気ままな推理帳

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口屋の名の由来

2019-03-24 19:51:30 | 趣味歴史推論
別子銅を運ぶ船の船主である濱井筒屋は、切上り長兵衛の死に様を知っている可能性が高い。新居浜口屋に関係する人や文献から井筒屋に迫れないかと考え、まず口屋を知る事にした。口屋跡記念公民館発行の「口屋」には、口屋の歴史と役目は以下のとおりに記されている。1)
「別子銅山の銅の運搬路は、当初、別子から小箱峠を越えて宇摩郡天満浦に出る嶮しいコースであったが、元禄15年(1702)、銅山峰から角石原に出て馬の背を通り、立川の渡瀬~角野~泉川~金子を通り新居浜に至る約18kmの輸送路を完成し、同年8月に「浜宿」として別子銅山の「口屋」を設け、銅山用の百貨、食料等の一切を収納し、物資供給の基地とした。また、この口屋には別子一帯の天領を支配する川之江代官所の役人と住友家の手代が常駐して、入港する船の積み荷の検査、浜倉への格納、牛馬による銅山輸送等の業務を担当した。銅山から口屋へ下ろされた粗銅は、製錬のため大阪の住友銅吹所へ船送りされた。」

なぜ「口屋」というのかという疑問が浮かび、名の由来を調べたので、覚のためにこのブログに残しておく。元禄15年以前で、「口屋」をネット検索し、3か所で見つかった。
石見銀山(絵図)と佐渡金山(絵図)と山ケ野金山(遺跡の表示物)である。
1. 口屋の表示があった所
(1)石見銀山絵図2)3)
元和3年~5年(1617~1619)作成の「石見国絵図」の佐摩郷石見銀山部分→図1
間歩、床、銀蔵などの山内を5kmに及ぶ木柵で囲っており、そこから外への出口に10ケ所の口屋が見られる。
反時計まわりに 1.蔵泉寺口屋(ぞうせんじくちや)2.吉迫口屋(よしさこくちや)3.畑口屋(はたくちや)4.坂根口屋(さかねくちや)5.栃畑口屋(とちはたくちや)6.荻峠口屋(をぎのたをくちや)7.本谷口屋(ほんだにくちや)8.水落口屋(みずおちくちや)9.曽根口屋(そねくちや)10.清水口屋(しみずくちや)がある。
また 清水口屋から続く道の途中の白杯には、単に「口屋」と表示された通り門と家屋がある。
(2)佐渡国絵図4)
天和年間(1681~1684)作成と推定されるこの絵図には、海岸縁に、夷口屋(えびすくちや、北東方向)、赤泊口屋(あかどまりくちや、南東方向)、羽田口屋(はねだくちや、西方向)、大間口屋(おおまくちや、西方向)が見てとれる。→図2

(3)山ケ野金山(遺跡の表示物)5)6)
山ケ野金山エリアに入ってすぐに「金山口屋(関所)跡」と書かれた柱があり、その脇の表示板に由来が書いてある。
「金山萬覚(古文書)に、長野より二里七丁(八キロ六〇米)柵を結ぶとあるので、開発と同時に設けられたものと思われる。山ケ野東西二ケ所、長野一ケ所とある。東の方は番所といって今も地名で残っている。無手形の者の入山、金の密売、キリシタン等厳しく取り締まった。現県道に通ずる道はこれが本道で、下の道は明治期谷頭に製錬所が出来る時、機械を運ぶ為に作られたのでシンミチという。下に続く道を口屋道といった。 山ケ野区会」

「口屋」とは柵内から外部へ通じる道の出入り「口」に設けた家「屋」である。石見銀山の口屋(番所)の大きさは、間口3間、奥行き2間の平屋であった。7) 「口屋」は広くは天領内で金銀鉱山の区域からの道路や船輸送の海岸縁にも設けられた。

2. 名称の変遷
 口屋→(口番所)→番所
(1)石見元和絵図(1617~1619)では、10ケ所の「口屋」表示が、正保(1642)「石見国絵図」では、柵内からの出口には門と家屋が描かれているが、単に「坂根口」などのように「〇〇口」表示に、8) 天保石見国絵図(1835~1838)では、6ケ所の「番所」表示に変わっている。また柵内の中心部の幹道に1ケ所「番所」表示がある。いずれも道を挟んだ門とその脇に平屋が描かれている。9)
(2)正保佐渡國絵図(1645~1647)で下相川に4ヶ所の「口屋」表示があり、10) 天和佐渡国絵図(1681~1684)で「口屋」表示されていた所が、天保佐渡国絵図(1835~1838)では、柴番所、大間番所、材木町番所、羽田番所、下戸番所、夷町番所と「番所」表示に変わっている。11)

3. 口屋の役と名付け
毛利氏支配の天正9年(1581)「石見銀山納所高注文」では、石銀口役銭80貫(銀6.25枚)に対し、江戸幕府の大久保長安が引き継ぎ支配した慶長5年11月の「石見国銀山諸役銀請納書」では、銀山本口屋役銀2,000枚と極端に増えている(請人:住吉屋三右衛門組7人衆)。産銀に関わる間歩役銀8,058枚、汲銀役銀・炭役銀6,000枚と比較しても口屋役銀の大きさがわかる。7)13)14) 運び込まれる米などの必要物資の商売から多くの税がとれることに大久保は着眼したに違いない。そのためであろう、役の名称は「口役」から「口屋役」に変更している。名称を変えて役銀を大幅に上げ幕府に上納させるシステムを大久保長安が作った。このシステムをすぐに佐渡金山にも適用して、人・米・産出金などの船での輸送口である海岸縁の港にも「口屋」を設けた。12)
大久保長安は「口屋」の名づけ親だろう。少なくとも「口屋」に重要な意味を持たせ、使わせた人であることは間違いない。

4. 口屋の役目
口屋の役目は、幕府天領の金山銀山に出入りする人・物・産出金銀・鉱石の監視、管理統制、税徴収である。請人は口屋役銀を上納した。出入りする商人からは税として「歩一運上」を徴収した。天領内の周辺の村に設置された「口屋」では、物流の中継地点として外からくる物資とともに領内で生産された物資商品に関わる役銀を徴収した。

5. 推論のまとめ
 口屋とは、石見銀山の柵内からの出(入)口門の脇に設けた家屋のことをいう。江戸幕府奉行大久保長安が慶長5年(1600)に石見銀山を天領として人・物・産出銀を監視管理統制する際、物である家屋とその役職を表すものとして「口屋」と名付け、地役人と共に業務をおこなう請負人に多額の役銀を上納させるシステムを作った。他の金山・銀山にもこのシステムは適用され、佐渡金山では人・米・産出金などの船での輸送口である海岸縁の港にも作られた。新居浜口屋は佐渡金山にあやかることを願って名付けられた。江戸中期以降、業務の変化により「口屋」は一般的な呼び名の「番所」にとって代わられたが、新居浜では「口屋」の名が残った。

6. おわりに
石川勉氏(元マイントピア別子を楽しく育てる会会長)に、2019年3月20日お会いして、氏が10数年前に書いた説明文の中に「「口屋」とは幕府の管轄区域の「出入り門」のことで関係者以外は出入り出来ない。一般に出入り門を「〇〇口屋」と呼ばれていたが、新居浜では「口屋」だけの言葉が残っている。」とあるが、その根拠を尋ねた。その答えは、「松江に行った時、松江の先生に勧められて見にいった展示会で、石見銀山絵図(筆者の推定では、元和絵図)に、銀山を囲む柵の出入り口に「〇〇口屋」と書かれたところが数か所あった。これで新居浜口屋の名の由来がわかった」でした。筆者は、ネット検索で絵図を見つけて、同じような結論になりましたと申し上げた。

注 引用文献など
1. 編集・発行 新居浜市口屋跡記念公民館 「口屋 ~現在・過去・未来~」p6(平成23.3 2011)
2. 川村博忠 元和年間作成の石見国絵図について 歴史地理学 41- 3 (l94)40~54 (1999.6) 
「 江戸幕府は、近世を通して石見銀山のすべてを幕府の直接支配下においていた。この絵図は、江戸初期のころ最盛期にあった石見銀山の様子を克明に描いている。現在では一般に大森銀山と呼ばれている旧銀山である。この佐摩郷の銀山は16 世紀前半期、天文年間の本格的な開発以来、永禄 5年(1562) に毛利元就によって占有されるまでおよそ30 年間に及んで、周防の大内氏、石見の小笠原氏、出雲の尼子氏など戦国大名の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。慶長 5年(1600) の関ヶ原の戦いの後は徳川家康によって接収され、以来幕府が派遣した代官によって銀山の経営が行われた。 初代の銀山奉行として石見に入った大久保長安が、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を新たに開いて銀山開発に努めた結果、慶長から寛永期にかけての産銀量は年間8千貫から1万貫ほどもあったと推定されていて、この頃が石見銀山の最盛期であったとみられている。この絵図によると、佐摩郷の銀山は集落を含めた谷間の地域一帯に広くめぐらした木柵列によって囲まれている。一般に江戸時代にはこの柵列でとり囲まれた鉱山地域を山内(さんない)と呼んで在方と区別し、柵列の総延長は5,147mにも及んでいたという。山内の中央部を南から北へ貫流する銀山川の谷筋にそって主要街道(銀山街道)が通っており、街道の両側に街村状の家並みがぎっしりと描かれていて、町的集落の形成を窺わせる。山内から外に抜ける道筋10ケ所の出口にはいずれも「口屋」と記す番所が設けられていて、木戸と番屋の絵が描かれている。主要道が「佐摩」村へ抜ける出口には「蔵泉寺口屋」、温泉津方面へ向かう出口には「坂根口屋」と記すように、10 ケ所の口屋 にはいずれも名称がつけられている。」
3. 監修田中琢 編集江田修司 「石見銀山」別冊太陽p109 (平凡社 2007.11)
元和3~5年(1617~1619) に作成された「石見国絵図」(浜田市教育委員会所蔵)→図1
4. ホームページ 佐渡市産業観光部 世界遺産推進課文化財
 佐渡の文化財>県指定文化財32 >佐渡国絵図(天和) →図2
5. ホームぺージ「気ままに鉱山・炭鉱めぐり」>山ケ野金山(2010.4)
「山ケ野金山 
 本金山は寛永17年(1640)宮之城領主島津久通により発見された。藩はすぐ幕府の許可を得て採掘にかかった。藩内外から多数の人々が集められた。本山は地表に金が凝集していたといわれる。幕府はその産出量の余りに多きに驚き、2年余りにして金山の停止を命じてきた。困った藩は再三許可を願い出たが許されず、13年間明暦2年(1656)漸やく採掘を許可した。金山の再開が始まった15の鉱山所、36の町、人口1万2千人と古文書は伝えている。田町に九州三大遊郭の一つが出来たのもその頃である。然し始めの乱獲や地表の金もだんだん少なくなり、採金にも技術を要する様になったので、金の先進地大分の金山より多数の技術者が呼ばれた。然し元禄(1688)以後はとみに産金量は減じていったが明治迄1年も休山する事なく藩財政を潤してきた。---以下略  山ケ野区会」
6. ホームページ「ワシモ」>旅行記>山ケ野金山 (2007.4)
7. ホームぺージ「島根県名所案内」>リスト>大田市>石見銀山遺跡>石見銀山資料>番所跡 絵図から平屋であるが構造は不明
8. 正保2年(1645)作成の「石見国絵図」(津和野町教育委員会所蔵)
 「石見銀山歴史ノート」ふるさと学習誌 銀の道振興協議会発行(平成11.3 1999)
 20110324153859.pdf
9. 国立公文書館デジタルアーカイブ
天保石見国絵図(1835~1838)
10. 近世絵図地図資料集成(第15巻・第16巻)地図リスト (科学書院 2013)
 佐渡國 021 所蔵機関:国立公文書館 通し番号:SM-021-01~02 04689~04690
正保佐渡國絵図(1645~1647)
筆者は絵図を見ていないので、解説文をそのまま載せる。
「西部の雜太郡に属する下相川村付近に、鉱山口、住宅などが配置されていて、海岸縁には四か所の口屋が設置されているのが見て取れる。口屋とはおそらく物流の中継地点とも言える施設で、ここから船を仕立てて、金銀を江戸などへ回送したと推定される。口屋は、他に、南部の赤泊、小木にも設置されていて、金銀のみではなく、他の農産物や漁業資源などの交易を担った港湾と定義してもさしつかえないであろう。北部は佐渡山地、南部は小佐渡丘陵で、山岳地帯の観を呈し、---以下略」
11. 国立公文書館デジタルアーカイブ
天保佐渡国絵図(1835~1838)
12. ブログ「佐渡広場」(2012.3.18) 《参考》佐渡廻船業の発達史 
1600年初期佐渡が徳川の直轄地(天領)になってから、初代奉行大久保長安は、島内の主要な湊に口屋(=番所・役所)を設け、即ち諸国から入ってくる貨物に対し役銀10%を取り立てた。  
・当時番所が置かれた湊は11ケ所。 相川で5ケ所(大間・羽田・材木町・海府(柴町)・上相川)、沢根・五十里・松ヶ崎・小木・夷湊・赤泊。
・どの口屋(番所)にも荷受け業務にたずさわる問屋衆(水揚)がいて、口屋衆と呼ばれた番所役人を派遣して、脇売りを監視し、役銀を徴収。
 例:(相川)大間口屋の問屋は、京屋次左衛門・橘屋重右衛門ほか9人。岩谷口の船登源兵衛船の積荷状などから、廻船の付船問屋が決っており、問屋は奉行所御用商人との一定の取引関係があったとされる。船登船の場合、羽田口屋の桝屋六右衛門を付船問屋にし、桝屋は御用商人の山田吉左衛門に商品を卸していた。また現物納入された入役(色役)は、番所の御蔵納蔵で保管され、大間の勝町でせり売りをして運上蔵に納入。(廻船(運送)業者-問屋-御用商人-役所)
13. 原田洋一郎「石見銀山周辺における「町」を持つ村の基礎的研究」東京都立産業技術高等専門学校研究紀要Vol.4 p91(2010.3) KJ00006858239
 吉岡家文書慶長5年11月「子歳石見銀山諸役銀請納書」より作成した役銀一覧表がある。
14. Wikipedia 
大久保長安(江戸幕府勘定奉行 天文14年(1545)~ 慶長18年(1613)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。
図1.

図2.


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