を投じて始めたものですが、

「永瀬氏の生前は彼の資産と民間からの寄付で続いていたものの、彼の死後は寄付が途絶えて存続の危機にある」

とのメールを、一昨年タイ在住のビジネスマンの方からいただきました。 以前は高かったタイの金利が近年は2%

ほどにまで落ちてしまったことも、大きく影響しているようです。 満田さんとも連携して基金の維持に尽力されている方で、

タイにある寄付の振込先銀行を教えていただいたので私もダーズリーの銀行から寄付金を振り込もうとしたのですが、

振り込みには 「振込先銀行の住所が必要」 だし、「25ポンドの手数料がかかる」 と言われてしまいました。

住所はともかく、25ポンド(3250円)もの手数料はイヤ~!


「同じタイだし、ガミーくんのための資金集め Hope for Gammy のように、ネットのページで簡単に

寄付できるようになるといいのですが?」 とのメールを送らせていただいたところ

「永瀬さんとその基金を紹介するウェブを制作する方向になっています」 とお返事いただきました。

でもそれきりになっていたので私も忘れて(オイオイ)いましたが、この記事のためググッてみたところ、

クワイ河平和基金の Facebook ページ を見つけました。 ここに日本での振込先銀行の詳細があるので、

次回日本に行ったときはぜひ寄付させていただきます。


FBページによると、岡山市での映画の先行上映では13万円を超える寄付が集まったようですね。

東京とその近郊の皆様にも、期待させていただきたいと思います。

一番の理想は、十分な額の寄付が集まって、その利息だけで毎年の奨学金給付が賄えるようになることなのですが・・・・・

日本で多額の寄付金を集めるには、どうしたらいいのでしょうね? 何かアイディアをお持ちの方がいらっしゃいましたら、

ぜひメッセージかコメントでお寄せ下さい。

2005年には読売国際協力賞を受賞したクワイ河平和基金。 それを廃止に追い込んでしまったら、

日本人はタイの人々に二度目の不面目をさらすことになる。 そう私は思います。

クワイ河平和基金が、どうかどうか、存続されますように・・・!


 今回の記事のためネットで検索していて新たに見つけた、参考になった記事のリンクです。

英国在住ジャーナリスト・木村正人氏 「死の泰麺鉄道」 戦争の真実と和解 (1) (2) (3) (4) (5)

上記記事中に言及されていた、旧日本軍による捕虜の取り扱いの詳細がまとめられた

旧軍における捕虜の取扱い ―太平洋戦争の状況を中心に―

ついでながら、永瀬氏が発起人の一人となって1995年に始まった、英連邦戦没捕虜追悼礼拝。

22回目を迎えた今年は、先週の土曜日(8月6日)に催されたようです。


 日本人にとって8月は、戦争を考える月。 過去は変えられませんが、未来は変えられます。

過去を反芻し、反戦の誓いを新たにしようではありませんか。



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ソーアムの殺人 ②

2016-08-10 23:01:46 | 事件

《  からのつづき 》

 

ソーアムから東北東に約10km離れたところに、レイクンヒース空軍基地がある。

2002年8月4日に行方不明になったホリーとジェシカの変わり果てた遺体は、基地を囲むフェンスのすぐ外側の、

めったに人が通らない森の中の道の脇の、草が生い茂る溝に横たわっていた。

 

 発見したのは、BBCニュースによると、8月17日午後に付近を散歩中だった人たち。

しかし英語版ウィキでは、発見者は散歩していた人たちではなく “地元の猟場番人キース・プライヤー” となっている。

彼によると、数日前から異常な悪臭が漂っていたため原因を突き止めようとしていての発見だった。

 

夏場だったため遺体は腐乱が激しく、一部は白骨化しており、それゆえ検死で被害者への暴行の有無や死因を特定することは

できなかった。 DNAにより正式に身元が確認されたのも、4日後の8月21日のことだった。

遺体には焼却を試みられた跡があったが、そこが殺害現場でないことは、精密な現場検証の結果ほぼ確実になった。

 

後になってハントリーは法廷で、2人が死亡した晩のうちに車で遺体を発見現場まで運び、証拠隠滅のため遺体から衣類を

取り除いて持ち去って処分したこと、その後遺体遺棄現場に舞い戻って遺体にガソリンをかけ、火を点けて立ち去ったことを認めた。

ここを遺棄場所に選んだのは、少年時代に空軍基地に航空機を見に来ていて土地勘があったからのようだ。

  

 ホリーとジェシカは、2002年8月4日(日)の午後6時31分から46分の間に死んだと考えられている。

つまりお揃いの真赤なマン‐Uシャツを着た写真を撮られてから2時間後には、死亡していたことになる。・・・・・

 

最悪の結果を迎えた、ホリーとジェシカの行方不明事件。 ソーアムのみならず、全国が悲しみに包まれた。

イーリーの大聖堂で行われたメモリアル・サービスには大勢の人々が参列。


下右: メモリアル・サービス後にホリーの父親を慰めるジェシカの父親。 左端はホリーの兄、右端はホリーの母親。

     

 

 ソーアム: ホリーとジェシカ、8月4日に失踪      レイクンヒース: 空軍基地に近い森で遺体が発見される

 レイクンヒース: 容疑者の祖母の家を捜索      リトルポート: 容疑者の父親の家を捜索

   

 

       

 

 8月16日に警察が発見した “重要な品々” とは、ホリーとジェシカが身につけていた衣類(下着を含む)と靴だった。

ハントリーは、管理人として勤めていた中学校の 「倉庫の鍵は預かっていない」 と警察に申し立てていたが、

同日任意でハントリーの家を捜索した警察は、倉庫の鍵を発見。 捜索の結果、倉庫の金属製のゴミ箱から、

ガソリンをかけて焼却を試みられた状態で、衣類と靴が発見された。

DNAを含む証拠を隠滅するため、ハントリーは、遺体から取り除いた衣類と靴をゴミ袋に入れて持ち帰り、中学校の倉庫内で

ゴミ箱の中に入れてガソリンをふりかけ火を点けたことを後になって認めた。


完全に焼けていなかったのは、ハントリーが焦ってその場を早く立ち去り過ぎたからだろうか。

翌日からは町のあちこちに多くの警察官がいただろうから、おそらく倉庫には近づけなかったのだろう。


採集された繊維サンプルの精密な検査の結果、ハントリーの家の絨毯にホリーとジェシカの衣類の繊維が、

2人の衣類の残骸にハントリーの家の絨毯の繊維が、付着していことが確認された。

また衣類を包んでいたらしい黒いビニール袋の内外からは、ハントリーの指紋が検出された。

 

イアン・ハントリーは逮捕後の取調べの際、虚ろな表情でよだれを垂らして狂人のふりをし、一年以上も何も語らず、起訴を免れようとした。

しかし精神科医の診断により責任能力ありとして起訴が決まると、事件翌年の9月になってようやく、

2人が自分の家で死んだこと、自分が2人の遺体を遺棄したことを弁護団に話し始めた。

 

彼が裁判で申し立てた2人の死の状況は、以下の通り。

ホリーが鼻血を出したため、2人は助けを求めて家に来た。 家の中に入れてやり、2階のバスルームに行った。

ジェシカがトイレを使いたがったので、バスルームの隣の寝室のベッドにホリーを座らせて待った。

ホリーの鼻から滴り落ちた一滴の血がシーツにシミを作りホリーが謝ったので、気にしないよう言った。

ジェシカがトイレを使い終えたので、ホリーとバスルームに入り、ホリーを入口からいちばん遠い浴槽の縁――

洗面台の脇にあたる場所――に座らせた。 鼻にあてがうようコットン・ボールを水で湿らせてからホリーに渡そうとしたが、

つまずいたか何かしてホリーにぶつかったかもしれない。 その時のはっきりした記憶がない。

犬を洗うつもりだったので、浴槽には水が張ってあった。 気がついたらホリーは浴槽の水の中に落ちていて、

自分は凍りついたように動けなかった。

ジェシカが立ち上がり 「ホリーを押した! あなたがホリーを押した!」 と大声で叫び出したので、パニックして

片手で彼女の口を塞ぎ、片手で咽喉を押さえた。 静かになったので手を離したら、彼女は息をしていなかった。

ホリーを浴槽から引き上げて脈を確認したが、彼女も脈がなかった。

 

ハントリーとカーが住んでいた家のキッチン(下左)とダイニング・ルーム(下右)

   

  同、バスルーム。 バスルームは捜査のため完全に解体(下右)された。

   

 ハントリーとカーが住んでいた家は、事件後解体・撤去された。

  

 

イアン・ハントリーとマキシーン・カーは殺人容疑で逮捕されたが、のちにハントリーのみが殺人で起訴された。

これはその後の捜査で、カーは事件当時グリムスビーGrimsby)の実家を訪ねていて留守だったことが確認されたためと思われる。

彼女はハントリーの嘘のアリバイを証言したため、捜査を撹乱した罪でのみ起訴された。

死体遺棄ですら起訴されなかったところをみると、彼女は本当に殺人について知らず、死体遺棄も手伝わなかったのだろう。

自分が住む家で2人の少女が殺されたというのに帰宅したカーが気づかなかったということは、

ハントリーはよほどうまく殺人の痕跡を隠蔽したに違いない。


2002年10月8日、ハントリーが裁判にかけられることが決定。 2003年6月9日、彼は隠し集めておいた抗うつ剤を

一気に29錠服用して自殺を企てた。 当初は生命が危ぶまれたものの回復し、48時間以内に刑務所に戻ることができた。

裁判で彼はいずれの少女に関しても殺人を否認し、ホリーに関しては事故死、ジェシカに関しては過失致死を主張した。

2003年12月17日に殺人で有罪となった彼は終身刑を宣告され、仮釈放が申請できるのは

“最低でも40年以上服役してから” と決まった。

(イギリスの終身刑は、なぜか 『終身=囚人が死ぬまで』 を意味しません。 奇々怪々な刑罰制度です。)


カーは3年半(=42ヶ月)の刑を宣告されたが、21ヶ月の服役後、2004年5月14日に保護観察つきで釈放された。

通常イギリスの刑期は、実際には宣告された期間の半分を意味します。 これも奇々怪々。)

ソーアムの殺人の裁判後、カーは過去6年にわたって虚偽の申告により、合計で約4000ポンド(53万円)に上る

求職者手当・所得手当・住居手当などを違法に受給していたことが判明したが、こちらは実刑判決を免れた。

釈放された彼女は一般市民の復讐から身の安全を守るため、秘密の新しい身元を与えられた。

カーは少女時代に2人の男児を殺したメアリー・ベルと、ジェームズ・バルジャーくんを殺した当時10歳だった

ロバート・トンプソンとジョン・ヴェナブルズに続く4人目の、完全に新しい身元を与えられる元囚人となった。

実際に殺人を犯していないのに新しい身元を与えられた、初めてのケースである。

その後カーは結婚し、2011年11月に初子を出産したそうだ。

彼女の身元秘匿は彼女の子供も含まれるので、彼女の子供が母親の真の身元を知ることはない。


ホリーとジェシカは、なぜハントリーの家に入ったのか。 管理人用住宅で、あの晩、何が起きたのか。

ハントリーは事件が発生したと推定される時間の直前にカーと電話で口論していたと、カーは証言した。

カーがあの晩母親と “また” 外出する予定だと知ったハントリーは、彼女が別の男と “いちゃつく” のを疑い、

怒って電話を叩き切ったという。

直後に見えた、外を歩く2人の10歳の仲良し少女。 怒りのはけ口を彼女たちに向けたのか。

「マキシーンも家にいるから、ちょっと寄っていかないか?」 と言葉巧みに誘い込んだのか。

真実を知る3人のうち2人は、もはやこの世にいない。

残る1人が嘘としか思えない話に固執する限り、真実は永遠にわからないままだろう。


しかし判決後に、驚くべき事実が明らかにされた。

ハントリーは過去に未成年の少女と何度も性的トラブルを起こし、何度も警察に通報されていたのだ。



《 イアン・ハントリーの家族 (前編) につづく 》

 

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ソーアムの殺人 ①

2016-08-06 23:32:51 | 事件

今から14年前のちょうど今頃は、

毎日のようにニュースで “ホリーとジェシカ” の名前を聞き、2人の画像を見ていたものだ。

お揃いの真赤なマン‐Uシャツを着た、可愛らしい2人の女の子。

 

無二の親友だった10歳のホリー(左)とジェシカ(右)は、ケンブリッジ州ソーアム(Soham)に住んでいた。

2002年8月4日(日)はホリーの家でバーベキューがあり、ジェシカも参加していた。

 

当日撮られた上の写真。 背後の時計は午後5時04分を指している。

 

この時期は午後9時頃まで明るい。 6時過ぎ、2人はお菓子を買いに出掛けた。

ホリーの門限は午後8時だったが、2人は8時を過ぎても戻らなかった。

大規模な捜索が始まった。 ソーアムはにわかにスポットライトを浴び、国中の関心が2人の行方に集まった。

       

マンチェスター・ユナイテッド も2人の捜索に協力。 (デイヴィッド・ベッカムもいますね。)

 

 

ソーアムの中学校(Soham Village College)の管理人をしていたイアン・ハントリー(当時28歳)は、

管理人用の賃貸住宅に、婚約者と一緒に住んでいた。

彼の婚約者のマキシーン・カー(当時25歳)は、ホリーとジェシカのクラスで教師のアシスタントを務めていた。

彼の家の窓にも、行方不明の2人に関する情報提供を呼びかけるビラが貼られている(下左)。

ハントリーは2人と会話したおそらく最後の人物として、テレビのインタビューに応えていた(下右)。

ハントリーはカーを訪ねてきた2人と二言三言交わしたが、カーが不在だったため、2人は去ったと述べている。

動画はこちら。 ハントリーの登場は1:20頃。

     

ハントリーはこのインタビュー以外にもすすんでマスコミに登場し、レポーターたちに友好的に接していたが、

今ではそれは、捜査の進展状況を探り出すためだったと考えられている。

 ハントリーは事件後も何食わぬ顔でいつもと変わらず振る舞い、事件の6日後の夜には父親・兄と一緒に飲みに出掛けていた。

 

 ハントリーの婚約者のマキシーン・カーは、ホリーとジェシカのクラスで手伝っていたため2人をよく知っていた。

インタビューに答える彼女(下左)が、行方不明中の2人のことを過去形で話すことに警察は気づいた。

夏休み前にホリーからもらったという “ありがとうメッセージ” を見せるカー(下右)。

     

 

防犯カメラの映像をチェックすると、2人が午後6時過ぎにスポーツ・クラブの入口前を通過していたことがわかった。

(18:24:42と18:13:51と、異なる二つの時刻が表示されているのはナゼ?)

人々の記憶を呼び起こすため、子役を使って再現映像が制作された。

  

 

寄せられたいくつかの不審な目撃情報(のちに事件とは無関係と判明)が追及され、必死の捜索が連日続いた。

        

 

 8月16日、ハントリーとカーは任意で7時間にわたって質問され、供述書が作成された。

その晩2人がソーアム外の別々の場所で警察の監視下にある間、2人が住む家と中学校の敷地内が捜索された。

“重要な品々” を発見した警察は、8月17日早朝、2人を逮捕した。

このとき警察は、ホリーとジェシカがおそらく死亡しているであろうことを、初めて認めた。

  

 

その日の午後、2人の遺体が発見された。 行方不明になってから13日目のことだった。

 

 

《  につづく 》

 

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イアン・ハントリーの娘

2016-08-04 23:33:03 | ひと

先月私の関心を惹いたニュース。


イアン・ハントリーの生物学上の娘が、自分の実の父親の正体を知ったときのことを公に語ったそうだ。

30歳以上のイギリス在住者なら、多くが忘れられないであろうその名・・・ 悪名。

 

鏡をのぞき込み、指で頬をなぞりながら、「私、あの男に似てる? どこか似ているところはある?」

 14歳のサマンサは、母親のケイティーに訊いた。・・・・・
 

サマンサ・ブライアン(下左)は現在18歳。 イアン・ハントリー(下右)の娘である。

            

 

同棲していたハントリーの暴力にさらされ続けたケイティーは、サマンサを身ごもっていたとき、意を決してハントリーと別れた。

どん底の状態にあったとき、子供時代から知っていた誠実で愛情深いマーティン・ブライアンと再会。

二人はのちに結婚し、サマンサには優しい父親と、3人の妹ができた。

マーティンはサマンサを我が子として愛し、2009年に正式に養女にした。

 

ハントリーが事件を起こしたとき、サマンサは4歳だった。 彼女が11歳のとき、ケイティーは彼女に話した。

マーティンは実の父親ではないこと。

彼女を赤ちゃんのときから愛し慈しんで育ててくれたのはマーティンなのだから、彼が彼女の父親であること。

彼女の実の父親は、“二人の女の子にひどい事をした、とても悪い男” だということ。

サマンサは生来好奇心旺盛だったが、実の父親に関してはそれ以上知ることを望まなかった。

 

驚くべき事実を知ったのは、14歳のときだった。 学校の課題で社会事件について調べていた。

ある凶悪事件に関連した画像をサーチしていたら、モザイクでぼかしてはあったものの、

見間違えようのない自分の母親と子供時代の自分自身の画像が出てきた。

理由を悟った彼女に衝撃が走った。

「胸を踏みつけられたようなショックだったわ。 体が震え、涙が止まらなくて・・・」

教室から逃げ出し、トイレに篭って気分を落ち着かせようとしたができず、そのまま帰宅した。

 

誰にも言えないまま、2週間が過ぎた。 食欲を失くし、事件のことばかりを考え続けた。

とうとう沈黙に耐えられなくなったサマンサは、母親に告白した。

ケイティーは娘を抱き締め、慰め、それからまっすぐに娘の瞳を見つめてこう言った。

「あなたは彼に似たところはどこにもない。 外面にも内面にも。 これまでだって、これからだって、ずっとそうよ。」

 

ケイティーとイアン・ハントリー(下左)と、二人が同棲したフラットがあった家(下右)。

 

 

その後の長い間、サマンサは悪夢にうなされた。

イアン・ハントリーが窓から彼女の寝室に侵入し、彼女までをも殺そうとする夢だった。


今年6月21日の、サマンサの18歳の誕生日の数日前。

ケイティーは彼女に、「本当に真実を知りたいか」 を確認したあと、新聞記事の切り抜きを集めた箱を渡した。

そこにあったのは、ハントリーが起こした事件の詳細だけではなかった。

 

「読み進めるうちに、母が耐え凌いだ恐怖を初めて知ったの。 ハントリーは母を殴り、レイプし、私を身ごもっていた母を

階段から突き落とした。 私を殺そうとしたのよ。 気分が悪くなって、何度も読むのをやめて泣いたわ。

あんなひどい状況におかれた誰かを想像することすら難しい。 ましてやそれが、自分の母親だなんて。

読み終えたあと、母と私は私の涙が止まるまで抱き合ったわ。 母は言ったの。

『実のところ、私を救ってくれたのはあなただったのよ。 あなたを身ごもっていなかったら、彼から逃げられなかっただろうから。』

母の言葉で、ずっと感じ続けていた暗い影が払い除けられた気がした。 大丈夫、私の中には彼の悪は存在していないと。」

 

ケイティーは15歳のとき、当時24歳だったハントリーと出会った。 ハントリーの甘言に乗ってケイティーが家を出ると、

心配したケイティーの両親は警察に届け出た。 ハントリーは警官に嘘を並べ立てた。 ケイティーは親と言い争った結果

家出してきた。 ケイティーと自分の関係はプラトニックなものだ。・・・

15ヶ月続いた二人の関係中、ハントリーは何度も彼女を殴り、レイプした。 彼女が妊娠してからも容赦しなかった。

1998年2月に、ケイティーはハントリーから最後の、そして最悪の暴行を受けた。

彼女を暴力的にレイプしたハントリーは、さらに腹部を殴り、階段から突き落とした。

予定日より3ヶ月も早く生まれたサマンサの心臓には穴があり、彼女は病院にいる間に二度死にかけたが、

それはハントリーの暴行に起因するとケイティーは信じている。

 

サマンサにとって、ハントリーは何の意味も持たない赤の他人だ。

「彼の名前を口にすらしたくないわ。 そうするとその存在を認めてしまうことになりそうだから。 彼は私の父親だったことは

一度もない。 精子提供者でしかないわ。 彼と遺伝的な繋がりがあるなんて、考えることすらおぞましい。

私の父親はマーティンよ。 私が生まれた時からそばにいてくれた。 私のおむつを取り替え、自転車に乗れるように

なるのを手伝ってくれた。 病気のときは慰めてくれ、私を愛してくれた。 こういったことで、父親は父親になるの。

生物学なんて何の意味もないわ。」


ボーイフレンドができると、サマンサは自分とハントリーの関係を告白してきた。 過去のボーイフレンドのうち一人は、

サマンサにハントリーの“悪” が存在していると信じて彼女と別れた。 別の一人は “将来ハントリーが釈放されたら

自分を殺しに来るかもしれない” ことを怖れて彼女から去った。 しかし彼女は、落胆していない。

  「私が名乗り出ることを決めたのは、自分が存在することを恥と思いたくはないからよ。 恥じてしまったら、私は彼の

もうひとりの犠牲者になってしまう。 彼が多くの人にもたらした悲嘆や苦悩については、もちろん申し訳なく思うけれど。

被害者たちのご両親には特に。

 彼が命を奪ったのなら、私は命を救うわ。 救急救命士になりたいと思っているの。」

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *       *       *


14歳という多感な時期に、実の父親が凶悪犯だったという衝撃の事実を突きつけられたサマンサさん。

なのに立派に成長されて、本当に良かった。

このニュースのコメントには 「なぜわざわざ公にして出てくるの?」 というものもあったけれど、

今やネットに情報が氾濫する時代。 悪意ある誰かに嗅ぎつけられて面白おかしく暴露されるよりは、

自ら名乗り出てやれ! と考えても全然おかしくないと私は思います。

彼女の将来の幸福と成功を祈ります。


イアン・ハントリーが事件を起こしたのは、2002年――14年前――の今日(8月4日)でした。

つまり今日は、幼い二人の被害者の命日でもあるわけです。


その事件そのものについては、また次回に。

 

 

《 つづく 》

 

 

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ペーパーフラワー・その後

2016-08-01 21:19:02 | 暮らし・生活

《 ペーパーフラワー / 続・ペーパーフラワー のつづき 》

 

 今年6月に結婚25周年を迎えた義弟①夫婦。

家族内でのプレゼントは基本やりとりしないことで合意しているので、カードを送っただけでした。

一応オットーがネットで記念になる銀製の品をサーチしてみましたが、これ!と思うようなものが見つからずギブアップ。

私たちがプレゼントできるようなものは、義弟①夫婦が自分たちで気に入ったものを買えますからね。

しかもおそらく、私たちが選ぶものよりも高級で高価なものを。

だったら記念品は各自が自分たちで買えばいいと、やはり私は思います。

そうすれば気に入らないものをいただいてガッカリし、さらにそれを後ろめたく思う必要もないし。

(・・・と、我ながら呆れるテンションの低さ・・・


でも手作りのものならいいんじゃないかと思い、完成させました。 シルバーのペーパー・フラワー。

試行錯誤するうちに50と数本できていたので、大きいセットと小さいセットを作り、二人に好きな方を選んでもらいました。

それぞれに25本ずつ入っています。 

 

大きいのと、小さいの。 二人は小さい方を選びました。 大きい方はどうしようかな。 再来年の私たちの25周年に飾ろうかな?

 

自己満足で作ったので、気に入らなかったら別に捨てられたって構わないんです。 あ、でも手作りだとかえって捨てにくいかな。

二人に余計な重荷を背負わせちゃったかな・・・?

 

SOUSHI に行った日は、まずローズ宅に下の3つを持参し、ローズに好きなものを2つ選んでもらいました。

そして選ばれなかったもの(左端)を、SOUSHI にプレゼントしたわけです。

 

 

さらにこんなのも作ってみました~!   ネットで見つけたコチラを参考に。

いや~世の中にはクリエイティヴな人っているもんですねぇ。

  

 この小さめのペーパーフラワーも気に入っています。

 

 桜の右手に下がっているのは、携帯ストラップと、ずっと前に銀座のお土産物屋さんで買った和食のミニチュアの飾りもの。

カラフルで気に入っています。

  

 

桜を制作中のダイニング・ルーム。 材料は、庭木の切り落とし枝と、2種類のピンクのティッシュー・ペーパーと、

クラフト用ボンドのみ。 (ホット・グルー・ガンを使わずとも、ボンドで代用できました。)

  

皆様も、ぜひお試しあれ! (不器用な私にもできたのだから、誰にだってできますよ。

 

桜のミニ版を作り、カーネーションと対にして、ムスメをよく送り迎えしてくれる隣町のムスメの友達にあげました。

 

 

熱しやすく冷めやすいのが自慢?の私なのに、自分でも驚くほど長続きしています、この趣味。

やはり、売ることを考えるべきかしら・・・・・? 

 

 

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老後の沙汰は、カネ次第 ④

2016-07-30 20:55:37 | 暮らし・生活

《  からのつづき 》

 

オットー両親の “終の棲家” 探しは続いていますが、

先週末は夏休みでサウジアラビアから戻ってきていた義弟①一家が南下してきていたので、

オットー両親の気も紛れていたようです。

オットー両親、ダーズリーにある隠居者用住宅を一応見には行ったんですが、やはり狭すぎるとの

結論に達しました。 それで普通の売家を探すことになりましたが、条件がありまして。

 

平屋であること。

平らな土地に立っていること。

 庭は極力手のかからないものであること。

歩ける距離にお店があること。

静かな環境にあること。

 

現在90歳と88歳のオットー両親。 今後足腰がますます弱くなることを見越しての条件であるのはいいことですが、

この全部を満たす家にめぐりあうのはかなり難しいかと・・・・・

まず第一に、平屋は2階建てに比べるとずっと少ないので、売りに出る平屋もずっと少ないんです。

そして売りに出ている平屋は、前庭や車道が緩やかな斜面になっていたり、刈り込みや芝刈りが必要な

大きめの庭がついていたり。

それに、二人が歩ける距離にお店があるとなると・・・ 二人の “歩ける距離” はオットーと私のそれよりもずっと

短いですから。 400mは大丈夫・・・かな? ひょっとしたら300mか200mかも。

そんな近距離にお店があり、なおかつ静かな環境となると、とても難しいのです。

でも歩ける距離にお店って大事ですよね。 オットー父が車の運転をあきらめなければならない日は、

そう遠からずに来るのは間違いないのだから。

そもそも90歳現在で運転していること自体がコワすぎるのだし。

 

今回の記事には特に画像がないので、私の今日のサンポの画像を織り交ぜてお届けします。

草原に入ってから私達の家のある辺りを振り返ったところと、草原の踏み段。

 

ケイトーと一緒だった頃は羊は我先にと逃げ出したものですが、私だけだと結構強気でなかなか逃げません。 (下右はズームアップだけど。)

 

 草原の端にあるこの踏み段の向こうの右手には、パットゴルフ場?が作られた可愛い庭のある家が。

 ちゃんとホールに旗まで立てて、カワイイ  この家の人がプレイするのかな? それとも遊びに来たときのお孫さん用?

  

 ミニサイズのパームツリーとカラフルなお花が素敵。 下右は先ほどの踏み段を振り返ったところ。

  


新聞記事によると、老人養護施設に入居した高齢者は、平均で2年強で亡くなるそうです。

仮に2年半で亡くなったとすると、イコール30ヶ月、130週。

介護料を含めた入居費用が一週間850ポンド(≒11万5千円)として、2年半だと:

110,500ポンド(≒1,492万円)。

 

でもこれ以外にも諸費用がかかりますからね。 衣類とか、嗜好品とか、散髪代とか、病院へのエスコート代とか、

他にも現在の私には思いつかないあれこれ。

夫婦がともに養護施設でお世話にならざるを得なくなれば、それだけで2人分で3千万円。

さらに! 都合よく (?) 2年半以内にあの世に行けなかった場合は、その後も費用はかかり続けるわけで・・・・・

まさに少し前に興味深く読んだ発言小町の長生きは人生のリスクそのものです。

世界でも有数の長寿国日本。 近年は老後破産だの下流老人だのといった言葉も聞かれます。

老後貧乏から下流老人に転落する分かれ目はどこか

50歳で手を打たないと下流老人に!

50を出て久しい私たち。 『揺りかごから墓場まで』 と謳われたイギリスの社会保障制度も、遠い過去の話になりましたからね。

身につまされます・・・


道路に出たら、その脇のお宅の住所標識が立派でした。 塀の上にスペースを作って花を植えてあるのは見たことあるけど、

独立してこれだけというのは初めて! 

 

 道路を渡って次の草原に入ったら、隣の牧草地に馬が一頭いました。

 

その向こうには、モミの木?がたくさん植林されていました。 クリスマスに売るのかな?

その次の一面は、まだ丈は短いけれど、麦畑です。 (去年黄金色に輝いていたのと同じ麦畑。)

 

かつてケイトーと歩いたフットパス。 ケイトーのおかげで多くのフットパスを見つけることができました。

 

今日は、イギリスにもこんな好天の日があるんだぁ! と驚くほどの好天気でした。

 


浅薄な知識しかない私ですが、イギリスでも、贅沢さえしなければまともに暮らせるだけの年金がもらえたのは、

オットー両親の世代が最後ではないかと。 そしておそらく私たちは、定年(現在は65歳だけど私たちがその歳に達するまでには

67歳に引き上げられる可能性アリ)後も何かしらの副収入を得なければ、とてもじゃないけど暮らしていけないのでは。

と、今から覚悟しています・・・。

さらにオットーか私、もしくは二人ともに、認知症にかかったら? 養護施設で何年生きることになる?

そしてそうなった場合、あの世からお迎えが来るまでに、最終的にはいったいいくら遣うことに・・・??


よどんだ小川のほとりに、いつもいる牛たち。 うち一頭は、私をガン見。

 

廃工場のような建物の脇を通ると、間もなく住宅地の隅っこに出ます。 下右は私が出てきた隅っこ(中央奥)を振り返ったところ。

 

像の親子が描かれたガレージの扉がありました。 ユニーク!  周囲が明るくなって、いいと思う。

  

 

そして老人養護施設で暮らすうちに自己資産が尽きてしまったら、福祉サービスに用意された施設に

移らなければなりません。 それがどんなにひどいところであろうと。 つまり、真面目に働いてそれなりに資産を

つくったところで、運悪く介護が必要な状態で長生きしてしまったら、一生のうち一度も真面目に働かず、

福祉手当で生き延びてきた怠け者と同じ施設で終わるかもしれないわけです。

これってほんと、頭に来ますよね!

遊び呆けてきたキリギリスと同じ終末を迎えることになるかもしれないとなったら、真面目に働く働きアリなどいなくなるのでは?

実際私の同僚にも、「私の親には子供に遺産を遺そうなどと考えず、散財を楽しんでとアドバイスしている」 という人がいます。


いろいろ考えると、

何が起ころうと安心して老後を終えられるだけの資産を蓄えるということは、庶民には不可能。

というのが、私が出した結論です。

数千万円あったって、夫婦二人そろって介護が必要な状態で長生きしたら、いずれは尽きてしまいますから。

億万長者で、預金の利息だけで介護費用がすべて賄えるほどのケタ違いの金持ちでない限り、

安心はできないでしょう。

まさに、老後の沙汰は、カネ次第。


・・・考えれば考えるほど暗くなりますから、老後のことは考えない方がよさそうですね。

(そして、こうなるとやはり重要性を帯びてくるのが、ディグニタスの存在だわ・・・)


 

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サイレンセスターの SOUSHI に行った!

2016-07-28 22:51:37 | 暮らし・生活

2011年11月の記事 サイレンセスターの町 でその存在に触れ、

2013年12月の サイレンセスターで街歩き でその場所を確認して、

ぜひ一度行きたいと思っていた寿司レストラン SOUSHI に、

とうとう今日、元同僚のローズと行ってきました! 


歩行者専用の狭くて静かな脇道に面していて、内部はなかなかオシャレな雰囲気。 私たちが最初の客だったので、

隅の窓際のテーブルを選びました。

 

ローズに注文をおまかせされたので、海老餃子と揚げ出し豆腐を選び、分けっこしました。 取り分け用のお皿がかわいかったです。

 

メインのお弁当は、マグロと野菜のピリ辛ソース炒めとチキンサラダ。

もうひとつのメインの上寿司盛り合わせは、握り/巻き寿司とお刺身のコンビネーション。 ネタは新鮮でおいしかったです。

 

メインもローズと分けっこしましたが、終わり近くにローズが満腹になったと言うので、私がローズの分のお寿司2つとお刺身2切れをぺろり。

貴重な和食を残してギブアップなんてしたら、女がすたる。 生ものだからお持ち帰りに包んでもらうこともできないし。

胃袋に入れてお持ち帰りなのです。 柔軟な胃袋でよかった。


お味噌汁も、ほどよい味でおいしかったです。 食いしん坊の私はさらにデザートのあんみつまで頼んだんですが、これは今いちでした。

盛りつけはかわいいけれど、寒天も白玉も入ってなくて、代わりに冷凍してあったおまんじゅうアイスみたいのが載っていました。

早目に解凍してなかったのか、おまんじゅうアイスは最初、硬すぎて食べにくかったです。

あんこ小豆の甘煮もほんのちょっぴりしかなくて、正直 (これで5ポンドは高い!) と思いました。

 

緑茶好きのローズは桜風味の煎茶を頼んだのですが、本当に桜の花びらが入っていて、すごく気に入っていました。

「これまで飲んだ緑茶のうちで一番おいしい」 と、お店の人に仕入れ元をお店のカードの裏に書いてもらっていました。

  

平日のランチタイムだしお高めのレストランなのでそれほどお客は入らないのではと思ったけれど、それなりに入っていました。

SOUSHI 初入店記念に?ウェイターさんに断って私のペーパーフラワーをプレゼントしてきました。

うん、なかなか似合う!

 

今日食べたものです。

      

梅酒 @5.30ポンド x 2  =  10.60ポンド

揚げ出し豆腐 x 1  =  5.50ポンド

海老餃子 x 1  =  6.90ポンド

お弁当 x 1  =  11.00ポンド

上握り寿司盛り合わせ x 1  =  15.00ポンド

アメリカンコーヒー x 1  =  2.10ポンド

桜風味の煎茶 x 1  =  2.95ポンド

     あんみつ x 1  =  5.00ポンド     

 小計               59.05ポンド

サービスチャージ(10%)   5.90ポンド

――――――――――――――――――――――

合計               64.95ポンド


今日のレートを1ポンド138円として計算すると、・・・8963円ですか。

イギリスでの和食を日本におけるフランス料理と思えば、まぁこんなものでしょうね。

私が言いだしっぺだったし心置きなく食べたかったのでローズにおごるつもりだったのですが

「せめて飲物代は出させて」 とローズが20ポンドくれようとしたので、ありがたく10ポンドだけ頂戴しました。

ずっと行きたいと思っていた SOUSHI にとうとう行けたのだし、とてもおいしかったし、満腹になるまで食べたし。

機が熟するのを5年近く待ったレストランに行ったんだもの。 たまにはいいさ!

 

食後、腹ごなしに町をぶらつきました。 狭い路地のあちこちにお店や飲食店があって、歩いているだけで楽しい

 

下左写真の右端の小屋は、レストラン。

 

まるでどこかのお宅の裏庭を歩いているみたい。 下右の窓みたいなのは、窓をデザインした鏡の壁飾りです。 グッド・アイディア!

 

今度、一日かけてゆっくり訪れてみたいな。

 

サイレンセスターは現在再整備中で、教会が面するマーケット広場とその付近には車両は進入禁止です。

 

そのためマーケット広場はとても静かでした。 いつもこうならいいのにな!

 

駐車場に戻る途中にあった地図の自販機と、ウサギのマスクをかぶった人間・・・女性になつく犬という、よくわからない彫像。

 


今日は夕飯は要りませんでした。 ・・・当然かもですが。



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