水沢日高小路地区は、奥州市役所の南西約500mのところです
奥州市役所東側の大手通りを南へ進みます、約300mの「武家屋敷駐車場」の直ぐ先を右(西)へ
約500mで日高神社境内です
北側に広い駐車場が有ります
日高神社社號標です
由緒書きです
御由緒
當社は未の妙見宮と尊崇之国土鎮護の神とす祭神は、天御中主大神を主神として7神を合祀す。
人皇第52代 嵯峨帝 弘仁元年(810)奥州三所の一つとして勧請せらる。
第70代 後冷泉帝 天喜年中(1053~1058)源頼義、義家親子、勅令を奉じて安倍貞任、同宗任を當地にて討つ決戦するや、俄かに浦然たる豪雨の為に陽光覆はれ、雌雄を決せんとするも日没の如くにして相見ゆること能はず、両公當社に至り神殿に弊を奉じて天候の快復せられしことを祈念す。
時余にして豪雨も去り霧天散じて陽光燦として輝く、両公再び戈を交え斯にして大勝を得たり。時に未の刻なりこしより、未の妙見宮と云う。
後、嘉應年間(1169~1171)に至り藤原秀衡公社殿を再建し、降って寛永元年(1624)伊達政宗公及び水澤城主留守宗利公共々に信仰篤く、社殿を改築す。
明治4年(1871)膽澤(胆沢)総社として郷社に列せられ地方の崇敬殊・他篤く、偉人才子輩出の因なしたり。
境内に瑞山神社在り、祭神は、奥州総奉行従4位左近将監伊澤四郎家景公並びに水澤城主宗利公及び代々の祖霊を祀る。
祭日 日高火防祭 陰暦正月22日
例祭 陽暦4月22日
鳥居です
ふるさと名所50景「日高神社と杜」です
ここからが前回「日高神社の姥スギと大杉」の続きです
日高神社は南向きに鎮座します、拝殿です
本殿の屋根が見えました
県指定有形文化財日高神社本殿の標石です
国重要文化財日高神社本殿の標石です
境内社です、大黒様が沢山並んでいます
西側にも並びます
説明版です
御神徳と御由緒
祭神 大山作神 中津島姫神
例祭 毎年 4月2日
五穀の神、酒の神、水の神、又、交通(海上)の神として尊ばれており、中津島姫命は弁才天として尊ばれています。
生きるものをグヒグヒと伸ばす神として、京都の松尾大社(官弊大社)の分霊として大町橋の際に(高豊の西口のところ)お祀りしておりました。
以上
東向きに瑞山神社の鳥居です
瑞山神社社殿です
岩手県指定有形文化財 瑞山神社(祖霊社)の標石です
説明版です
瑞山神社と11人の殉死者
日高神社境内にある瑞山神社は留守氏代々の祖霊社である。
14世紀半ば、留守氏が高森城(仙台市岩切)に居たころ、岩切の志波彦神社境内に一社を建立し、初代伊沢家景以来の霊を祀り、保栄堂と称した。
留守氏はその後遷城をくり返し、曲折を経て、寛永6年(1629)伊達氏家臣として水沢を所領し、このとき岩切から当地に保栄堂を遷し、先祖代々の祖霊社とした。これが瑞山神社である。
領主は宗利で、水沢留守氏の初代である。社号「瑞山」は家景を瑞山公と称したことにちなむ。
宗利は近世城下町、水沢のまちの基礎を築いた人として高く評価されているが、寛永15年(1638)8月15日に逝去、同社に納められた。
同月28日、家臣8人が主君に従って殉死した。8人は死に先立つこと数日、決別の宴を催し、辞世の句を詠んで所感を述べたという。8人も同社に合祀されている。また宗利の勘気にふれ、他国にいた浪人3人も12月3日追殉死した。
いま、同社の北、西、南にある五輪塔がこの墓である。
瑞山神社は間口1間(1.21m)×奥行き1間(1.16m)、高さ2.5mの木造家形厨子で、同じく勾欄付き木造壇上に載る。屋根は入母屋造り、こけら葺き。全面に彩色を施し、黒漆と金泥を主としている。垂木の木口は装飾金具を付け。総体的に江戸時代初期の手法が見られ、昭和47年10月27日に岩手県指定有形文化財に指定されている。
同社の南には2代宗直の墓がある。
水沢市
北側の五輪塔です
西側の五輪塔です
南側の五輪塔で、社殿の周りを囲んでいます
太刀洗川戦場跡の石碑です
氏子宮です
筆塚と祠は稲荷社でしょうか
では、次へ行きましょう
2024・9・11・12・40
奥州市役所東側の大手通りを南へ進みます、約300mの「武家屋敷駐車場」の直ぐ先を右(西)へ
約500mで日高神社境内です
北側に広い駐車場が有ります
日高神社社號標です
由緒書きです
御由緒
當社は未の妙見宮と尊崇之国土鎮護の神とす祭神は、天御中主大神を主神として7神を合祀す。
人皇第52代 嵯峨帝 弘仁元年(810)奥州三所の一つとして勧請せらる。
第70代 後冷泉帝 天喜年中(1053~1058)源頼義、義家親子、勅令を奉じて安倍貞任、同宗任を當地にて討つ決戦するや、俄かに浦然たる豪雨の為に陽光覆はれ、雌雄を決せんとするも日没の如くにして相見ゆること能はず、両公當社に至り神殿に弊を奉じて天候の快復せられしことを祈念す。
時余にして豪雨も去り霧天散じて陽光燦として輝く、両公再び戈を交え斯にして大勝を得たり。時に未の刻なりこしより、未の妙見宮と云う。
後、嘉應年間(1169~1171)に至り藤原秀衡公社殿を再建し、降って寛永元年(1624)伊達政宗公及び水澤城主留守宗利公共々に信仰篤く、社殿を改築す。
明治4年(1871)膽澤(胆沢)総社として郷社に列せられ地方の崇敬殊・他篤く、偉人才子輩出の因なしたり。
境内に瑞山神社在り、祭神は、奥州総奉行従4位左近将監伊澤四郎家景公並びに水澤城主宗利公及び代々の祖霊を祀る。
祭日 日高火防祭 陰暦正月22日
例祭 陽暦4月22日
鳥居です
ふるさと名所50景「日高神社と杜」です
ここからが前回「日高神社の姥スギと大杉」の続きです
日高神社は南向きに鎮座します、拝殿です
本殿の屋根が見えました
県指定有形文化財日高神社本殿の標石です
国重要文化財日高神社本殿の標石です
境内社です、大黒様が沢山並んでいます
西側にも並びます
説明版です
御神徳と御由緒
祭神 大山作神 中津島姫神
例祭 毎年 4月2日
五穀の神、酒の神、水の神、又、交通(海上)の神として尊ばれており、中津島姫命は弁才天として尊ばれています。
生きるものをグヒグヒと伸ばす神として、京都の松尾大社(官弊大社)の分霊として大町橋の際に(高豊の西口のところ)お祀りしておりました。
以上
東向きに瑞山神社の鳥居です
瑞山神社社殿です
岩手県指定有形文化財 瑞山神社(祖霊社)の標石です
説明版です
瑞山神社と11人の殉死者
日高神社境内にある瑞山神社は留守氏代々の祖霊社である。
14世紀半ば、留守氏が高森城(仙台市岩切)に居たころ、岩切の志波彦神社境内に一社を建立し、初代伊沢家景以来の霊を祀り、保栄堂と称した。
留守氏はその後遷城をくり返し、曲折を経て、寛永6年(1629)伊達氏家臣として水沢を所領し、このとき岩切から当地に保栄堂を遷し、先祖代々の祖霊社とした。これが瑞山神社である。
領主は宗利で、水沢留守氏の初代である。社号「瑞山」は家景を瑞山公と称したことにちなむ。
宗利は近世城下町、水沢のまちの基礎を築いた人として高く評価されているが、寛永15年(1638)8月15日に逝去、同社に納められた。
同月28日、家臣8人が主君に従って殉死した。8人は死に先立つこと数日、決別の宴を催し、辞世の句を詠んで所感を述べたという。8人も同社に合祀されている。また宗利の勘気にふれ、他国にいた浪人3人も12月3日追殉死した。
いま、同社の北、西、南にある五輪塔がこの墓である。
瑞山神社は間口1間(1.21m)×奥行き1間(1.16m)、高さ2.5mの木造家形厨子で、同じく勾欄付き木造壇上に載る。屋根は入母屋造り、こけら葺き。全面に彩色を施し、黒漆と金泥を主としている。垂木の木口は装飾金具を付け。総体的に江戸時代初期の手法が見られ、昭和47年10月27日に岩手県指定有形文化財に指定されている。
同社の南には2代宗直の墓がある。
水沢市
北側の五輪塔です
西側の五輪塔です
南側の五輪塔で、社殿の周りを囲んでいます
太刀洗川戦場跡の石碑です
氏子宮です
筆塚と祠は稲荷社でしょうか
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