千秋明徳町は、秋田市役所の東約1kmのところ
まず久保田城について
慶長7年(1602)に、常陸国(現:茨城県)から出羽国へ国替えとなった佐竹家の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長8年(1603)年5月に開始され、翌年の8月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
*朝早くから城跡の千秋公園を散歩する方々が大勢みられました。
久保田城の中土橋門跡の西側、城の南西側の土塁の上(あきた芸術劇場ミルハス南側)にケヤキの大木が並んでいます
朝早くだったので、土塁の上への階段の扉は開いていませんでしたが
堀の蓮の花は綺麗でしたよ
目的のケヤキです、目通り幹囲6.1mの巨木です
堀の南側道路から見ました
北側の堀沿いのケヤキです
ヤナギです
またいつか日中に再訪したいと思います
では、次へ行きましょう
まず久保田城について
慶長7年(1602)に、常陸国(現:茨城県)から出羽国へ国替えとなった佐竹家の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長8年(1603)年5月に開始され、翌年の8月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
*朝早くから城跡の千秋公園を散歩する方々が大勢みられました。
久保田城の中土橋門跡の西側、城の南西側の土塁の上(あきた芸術劇場ミルハス南側)にケヤキの大木が並んでいます
朝早くだったので、土塁の上への階段の扉は開いていませんでしたが
堀の蓮の花は綺麗でしたよ
目的のケヤキです、目通り幹囲6.1mの巨木です
堀の南側道路から見ました
北側の堀沿いのケヤキです
ヤナギです
またいつか日中に再訪したいと思います
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