気ままな推理帳

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山下吹(11) 山下吹の発明者は?

2020-09-27 09:15:40 | 趣味歴史推論
 西尾銈次郎は、山下吹が摂州多田山下村で、文亀永正(1501~1520)の頃、平安家の銅屋新右衛門によって発明されたとの説を提唱した。(山下吹(10))
今回は、山下吹の発明者の候補を挙げ、山下吹を広めた人を推理する。

1. 猪名川町史1)と川西市史2)から、山下町の吹屋年表を作成した。
 ①その年に記録のあった人は〇で示した。
 ②同じ発音の人は、漢字が違っても同一人物とした。例:二郎兵衛と次郎兵衛、二郎右衛門と次郎右衛門と治郎右衛門、宗左衛門と惣左衛門、など 欄には 次、惣などと違った漢字のみを記した。 
 ③屋号が付いたら屋号のみを記した。屋号無しの場合は〇のみ。例:新右衛門の欄 〇のみは新右衛門、 〇銅屋 は銅屋新右衛門をあらわす。

表 山下町の吹屋年表

この表からわかることを以下に列挙する。
 1. 山下町の吹屋の記録は、天和3年(1683)が最初であった。
 2. (銅屋)新右衛門は、正徳6年(1716)からありその年は山下町吹屋年寄であったが、元禄3年~宝永7年(1690~1710)には、なかった。よって銅屋新右衛門は山下吹の発明者の可能性はない。
 3.  山下町の吹屋数は、元禄3年~宝永7年(1690~1710)に13軒が最も多く、寛政9年(1797)以降は3軒(銅屋、伊勢屋、伊保屋)となり、明治には銅屋1軒になった。銅屋は、昭和まで山下吹を継承してきた吹屋である。
 4. 前報の吉岡銅山の真吹実施時期からみて、天和3年(1683)には、山下町の吹屋は真吹をしていたと考えられる。その吹屋は、次の6軒である。
  角兵衛、太郎兵衛、弥右衛門、二郎兵衛、長兵衛、三郎右衛門。この6軒の当主、先代(父)、先々代(祖父)が山下吹(真吹)の発明者である可能性がある。

2. 広義の山下町の内、吹屋のあったのが北側の下財屋敷であるが、天和、元禄時代の下財屋敷の絵図はないので、参考のためにかなり後の絵図を図1、図2に示した。
 図1は、天保14年(1843)下財屋敷絵図で、北西部に(銅屋)新右衛門が見え、山下町に接する南端中央に「銅山御役所屋敷」(山下役所)が見える。吹屋は2軒しか見られない。
 図2は、同じく下財屋敷絵図であるが、年代が書かれていない。3本煙突の吹屋が3軒あることと吹屋年表から推定すると、寛政9年~天保5年(1797~1834)頃か。北西の吹屋は銅屋新右衛門、中央西端の吹屋は伊勢屋三郎兵衛、南西の吹屋は伊保屋利兵衛(利平)か。

3. 鉱山間歩に大きな良い鉱脈が見つかれば、その近くの吹屋は栄える。銀山町吹屋と山下町吹屋は、近くの間歩の盛衰に対応して、吹場を移して仕事を続けた者もあるのではないか。
正保国絵図(1644~1651)の写しとされる「摂津河内国絵図」の山下町と銀山町付近を図3に3)4)、山下町と銀山町と多田銀銅山間歩の位置関係を示す.図を、図4に5)示した。両町間は15km位あったろうか。
多い時期の吹屋の数は、銀山町の寛文6年(1666)に76軒、山下町の元禄3年(1690)に13軒であり、このことより、多田銀銅山では、小さな規模の多数の吹屋で成っていたことが分かる。また寛文6年の銀山町の吹屋54軒のうち49軒が「かたき吹床」であることより、製錬技術が吹屋仲間に広く伝わっていたと思われる。(山下吹(4))

4. 山下吹(真吹)が発明された可能性が高い慶長~元禄の銀山町と山下町の盛衰と吹屋の動向
 ①慶長期
 慶長十年摂津国絵図に大きく「山下町」と表示されていることから、この時に栄えていたと推測される(山下吹(1))。慶長15年(1610)の山下町甘露寺縁起に「慶長年中下財繁昌依而甘露寺屋敷替被仰付下町只今所移」との記述があ り、この頃に製錬業が盛んになった為、甘露寺が現在地に移転した。「山下甘露寺あて片桐且元書状」から、この移転は慶長七(1602)年には完了したと思われる。6)7)
 ②寛永期
 多田屋市郎兵衛は寛永2年から多田銀銅山で吹屋をしていて、寛文5年(1665)から大坂で銅吹屋を開業し、元禄14年(1701)の銅吹屋18軒の一つになった。8)
 ③寛文期
山師兼吹屋の年寄津慶吉兵衛(つよしきちべえ)が、万治3年(1660)大口間歩の誉田屋敷で銀の大鉱脈を発見し、これをうけて寛文2年(1662)に銀山役所が開設された。最盛期の寛文6年(1666)の銀山町の吹屋(ほとんどがかたけ吹床)は76軒にのぼった。吹屋の筆頭に、本町市郎兵衛の名が見える。また中頃に山下八兵衛の名があり、山下町出身の八兵衛なのであろう。吹屋の場所や出身地が付けられている者とともに、すでに屋号のついた者もある。
 ④元禄期
 銀山ではなく銅山稼ぎが主流となった多田銀銅山では、銅製錬の中心が、銀山町から山下町に移ったことに対応して山下役所が、元禄元年(1688)または元禄3年(1690)に設置された。9)10)
 山下町の次郎右衛門は、民田村山内の4銅山を元禄8年(1695)から宝永3年(1706)にかけて稼行した。11)

考察
 山下吹(真吹)の発明者を文献上で探したが、特定はできなかった。寛文6年の銀山町のほとんどの吹屋がしていた「かたけ吹」が山下吹(真吹)を含むものなら、山下町で山下吹(真吹)を発明した者が、寛永~寛文にかけて銀山町に移り、仲間に山下吹を教えた可能性が高いと推理する。銀山町の吹屋年寄や役人の呼びかけでこの技術が広まったのではないか。
 全国的の広まりについては、大坂の銅吹屋仲間が絡んでいたのではなかろうか。小吹屋多田屋市郎兵衛は、元文・寛保ごろ(1736~1743)、越前面谷銅山の稼行を請負った。小吹屋平野清右衛門は寛永8,9年頃の開業と伝える銅屋であり、万治元年(1658)から8年間備中吉岡銅山を稼行し、銅吹屋でもあった。8) このように、銅屋仲間は、大坂で吹屋をしながら、銅山の稼行をしているから、各地の銅山への技術伝搬や人の移動に係ったであろう。

まとめ
 1. 山下町吹屋年表を作成した。(銅屋)新右衛門は、正徳6年(1716)から記録がありその年は山下町吹屋年寄であったが、元禄3年~宝永7年(1690~1710)には、なかった。よって銅屋新右衛門は山下吹の発明者である可能性はない。
 2.  天和3年(1683)に記録された、角兵衛、太郎兵衛、弥右衛門、二郎兵衛、長兵衛、三郎右衛門の6軒の当主、先代(父)、先々代(祖父)が山下吹(真吹)の発明者である可能性がある。
 3. 寛文6年の銀山町の吹屋の先代や先々代も発明者である可能性がある。

 4. 山下吹の全国的な広まりは、多田銅銀山吹屋の移動とともに、大坂の銅吹屋が絡んでいるのではないか。

注 引用文献
1. 猪名川町史第5巻 多田銀銅山史料編(小嶋正亮執筆)(平成3年 1991)
2. 川西市史第2巻(八木哲浩執筆)(昭和51年 1976)
3. 「摂津河内国絵図」(国立国会図書館所蔵)国立国会図書館デジタルコレクション
4.  web.「八軒家かいわいマガジン」(大水都史を編み後世に伝える会運営)(2015.2.28)
 国立国会図書館所蔵「摂津河内国絵図」の成立年代は不明であるが、大分県竹田市立図書館所蔵の「摂津国絵図」と酷似しており、共に「正保国絵図」を写したのではないかと考えられている。元になったと思われる「正保国絵図」は1644年から作成が始まり、完成は1651年以後とされている。
5. 川西市史2 p446 図13旧多田銀銅山間歩跡位置図
6. 川西市史2 p77,70
7. web. 中島康隆「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」東谷ズム 第10回(2018.2)
8.  住友史料叢書 「銅座公用留・銅座御用扣」解題(今井典子)p1(昭和64年 1989)
9. 「摂津国多田銀山御役所古来勤方大概」の「山下御役所之事」 元禄元年(1688)代官万年伝兵衛の時 猪名川町史5 p86 猪名川町史では元禄元年を採用している。猪名川町史2 p66
10. 「摂州川辺郡多田銀銅山諸御用留」の「山下町御役所御普請覚書」(享保14年(1729)署名)において、元禄3年(1690)代官 設楽喜兵衛の時 猪名川町史5 p462 川西市史2 p148 川西市史では元禄3年を採用している。
11. 「摂津多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」猪名川町史5 p7

図1. 天保14年(1843)山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史7 p296 図62天保14年山下町絵図)


図2.  山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史2 巻頭写真5 山下町粗絵図)


図3. 「摂津河内国絵図」(国立国会図書館所蔵) 正保国絵図(1644~1651)の写しらしい


図4. 山下町と銀山町と多田銀銅山間歩の位置関係を示す図 (川西市史2 p446 図13旧多田銀銅山間歩跡位置図)


山下吹(10) 西尾銈次郎の山下吹

2020-09-20 08:32:05 | 趣味歴史推論
 西尾銈次郎(にしおけいじろう)は、明治31年(1898)東大採鉱冶金学科を卒業し、農商務省札幌鉱山監督署技師となった。明治43年(1910)から日本鉱業会誌編集委員。昭和38年(1963)逝去 92才。1) 明治44年(1911)~大正13年(1924)に日本鉱業会誌に発表した諸論文を基にして、西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)を刊行した。この本は古代からの鉱業史として広く引用された。
 西尾は、山下吹が摂州多田山下村で、文亀永正(1501~1520)の頃、平安家の銅屋新右衛門によって発明されたとの説を提唱し、それが、あたかも史実であるように書くに至った。この経緯をたどってみる。

1. 西尾銈次郎が明治44年(1911)日本鉱業会誌に発表した「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」には以下のように書かれている。2)
(1)緒言 の一部分 (→図1)
 かの銅精錬における山下真吹法の発明は、その年代不明にして、これを研究するは興味ある問題というべし。先輩諸氏の大なる苦心の結果今日まで知られたる所によれば、真吹法中別子銅山に行われし伊予真吹なるものは、真吹中その起源最も古きかごとし。故に同銅山にて同法を採用されたる年代を調査せば、真吹法発明の年代もまたこれより推測し得べきものならんと。しかれども尨然(ぼうぜん)たる住友氏300年の記録を検するは、容易の業にあらず。未だこれを決行したるものなし。同銅山の開坑は元禄3年(1690)なれば真吹法採用はもとよりそれ以後の事に属すべし。今回鉱業誌の編述をなすに当たり、摂州の多田山下村旧家平安氏について調査せり。しかれども不幸にして旧記の存するものなく、ただ口碑に依りて同所の製錬所は文亀永正の頃(1501~1520)銅屋新右衛門の創始せしものなること、および真吹をなすに至りしは元禄年間ならんとのことを知るを得たり。これ前説と符合するものなり。しかれども予は「生野銀山旧記」を検閲したるの際、左記の記事を発見せり。
「寛永9年(1632)摂津国能勢より長兵衛、庄兵衛というもの来り、「かたけ吹」を致す。銀山の買吹はこれより「かたけ吹」をして石床止む。銅を主として銀絞り上る故、昔の上灰吹よりこれ以後の灰吹は少し悪しく、何と吹き抜きても気強きより銀かたし。」
 かたけ吹とは如何なる吹方なりや現時において知るものなし。これ銅分多き鉱石を取り普通山下吹にて処理し鈹より還元法をもって銅をとり後南蛮絞りにて銀を取りしにはあらざるかの疑いあれども、記事は後世同銀山にて大吹法として行われたる。銀垂れ薄く主に銅ある鉱石と、銅気少なしもなき銀鉱石とを皷錬せし真吹法と大いに類似せる趣あるより考えれば、予はこのかたけ吹なるものは真吹法にはあらざるやの疑を抱くものなり。いわんや同旧記には同銀山においてかたけ吹流行せし以来、近傍の山畠荒廃せし状記載しありて、真吹伝来後硫煙にわかに旺発せるの状眼前に彷彿たるの感あり。もししかりとせば、銅屋新右衛門創業の当時すでに業にこの法を行いおりしや、またその後発明されたりやは不明なれども、文亀元年(1501)より寛永9年(1632)に至る132年の期間において発明せられたるものと考えらる。ここに注意すべきは、同時代たる外舶しばしば我が辺海に渡来し我が勘合船もまた支那と通商せしのみならず、遠く安南カンボジアおよび前インドに航せるの際にあり。且つ摂津多田の地たる当時の交市場堺港に近きを見ればこの真吹法もまた本邦創始のものにあらずして、彼の南蛮吹と異名せらるゝ流動法(?)の如く泰西より輸入せられたるものにはあらざるやの疑なきにあらず。而してこの法、彼にありては一旦忘却せられ19世紀の終に至り再びベッセマー法として大発展をなせしにはあらざるや。以上は、予の想説を述べたるに過ぎずして、他日十分なる研究をなすべきものなり。

(2)第2章第2紀((長保3年(1001)~天正10年(1582))の一部分 
殊にここに特筆すべきは、銅冶金に一大進歩をなしたることなりとす。すなわち今日といえども吾人の未だベッセマー法を採用するに適せざる程度の鉱山のおいては、最も資本を要せざる簡易なる鈹吹法として採用せる山下吹法は、明治維新の後、大いに改良せられてその能率を増し及び燃料消費額を大いに減ずるに至れり。この大発明は実に文亀永正(1501~1520)頃、銅屋新右衛門なるもの摂津国多田山下村に製錬所を創設せし頃より起れるものなり。けだし従来は素吹より得たる鈹は、まずこれを焙焼し、しかる後平炉のおいて木炭を加えて還元し粗銅となせるものなりき。しかるに新法においてはあらかじめこれを焙焼することなく平炉に入れ木炭火を用い強風を加え鉄及び硫黄を酸化し去るものにして今日のベッセマー法と全くその理を一にせるものなり(初めてこの法の発明されたる時代においては、1炉に付き鈹60~70貫を処理せり。而して職工としては吹大工1人指子1人を要したり)。当時この法は旧法に比して時間及び経費を節約すること著しかりしを見て西国の諸銅山漸次これを採用し、以て大いに製銅業の面目を一新するを得たり。

2.  西尾銈次郎が大正10年(1921)日本鉱業会誌に発表した「古代に於ける鉱山技術の研究」には以下のように書かれている。3)
 銅の古代製錬法 の一部分 
摂津川辺郡山下村の製銅の旧家たる平安邦太郎氏が鉱山局に差出したる覚書によれば、「同地方のおいては、明治初年の頃まで、「野吹き」と称して、銅鉱産地にて製錬することを許されたり」、「祖父よりの伝聞には、元禄年間真吹方法が発明せられざりし以前においては、銅鉱または銅鈹は再三焙焼して、銅を尻抜きになしたるものなり」とあり。 

3.  西尾銈次郎が大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した「日本古代鉱業史要(後編)」には以下のように書かれている。4)
文亀永正(1501~1520)の頃、銅屋新右衛門摂津国多田山下村に於て製錬所を設けて、この法(酸化製錬法)を改良せり。この方法たる酸化製錬法にて鍰を除きつゝ素吹に達し、ここにて一旦銅鈹を剥離し、作業を中止し、この方法を反復して銅鈹を集め、適量に達したる時、これを更に炉に装入し、木炭の火力にてこれを熔融して硫黄分を駆逐し、鉄分は銅鈇(どぶ)となりて除去せられ、遂に粗銅を作るに至る。この時代に於て、吹大工1人指子1人にて1炉に付き鈹60~70貫を処理したり。この方法を称して「山下吹き法」といえり。

 明治44年(1911)~大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した諸論文を基にして、西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)を刊行した。
4.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」(昭和18年 1943)には以下のように書かれている。5)
 前掲3の大正13年(1924)日本鉱業会誌に発表した「日本古代鉱業史要(後編)」と完全に同じ文章である。

考察
1. 西尾の山下吹は、山下吹(8)の渡邊渡の山下吹にならっている。山下吹は真吹に相当する吹きで、鉄を少し含んだ銅鈹(Cu2S)を熔けた状態にして、空気を吹き込み硫黄(S)分を酸化して銅を得る工程である。銅のベッセマー法と考えられる工程である。
2. 西尾は、明治の山下町で唯一製錬業を営む平安家を調査し、「平安家の祖先である銅屋(屋号)新右衛門が文亀永正(1501~1520)の頃、製錬所をはじめた」「真吹をなすに至りしは元禄年間ならん」という口伝を根拠に.山下吹の発明者が銅屋(屋号)新右衛門としている。しかしこの文を良く読むと、「製錬所を建てたのは、銅屋新衛門であり、真吹を始めたのは元禄の頃」と述べているだけで、「銅屋新右衛門が発明した」とは記していない。
3. 山下吹の発明の時期は、最初は「文亀元年(1501)より寛永9年(1632)に至る132年の期間において発明せられたるものと考えられる」と記していたが、同じ論文の後の方では「この大発明は実に文亀永正(1501~1520の)頃、」と確かな根拠も示さず限定している。説であったのが、いつのまにか、史実であるようにとれる文になっている。
4. 平安邦太郎6)が鉱山局に差出したる覚書とは、日向国槙峰鉱山を経営するにあたり、提出したものではなかろうか。「槙峰鉱山の発見および沿革 旧記のよるべきものはなく発見の時代は詳ならず。山上各所に旧坑の存在するをもって、昔時稼業の跡を想像するに過ぎず。降りて明治21年(1888)中、摂津の人平安邦太郎なるもの来りて槙峰鉱山を再興せしと雖も、只旧式採冶法により稼業せしに止まり微々振るわず」の記録7)があることから推測した。
その覚書に「祖父よりの伝聞には、元禄年間真吹方法が発明せられざりし以前においては、銅鉱または銅鈹は再三焙焼して、銅を尻抜きになしたるものなり」とあるが、これは、真吹法が発明される元禄以前は、鈹を再三焙焼して酸化銅に代えてから、炭で還元して銅を得ていたということを意味するのであろう。平安邦太郎は、祖父からの伝聞により、山下吹(真吹)は元禄年間に発明されたと理解していることを示す。しかし西尾はなぜそれを採用せず、文亀永正(1501~1520)の頃を採用したのであろうか。もっとも、どちらも文書記録ではないので、信憑性に欠けるが。
4. 西尾は、南蛮吹は、永正大永(1504~1526)の頃、博多の人神屋壽貞によって開発されたと「日本鉱業史要」に記した。8) しかし住友修史館の「泉屋叢考」は、この壽貞開祖説を論理的に否定した。そして住友家の業祖蘇我理右衛門壽濟が慶長年中位に南蛮人からその法を教わり、以後自ら種々工夫を重ねて、実際上の成果を得るに至ったとするのが穏当であろうと結論した。9) 西尾は証拠とした史料の吟味が不十分で、想像力たくましく解釈してその推測から導かれた説をあたかも史実であるように書くことがあるようだ。
5.  山下吹の発明時期について
山下吹は、真吹を指すとする。西尾の時代より情報が多く正しくなってきた現在から見て、筆者の考えを述べる。根拠は、山下吹(1)~(5)である。
①山下吹(1)より 発明場所(製錬所)を「山下村」としているが、山下は、村の時代はなく城下町として成立したので、初めから「山下町」である。広義の山下町の一部である下財屋敷に製錬所はできたのである。山下町が完成したのは、天正2~5年(1574~1577)の頃であり、天正16年(1588)頃に廃城となり、しばらくして下財屋敷として吹屋が設けられるようになったのは、慶長初期ではないかと推定される。よって発明時期は、慶長以降と推定される。
②別子銅山の真吹は、元禄4年(1691)からであるが、泉屋はその前、天和元年(1681)から吉岡銅山を稼行しており、貞享2年(1685)に代官後藤覚右衛門に提出した覚書に「真吹銅」の文字があることか貞享2年(1685)に真吹が行われていたことが分かる。10) この真吹の元は、多田の山下吹の可能性が高い。
③山下吹(2)より 「宝の山」宝永元年~元文5年(1710~1740)の多田銀銅山では、かたき吹で、山下吹であった。
④山下吹(5)より 寛延2年(1749)の多田銀銅山「鉑石吹様之次第」には、1工程として真吹が記されている。この吹様はかたけ吹であると思われる。
⑤山下吹(4)より 寛文6年(1666)の多田銀銅山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であった。
⑥山下吹(3)より 生野銀山にかたけ吹が伝わったのが寛永9年(1632)で、山下吹(真吹)であった可能性がある。
⑦かたけ吹には南蛮吹が必須であるが、多田銀銅山で南蛮吹が寛永元年(1624)当時可能であったかを検討すると、慶長年間に泉屋で開発された方法が多田へ伝わった可能性が考えられる。同時期に蘇我壽濟と同じような人が多田にもいた可能性もゼロではないが。
まとめ 
 多田銀銅山のかたけ吹の始まりは、南蛮吹と生野銀山への伝わりの時期から、寛永9年(1632)以前であると推測できるので、当初から山下吹(真吹)を含んでいたら、山下吹(真吹)は、慶長~寛永9年(1596~1632)の頃に発明されたといえる。もしまだ真吹を含んでいないのであれば、寛永9年~天和元(1632~1681)に発明された可能性が高いといえる。また寛文6年(1666)の多田銀銅鉱山のかたけ吹床は、真吹である可能性が高い。

次回は発明者について検討したい。

注 引用文献など
1. web. 冶金の曙>資料庫>冶金鉱業史関係>日本鉱業史要
2.  西尾銈次郎 「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」日本鉱業会誌別刷(明治44年8月 1911)
 Web. 「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」国立国会図書館デジタルコレクション
 これは、「維新以前ニ於ケル本邦ノ鉱業」同誌 27巻312~318号(明治44年2月~8月 1911)に発表したものである。
3. web. 西尾銈次郎「古代に於ける鉱山技術の研究」日本鉱業会誌434号p235~4(大正10年1921)
4. web. 西尾銈次郎「日本古代鉱業史要(後編)」日本鉱業会誌468号p170(大正13年1924)
5.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」p43(十一組出版部 昭和18年 1943)国立国会図書館デジタルコレクション
6.  平安邦太郎の経歴
 ①小川功「大正バブル期における起業活動とリスク管理」滋賀大学経済学部研究年報Vol.10 p24 脚注98)(2003)
「平安邦太郎(東谷村下財屋敷)は山下精煉所主(能勢電鉄『風雪六十年』p55),大正7年能勢電気軌道専務,猪名川水力電気発起人,花屋敷土地,北摂銀行各監査役(要録Tll役p211)」
②Web版尼崎地域史辞典apedia  明治42年(1909)川辺郡東谷村(現川西市)の野原種次郎・平安邦太郎らが、猪名川水力電気株式会社を設立した。
7.  web. 槙峰鉱山現況 日本鉱業会誌 24巻283号p944(明治41年1908)
8.  西尾銈次郎「日本鉱業史要」p132~139
9. 泉屋叢考第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」(住友修史室 昭和30年 1955)
10. 気ままな推理帳「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石源の添加はなかった?(5)」(2020.3.22)
図1.  西尾銈次郎「日本鉱業会誌」(明治44年 1911)

山下吹(9) 山下吹、奥州吹での酸化還元反応

2020-09-13 10:52:31 | 趣味歴史推論
 このブログは 筆者のメモ書きである。間違っているところがあるかもしれない。おかしいところを見つけたらご指摘いただければ幸いです。
メンデレーフ周期表が提案されたのが1869年(明治2年)であり、酸化数で酸化還元を論じるようになったのはもっとあとであろう。明治時代には反応式や生成物の組成を見極めることも容易ではなかったであろう。銅製錬の反応式は「近世住友の銅製錬技術」などを参考にした。1)4) 白鈹Cu2Sへ空気を吹き込んでCuが生成する主反応は、Cu2S+O2→2Cu+SO2 の直接的な反応であるとのことである。まさに銅のベッセマー反応である。

黄銅鉱CuFeS2における金属原子の酸化数は、Cuの+1、Feの+3が妥当である。2)すなわち、CuFeS2 は Cu2S・Fe2S3 である。ここで、Cu+1 , Fe+3 , S-2 が酸化数である。
黄鉄鉱FeS2のS2は2原子イオン(S-S)-2 である。ここでS-Sは共有結合。 よってFe+2 ,(S2-2 が酸化数となる。3)
では黄銅鉱中のCu+1, Fe+3, S-2 及び黄鉄鉱中のFe+2,(S2-2 が炭Cと空気中のO2によって、各工程でどのように酸化数が変化するのかを調べる。どの原子について酸化された、還元されたといっているかが、従来の解説では分かりにくい。一方が酸化されたら、他方が還元されたことになるので特にそうである。

別子銅山の製錬を反応式、反応生成物、各原子の酸化数の変化で見る。
焙焼
1. Cu2S・Fe2S3(Cu+1,Fe+3,S-2) +O2(O2 0) →Cu2S—FeS(Cu+1,Fe+2,S-2)+Fe2O3(Fe+3,O-2)+SO2(S+4、O-2
 Cuは、Cu+1で酸化数の変化なし、SはS-2→S+4と酸化される。その結果Feは、一部Fe+3→Fe+2へ還元されるもの、酸化数はFe+3で変化はないが、S-2より強いO-2と結合を換えるものがある。
2. FeS2(Fe+2,S2-2) +O2 →Fe2O3(Fe+3,O-2) +SO2(S+4,O-2
FeがFe+2→Fe+3へ酸化され、SがS2-2→2S+4へ酸化されている。
黄銅鉱のCu2Sはそのままであり、Cu+1の酸化数の変化はない。一方 黄銅鉱のFe+3は酸化数の変化は少ないが、Cu2Sから離れて、S-2からより強いO-2へ結合を変えて酸化物Fe2O3となる。黄鉄鉱のFe+2はFe+3へ酸化される。いずれの場合もSは、(S-2,S2-2)→S+4まで酸化される。
素吹
1. 焼鉱は、Cu2S—FeS(Cu+1,Fe+2,S-2)+Fe2O3(Fe+3,O-2) から成っている。
 C(C0)+1/2O2(O0)→CO(C+2,O-2) 
Fe+3はCOでFe+2に還元される。FeSはO2と反応してFeOとなる。
 Fe2O3(Fe+3,O-2)+CO(C+2,O-2)→2FeO(Fe+2,O-2)+CO2(C+4,O-2) 
 FeS(Fe+2,S-2)+O2 →FeO(Fe+2,O-2)+SO2(S+4,O-2
FeOはSiO2と反応して、Fe2SiO4 (Fayalite ファイヤライト 鍰 からみ)を形成する
  2FeO(Fe+2,O-2)+SiO2(Si+4,O-2) →Fe2SiO4(Fe+2,Si+4、O-2 
大部分のCuは、Cu2SのままCu+1 で酸化数の変化ないが、わずかのCu2Sが、金属Cu0まで還元される。(床尻銅) 
 Cu2S(Cu+1,S-2)+O2 →2Cu(Cu0)+SO2(S+4,O-2
真吹
1. 銅鈹には少しのFeSが混じっている。それをFeOに変え、SiO2と反応させて鍰をつくり取り除く。
 Cu2S—FeS(Cu+1,Fe+2,S-2)+O2→Cu2S(Cu+1,S-2)+FeO(Fe+2,O-2)+SO2(S+4,O-2
 2FeO(Fe+2,O-2)+SiO2 →Fe2SiO4(Fe+2,O-2
2. 主反応
 Cu2S(Cu+1,S-2)+O2 →2Cu(Cu0)+SO2(S+4,O-2
 S-2→S+4 へ酸化され、Cu+1は金属Cu0まで還元される。(平銅、真吹銅)
反応終期でCu2Sが少なく、生成した金属Cuが多くなると 
 2Cu(Cu0)+1/2O2 →Cu2O(Cu+1,O-2
の酸化反応がおこるが、このCu2O(Cu+1,O-2)は残っているCu2Sと反応し 
 2Cu2O(Cu+1,O-2)+ Cu2S(Cu+1,S-2)→6Cu(Cu0)+ SO2(S+4,O-2
金属銅Cu0へ還元される。

奥州吹
素吹に相当する吹きで鈹(Cu2S-FeS)を取り出し、焙焼窯で酸化し、次に吹床で炭(→一酸化炭素)により還元して、銅を得るやり方である。
鈹の焙焼 Cu2S-FeS +O2 →Cu2O、CuO(Cu+2,O-2) + Fe2O3 +SO2
奥州吹  C +1/2O2 →CO(C+2,O-2
     Fe2O3(Fe+3,O-2) +CO(C+2,O-2)→2FeO(Fe+2,O-2)+CO2(C+4,O-2) 
     2FeO+SiO2 →Fe2SiO4
     Cu2O(Cu+1,O-2),CuO(Cu+2,O-2) +CO(C+2,O-2) →Cu(Cu0) +CO2(C+4,O-2
    
考察など
1.「近世住友の銅製錬技術」には、素吹で Fe2O3+SiO2 → 2FeO-SiO2 の反応式が書かれている。1) Fe2O3(Fe+3,O-2)がFeO(Fe+2,O-2)に変化してからSiO2と反応するのではないか。しかしFe+3がFe+2に還元される反応式が書かれていない。そこで筆者は、Fe2O3+CO→2FeO(Fe+2,O-2)+CO2 であろうとして書き入れた。Oと強く結び付いてFe2O3(Fe+3)になっている大量のものをFeO(Fe+2)に還元できるのは、COではないか。このCOでの還元式が省かれた理由はなにか。
2. 主反応は、Cu2SとO2の直接反応で金属Cuが生成するとされている。1)5)6)など
古くは、2Cu2S + 3O2 → 2Cu2O + 2SO2
      2Cu2O + Cu2S → 6Cu + SO2
の 2段階からなるものとして説明されてきた。 

注 引用文献
1. 「近世住友の銅製錬技術」p42 別子銅製錬技術研究会(泉屋博古館 2017.12.25)会メンバー:樋口隆康1 住友芳夫1 末岡照啓2 村上順一郎1 廣川守1 森芳秋3 高橋純一3 (1泉屋博古館 2住友史料館 3住友金属鉱山技術本部)
2. 結晶工学ハンドブック p60,66 (共立出版 1971)
3. 同上 p44,58
4. web. 「冶金の曙」>サイトマップ>関連情報>銅製錬
5. web. 京都大学学術リポジトリ 北野貢「銅製錬の基礎反応の相律論的研究( Abstract要旨)」理学博士論文(1966-09-27)
「この研究から銅製錬の本質は,一旦生成されたCu2O が Cu2S と反応 して粗銅 Cu が生成されるのではなくて, 直接Cu2S と O2 から金属銅が直接生成されることが明示された。」
6. web. 黒川晴正 家守伸正「銅製錬転炉における造銅期の反応解析」資源と素材 Vol.119, (2) 55(2003)
「PS転炉(銅のベッセマー法)でのCu2SとO2の反応機構を以下のように導出した。
①初期 Cu2S + O2 = 2Cu + SO2
②中期 O2 = 2O
    Cu2S = 2Cu + S
     S +2O = SO2
③終期 O2 = 2O
     S + 2O = SO2
     2Cu + 1/2O2 = Cu2O 」

山下吹(8) 渡邊渡の山下吹

2020-09-06 09:38:42 | 趣味歴史推論
 渡辺渡(わたなべわたる)は、明治12年(1879)東大理学部を卒業し、冶金鉱山学の研究のためにドイツフライベルク鉱山大学に留学、明治19年(1886)東大工科大学教授就任した。農商務省技師を兼ね、佐渡鉱山局に勤務。明治24年(1891)工学博士。明治32年(1899)鉱山局長を辞し、明治35年から工科大学長を務めた。日本鉱業会の明治35.2~40.2副会長、明治40.2~大正8.6第3代会長を務めた。明治から大正にかけてのわが国鉱業近代化促進の指導者の一人である。1)

渡邊渡「冶金に関する技術の進歩 銅」第5回内国勧業博覧会(大阪 1903)第4部審査報告(明治37年 1904)に、2)
「乾式製錬を第1焼鉱、第2熔鉱、第3煉銅、第4分銅、第5精銅の5項目に分ち説明すべし。
第1. 焼鉱 略

第2. 熔鉱 銅鉱を火熱の力によりて熔解するに、還元熔解法すなわち炭質燃料を用いて焼鉱を熔解するの法、および酸化熔解法すなわち鉱石中の硫黄および鉄等の燃焼熱を利用して生鉱を熔解するの2法に大別すべし。 而してこれに用いる熔鉱炉の種類は左の如し。
①日本固有の平炉 ②レンガ熔高炉 ③円形水筒熔高炉 ④方形水筒熔高炉

①平炉 小鉱山にありては旧により本邦固有の吹床すなわち平炉を襲用す。而して著名の鉱山中今なお平炉を用いる所は、間瀬、広谷,姥澤、三つ澤、綱取、細地、永松、大島、寳、高根、川上、宮前、金坂、銀井谷、伊田、国盛、坪井、三原、久宗、寳加藤、内馬、鷺、桜郷、五木等にして、いわゆる山下吹なる熔解法により、木炭もしくは骸炭を用いて焼鉱を平炉中に還元熔解して銅鈹を得、次いでこれを同じ炉中に酸化熔解して粗銅を収むるものとす。而してこれに使用する所の鼓風器は箱フイゴ、革フイゴおよびルーツ送風器の3種なりとす。以上の山下吹中やや改良を施したるものは、五木銅山にして平炉と高炉を合併したる和洋折衷の装置なりとす。以下略

②レンガ熔高炉 この炉は明治9年以来、佐渡、小坂、阿仁、別子等の鉱山にて使用せしも今は皆水筒高炉に変遷し、また平炉より一躍して後者に勇進したるもの多々これあり。以下略

③円形水筒熔高炉 略

④方形水筒熔高炉 この炉は明治23年(1890)塩野門之助氏創めてこれを足尾銅山に採用せし以来、各所に広まり目下、阿仁、草倉、不老倉、別子新居浜、日平、小坂の諸鉱山、東雲製煉所および古河鎔銅所に使用せらる。中略 殊に小坂の熔高炉は世界無比の大炉にして、内長25尺7寸(7.71m) 幅3尺3寸(0.99m) 孔径5寸(15cm)の羽口36個を具え、もって生鉱の自熔法を行う。而して、他の熔高炉は皆炭質燃料を用いて還元熔解法を行うものなり。そもそも酸化作用によりて発生する自熱を利用しこれを熔解するの新法にして熔解費の大部分を節減し得べき経済的の製煉法たり。而して本邦において初めてこの自熔法の試験を行いしは、佐渡鉱山にして明治21年本官(渡邊渡)自らこれを指揮し該山所産の石英質金銀鉱を原料としこれに阿波東山産の含銅硫化鉄鉱を加え旧式のレンガ熔高炉を用い酸化熔解を試験せしが、自熔の点においてややその目的を達せしといえども、酸化の程度充分ならざるの結果、製鈹の品位予定の如く高まらざるをもって、これを廃せり。けだし高炉の構造不完全にしてかつ送風量の少なきの致す所ならん。翌22年米国の冶金家オースティン氏は、自国において自熔法の試験を行い、特種の高炉を工夫し24年これが専売特許を得、27年その説明書類を本邦の知人に分けてり。よって本官(渡邊渡)はこの自熔法が本邦所産の含銅硫化鉄鉱の製煉に適応すべきことを、該書に付記して我鉱業家の注意を喚起せしも、かつてこれに応ずるものなかりしが、明治33年に至り工学士竹内維彦氏等が小坂鉱山の硫化鉱物に対してこの新法を擬し学術上堅く信頼する所を固守し幾多の困難を斥け終に自熔法を大成することを得たるは独り小坂鉱山の興廃に関する大問題の解決に止まらずまたもって博く斯業のために貢献する処ありしは、深く歎賞すべきことなりとす。

第3. 煉銅 熔鉱の製産品たる銅鈹を再煉して粗銅を収むるの事業を煉銅という。而して目下使用する煉銅法は左の4種に別つべし。
①再吹(まぶき 真吹)煉銅法 ②當吹(あてぶき)煉銅法 ③英式銅煉法 ④ベスマー(ベッセマー)煉銅法

①再吹(まぶき 真吹)煉銅法 本邦固有の煉銅法に甲乙の2種あり。甲はすなわち還元熔解法にして先ず銅鈹を焼き次にこれを木炭と共に平炉にて熔解し粗銅を収むるもの是なり。この方法は古来東国および北国地方に行われ、現に明治22~23年頃に足尾、阿仁、荒川、尾去沢、神岡、面谷、尾小屋等の著名なる銅山にて専用せられたるものなり。また乙は酸化熔解法にて平炉中に熔解したる銅鈹に強風を吹入れ鉄および硫黄分を酸化し同時に粗銅を収むるいわゆる再吹法是なり。この方法は往時摂津国多田銀銅山の近傍山下村において発明せられ世にこれを山下吹と称して、いわゆるベスマー煉銅法の小仕掛なるものにて、古来専ら四国、中国および西国において行われ、現に多田、別子、帯江、国盛、吉岡、五木、槙峯、日平等の諸銅山に専用せられたるものなり。而して今や甲法全く廃し、乙法のみ全国に行わるゝに至れり。なかんずく改良再吹法なるもの23年頃吉岡銅山に創始せられし以来、尾去沢、阿仁、荒川、草倉、尾小屋、平金、生野、槙峯、日平、大和田、水島、三崎、佐島等の銅山および製煉所陸積これを採用するに至れり。中略

②當吹(あてぶき)煉銅法 この新法は明治32年(1899)別子銅山新居浜製煉所の創始に係り先ず熔高炉より産出する所の銅鈹(含銅約30%)を壁炉にて焼き、次にこれを再熔高炉にて熔解して精鈹(含銅73%)となし、液体のままこれを反射炉形前床すなわち當吹炉に注装し7~10ポンドの圧力を有する皷風を吹き入れもって粗銅を収む。而して1回の取扱量は鈹800貫目にして6時間半を要す。この方法たる旧再吹炉を反射炉に変更しかつ一層強圧の皷風をもちいるものにしてベッセマー煉銅法に比し起業費を要することはるかに少なくその経費もまた少額にて足れりという。

③英式銅煉法 此新法は明治24年(1891)初めて新居浜製煉所に採用し同32年(1899)まで継続せしが、同年前記當吹法によって替代せられし以下略。

④ベスマー煉銅法 此煉銅法は本邦固有の再吹法を大仕掛に且つ機械的に改良して転炉を用いるものにして、明治26年(1893)塩野門之助氏創めて之を足尾銅山の煉銅に応用せり。当時氏の採用したる転炉は外径4尺7寸(142cm)高さ7尺3寸(221cm)容積1トン半のパロット式にて周囲に20個の風口を具え汽機によりて運転するものなりしが、以来該鉱山においては幾多の改良を加え益々本業の発達を図れり。まず改良の第一着手として転炉の内壁を構造したる珪石7割粘土3割の混和物に代えうるに1部分解したる石英粗面岩の切石を以てせしに著しくその摩損を減じ、したがって交替の時間を減省せり。すなわち旧炉にありては銅品位60の鈹を以て1ヶ月約40万斤(240トン)の銅を製出せり。しかるに新炉にありては銅品位47の鈹を以て1ヶ月約90万斤(540トン)の銅を容易に製出するに至れり。第二の改良は風口の方向を変じその数を減じてその孔径を増大したるにあり。すなわち旧炉にありては20個の風口は均しく炉の中心に向かうが故に熔鈹の攪拌不充分にして熔体の噴出を大ならしめ煉銅の時間を長からしめたり。以上の欠点を除かんがため転炉中にその内径の3分の1に相当する同心圏を書きこれに切線となるべき方向を有する風口を設けしに熔体に旋回的の運動を与えてよく攪拌ししたがって化学作用を急劇ならしめ以て煉銅に要する時間に1割5分の短縮を告くるに至れり。次に周囲に分配したる風口を単に後方半周に止めてその数を8個に減じ且つ風口の直径12mmを増大して20mmとなし在来の風量(圧力約10ポンド)を以て2割の製銅量を増加することを得たるのみならず、また操業上著しき利便を得ることあたかもビスビー式転炉と同一の効力を奏するに至り。その結果現今銅品位47内外の鈹を以て1ヶ月約120万斤(720トン)すなわち当初の計画に比し3倍の産銅を得ることはなはだ容易の業となるに至れり。第三の改良は転炉用送風機の改良にして、以下略。」

考察
1. 渡邊は、ドイツに留学し先端の冶金学を学んで、製錬の化学反応を酸化還元で論じた。
「熔鉱では本邦固有の平炉(吹床)でいわゆる山下吹なる熔解法により、木炭もしくは骸炭を用いて焼鉱を平炉中に還元熔解して銅鈹を得る」とある。「還元熔解して」は何が還元されたのか筆者には分からない。主語が書かれていなければ、当然目的成分であるCu成分であるべきであるが、どうもそうではないようだ。焼鉱でできたFe2O3がCOで還元されFeOとなりSiO2と反応して2FeO・SiO2 (Fe2SiO4)鍰(からみ)となることを言っているのであろうか。
また還元熔解して銅鈹を得る吹きも山下吹というのであろうか。
「次いで銅鈹を同じ炉中に酸化熔解して粗銅を収むる」とあるが、Cu2SをO2で酸化すれば、Sは酸化されSO2となり、Cuは還元され金属Cuとなることを言っているのであろうか。
2. 「再吹(まぶき 真吹)煉銅法は、酸化熔解法にて平炉中に熔解したる銅鈹に強風を吹入れ鉄および硫黄分を酸化し同時に粗銅を収むるいわゆる再吹法是なり。この方法は往時摂津国多田銀銅山の近傍山下村において発明せられ世にこれを山下吹と称して、いわゆるベスマー煉銅法の小仕掛なるものにて、古来専ら四国、中国および西国において行われ」とある。山下吹では、S分やFe分がO2と反応し発熱し高温を保ち、SO2ガスや鍰となって系外に除かれる原理が 1856年に発見発明されたベッセマー法を同じであることを強調している。3)
渡邊や塩野らの留学した研究者、技術者は、江戸時代に山下吹が日本で発明され、製造に使用されてきたことを誇らしく感じたに違いない。それをPRしつつ、大量生産にあうベッセマー炉も日本でできているとこの内国博覧会の審査報告はうたっている。ベッセマー法と同じ原理である真吹が山下吹の神髄であるとみることにより、渡辺は(狭義の)山下吹の定義をしようとしたのではないか。
渡邊より前に塩野門之助は、ベッセマー法を熟知検討していたはずで、山下吹との比較をしているに違いない。
3. 筆者の勉強不足のために、酸化還元については書いてあることが理解しがたいところがあった。次回には、筆者の理解するところをまとめてみたい。
4. 別子銅山にいた塩野門之助が、足尾銅山で明治20年~27年(1887~1894)の期間に方形水筒熔高炉とベッセマー炉建設という先駆的な仕事を成し遂げていたことを知った。4)

まとめ
1.  ベッセマー法と同じ原理である真吹が山下吹の神髄であるとみることにより、渡辺は(狭義の)山下吹の定義をしようとしたのではないか。

塩野門之助のベッセマー法と真吹の比較に関する論文を探してみる。
山下吹、奥州吹の酸化還元について理解しているところをまとめてみる。

注 引用文献
1. Wikipedia 渡辺渡 安政4年~大正8年(1857~1919)
2. 渡邊渡「冶金に関する技術の進歩」第5回内国勧業博覧会(大阪 1903)第4部審査報告 第1篇第5章 p117~132(明治37年 1904) 国立国会図書館デジタルコレクションより
3. ベッセマー法:web. 辻伸泰「 鉄鋼材料学」(京都大学材料工学専攻 2018)p7 
「1856年ベッセマーは、溶けた銑鉄にそのまま空気を吹き込めば、燃料の熱源なしに銑鉄中の不純物である炭素やケイ素 と反応して除去でき、鋼に転化できることを発見した。」  
4. 塩野門之助の経歴年表 嘉永6年~昭和8年(1853~1933) 愛媛県立新居浜南高等学校情報科学部の web. http://besshi.net/hp/eco/01/007/siononenpyou.htmより。