浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『逍遥通信』第八号を読む

2023-04-16 21:27:10 | 

 札幌で刊行している『逍遥通信』、その八号、書き手には知った名前の人もいるが、ほとんどが知らない人だ。しかし、なかなか読ませる文が並んでいる。編集人の澤田展人が書いた「1970年のトリックスター」は、高校時代の友人であった田代成雅について書かれている。田代は別に有名人でも何でもない。もう亡くなられているが、しかし、その人の人生をたどるだけで、人間について考えさせる。田代は個性的な性格で、また個性的な生き方をした。別にその内面に迫るわけでないのに、その人生を描くだけで、人間というもの、生き方について考えさせる。

 小田島本有は「外岡秀俊論(三)」を書く。副題は「情報を集め、書く、そして疋田圭一郎の存在」である。このブログでは、朝日新聞社を批判するが、しかし朝日新聞記者にはよいひとがたくさんいたし、今もいる。私にとって、本多勝一は、若いころからずっと関心を持っていた人であり、彼の本はたくさん読んできた。私の文章は、本多の『日本語の作文技術』を基本にしている。ただ、斎藤美奈子さんがこの本を厳しく批評しているので、ほかによいものがあるのかもしれないと、今は思っている。

 外岡も文章読本みたいなものを書いているようだが、私は読んだことはない。『日本語の作文技術』で自足しているからである。

 外岡が尊敬している朝日の記者は、疋田圭一郎である。疋田については、本多も激賞している。疋田は新聞記者の鏡といった存在であった。文章も、文のキレも、また文を書くまなざしも、卓越していたようだ。私も昔は『朝日新聞』読者であったから、疋田の文はかなり読んでいるはずだ。

 いま調べているテーマがあるので、それに投入する時間の合間に、疋田を読もうと思っている。図書館から本多勝一の『疋田圭一郎という新聞記者がいた』(新樹社)を借り出して、今日一日で読み上げた。この本で知ったこと、ひとつは疋田らがリクルートから饗応にあったという岩瀬達哉による誤報に対する疋田や本多の怒りを知った。またすでに廃刊となっているが、『噂の真相』という雑誌に対して本多が強い怒りを持ったことなどである。

 そのなかで、『噂の真相』が本多の素顔を載せたという。本多は、いつもかつらとサングラスを用いていた。いろいろ問題となるような記事をたくさん書いていた本多にとって、それはみずからを賊の攻撃から守るための手段であった。

 しかし私は彼の素顔を見たことがある。浜松市で『週刊金曜日』刊行の宣伝のために、筑紫哲也と本多勝一の講演会を企画したことがあった。講演のあとの懇親会で、本多は素顔を見せた。ふつうのおじさんであった。この顔ならあまりつけ狙われるようなことはないのではと思った。とはいえ、この講演会は、警察の警備を要請し、講演会場には多くの警察官がいた。本多をウヨクが狙っているという情報が流れてきて、警察に警護を依頼したからだ。これは当時の『週刊金曜日』の編集長であった和多田進の決断であった。

 本多も、そのときのことを書いている。『月刊あれころ』に、こう書いた。

 「・・・これ以後に体験した生々しい例は、浜松市での筑紫哲也氏と二人の講演会でしょう。私は知らなかったのですが、会場に到着したとき私服刑事が迎えて言いました。ー会場に刑事30人が来て警戒している。「一人一殺」を唱えているある暴力団極右の男が、本多を狙ってここに来るという情報があったからだ。その男の顔は分かっているので来たら密着するが、一応知って注意してほしい・・・。刑事はそう言いながら、私服でも刑事と分かる30人共通のあるサインを教えました。」(『疋田圭一郎という新聞記者がいた』166ページ)

 いずれにしても、朝日新聞社には名文家がいた。疋田圭一郎もその一人である。文章が上手になるには、名文家の文を読むことだ、という説を聞いたことがある。いまさら、と思いつつ、疋田の文を読んでみようと思っている。外岡らが編集した『新聞記者 疋田圭一郎とその仕事』(朝日新聞社)を図書館から借りだすつもりだ。

 『逍遥通信』を読んでいると、次々と知的関心が呼び覚まされる。

 今日読み終えた本は、本多の『疋田圭一郎という新聞記者がいた』である。脳が活性化しているようだ。

 

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