ここからは、4月20日静岡県の取材分です、これまで回れなかった所を廻って来ました
千福地区は、裾野市役所の北北西約2kmのところ
国道246号線の「五竜の滝西」信号を東名高速側(西側)に入り
すぐに高速道路の下のトンネルを潜ると、右手に大きな樹幹が見えました
東名高速道路の西側のお屋敷にスダジイの巨木があります
高速道路沿いの砂利道に車を止めさせていただきました
東名高速の下をトンネルで抜けると右手の畑地越しに見えました
東側から、立派な樹冠が御庭を覆っています
東北東側から、太い幹が見えました
南東側から、伸びた枝は畑地から手が届きそうです
南側から、目通り幹囲10.5mの巨木です
南南西側から、幹周は二本の合計のようです
お屋敷の門とスダジイの位置関係がわかりますね
少し移動します
一つ北側の高速道路の下を通るトンネルの東側に普明寺があります、武田信玄ゆかりの千福寺城の跡です
境内入り口の山門です
千福城址(平山城址)跡の標柱が建ちます
六地蔵さまです
由緒の記されて石碑です
駿東郡誌並駿河国新風土記より抜粋
大平山普明寺は、早川海蔵寺末にて、本尊釈迦牟尼佛、寺格小本寺安叟宗楞大和尚開祖にて、文明16年9月示寂、いまより485年前なり、初め見性寺と号し、細野の地にあり、今の地域は、祖越御宿勘兵衛の居館の趾也。
元亀3年武田信玄、名を普明寺と改めしむ、同年武田家より寺領の寄付状と共に馬頭観世音の像一体の寄進あり。後徳川三代将軍家光公寺領として13石の御朱印を与えらる。
当寺は数ヶ寺の末寺を有する古刹にして、大正14年29代老梅一枝大和尚は、大畑加藤幾太郎氏、佐野市川源太郎氏より、各三百円宛の御寄付を受け、曹洞宗最高の常恒会地に昇格す。
然るに、昭和2年10月火を失し、天保2年建立に係る本堂間口11間奥行7間、庫裡等一切を烏有に帰す、同3年現在の假本堂、同6年鐘楼堂を竣工す、32代天産代に鎮守堂庫裡等を再建、現住は一技大和尚の遺志を継承し尚緋恩衣特許・受に当たり、全祖家各位の浄財を仰ぎ当寺の由来略記しこの碑を建立す。
昭和44年8月 普明寺32代 天産撰書
参道を進みます
鐘楼です
境内のシダレ桜です
本堂です
本堂西側の墓地から上は、かつての千福城です
では、次へ行きましょう
千福地区は、裾野市役所の北北西約2kmのところ
国道246号線の「五竜の滝西」信号を東名高速側(西側)に入り
すぐに高速道路の下のトンネルを潜ると、右手に大きな樹幹が見えました
東名高速道路の西側のお屋敷にスダジイの巨木があります
高速道路沿いの砂利道に車を止めさせていただきました
東名高速の下をトンネルで抜けると右手の畑地越しに見えました
東側から、立派な樹冠が御庭を覆っています
東北東側から、太い幹が見えました
南東側から、伸びた枝は畑地から手が届きそうです
南側から、目通り幹囲10.5mの巨木です
南南西側から、幹周は二本の合計のようです
お屋敷の門とスダジイの位置関係がわかりますね
少し移動します
一つ北側の高速道路の下を通るトンネルの東側に普明寺があります、武田信玄ゆかりの千福寺城の跡です
境内入り口の山門です
千福城址(平山城址)跡の標柱が建ちます
六地蔵さまです
由緒の記されて石碑です
駿東郡誌並駿河国新風土記より抜粋
大平山普明寺は、早川海蔵寺末にて、本尊釈迦牟尼佛、寺格小本寺安叟宗楞大和尚開祖にて、文明16年9月示寂、いまより485年前なり、初め見性寺と号し、細野の地にあり、今の地域は、祖越御宿勘兵衛の居館の趾也。
元亀3年武田信玄、名を普明寺と改めしむ、同年武田家より寺領の寄付状と共に馬頭観世音の像一体の寄進あり。後徳川三代将軍家光公寺領として13石の御朱印を与えらる。
当寺は数ヶ寺の末寺を有する古刹にして、大正14年29代老梅一枝大和尚は、大畑加藤幾太郎氏、佐野市川源太郎氏より、各三百円宛の御寄付を受け、曹洞宗最高の常恒会地に昇格す。
然るに、昭和2年10月火を失し、天保2年建立に係る本堂間口11間奥行7間、庫裡等一切を烏有に帰す、同3年現在の假本堂、同6年鐘楼堂を竣工す、32代天産代に鎮守堂庫裡等を再建、現住は一技大和尚の遺志を継承し尚緋恩衣特許・受に当たり、全祖家各位の浄財を仰ぎ当寺の由来略記しこの碑を建立す。
昭和44年8月 普明寺32代 天産撰書
参道を進みます
鐘楼です
境内のシダレ桜です
本堂です
本堂西側の墓地から上は、かつての千福城です
では、次へ行きましょう
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