範茂史跡公園は、南足柄市役所の北北東約800mの丘の上です
県道74号線の切通信号から西へ上がります
足柄高等学校の手前に公園入口が有ります
整備された公園の
駐車場が有ります

北東側の眺めです

範茂史跡公園です

公園の中

中央部に

宝篋印塔です

市指定文化財 藤原範茂卿の墓です

隣には五輪塔が並んでいます

説明版です
藤原範茂(のりもち)の墓
鎌倉時代、北條義時が幕府の執権(将軍を助けて幕府の政治を行う最高の職)の時に、後鳥羽上皇は
政権を朝廷(天皇が政治をとり行う所)側に取りもどそうとして、公卿(朝廷に仕える人々)の人たち
を集めて兵をあげましたが、幕府に敗れて上皇(天皇がその位を譲ったのちの称号)をはじめ多くの人
がとらえられました。これが承久三年(1221年)の承久の乱です。
その時、上皇側の公卿で参議(官職・公的な地位のこと)藤原範茂卿はとらえられて京都から鎌倉に
送られる途中、足柄峠を越えて関本に至りました。明日はいよいよ鎌倉です、つくと、そこで首を切ら
れてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないと言うのです。
範茂卿は役人に頼んで近くの清川(今の貝沢川といわれている)で死なせてもらうことにしました。
着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川を堰き止めて入水し最期をとげました。役人達もあわれに
思って高台に葬りました。それがこの宝篋印塔の有る所です。
辞世の歌に
思いきや苔の下水せきとめて 月ならぬ身のやどるべきとは
と残されています。
では、次へ行きましょう

に
県道74号線の切通信号から西へ上がります
足柄高等学校の手前に公園入口が有ります
整備された公園の


北東側の眺めです


範茂史跡公園です


公園の中

中央部に

宝篋印塔です


市指定文化財 藤原範茂卿の墓です

隣には五輪塔が並んでいます


説明版です
藤原範茂(のりもち)の墓
鎌倉時代、北條義時が幕府の執権(将軍を助けて幕府の政治を行う最高の職)の時に、後鳥羽上皇は
政権を朝廷(天皇が政治をとり行う所)側に取りもどそうとして、公卿(朝廷に仕える人々)の人たち
を集めて兵をあげましたが、幕府に敗れて上皇(天皇がその位を譲ったのちの称号)をはじめ多くの人
がとらえられました。これが承久三年(1221年)の承久の乱です。
その時、上皇側の公卿で参議(官職・公的な地位のこと)藤原範茂卿はとらえられて京都から鎌倉に
送られる途中、足柄峠を越えて関本に至りました。明日はいよいよ鎌倉です、つくと、そこで首を切ら
れてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないと言うのです。
範茂卿は役人に頼んで近くの清川(今の貝沢川といわれている)で死なせてもらうことにしました。
着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川を堰き止めて入水し最期をとげました。役人達もあわれに
思って高台に葬りました。それがこの宝篋印塔の有る所です。
辞世の歌に
思いきや苔の下水せきとめて 月ならぬ身のやどるべきとは
と残されています。
では、次へ行きましょう


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