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山下吹(10) 西尾銈次郎の山下吹

2020-09-20 08:32:05 | 趣味歴史推論
 西尾銈次郎(にしおけいじろう)は、明治31年(1898)東大採鉱冶金学科を卒業し、農商務省札幌鉱山監督署技師となった。明治43年(1910)から日本鉱業会誌編集委員。昭和38年(1963)逝去 92才。1) 明治44年(1911)~大正13年(1924)に日本鉱業会誌に発表した諸論文を基にして、西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)を刊行した。この本は古代からの鉱業史として広く引用された。
 西尾は、山下吹が摂州多田山下村で、文亀永正(1501~1520)の頃、平安家の銅屋新右衛門によって発明されたとの説を提唱し、それが、あたかも史実であるように書くに至った。この経緯をたどってみる。

1. 西尾銈次郎が明治44年(1911)日本鉱業会誌に発表した「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」には以下のように書かれている。2)
(1)緒言 の一部分 (→図1)
 かの銅精錬における山下真吹法の発明は、その年代不明にして、これを研究するは興味ある問題というべし。先輩諸氏の大なる苦心の結果今日まで知られたる所によれば、真吹法中別子銅山に行われし伊予真吹なるものは、真吹中その起源最も古きかごとし。故に同銅山にて同法を採用されたる年代を調査せば、真吹法発明の年代もまたこれより推測し得べきものならんと。しかれども尨然(ぼうぜん)たる住友氏300年の記録を検するは、容易の業にあらず。未だこれを決行したるものなし。同銅山の開坑は元禄3年(1690)なれば真吹法採用はもとよりそれ以後の事に属すべし。今回鉱業誌の編述をなすに当たり、摂州の多田山下村旧家平安氏について調査せり。しかれども不幸にして旧記の存するものなく、ただ口碑に依りて同所の製錬所は文亀永正の頃(1501~1520)銅屋新右衛門の創始せしものなること、および真吹をなすに至りしは元禄年間ならんとのことを知るを得たり。これ前説と符合するものなり。しかれども予は「生野銀山旧記」を検閲したるの際、左記の記事を発見せり。
「寛永9年(1632)摂津国能勢より長兵衛、庄兵衛というもの来り、「かたけ吹」を致す。銀山の買吹はこれより「かたけ吹」をして石床止む。銅を主として銀絞り上る故、昔の上灰吹よりこれ以後の灰吹は少し悪しく、何と吹き抜きても気強きより銀かたし。」
 かたけ吹とは如何なる吹方なりや現時において知るものなし。これ銅分多き鉱石を取り普通山下吹にて処理し鈹より還元法をもって銅をとり後南蛮絞りにて銀を取りしにはあらざるかの疑いあれども、記事は後世同銀山にて大吹法として行われたる。銀垂れ薄く主に銅ある鉱石と、銅気少なしもなき銀鉱石とを皷錬せし真吹法と大いに類似せる趣あるより考えれば、予はこのかたけ吹なるものは真吹法にはあらざるやの疑を抱くものなり。いわんや同旧記には同銀山においてかたけ吹流行せし以来、近傍の山畠荒廃せし状記載しありて、真吹伝来後硫煙にわかに旺発せるの状眼前に彷彿たるの感あり。もししかりとせば、銅屋新右衛門創業の当時すでに業にこの法を行いおりしや、またその後発明されたりやは不明なれども、文亀元年(1501)より寛永9年(1632)に至る132年の期間において発明せられたるものと考えらる。ここに注意すべきは、同時代たる外舶しばしば我が辺海に渡来し我が勘合船もまた支那と通商せしのみならず、遠く安南カンボジアおよび前インドに航せるの際にあり。且つ摂津多田の地たる当時の交市場堺港に近きを見ればこの真吹法もまた本邦創始のものにあらずして、彼の南蛮吹と異名せらるゝ流動法(?)の如く泰西より輸入せられたるものにはあらざるやの疑なきにあらず。而してこの法、彼にありては一旦忘却せられ19世紀の終に至り再びベッセマー法として大発展をなせしにはあらざるや。以上は、予の想説を述べたるに過ぎずして、他日十分なる研究をなすべきものなり。

(2)第2章第2紀((長保3年(1001)~天正10年(1582))の一部分 
殊にここに特筆すべきは、銅冶金に一大進歩をなしたることなりとす。すなわち今日といえども吾人の未だベッセマー法を採用するに適せざる程度の鉱山のおいては、最も資本を要せざる簡易なる鈹吹法として採用せる山下吹法は、明治維新の後、大いに改良せられてその能率を増し及び燃料消費額を大いに減ずるに至れり。この大発明は実に文亀永正(1501~1520)頃、銅屋新右衛門なるもの摂津国多田山下村に製錬所を創設せし頃より起れるものなり。けだし従来は素吹より得たる鈹は、まずこれを焙焼し、しかる後平炉のおいて木炭を加えて還元し粗銅となせるものなりき。しかるに新法においてはあらかじめこれを焙焼することなく平炉に入れ木炭火を用い強風を加え鉄及び硫黄を酸化し去るものにして今日のベッセマー法と全くその理を一にせるものなり(初めてこの法の発明されたる時代においては、1炉に付き鈹60~70貫を処理せり。而して職工としては吹大工1人指子1人を要したり)。当時この法は旧法に比して時間及び経費を節約すること著しかりしを見て西国の諸銅山漸次これを採用し、以て大いに製銅業の面目を一新するを得たり。

2.  西尾銈次郎が大正10年(1921)日本鉱業会誌に発表した「古代に於ける鉱山技術の研究」には以下のように書かれている。3)
 銅の古代製錬法 の一部分 
摂津川辺郡山下村の製銅の旧家たる平安邦太郎氏が鉱山局に差出したる覚書によれば、「同地方のおいては、明治初年の頃まで、「野吹き」と称して、銅鉱産地にて製錬することを許されたり」、「祖父よりの伝聞には、元禄年間真吹方法が発明せられざりし以前においては、銅鉱または銅鈹は再三焙焼して、銅を尻抜きになしたるものなり」とあり。 

3.  西尾銈次郎が大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した「日本古代鉱業史要(後編)」には以下のように書かれている。4)
文亀永正(1501~1520)の頃、銅屋新右衛門摂津国多田山下村に於て製錬所を設けて、この法(酸化製錬法)を改良せり。この方法たる酸化製錬法にて鍰を除きつゝ素吹に達し、ここにて一旦銅鈹を剥離し、作業を中止し、この方法を反復して銅鈹を集め、適量に達したる時、これを更に炉に装入し、木炭の火力にてこれを熔融して硫黄分を駆逐し、鉄分は銅鈇(どぶ)となりて除去せられ、遂に粗銅を作るに至る。この時代に於て、吹大工1人指子1人にて1炉に付き鈹60~70貫を処理したり。この方法を称して「山下吹き法」といえり。

 明治44年(1911)~大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した諸論文を基にして、西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)を刊行した。
4.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」(昭和18年 1943)には以下のように書かれている。5)
 前掲3の大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した「日本古代鉱業史要(後編)」と完全に同じ文章である。

考察
1. 西尾の山下吹は、山下吹(8)の渡邊渡の山下吹にならっている。山下吹は真吹に相当する吹きで、鉄を少し含んだ銅鈹(Cu2S)を熔けた状態にして、空気を吹き込み硫黄(S)分を酸化して銅を得る工程である。銅のベッセマー法と考えられる工程である。
2. 西尾は、明治の山下町で唯一製錬業を営む平安家を調査し、「平安家の祖先である銅屋(屋号)新右衛門が文亀永正(1501~1520)の頃、製錬所をはじめた」「真吹をなすに至りしは元禄年間ならん」という口伝を根拠に.山下吹の発明者が銅屋(屋号)新右衛門としている。しかしこの文を良く読むと、「製錬所を建てたのは、銅屋新衛門であり、真吹を始めたのは元禄の頃」と述べているだけで、「銅屋新右衛門が発明した」とは記していない。
3. 山下吹の発明の時期は、最初は「文亀元年(1501)より寛永9年(1632)に至る132年の期間において発明せられたるものと考えられる」と記していたが、同じ論文の後の方では「この大発明は実に文亀永正(1501~1520の)頃、」と確かな根拠も示さず限定している。説であったのが、いつのまにか、史実であるようにとれる文になっている。
4. 平安邦太郎6)が鉱山局に差出したる覚書とは、日向国槙峰鉱山を経営するにあたり、提出したものではなかろうか。「槙峰鉱山の発見および沿革 旧記のよるべきものはなく発見の時代は詳ならず。山上各所に旧坑の存在するをもって、昔時稼業の跡を想像するに過ぎず。降りて明治21年(1888)中、摂津の人平安邦太郎なるもの来りて槙峰鉱山を再興せしと雖も、只旧式採冶法により稼業せしに止まり微々振るわず」の記録7)があることから推測した。
その覚書に「祖父よりの伝聞には、元禄年間真吹方法が発明せられざりし以前においては、銅鉱または銅鈹は再三焙焼して、銅を尻抜きになしたるものなり」とあるが、これは、真吹法が発明される元禄以前は、鈹を再三焙焼して酸化銅に代えてから、炭で還元して銅を得ていたということを意味するのであろう。平安邦太郎は、祖父からの伝聞により、山下吹(真吹)は元禄年間に発明されたと理解していることを示す。しかし西尾はなぜそれを採用せず、文亀永正(1501~1520)の頃を採用したのであろうか。もっとも、どちらも文書記録ではないので、信憑性に欠けるが。
4. 西尾は、南蛮吹は、永正大永(1504~1526)の頃、博多の人神屋壽貞によって開発されたと「日本鉱業史要」に記した。8) しかし住友修史館の「泉屋叢考」は、この壽貞開祖説を論理的に否定した。そして住友家の業祖蘇我理右衛門壽濟が慶長年中位に南蛮人からその法を教わり、以後自ら種々工夫を重ねて、実際上の成果を得るに至ったとするのが穏当であろうと結論した。9) 西尾は証拠とした史料の吟味が不十分で、想像力たくましく解釈してその推測から導かれた説をあたかも史実であるように書くことがあるようだ。
5.  山下吹の発明時期について
山下吹は、真吹を指すとする。西尾の時代より情報が多く正しくなってきた現在から見て、筆者の考えを述べる。根拠は、山下吹(1)~(5)である。
①山下吹(1)より 発明場所(製錬所)を「山下村」としているが、山下は、村の時代はなく城下町として成立したので、初めから「山下町」である。広義の山下町の一部である下財屋敷に製錬所はできたのである。山下町が完成したのは、天正2~5年(1574~1577)の頃であり、天正16年(1588)頃に廃城となり、しばらくして下財屋敷として吹屋が設けられるようになったのは、慶長初期ではないかと推定される。よって発明時期は、慶長以降と推定される。
②別子銅山の真吹は、元禄4年(1691)からであるが、泉屋はその前、天和元年(1681)から吉岡銅山を稼行しており、貞享2年(1685)に代官後藤覚右衛門に提出した覚書に「真吹銅」の文字があることか貞享2年(1685)に真吹が行われていたことが分かる。10) この真吹の元は、多田の山下吹の可能性が高い。
③山下吹(2)より 「宝の山」宝永元年~元文5年(1710~1740)の多田銀銅山では、かたき吹で、山下吹であった。
④山下吹(5)より 寛延2年(1749)の多田銀銅山「鉑石吹様之次第」には、1工程として真吹が記されている。この吹様はかたけ吹であると思われる。
⑤山下吹(4)より 寛文6年(1666)の多田銀銅山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であった。
⑥山下吹(3)より 生野銀山にかたけ吹が伝わったのが寛永9年(1632)で、山下吹(真吹)であった可能性がある。
⑦かたけ吹には南蛮吹が必須であるが、多田銀銅山で南蛮吹が寛永元年(1624)当時可能であったかを検討すると、慶長年間に泉屋で開発された方法が多田へ伝わった可能性が考えられる。同時期に蘇我壽濟と同じような人が多田にもいた可能性もゼロではないが。
まとめ 
 多田銀銅山のかたけ吹の始まりは、南蛮吹と生野銀山への伝わりの時期から、寛永9年(1632)以前であると推測できるので、当初から山下吹(真吹)を含んでいたら、山下吹(真吹)は、慶長~寛永9年(1596~1632)の頃に発明されたといえる。もしまだ真吹を含んでいないのであれば、寛永9年~天和元(1632~1681)に発明された可能性が高いといえる。また寛文6年(1666)の多田銀銅鉱山のかたけ吹床は、真吹である可能性が高い。

次回は発明者について検討したい。

注 引用文献など
1. web. 冶金の曙>資料庫>冶金鉱業史関係>日本鉱業史要
2.  西尾銈次郎 「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」日本鉱業会誌別刷(明治44年8月 1911)
 Web. 「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」国立国会図書館デジタルコレクション
 これは、「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」同誌 27巻312~318号(明治44年2月~8月 1911)に発表したものである。
3. web. 西尾銈次郎「古代に於ける鉱山技術の研究」日本鉱業会誌434号p235~4(大正10年1921)
4. web. 西尾銈次郎「日本古代鉱業史要(後編)」日本鉱業会誌468号p170(大正13年1924)
5.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」p43(十一組出版部 昭和18年 1943)国立国会図書館デジタルコレクション
6.  平安邦太郎の経歴
 ①小川功「大正バブル期における起業活動とリスク管理」滋賀大学経済学部研究年報Vol.10 p24 脚注98)(2003)
「平安邦太郎(東谷村下財屋敷)は山下精煉所主(能勢電鉄『風雪六十年』p55),大正7年能勢電気軌道専務,猪名川水力電気発起人,花屋敷土地,北摂銀行各監査役(要録Tll役p211)」
②Web版尼崎地域史辞典apedia  明治42年(1909)川辺郡東谷村(現川西市)の野原種次郎・平安邦太郎らが、猪名川水力電気株式会社を設立した。
7.  web. 槙峰鉱山現況 日本鉱業会誌 24巻283号p944(明治41年1908)
8.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」p132~139
9. 泉屋叢考第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」(住友修史室 昭和30年 1955)
10. 気ままな推理帳「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石源の添加はなかった?(5)」(2020.3.22)
図1.  西尾銈次郎「日本鉱業会誌」(明治44年 1911)


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