先ほど図書館に予約していた本を借りだしてきた。その本とは、『新聞記者 疋田桂一郎とその仕事』(朝日新聞社、2007年)である。先に紹介した『外岡秀俊という新聞記者がいた』(及川智洋、田畑書店、2024年)のなかに記されていた。
まず外岡の文を読んだ。彼が疋田の思いで、そして彼から教えられたことが記されていた。
取材の基本は、6つ記されていた。そのうちなるほどと思ったのは、「記事を書く場合に、読者にとって未知のことは2割でいい。8割のことが既知であれば、読者は楽々と道行きを楽しみ、自分の記憶を確かめながら文章を味わえる。2割の驚きがあれば、満足感が得られる。これが逆だと、読者はせっかくの発見も味わうことなく、読むのをやめてしまう。」である。なるほど、である。読者は既知のものを駆動させながら、新たな知を受け入れるのだ。私も、歴史についてしばしば話をするが、これは留意するべきことなのかなと思った。
また疋田は反権威の人であると、書かれている。「武威を張る者、権威をかさに力押しにする者、序列をおしつけたり、権力に擦り寄ったりする者に対しては、容赦のない侮蔑のまなざしを向け、口もきこうとしなかった。」という。私も疋田同様、こういう輩は大嫌いで、こういう輩とは原則的にはつきあわない。上下のタテ関係を重視する者はろくでなしばかりだ。しかしそういう輩は多い。必然、私の交友関係は狭まっていく。
次に、疋田が書いた伊勢湾台風、東大生らの山岳遭難の記事を読んだ。記事は読みやすく、事件の概要は書かれているが、そのなかに考察が記され、それははっきり言って主観的な内容であった。だがそこには鋭い視点が貫かれていた。おそらく他の誰もが気づかない視点、そこから素人的な疑問をもとに、事件のなかに隠れている本質的な問題をえぐり出す、いやえぐり出しているのだが、その文自体は静かなのだ。決して声高に主張するのではない。読者は、この文を読みすすめながら、本質というか普遍的な問題のありかへと誘われる。
こういう文は、そう簡単には真似できないと思った。
読めば読むほど、この本に引き込まれる。