気ままな推理帳

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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(6)

2020-03-29 09:08:07 | 趣味歴史推論

 越前面谷銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。
面谷銅山は、小葉田淳「面谷銅山の稼行法と製錬法-近世の面谷銅山-」に詳しく書かれておりそれを参考にした。1)
この銅山は、越前国大野郡穴馬郷面谷村にあり、近世の大坂の銅座・銅屋の記録には、大野銅山と記されることが多い。天和2年(1682)にはかなりの産銅があったらしい。正徳4年(1714)には大坂廻着の大野鍰銅(しぼりどう)126,992斤(76トン)、同荒銅6,400斤(3.8トン)に達している。泉屋は寛政9~10年(1797~1798)の2年程、元締めをしたことがある。
近世の面谷銅山の製錬法を記した原典のうち、筆者が見られるものにあたった。それは喜多村寛治が明治16年(1883)に記した「面谷鉱山景況」である。その製錬記事は 当地に老練の名ある村人尾崎喜藤次氏の口授に係るものも少なくないとしている。製法の時期は分からないが、江戸末期と推定される。書き手の知識が入って記述されたと思われる箇所もある。

鉱質は以下のとおりである。2)
「鉱石は黄銅鉱(CuFeS2)および斑銅鉱(Cu5FeS4)の2種を主なるものとす。硫化亜鉛鉱(ZnS)、硫化砒鉄鉱(FeAsS)と混するものあり。また自然銀(Ag)の多量を雑ゆるものあり。その硫化砒鉄鉱多き処の鉱は、その中の含銀もまた多し。富饒の処のおいては硫化鉛(PbS)を混することあり。まれには黝銅鉱(ゆうどうこう 四面銅鉱 (Cu,Fe)12Sb4S13)紅銅鉱(赤銅鉱Cu2O)あり。まま褐銅鉱(?)黒銅鉱(CuO)孔雀石(Cu2(CO3)(OH)2)あり。その伴金石は蛍石(CaF2)および方解石(CaCO3)或いは石英(SiO2)とす。」

「製錬は一種の旧法にして世のいわゆる摂州吹、もしくは奥州吹と唱するものとは異なり、やや錯雑なる法なれども、その雑物をして脱却せしめ良銅を得るに至りては、或いは他の旧法に超越するところあらん。故に当山の如き多量の砒素(As)亜鉛(Zn)等を含有する鉱石の製錬はかえってこの法に適すべし。昔奥州人の伝えたるものなりという。」

焙焼3)
粗選鉱石を焙焼する。焼鉱竈21個あり。生鉱100貫を焙焼すれば、およそ10貫の減量を起こし、90貫の焼鉱を得る。

荷吹(素吹)
・鉱石を鎔錬し粗鈹を得るものにして方言で荷吹という。鎔錬所4ヶ所炉11個あり。荷吹床の作り方の詳細あり。
1鎔解、およそ110~120貫の鉱石を9時間ばかりにて鎔錬することを方言で拾吹(とぶき)という。
・炉の準備調整の手順詳細あり。炭粉厚さ2寸、炉は長さ1尺2寸、幅9寸、深さ8寸その底は円形。刃口は焼鉱の鎔錬なれば炉の半ばを蓋う。生鉱なれば4寸炉上を蓋するを法とす。
・炭を入れ徐々に風を送る。火気ようやく盛んなれば、吹大工「十能」を刃口の下に差し入れ、1鎔解の1/8の鉱石を炉前に移し、境炉滓(さかいからみ)を混し、炭を加え、鉱石・境炉滓をすくって炭上に盛る。4) 指子(さしこ)は鉱石を遷輸するを待って尋常の如くフイゴを皷す。吹大工は常に注意して炉辺の鉱石をすくい火上に盛る。およそ30分にして「開口しゃくし」を取り、鉱石をつまみ出し「中廻し」にて刃口に粘着したる半鎔の鉱石を分離しフイゴ風の進入をして自在ならしめ後半鎔鉱中に混合するところの炭火を刃口前に集め新に炭を加え鉱石を盛ること初めの如くす。これを「口を開ける」という。風道を開けるの云いなり。また20分を過ぎれば再び口を開きてフイゴ風の進路を良くした後10分を経て鉱石ほとんど鎔解し終わる。よって炉の周辺に「十能」を入れ裏を以て半鎔残留の鉱塊をすくい火上に盛り全て鎔化しつくすを待って炉前を箒き水を注ぎてこれを湿し「助十能」の裏にてすばやく鎔液をすくい刃口に注射す。刃口およびその左右に粘着したる凝塊を分離して鎔液中に沈没せしめ炭火をつまんで炉前に出す。指子一人は炭塊の大小を選別す。大塊は鎔鉱に用い小塊は炭粉を造るに供す。他一人は箒を以て火上に水を注ぎ消滅せしめ左側に掃き寄せ、刃口上の堆塵もまた掃除す。吹大工は炉滓をかき出せば水を汲みてこれに注ぎ、寒冷凝結せしめ下に、「鈹立」を入れ、指子両人にてひっかけてこれを棄つ。こうして炉滓は全て去らす。炉内粘着したるものもただ擦り除いて炉中に入れるのみ。右終わればすでに消滅したる炭塊を再び箒入し新たに炭を加え鉱石を盛り、前の如く鎔解す。かくの如くする事4回にしてはじめてことごとく炉滓を去る。こうしてなお小片となりて鎔液上に浮かべるものは1個のフイゴより風を送らしめて一塊に集めこれを除去す。
すでに掃除したる火上に炭を盛り、炉滓(からみ)の一塊を入れて点火燃焼せしめ残剰鉱の鎔錬に便ならしむ。炉内の粗鈹は冷凝するにしたがい「鈹立」にてひっかけてこれを剥ぎ扁片楕円形なるものおよそ18~19張りを得て鎔錬所の一隅に積堆す。終わりに得るものを方言で亀甲(かめ)という。その形相似たるを以てなり。ことごとく剥ぎ終われば火を入れ炭を加えて残余の鉱石をまた4回に鎔解す。かくの如くおよそ110~120貫の鉱石を8度に鎔解し1度毎に炉滓を去り、4度毎に粗鈹を剥ぎ取りおよそ18~19貫を得る。これを方言で赤湯という。
炉は炭粉焼却破損して蛤形をなす。鎔解の業すでに終われば炉に水を注いで寒冷し刃口を破りてこれを棄て炭粉を摩擦して少なくこれを去り、その台上に推集せる鉱粉炭粉の混合物と併せてこれを篩い(目開き2.5mm 8メッシュ位か)塵炭粉となし、また小炭塊をつき砕き炭粉を造って後日の準備をなして止む。
・前量の鉱石を鎔解するを荷吹床一挺前の業としておよそ9時間を費やす。夜に始めて昼に終わるを昼吹と云い、昼に始めて夜に終わるを夜吹と云い、夜に始めて夜に終わるを夜中吹と云う。通常は1炉にて、甲昼吹すれば乙夜吹す。繁忙の時は甲乙丙と吹いて昼夜間断あることなし。
・当山の鉱石は蛍石・方解石等を包含するが故に鎔解容易なれば、生鉱を鎔錬するは多し。然れども多量の砒素亜鉛等を含有する時は焼鉱して後、生鉱に混ぜて鎔錬す。生鉱の炉滓(からみ)は濃密にして、焼鉱のものは希薄なる水の如し。こうして粗鈹の焼鉱より得るものはその量少小なる故に次の製錬に至って最も便なりとす。生鉱の粗鈹は外面帯青灰色にして割折面は色やや淡く質疎なり。焼鉱のものは赤褐色にして割折すれば美なる淡紅葡萄色にして質緻密なり。生焼二鉱を混するものは割折面に銅の斑点を呈す。そして皆な水に逢うか或いは日を経れば、鉄さびを生ず。よく焼成したる鉱石を鎔錬すれば粗鈹の層の下に荒銅を得ることあり。これを方言で尻銅と云う。」

赤離・鈹吹・真吹
荷吹で産出した赤湯すなわち粗鈹を赤離・鈹吹・真吹の3工程で鎔解製錬し荒銅にする。この鎔錬の1回を方言で一仕廻(ひとしまい)という。生鉱より得た粗鈹は、量多いが銅分は少ない。焼鉱よりのものは銅分に富んで量は少ない。よって生鉱なれば、荷吹7~8回分の粗鈹で赤離鎔錬1回の量とする。焼鉱ならば15~16回分の粗鈹を用いる。生焼鉱を当分に混合したものは12回分を用いる。このようにして、鉱石100貫より荒銅およそ6~7貫を得る。良鉱の場合は、荷吹7~8回分の粗鈹で赤離1回の量になる。
・赤離(しゃくり):赤湯(粗鈹)より銅分を分離するの意である。赤離床で粗鈹を木炭で加熱し、多量の亜硫酸ガスや砒素、亜鉛ガスを除き、主生成物として銅部(方言でどぶ)の塊を得る。銅部は炉中で濃粘質物凝結して大塊となり炉壁に固着する。黒色で多量の銅珠を含んでいる。赤離床の炉底に荒銅が少し残りこれを「赤離の尻銅」という。粗鈹の状況により赤離を省くこともある。
・鈹吹:銅部(どぶ)の塊を砕き、鈹吹床に炭と共に仕込み鎔解し、炉滓を取り流し出し、主生成物として精鈹(藍灰色にして割折面灰色なり)を得る。この鈹吹で得る炉滓を方言で境炉滓(さかいからみ)という。沈水に寒冷するにあらざれば、荷吹(素吹)の鎔剤に用いべからずという。
・真吹:精鈹を破砕し床に炭と仕込み鎔解し、鎔液上の雑物を取り除きながら真吹し約7時間で荒銅にする。

まとめ
1. 面谷銅山の鉱石は、黄銅鉱(CuFeS2)および斑銅鉱(Cu5FeS4)であり、別子のように、多量の黄鉄鉱(FeS2)はなく、鉄分は少なかった。よって取り除くべき鍰の量は少なかった。
2. 荷吹(素吹)では、珪石の添加操作はなかった。
3. 但し、後工程の鈹吹で流れ出た境炉滓(さかいからみ)を、焼鉱あるいは生鉱に添加している。この境炉滓の添加理由は、一つは熔けやすくするためであり、一つはリサイクルして、含まれていそうな銅分の回収であろう。操業者には、珪石の代わりに添加しているという意識はなかったと推定する。
4. 喜多村は、「面谷の鉱石は、蛍石・方解石等を包含するために素吹での鎔解は容易であって、そのため生鉱(焙焼なし)を鎔解することが多い」と記している。この表現から、鉱石中の脈石(CaO分が多く含まれている)が融剤となっており、意図して珪石を添加する操作はしていないと推測できる。融剤のCaO分が、低温で流れやすい鍰の形成に有効であるということは、いつ頃から知られていたことなのであろうか。
5. 炉の構造、材料、作り方、操業の仕方、道具について詳細な記述と図がある。特に構造と作り方の記載は貴重である。但し筆者にはその内容の理解が難しい。

注 引用文献
1. 小葉田淳「面谷銅山の稼行法と製錬法-近世の面谷銅山-」住友修史室報 第16号p17~21(昭和61.8 1986)
2. 喜多村寛治「面谷鉱山景況」日本鉱業史料集第11期明治編下(白亜書房 1989.7)p17 原典:工学叢誌 20巻 p278 (明治16.6 1883)
 ( )の化学式は筆者が書き加えた。
3. 同上p21~25 原典:工学叢誌 27巻 p28~36(明治17.3 1884) 
4. 同上p31~43 原典:工学会誌 33巻 p338~362(明治17.9 1884)→図
図. 面谷銅山の荷吹(素吹)


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(5)

2020-03-22 08:17:56 | 趣味歴史推論

 別子銅山より前に住友が稼行していた備中吉岡銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。元史料にはあたれなかったので、それらを基にした泉屋叢考によった。
鉱石は、黄銅鉱(CuFeS2)で、ほかに磁硫鉄鉱(Fe1-xS)である。
住友経営時1)
1. 貞享2年(1685)9月の覚書「備中川上郡吹屋村御山用控」(新任の代官後藤覚右衛門が初めて吹屋に来た時提出したもの)の内容。
「生鏈130貫を砕き選鉱すると、正味選り鏈100貫を得る。30貫は、砕き汰(ゆ)り物であり捨てる。選鉱100貫を焼釜にて焼鉱すると70貫になる。次いで、これを荒吹(素吹)すると 床尻銅3貫、鈹13貫(これを真吹すると銅8.06貫となる)を得る。〆て、銅(3+8.06=)11.06貫となる。残りの(100-11.06=)88.94貫は、からみになり捨てる。」
からみ重量は実測値ではないし、ガス分を考慮していないので間違いである。しかしこの書き方、算出法に着目する。鉑石は、銅以外には、全て無価値なからみとなり捨ててしまい、何も隠していませんというのが書き手の心であろう。算出法は仕込選鉱重量から生産銅重量を単純に引き算して求めているということは、目に見えない測りがたいガス分であるSとOの重量加減は考慮せず、銅以外は全てがからみになったとしている。もし、融剤として珪石が添加されていたら、からみ重量にはその分が足されたであろう。足されていないということは、珪石は添加されていなかったということになる。この段は、意図せずして、「珪石を添加していなかった」という傍証になると筆者は考える。
2. 元禄9年9月大坂で代官所の役人へ提出した「備中銅御山仕様之覚」の内容。
「焼鉱40荷(500貫)は床1間で1吹に8荷(100貫)ずつ5回に分けて1昼夜で吹かれる。木炭およそ160貫を費やし、鈹は70貫ほどで、その跡に床尻銅が合計8貫ほどできる。鈹70貫は、真吹床1間で1夜1吹にし、吹銅35貫ほどを得る。木炭およそ60貫を使用した。」
ここにも 珪石の添加は記載されていない。しかし、役人への報告書なので、わざわざ珪石の添加を書かなかった可能性もある。

大塚経営時 寛政5年頃(1793)2)
3. 「製錬法は元禄以前の住友経営のころと変わりはない。
焼鉱500貫を1日に100貫ずつ5度に素吹(鉑吹)する。床尻銅は平均11~12貫、そのほか鈹50~60貫をうる。鈹160貫を1度に真吹して平銅とする。」
ここにも珪石の添加は書かれていない。

まとめ
吉岡銅山の素吹で、珪石の添加操作の記録は見つからなかった。
選鉱した鉱石は、まだ多くの脈石を含んでいたのであろう。

注 引用文献
1. 泉屋叢考 第12輯 p31(住友修史室 昭和35年 1960)→図
2. 泉屋叢考 第14輯 p62(住友修史室 昭和44年 1969)
図 吉岡銅山の素吹の物質収支(1685)


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(4)

2020-03-15 08:47:21 | 趣味歴史推論

 別子銅山の銅鉱石の分析値を見ると脈石は10重量%以下と少ないが、実際の操業で流れる鉱石は、もっと脈石が多かったと筆者は推定する。鍰のSiO2源がこの脈石であり、珪石を融剤として特に添加していなかったという仮説の妥当性を調べる。
元禄期の素吹で、焼鉱に脈石がどのくらい含まれていたかを計算する。

計算の基になる値
(1)原料鉱石の黄銅鉱と黄鉄鉱の割合
鉱石の硫化物は主に黄銅鉱と黄鉄鉱から成る。
黄銅鉱(CuFeS2) 式量183.52 (Cu 34.63wt%  Fe 30.43wt%  S 34.94wt%)
黄鉄鉱(FeS2)   式量119.98 (Fe 46.55wt%  S 53.45wt%)
 原料の組成推定値1)によれば、重量比 Cu:Fe:S=11.5:36:43 であるから原子比に直すと0.181:0.645:1.34となる。黄銅鉱と黄鉄鉱のモル比率は0.181:(0.645-0.181)=0.181:0.464となる。重量比に直すと37.4wt:62.6wt。(SについてチェックするとS=0.181×2+0.464×2=1.29 分析のS=1.34と良く一致した) 硫化物100gの内訳は、黄銅鉱37.4g、黄鉄鉱62.6gとなる。
(2)鍰の分析値
開坑当時のものと推定される鍰の分析値2)
Fe 41.5  Cu 0.6    SiO2 30.0  Al2O3 9.0  CaO 1.8  MgO 1.1  K 0.6  Zn 0.5 S 1.0
(3)焼鉱率
選鉱して焼竈仕込み鉑石 Zkg   Z=硫化物A+脈石NA  ここでN=脈石/硫化物  
焙焼により、S分が大きく減少し、少しO分が増す。当時の焼鉱率は70~80%であったとされるので、1)ここでは、80%とする。この時、Cu,Fe,脈石は重量の変化はない。

 計算
素吹床への仕込焼鉱=0.80Z=硫化物由来+脈石NA 
すなわち硫化物由来重量=0.8Z-NA=0.8(A+NA)-NA=0.8A-0.2NA=(0.8-0.2N)A
鉑石Zkgは、焙焼率80%で焙焼されて600kgの焼鉱となる。すなわちZ=600/0.80=750kg。すなわち 750=A+NA  よってA=750/(1+N)   
素吹床への仕込焼鉱 600kgは、硫化物由来重量と脈石重量の和である。 
600=(0.8-0.2N)A+NA=0.8(1+N)A-----(1)
1. SiO2についての物質収支
 仕込 焼鉱の脈石から 0.70NA kg
    泥質片岩から  Q kg×0.68=0.68Q kg
    炭灰から    10kg(前前報より)
 回収 鍰 0.300K kg (鍰K kgとする)
    鈹 0kg     (鈹にはSiO2は少ないので無視)
 0.70NA+0.68Q+10=0.300K ----(2)
2. Feについての物質収支
 仕込 黄銅鉱から 0.374A×0.3043=0.114A
    黄鉄鉱から 0.626A×0.4655=0.291A
 回収 鈹中 0kg  (鈹は白鈹とのことなのでFeは0とする)
    鍰中 0.415K kg
 0.114A+0.291A=0.415K ----(3)
(1)(2)(3)の連立方程式を解く、
(3)よりK=0.976A
(1)よりN=750/A -1
(2)に代入して
 0.70×(750/A -1)×A+0.68Q+10=0.300×0.976A
 535+0.68Q=0.993A
Q=0の場合
 A=539kg N=0.391  焼竈仕込み鉑石750kg=硫化物539kg(72wt%)+脈石211kg(28wt%)となる。脈石中のSiO2=211×0.70=148kg
Q=40の場合
 A=566kg N=0.325  焼竈仕込み鉑石750kg=硫化物566kg(75wt%)+脈石184kg(25wt%)となる。脈石中のSiO2=184×0.70=129kg 
 比較 泥質片岩からのSiO2=27.2kg すなわち脈石からのSiO2は泥質片岩からのに比べ、(129/27.2=)4.7倍と大きい。

 別子銅鉱石には多量の黄鉄鉱が含まれるため、鍰の形成と除去が重要な操作になる。よって多くのSiO2源が素吹床に仕込まれる必要があるが、クルミ大の焼鉱には、意図せずして多くの脈石が付いておりそれがSiO2源になったのである。
鍰の主成分はfayalite 2FeO-SiO2である。SiO2の量論量はFe 2モルに対しSiO2 1モルである。これは重量比にすると、SiO2重量/Fe重量=60/(55.85×2)=0.54である。実際の鍰分析では SiO2重量/Fe重量=30.0/41.5=0.72 であり、SiO2は量論量の(0.72/0.54=)1.33倍に相当する。鍰にはまだ鉄と結合できるフリーのSiO2が少し存在すると考えられる。
Feの仕込み量は0.405A=0.405×539=218kg。 量論量のSiO2=218×0.54=118kgであった。脈石中のSiO2は148kgあったので、十分量であったと言えよう。選鉱をしていても脈石割合が28wt%と多く、SiO2の量論量を十分満たす量であったといえる。
泥質片岩からのSiO2量は少ないので、泥質片岩の添加で量を制御していたとは思えない。ただこれを添加すると早く融液ができ鍰ができやすくなったという効果があったかもしれない。そのために添加していた可能性はある。
 江戸期は、SiO2量を意図的に添加して鍰の形成を制御することはしていなかったのではないか。珪石と酸化鉄との反応で、鍰が形成されると推測していたであろうか。
古文書に融剤添加の記録がないこと、融剤の調達・管理を行う係りや手代の記録がないこと、脈石からのSiO2で必要量を賄えること等から、江戸期には珪石の添加操作はしていなかったと筆者は推測する。
 江戸期の別子銅山の素吹、真吹の床の構造・作り方や操業に関する技術を記した古文書が見当たらないのは残念である。先行した吉岡銅山や日本の他の銅山で融剤の添加がなされていたかを調べてみよう。

注 参考文献
1.  近世住友の銅製錬技術p133(泉屋博古館 2017) 熱力学的検討用いた原料鉱石の組成推定値(質量%)
Cu 11.5  Fe 36  S 43  Zn1.0  Co 0.1  SiO2 7.5  Al2O3 0.7  CaO 0.1  MgO 0.5
2.  同上 p98 表4-3 K05を除いた13件の平均値


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(3)

2020-03-08 09:34:58 | 趣味歴史推論

 仕込みの鉱石(黄銅鉱と黄鉄鉱)に付いていた脈石量とそのSiO2量を推算し、泥質片岩の量と比較する。
鉱石の組成分析値は、できるだけ脈石の少ない塊の試料について分析された値と考えら、実際の操業では、鉱石にもっと多くの脈石が付いていたと筆者は推測する。ラロック目論見書に書かれた明治7年の操業実績値に基づいて物質収支を計算し、脈石量とそこからのSiO2量を推算する。
素吹の1回作業につき(素吹は1炉につき1日3回作業が行われた)SiO2、Fe、Cuについて物質収支を計算する。
計算の基になる値
(1)操業実績値:明治7年(1874)6~11月の平均実績値→表の330回作業から1)
仕込:焼鉱 609kg  泥質片岩 40kg 木炭 243kg 
回収:鈹 88.4kg  床尻銅 8.5kg  鍰 355kg
(2)鈹の分析値:明治7年6~11月の平均実績値2)
Cu 51.5% Fe 22.5% S 23.5% 不溶分・砂・石英 3.2%
(3)鍰のFe推算値
鍰の分析値:明治7年分析値2)
酸化鉄及び酸化アルミニウム 68.2% 石灰2.8% 酸化マグネシウム 微量 ケイ酸質成分および不溶性残渣 27.6% 銅2.7%
これを基にFeを推算する。SiO2 27.6%とし、Al2O3は開坑当時と推定される鍰3)の比率Al2O3/SiO2=9.0/30.0 と同じと考えて、8.3%となる。FeO=68.2-8.3=59.9 よってFe=59.9×(55.8/(55.8+16))=46.5%となる。
(4)焼鉱中のFe推算値
原料の鉱石の組成値4)
Cu 11.5%  Fe 36%  S 43%  Zn 1.0%  Co 0.1%  SiO2 7.5% Al2O3 0.7% CaO 0.1%  MgO 0.5%
焙焼では、原料鉱石のS分が大きく減り代りにO分が少し足される。焙鉱のCu,Feは原鉱石からの減少はなく、焙焼率は7.23%なので、5) 1/(1-0.0723)=1/0.9277=1.078を原料値にかけると、焙鉱の組成は、Cu12.4 %  Fe 38.8%  となる。
(5)脈石中のSiO2値---泥質片岩中の石英を主とみて SiO2 70%と推定した。6) 
(6)泥質片岩中のSiO2値---68%とした。7)  
計算
焼鉱は、鉱石(Fe,Cuの硫化物由来のもの)X重量と、付いている脈石MX重量からなる。
M=(脈石重量/硫化物由来重量) 609=X+MX---(1)
1. SiO2についての物質収支
仕込 焼鉱 609kgの脈石分MX中のSiO2=MX×0.70
   泥質片岩のSiO2 40kg×0.68=27.2kg
   炭灰からのSiO2 10kg (前報より)
回収  鍰 355kg×0.276=98.0kg
    鈹 88.4kg×0.032×0.70=2.0kg
0.70MX +27.2 +10 = 98.0 +2.0 -----(2)
よってMX=89.7  すなわち脈石中のSiO2は89.7×0.70=62.8kgとなる。
(1)に代入して X=519.3  すなわち鉱石分は519.3kgとなる。
M=0.173  すなわち、脈石重量が鉱石(硫化物由来)重量の17.3%とかなりあることが分かる。
この鉱石重量と脈石重量を使ってFeについての物質収支を取り、妥当であるかをチェックする。
2. Feについての物質収支
仕込 焼鉱 X×0.388=519.3×0.388=201.5kg
回収 鍰 355kg×0.465=165.1kg
   鈹 88.4kg×0.225=19.9kg
   計 185.0kg
185.0/201.5=92%となり、ほぼ妥当である。
同様なことをCuについても行う。
3. Cuについての物質収支
仕込 焼鉱 519.3kg×0.124=62.9kg
回収 鍰 355kg×0.027=9.6kg 
   鈹 88.4kg×0.515=45.5kg
   床尻銅 8.5kg
      計63.6kg
63.6/62.9=101%となり、妥当である。


 計算からの結論として、鍰のSiO2の由来は、脈石由来62.8%、泥質片岩由来27.2% 炭灰の粘土由来10.0%であり、2/3は脈石からであることがわかった融剤として添加した泥質片岩の割合は27.0%と低い。これはもし、脈石が(62.8+27.0)/62.8=1.43倍に増えたら、泥質片岩の添加はしないでも量的には間に合ったことになる。ただ融剤と脈石は状態が異なるので、同じ効果とはならない可能性もあるが。別子鉱床の脈石は、結晶片岩で、黒色片岩(泥質片岩)、緑色片岩(塩基性片岩)、石英片岩(白雲母も含まれる)等であり、組成的には可能性はあると思う。

まとめ
①明治7年(1874)の鍰のSiO2は、脈石由来62.8%、泥質片岩由来27.2% 炭灰の粘土由来10.0%であり、2/3は脈石からであることがわかった
②脈石は、硫化物に対して約17wt%とかなりあることがわかった。
③もし脈石が1.43倍に増えていたら(硫化物に対して24wt%に相当)、SiO2量としては、泥質片岩の添加は必要なかったことも考えられる。

注 引用文献
1. ルイ・ラロック「別子鉱山目論見書-第1部-」p159(住友史料館編集 平成16年 2004)→表
2. 同上p161
3. 開坑当時のものと推定される鍰の分析値(近世住友の銅製錬技術p98 表4-3 K05を除いた13件の平均値)
Fe 41.5  Cu 0.6    SiO2 30.0  Al2O3 9.0  CaO 1.8  MgO 1.1  K 0.6  Zn 0.5 S 1.0
4. ラロックの分析値と調査の鉱石分析値から推定した値(近世住友の銅製錬技術p133)
5.  1872年(1872)原鉱石8460tを焙焼して7848tの焙鉱を得た(焙焼減は7.23%)(コワニェの覚書p116)
6. 別子鉱床の脈石は、結晶片岩の黒色片岩(泥質片岩)と緑色片岩(塩基性片岩)である。(「住友別子鉱山史」(別巻)別子鉱床群の地質・鉱床p205(平成3 1991)
主となる石英片岩の構成鉱物(ホームページ 岩石鉱物詳解図鑑>石英片岩)は、石英(SiO2)、白雲母(KAl3Si3O10(OH)2))、緑泥石(Mg,Fe)5Al(Si3Al)O10(OH)8) 曹長石(NaAlSi3O8)などである。
それらの分析値の例
石英 SiO2
白雲母の分析例(平島ら、地質学雑誌 98(5)450(1992)より)
 SiO2 50.26  TiO2 0.31  Al2O3 28.53  FeO 3.20  MgO 2.50  Na2O 0.45  K2O 10.31  
緑泥石の分析例(白水晴雄「結晶片岩・含銅硫化鉄鉱床(別子)中の緑泥石」ジャーナルフリー 2(1)15(1962))(重量%)
 SiO2 26.04  Al2O3 19.96  Fe2O3 1.85  FeO 21.34  MnO 0.47  MgO 18.56 H2O+ 11.62
7. 山崎新太郎 千木良雅弘 地学学雑誌 114(3)109-126(2008.3)
「四国三波川帯の泥質片岩」 バルク密度 2.09 真密度(solid density) 2.71
 SiO2 68  Al2O3 16  Fe2O3 5  K2O 3  MgO 2  Na2O 2  TiO2 1  CaO 1

表 別子銅山の明治7年(1874)6~11月の素吹操業実績


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(2)

2020-03-01 10:08:07 | 趣味歴史推論

 鍰を形成するSiO2源の一つである、素吹床の内張り炭灰(すばい、素灰、ブラスク)からのSiO2量を推算する。
炭灰(すばい)とは、木炭粉と粘土を練ってペースト状にしたものを指し、これを塗って吹床の内張りにした。コワニェの覚書の真吹の項に、「酸化鉄は円蓋やブラスクの粘土によって煆焼せられる」とあることから、ブラスク(炭灰)には、粘土が含まれていることが分かる。1)2)
炭灰(すばい)は、状況により ① 木炭の粉 ② 木炭の粉と粘土を練りあわせたもの ③ ②を使って床を作り補修する人 を指すようだ。以下は主に②の炭粉と粘土を練り合わせたものを指す。
別子銅山での炭灰の記録は以下のとおりである。
1. 「天保9年(1838)吹方の泉屋手代は、元締・役頭1人、番所方(銅山付きの役人とともに荒銅の貫目改めを行う)1人、番所方帳場2人、木方(焼鉱係)1人、木方帳場2人、中番炭方(製錬用木炭の管理)1人、中番炭灰(すばい)方(吹床の製造原料である炭灰[粉炭]を管理)1人 がいた。」3)
2. 「元禄8年(1695)の「11月中比外財人数改覚」の選鉱製錬関係では、床大工36人、同手子7,8人、同すはい20人、やき出し持26人、破鏈持60人、土持35人、破女158人とある。すはい、土持は床造築用の素灰の製造人と土の運送人である。」4)
「鉑吹(素吹)では、鉑吹大工1人、吹子差(ふいごさし)2人(吹子2挺)、吹床に用いる炭灰(すばい)を作る炭灰1人がつく。真吹では、真吹大工1人、手子2人、炭灰1人がつく。」4)
ここで床造築用の土とは、床の下地の粘土と 木炭粉と混ぜた炭灰層の粘土 を指すと思われ、その入手、運送には意外に多人数が携わっていたことが分かる。
別子銅山の絵図には炭灰の図は見当たらなかったので、他の銅山で探したら、「阿仁銅山働方之図」の中に「炭灰を踏みて吹床を拵える図」があった。5) →図
木炭を砕いて粉にした木炭粉を使って床の内張り(?)をする様子が描かれている。

素吹床の内張り炭灰層からのSiO2量を推算する。
素吹床の大きさは6) 縦57cm×横48cm×深さ36cm (=98リットル)、床炭灰層の厚さ10cm (真吹炉の天蓋の厚みが10cmであったので、床内張りの厚みもそれと同じとした)。
床内壁層は1日1仕舞(=3回作業)で厚さ10cmの60%(=6cm)が侵食され、毎日侵食された分を補修したと推定した。1回作業では、厚さ2cm分の炭灰層が侵食されるので、その炭灰量は[壁(57+48)×36×2 +底 57×48]×2.0=20リットル
炭灰の組成を木炭粉50容量%と粘土50容量%と推定する。粘土のバルク密度は約2.0 粘土の約50重量%がSiO2なので7)、1回作業での侵食SiO2分は20×0.5×2.0×0.5=10kgとなる。
真吹床の内張り炭灰層からのSiO2量を推算する。
真吹炉の大きさ6) 縦60cm×横54cm×深さ30cm(97リットル)、床内壁炭灰層の厚さ10cm 床内壁層は1日1仕舞(1回作業)で厚さの60%(6.0cm)が侵食されると、その炭灰量は、[壁(60+54)×30×2+底60×54]×6.0=60リットル。SiO2分は30kgとなる。

まとめ
1回作業で侵食される炭灰層の厚みを素吹では2cm、真吹では6cmと見積もり、炭灰層の50容量%が粘土と見積もると、
素吹床1回作業(3回作業/日)で炭灰層から入るSiO2量は10kgと推算された。
真吹床1回作業(1回作業/日)で炭灰層から入るSiO2量は30kgと推算された。

注 引用文献
1. コワニェの覚書 p121「鈹は酸化され、大部分の砒素は、煙突から蒸気となって脱去し、酸化鉄は円蓋やブラスクの粘土によって煆焼せられる」
2. ブラスク Brasque 小学館ランダムハウス英和大辞典(1979)では、
「[冶金]素灰(すばい):木炭を温水と糖蜜(みつ)で糊(のり)状にして、炉の内張りにしたもの」<フランス語<イタリア語 brasca  pulverized charcoal(粉にした木炭)
3. 末岡照啓「幕末期の住友」住友修史室報16号p39,44(昭和61.8 1986)
4. 小葉田淳「別子銅山史の諸問題」日本学士院紀要 44巻1号p12,20(平成元年 1989)
5. 「阿仁銅山働方之図」 秋田大学鉱山絵図絵巻デジタルギャラリー>銅山働方之図 年代「江戸時代?」書写者不明(秋田大学附属図書館蔵)→図
阿仁銅山は、秋田県北秋田市にあった鉱山。 享保元年(1716)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。(Wikipedia)
6. 寸法:住友別子鉱山史 上巻p261 (1991)素吹床(壱番吹床)、真吹床(弐番吹床)
構造:コワニェの覚書 p117「素吹炉:焙焼を経た鉱石は仕事場の土中に設けられた角錐台のブラスクで出来た小さい炉(四側と底は片岩の平板で蔽われている)中で熔融せられて鈹となる。」 p120「真吹炉は厚さ10cmの粘土で作った球帽形のもので蓋をされている。」 
7. 粘土の化学組成の例
 ①下田右「雲母粘土鉱物の化学組成と結晶構造」鉱物学雑誌13巻特別号p27(1977.3) 第2表S2(秋田県釈迦内鉱山産) SiO2 47.14% Al2O3 37.09% Fe2O3 0.49% MgO 0.83% CaO 0.57% K2O 7.10% Na2O 0.35% H2O 5.18%
②野呂春文ら 「粘土試料のEPMA分析」鉱物学雑誌 15巻特別号p46(1981.3)
Table1 ハロイサイト(岐阜県中津川産) SiO2 45.10% Al2O3 38.55% FeO 1.18% H2O 14.69%

図. 「阿仁銅山働方之図」の「炭灰を踏みて吹床を拵える図」の部分