日和田町日和田地区は、郡山市役所の北北東約7km、郡山市役所富久山行政センターの北約3kmのところ
郡山市役所富久山行政センターを東へ出て、県道355号線を北へ進みます
約3.4kmで「蛇骨地蔵堂」の参道を左(西)へ入ります
蛇骨地蔵堂の駐車場に車を止めさせて頂きました
蛇骨地蔵堂です
説明版と標柱です
郡山市指定重要文化財
蛇骨地蔵堂
平成12年4月25日指定
蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山され、現在の建物は、享保3年(1718)の再建といわれております。
当初は東勝寺の所管でありましたが、幕末に東勝寺が廃寺となってから、西方寺に移されました。
禅宗様式を基調とした佇まいは、時代の特徴をよく表しており、仕上げも上質です。
柱や梁の架構も雄大であり、使用部材にも見るべきものがあります。
屋根に一部傷みが見られるものの、内部の保存状態は大変優れており、郡山市内においても随一の仏堂建築であるといえます。
郡山市教育委員会
*養老7年は西暦732年が正しようです。
もう一枚には伝説です
蛇骨地蔵堂
日和田の城主浅香左衛門尉忠繁に、「あやめ」と言う娘がいた。家来に、安積玄番時里と言う大変乱暴な者がいて、「あやめ」を妻にしたいと思ったが許されず、大変怒って姫を館から追い出し、ほかのみんなを殺してしまった。
姫は時里をきらい、くやしさの余り、「死に変り生き変り、お前の仇をうつであろう」と言って、館の近くの沼に身を投げた。姫は大蛇に化身し、この地方を荒した。
困った人々は神に祈り、村の娘を一人ずつ、毎年3月24日に人身御供として差し出した。33人目の娘は、片平村の権勘太夫の娘に当たった。夫婦は、長谷観音にお参りして、そこで「佐世姫」に出会った。「佐世姫」は、娘の代わりに身を捧げることとなった。
大蛇が現れた時、姫は声高らかにお経を読み上げた。その時、大蛇は沼に沈んだと思うと、天女になって現れ、蛇の骨を残して消え去った。その蛇骨を彫って地蔵尊を作り祀ったところ、日和田の里の平和がおとずれるようになった。
「あやめ姫」「佐世姫」の伝説を秘めたお堂には、蛇骨で刻まれた地蔵尊が安置され、堂の裏には人身御供にされた美女33体の観音が祀られている。
郡山市観光協会
軒下の鰐口です
説明版です
蛇骨地蔵堂の鰐口の由来
平成24年4月24日
蛇骨地蔵堂は、養老7年(732)松浦佐世姫が開山したと伝えられる御宇堂である。
東勝寺は、平安時代の前期(834年以前)日和田の町の南方「寺池」の地に辯応道天により開山されその後、蛇骨地蔵堂の建立地に移設された天台宗の祈願堂で、蛇骨地蔵堂を管理していたが、慶長4年(1599)の大火で蛇骨地蔵堂と共に焼失した。
享保3年(1718)両堂宇ともに二本松藩主の丹羽秀延の篤志によりようやく再建した。
再建3年後の享保6年(1721)、鋳物師藤橋彦太郎が鰐口を鋳造し東勝寺に奉納した。この鰐口には「奉喜鰐口 家門長久 福寿万安 祈攸」の刻銘がある。
藤橋家は勅許を得て、全国の鋳物師を支配する真継家から鋳物師免許状を交付された二本松藩御用鋳物師で、鰐口のほか寺院の銅鐘など数多く鋳造している。
日和田町日向75 藤橋彦太郎末裔 藤橋善男 蛇骨地蔵堂保存会
蛇骨地蔵堂前南側に目的の笠松です
西側から
太い幹を見ました
東側に天然記念物標柱です
説明版です
郡山市指定天然記念物
西方寺の傘マツ
平成12年4月25日指定
西方寺の傘マツは、樹齢約250年と判断され、樹高は4mあります。地上から2mの高さで水平に二本の枝が伸び、笠松状に生育しています。
胸高直径は60cm、幹周りが188cm、枝張りが東西南北とも11mあり、非常に立派な体裁を放っています。
天明6年(1786)に建立した旨の記録がある書家橘定立(貞立)の顕彰碑に枝が寄り掛かり「ひしかけ」の松として、独特の趣を醸し出しています。
これほどの樹勢があり、管理が行き届いておりかつ、形を整えているものは、大変珍しく、市内で天然記念物に指定されている松は、この1本だけです。
郡山市教育委員会
東側から
南東側から見ました
蛇骨地蔵堂の参道から南側にもう一つの「日和田のイチイ」です
北西側から
西側から見ましたが、かなり弱っていて幹の大部分が樹脂で回復手当てがされています
「昭和28年10月1日指定 福島県指定天然記念物 日和田のイチイ」の票柱です
南西側から見ました
では、次へ行きましょう
郡山市役所富久山行政センターを東へ出て、県道355号線を北へ進みます
約3.4kmで「蛇骨地蔵堂」の参道を左(西)へ入ります
蛇骨地蔵堂の駐車場に車を止めさせて頂きました
蛇骨地蔵堂です
説明版と標柱です
郡山市指定重要文化財
蛇骨地蔵堂
平成12年4月25日指定
蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山され、現在の建物は、享保3年(1718)の再建といわれております。
当初は東勝寺の所管でありましたが、幕末に東勝寺が廃寺となってから、西方寺に移されました。
禅宗様式を基調とした佇まいは、時代の特徴をよく表しており、仕上げも上質です。
柱や梁の架構も雄大であり、使用部材にも見るべきものがあります。
屋根に一部傷みが見られるものの、内部の保存状態は大変優れており、郡山市内においても随一の仏堂建築であるといえます。
郡山市教育委員会
*養老7年は西暦732年が正しようです。
もう一枚には伝説です
蛇骨地蔵堂
日和田の城主浅香左衛門尉忠繁に、「あやめ」と言う娘がいた。家来に、安積玄番時里と言う大変乱暴な者がいて、「あやめ」を妻にしたいと思ったが許されず、大変怒って姫を館から追い出し、ほかのみんなを殺してしまった。
姫は時里をきらい、くやしさの余り、「死に変り生き変り、お前の仇をうつであろう」と言って、館の近くの沼に身を投げた。姫は大蛇に化身し、この地方を荒した。
困った人々は神に祈り、村の娘を一人ずつ、毎年3月24日に人身御供として差し出した。33人目の娘は、片平村の権勘太夫の娘に当たった。夫婦は、長谷観音にお参りして、そこで「佐世姫」に出会った。「佐世姫」は、娘の代わりに身を捧げることとなった。
大蛇が現れた時、姫は声高らかにお経を読み上げた。その時、大蛇は沼に沈んだと思うと、天女になって現れ、蛇の骨を残して消え去った。その蛇骨を彫って地蔵尊を作り祀ったところ、日和田の里の平和がおとずれるようになった。
「あやめ姫」「佐世姫」の伝説を秘めたお堂には、蛇骨で刻まれた地蔵尊が安置され、堂の裏には人身御供にされた美女33体の観音が祀られている。
郡山市観光協会
軒下の鰐口です
説明版です
蛇骨地蔵堂の鰐口の由来
平成24年4月24日
蛇骨地蔵堂は、養老7年(732)松浦佐世姫が開山したと伝えられる御宇堂である。
東勝寺は、平安時代の前期(834年以前)日和田の町の南方「寺池」の地に辯応道天により開山されその後、蛇骨地蔵堂の建立地に移設された天台宗の祈願堂で、蛇骨地蔵堂を管理していたが、慶長4年(1599)の大火で蛇骨地蔵堂と共に焼失した。
享保3年(1718)両堂宇ともに二本松藩主の丹羽秀延の篤志によりようやく再建した。
再建3年後の享保6年(1721)、鋳物師藤橋彦太郎が鰐口を鋳造し東勝寺に奉納した。この鰐口には「奉喜鰐口 家門長久 福寿万安 祈攸」の刻銘がある。
藤橋家は勅許を得て、全国の鋳物師を支配する真継家から鋳物師免許状を交付された二本松藩御用鋳物師で、鰐口のほか寺院の銅鐘など数多く鋳造している。
日和田町日向75 藤橋彦太郎末裔 藤橋善男 蛇骨地蔵堂保存会
蛇骨地蔵堂前南側に目的の笠松です
西側から
太い幹を見ました
東側に天然記念物標柱です
説明版です
郡山市指定天然記念物
西方寺の傘マツ
平成12年4月25日指定
西方寺の傘マツは、樹齢約250年と判断され、樹高は4mあります。地上から2mの高さで水平に二本の枝が伸び、笠松状に生育しています。
胸高直径は60cm、幹周りが188cm、枝張りが東西南北とも11mあり、非常に立派な体裁を放っています。
天明6年(1786)に建立した旨の記録がある書家橘定立(貞立)の顕彰碑に枝が寄り掛かり「ひしかけ」の松として、独特の趣を醸し出しています。
これほどの樹勢があり、管理が行き届いておりかつ、形を整えているものは、大変珍しく、市内で天然記念物に指定されている松は、この1本だけです。
郡山市教育委員会
東側から
南東側から見ました
蛇骨地蔵堂の参道から南側にもう一つの「日和田のイチイ」です
北西側から
西側から見ましたが、かなり弱っていて幹の大部分が樹脂で回復手当てがされています
「昭和28年10月1日指定 福島県指定天然記念物 日和田のイチイ」の票柱です
南西側から見ました
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