明日から雪になるそうで、週末は交通も混乱するでしょう。
この冬一番の寒波だそうで・・・寒戻るに備えなくては。
明日はオフですが食料の買いだめに走ります(笑)
明日から雪になるそうで、週末は交通も混乱するでしょう。
この冬一番の寒波だそうで・・・寒戻るに備えなくては。
明日はオフですが食料の買いだめに走ります(笑)
大己貴神社で兵を集めたというか・・・集まったのですが。
この大己貴神社の西方1㎞もないところに仙道古墳があります。http://www.town.chikuzen.fukuoka.jp/349.htm
古墳周囲からは盾持武人の埴輪が出土しています・・・興味深いですね。やはり神功皇后伝説は事実であったのではと思われます。
私がここで興味深いのは神社と古墳の位置関係なんです、西方に約一㎞ですが・・・この位置関係とまったく同じ位置関係の神社と古墳があります。宇美八幡宮と光正寺古墳なのですね!当時は神社はありませんでしたが、神功皇后が応神天皇を出産した地で楠の森となっていました(現在も)。この両古墳はともに国指定史跡です。
https://www.town.umi.lg.jp/soshiki/12/kousyouji.html
でなぜ西方1㎞以内におそらくかなりな豪族といいますか武人か分かりませんが、埋葬したのでしょうか?当時は西方浄土という考えはありませんし、西方からの敵の侵入を防ぐという意味もあるのかなと思いました。
今夜は応神天皇の名前が出ましたが、兵をあつめた時点では応神くんは生まれておりません(笑)
今夜は聖地と古墳の位置関係を考えてみました。
次回は朝鮮から戻ってからのお話しを書いてみます。
まだ続きそうです(笑)
神功皇后は移動していたのでは?・・・の続きです。
福岡空港の東側に、800mの高さで続く三郡連山を背景にして、応神天皇生誕の地と云われる宇美八幡宮あります。
そこから南へ小さな峠など越えて山際の道を南下していきますと、太宰府天満宮の裏手を抜けて筑紫野市山家(やまえ)に出ます。ここで東西の道(後の長崎街道)とクロスするのですが、そのまま南下していくと、筑前町弥永という地に出ます・・・この地に神功皇后伝説があるのです。・・・この弥永という位置は、西は佐賀県の佐賀平野から福岡の筑後平野の広がりの、最東端の山際にあります。すなわち弥永から西方はすべて平野が続き、各所に稲作を行っていただろう集落が点在していたのです。
その弥永に伝わる神功皇后伝説は・・・朝鮮への出兵のときに兵(当時は別の名でしょうが)が大いに不足していた。それでこの地に社を建てたところ僅かの日数で兵が集まった・・・という伝説です。私が思うに各集落から馳せ参じたのではと思います。それだけ多くの集落があって、稲作もありますから人も多く住んでいたのでしょうね。
その時に建てた社は最古の神社だったのではと言われている。今はその小高い山のふもとにはんもりとした森となり、大己貴神社(おおなむちじんじゃ)として大黒主神(大黒様)を祀ってあります。時々、秋月へ出かけるときにお参りしますが、ふだんは静かなものです。
では何処に住んでいたのか?・・・わからないですね(笑)当時は都を構えて統治するようなクニでは無かったのではないかと思いますので。
今夜はこのあたりで・・・
北部九州には神功皇后伝説が各地にあるので、知っていることを元にすこし物語を書いてみます・・・あくまで私見で想像を元にしてます、詳細な年代など調べないで書いているのでアバウトなものです。読まれても難しく考えないでくださいね。歴史に詳しい方は笑ってパスしてください。
この時代のことは魏志倭人伝を元に、卑弥呼や邪馬台国についてのいろんな説がありますね。
作家の井沢元彦さんの逆説の日本史に書いてありますが・・・卑弥呼は日の皇子ではないか。その卑弥呼は神功皇后だったのではないかという説の方も居られます。
同一人物説は信憑性が高いですね、と言いますのは。権力者が同時代に二人でともに女性だったとは考えにくいです。
北部九州にある環濠集落跡や古墳ですが、その何処かが邪馬台国だったのでしょうか?
まず環濠集落を考えてみるときに、周囲に掘られた濠は敵の侵入を防ぐためという説が多いですね・・・私はそうではないのではと考えています。動物の侵入を防ぐ為のものではと考えます。九州には熊もいましたし、猪や野犬(オオカミ)なども集落に入って来られては困ります。
然し乍ら遺跡から出てくる人骨には矢じりや切られた痕が残っています。やはり人同士の争いはあったでしょうが、それは日常的にあったとは考えにくいですね。集落内での揉め事であった可能性もありますし。
環濠集落の分布を考えてみたときに、有名な吉野ヶ里遺跡、今の朝倉市甘木にある平塚川添環濠遺跡などはほぼ同時代です。しかも数百キロも離れていません、数十キロ人が丸一日かけて歩けば到着する距離ですね。互いに交流はあったと想像します・・・というのは・・・
稲作が伝わったと言われてます、福岡空港南側の板付ですが。その百年後には青森県でも稲作が始まったといわれ、稲作が列島を駆けあがって行ったのですね。どこを通って・・・陸路と海路(水路)しかありませんが(笑)
古代の道はほとんど列島を網羅するくらいにあったと思います。人は旅をする(笑)
あの山の向こうには、目の前の海の向こうにはどんな人びとが住みどんな暮らしているかは興味あったことだと思います。人は昔から生活の工夫や知恵を寄せ合っていたのは間違いないと思います。
さて人々の行き交う古代の北部九州に話を戻しますが・・・当時の建物はいわゆる掘立柱に棟をかけ屋根を作ったものですが、工法も簡単ですから短期間で集落は出来たのだろうとおもいます。
では神功皇后さんや卑弥呼さんはどこにいたのでしょうか?定住していたのでしょうか?
私は移動していたと思ってます・・・北部九州全体を一ヶ所から治めていたというのは無理がありそうです。自らの権威を行き渡らせるにはどうしましょうか?治めている各集落を巡って居住していたのではないかと考えます。いわゆる中央集権的な発想はまだない時代でした。
年によっては不作の地もあったでしょう、そんな時は作物のすこしでも採れたところに移動するのは当然でしたでしょう。
移動は数年ごとに行われるか、或いはなにかの暦や呪術?のようなもので決められていたのではないかと考えます。神功皇后さんや卑弥呼さんを迎える集落では、新しく住まいを建てていたのでは無いでしょうか?王を迎えるときには古い建物でとはいかないでしょうからね(笑)
その新しくして迎えるということが、後の遷宮などにつながっている気がしてなりません。神や仏を迎える為に新しく神社やお堂を建てていますね。各地の神社では収穫祭などには、ご神体を頓宮(仮屋)へ移し本宮を一新するという遷宮祭も行われていますす。実際は建て替えはしませんが・・・
北部九州には発見されている環濠集落は、吉野ヶ里、平塚川添と壱岐の島の平の辻遺跡がありますが、他にも環濠集落の形態をとらずに済む集落も各地にあったでしょう。
何を書いているのか分からなくなりそうなので、今夜はここまで。
北部九州からの移動ですね次は・・・奈良まではまだ遠いです(笑)