気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(29) まとめ

2021-08-29 08:32:33 | 趣味歴史推論
 からみ・鍰の由来(1)~(28)をまとめる。
当初、「からみ」とは、「製錬の際、鉱石中の脈石(シリカなど)と不要な金属分(鉄分など)を、反応させ流動性のよい熔融物として分離したもの」を指していた。「目的金属分が大半であるものが「正味」と云われたことに対し、目的金属分がない、「から」のものだから、「空味」(からみ)を意味したのが、「からみ」の語源ではないかという説があった。それは妥当なのか、また「鍰」の漢字をあてたのは、いつ、誰なのかという疑問の答えを探ることにした。

1. からみの由来
 そこでまず「からみ」の初出をたどると、秋田藩院内銀山の「梅津政景日記」慶長18年(1613)に「からミ」が記録されており、銅吹きより以前に銀吹きに使われていたことがわかった。それを参考にして探すと、慶長7年(1602)石見銀山の大久保長安書状に「からミ」があり、これが、「からみ」の初出であることがわかった。
「からみ」の当て字は、「柄実」「辛味」「殻実」などいろいろあるが、「空味」と書いたものは、一つも見つからなかった。
正味鏈にしたものを処理して、そこから「空味 何もないもの」が生成するというのは、論理的にもおかしい。そこで「何もない から」を意味するものでないところに筆者は、語源を探した。「からミ」初出の石見銀山では、間歩中で銀掘がどんどん打ち削っていく石のうち、銀を含んだ値打ちのある石を「鏈(くさり)」と呼び、たいした値打ちのない素石を「柄山(がらやま)」と呼んだ。「がらやま」と発音されたことから、「柄」の字をあてたと思う。山は岩石を表すが、なぜ「がら ガラ」と発音されたのか。この素石を分けてポイッと放り出した時や、集める時に生じる音が「ガラ」「ガラガラ」と聞こえるので、大した値打ちのない岩石を「がらやま」と言ったと筆者は思う。オノマトペによる柄(がら)である。
 そこで、正味鏈を吹きて生成した(実になった)たいした値打ちのないものを、「ガラの実」と言い、これが「ガラ実」→「柄実」(がらみ)となったのではないか。「柄実」は、たいした値打ちのないものである。しかしよく調べると、銀や銅が残っていたり、焼鉑を熔かしやすくしたり、有用であることがわかってきた。そこで、有用感を出すために、濁音の「ガラ」を静音の「カラ」に変え「カラミ」と呼び、「からミ」とかなで書いたのではないか。現場の大久保長安が率先して使ったので(あるいは指示して)、それ以降、皆が「からミ・からみ」を使ったのではないか。
 しかし、石見銀山の文書では一貫して「からみ」が使われ、「柄実」はなかった。江戸期の鉱山関連の書籍や文書で、「柄実」を多く使っているのは、佐渡金銀山である。佐渡では、文禄4年(1595)、石見国から来た山師により、鶴子銀山が稼行された。その頃に、「柄実」が伝わったのではないか。そして、この「柄実」は、石見では使わなくなったが、佐渡では生き残り使われたのではないか。見つけた最も古い「柄実」は、寛永20年(1643)「未6,7両月、相川上下組小役銀高」(佐渡国略記)である。「柄実買」は、柄実には銀分が含まれているので、回収して商売にしていた。この頃には、「柄実」は、「からみ」とも発音されていたかもしれない。「柄実」が最も古い「からみ」の当て字であることがわかった。
 発音「がらみ」→文字「柄実」→発音「からみ」と変化したとする「柄実」説を提案した。

2. 鍰の由来
 「からみ」は、不要な金属成分と脈石を一体ものとして除く操作でできるものであり、有用な金属がまだ含まれていること、焼鉑を熔かしやすくすること、等有用なものである。そこで、銅や鉛と同じように1字の漢字で、表記したいと考えた人が「鍰」を仮借したのであろう。「鍰」は、もともと中国の漢字で、①貨幣の目方、6両(約100g)②輪、環 を意味する。
 石見銀山、生野銀銅山、多田銀銅山、吉岡銅山、別子銅山では、幕末まで主に「からみ」が使われてきて、「鍰」はなかった。
秋田藩の黒澤元重著「鉱山至宝要録」(元禄4年)(1691)は、「からミ」であった。秋田藩阿仁鉱山の「山要録」(1840)では、「カラミ」18か所に対して「鍰」は、1ヶ所だけであった。秋田藩では「鍰」はほとんど使われていなかったといえる。
 一方、南部藩(盛岡藩)では、文化9年(1812)の南部藩家老日誌に、「捨鍰」と記されており、これが「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。赤穂満矩「鉱山聞書」(1785)の明治初年に筆写された写本には、「鍰」が使われていた。南部藩四角岳銅山、不老倉銅山の山師であった赤穂の原本も「鍰」を使っていた可能性は高いが、不確定である。本の場合には、筆写された時期や人により、元の字が変えられている可能性がある。尾去沢銅山の「銅山記」(1797以降)に「鍰」が使われているが、原書の書かれた年が確定できない。尾去沢銅山「御銅山傳書」(1849)には多くの「鍰」が使われている。
以上、南部藩関連の古文書、書籍に早くから「鍰」が見られることから、「鍰」を使い始めたのは、南部藩であると結論した。

3. もう一つの「からみ」の由来
 「至宝要録」(1691)には、「銅の石鉑に、鉑にてなき石交りたるは、打ちくだき捨て、鉑ばかりにする、是をからめると云う事」とある。「鹿角」(発行編輯人大里周蔵)(1921)には、「尾去沢元山の古老がいうには、金鉱を見出して尾去沢繁栄の基を作ったのは、慶長10年(1605)南部十左衛門という人と伝えているけれど、それ以前に元山方面において、銅を吹き出した。当時、石を台として鉱石を上げ(載せ)、鎚をもって打ち砕くことを「からむ」といった」とある。大里武八郎「鹿角方言考」(1953)によれば、「からむ・絡む」は、南部藩鹿角では、「打つ、たたく、殴るの意に常用す。けだし、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるより、転用するに至りたるなるべし」とある。
 尾去沢銅山発祥の「からめ節」は、鉱石を鉄鎚にて叩き砕くときの唄である。万延元年(1860)南部藩主利剛に尾去沢銅山の金場(かなば)で働く女性たちが、唄いながら「からめ」作業を披露した様子を、随行者の上山守古が、「両鹿角扈従(こしょう)日記」(1860)に「石からみ節」として記している。「石からみ節」は、「からめ節」の元とされている。鉑を打ち砕くことに由来する「からみ」という語があったのである。南部藩の人にとっては、「め」と「み」は、似た発音なので、「からめ」、「からみ」のどちらでもよかったのかもしれない。
 佐渡でも「からめ」「からみ」で同じような状況が確認された。「元和2年 諸間歩出鏈高」(1616)には、「からめ鏈」があり、これは砕いて小さくした鏈や砕いて脈石部分を捨て去った鏈を指すものと推定される。佐渡金銀山の技術書「ひとりあるき」上(1830~1843)には、「鏈を石撰(いしより)する際、白石が多いものを「からみ石」とて除き置いて、鏈を撰仕舞した後に、白石を鎚にて打落して、上中下と撰り分けることを「からむ」という。白石を打ち落とした鏈を、からみ鏈という。」とある。「ひとりあるき」には、「からめ鏈」はなく、時代とともに「からめ鏈」→「からみ鏈」へ変化したのか、或いは、「め」と「み」は発音が似ているので、どちらの発音でも意味が通じればよかったのかもしれない。
以上のことから、南部藩、および佐渡では、「打ち砕く」を意味する「からむ・絡む」「からめる・絡める」という方言があり、そこから「からみ」という語が生まれたと推定できる。この「からみ」は、いわゆる鉱滓の「鍰」とは、異なるものを指し、もう一つの「からみ」である。
 寛政2年(1790)備中吉岡銅山では、山困窮につき、「捨てカラミ」と「出カラミ」を拾って吹立て銅を作る願書がある。「出カラミ」は、鉑のからめ作業(砕いて選鉱)で出た、まだ銅分が残る脈石であろう。すなわちもう一つの「からみ」である。奥羽の「からみ」の語が備中に伝わっていたと考えられる。「捨てカラミ」は、鉱滓の「鍰」が山に捨てられたものである。「捨鍰」の吹立願は、南部藩家老席日誌(1812)に記されているが、それよりも吉岡銅山のこの願書は、22年ほど古いものであった。

4. かなめ・砕女の由来
 「かなめ」の初出は、寛文6年(1665)の多田銀銅山の「かなめ搥」である。この「かなめ」の初出は、奥羽の「からめ」より古いが、佐渡の「からめ」(1616)より50年も後である。鉱山開発は関西が古いにもかかわらず、「かなめ」の古い記録がない。このことから、鉑石を砕くという意味の「かなめ」は、「からめ」が訛ってできたと筆者は考える。「かなむ」「かなめる」という動詞語は、辞典に載っておらず、普通に使われる語ではない。「ナ」と「ラ」は、発音が似ており、「から」を「かな」と聞き間違いから出来たとも考えられる。
以上のことから、「かなめ」は、「からめ」の転訛した言葉であると推定した。
 住友(泉屋)は、吉岡銅山の第一次経営にあたり、貞享元年(1684)に出した「願書」には、「かなめ女」が使われている。このことから「かなめ」は作業名を表していることが分かる。住友は、元禄4年に別子銅山を開坑した。「砕女」の初出は、「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)の「砕女小屋」である。これは、「かなめ」作業をする小屋を意味する。この「砕女」の「女」は、「め」の音を表す字で、「おんな」を表しているのではない。仮名文字「め」の元の漢字「女」である。「砕女」は、センスのある当て字である。これを考案したのは、貞享から元禄期の泉屋の手代であると推定した。泉屋は、同時期に、しぼり→鍰、間歩→間符と独自の漢字をあてている。砕女も同じ人が考案した可能性がある。泉屋は、別子銅山で一貫して「砕女」を使っていることも、自ら考案したことの裏付けになろう。
 「砕女」作業を受け持ったのは、女たちで、いうならば「砕女女」が、女のかなめ作業者なのであるが、これが、いつしか「砕女」だけで、かなめ女を意味する様になったと思われる。「砕女」は、センスが良かったこと、泉屋が使ったことなどから広く使われるようになり、明治以降現代でも生きており、歴史を記す際に、一般的に使われる当て字となった。

からみ・鍰の由来(28) 寛政2年吉岡銅山の「捨てカラミ」と「出カラミ」

2021-08-15 08:21:04 | 趣味歴史推論
 寛政2年(1790)吉岡銅山に「捨てカラミ」と「出カラミ」の記録があることを見つけた。同じカラミでも意味や由来が違う2つがあると以前述べていたが、再度ここで考察する。「捨てカラミ」の「からみ」は、鍰・鉱滓であり、「出カラミ」の「からみ」は、鉑をからめる(砕いて選鉱)際に出た脈石であると筆者は考えている。

 吉岡銅山は、寛政元年(1789)ほとんど休山の状態になったので、名代官早川八郎右衛門は幕府に実地検分方を要請し、詳細の見分で、時の請負人小橋屋では、復興は無理と考え、大塚家に計画書の提出を求めた。これに答え、大塚家は以下の二つの書面を提出した。

1. 「乍恐以書奉願上候」寛政2年(1790)
(前略)天明4辰年(1784)より去る8申年(1788)まで5ヶ年大坂瓦町百貫町小橋屋長左衛門請負仰付けられ、御用銅地売銅売上奉り候積を以て相稼ぎ申し候処、去冬御用銅御急ぎに付き、水替その外過分損金仕候趣にて、当2月頃迄は掘り溜め鉑石等之吹方仕り、当8月9月舟敷の水引上げ、10月よりは稼ぎに相懸かり申すべきの処、この度御見分成され候通り、当時休山同様にて、敷村住居る稼ぎ人、渡世之れ無く遠国稼ぎ所へ離散仕り者、又は鉑石金女女子供の内残りこのもの共、外に渡世之れ無く難渋至極の段、難ヶ敷く存じ奉り候。且つ私親定次郎儀当村百姓にて、年末困窮百姓どもへ手当等仕り候に付き、安永6酉年(1777)12月野村彦右衛門様御代官の節、実躰なる者にて、度々村中寄特成取り計らい致し候由にて、ご褒美銀10枚下し置かれ、その身一代刀御免並びに子孫迄名字名乗り候様、御書付を以て仰せ渡され有難く存じ奉り候。
 右冥加の程も有難く存じ奉りこの節、難渋人救い方の趣愚案仕り候処、数年来相稼ぎ候 捨てカラミ、出カラミ山所々に夥しく之れ有り。右の内銅気相残り候捨てカラミ、出カラミ山拾い取り吹立候えば、少々ずつは出銅仕るべく、左候えば、山内のものども難渋をも相救い申したく候。御願申上げ奉り候に付き、則ち試し吹き仰せ付けられ候処、凡そ1ヶ月1,000斤程宛は出銅出来候積り。この外当時相稼ぎ申さざる古鋪数ヶ所の内少々も鉑石有之場所は、拾い物同様切り取り吹き立て候わば、1ヶ月1,500斤宛は、又それに出銅相成るべし。2口合せて1ヶ年30,000斤宛来る亥年(寛政3年(1791))より地売銅に売上仕り候様仕るべく候。当年の儀は 当10月中旬より取掛り候儀に候えども、右割合に拘わらず5,000斤吹き立て、来春早々大阪廻着仕り候様仕るべく候。
(後略)以上
早川八郎左衛門御代官所
 寛政2戌歳(1790)10月21日
   備中川上郡吹屋村百姓     大塚兵十郎
       証人同村庄屋       要助
 御銅山見分御役人様

2. 「吉岡銅山捨カラミ、出カラミ吹方並びに出来銅仕様書」寛政2年(1790)
捨カラミ、出カラミ山500貫目、この皮銅40貫目、但8歩留り(←500×0.08)、右皮銅40貫目 この出来銅16貫目 但4歩留り(←40×0.4)
・右捨カラミ、出カラミ山500貫目、荒銅に仕立て大坂へ差登為候迄之入用(銀)
 ・54匁     捨カラミ、出カラミ山拾取人夫90人 但1人前6分宛
 ・13匁6分7厘 焼竈入用 内訳:1匁釜大工1人、7分5厘焼手子1人、9分7厘捨カラミ焼釜へ持運賃、9分5厘焼木伐賃、7匁5分焼木250貫代、1匁5分焼上げ鍵素(かね)吹場へ持運賃、5分焼鍵金女賃、5分焼釜直し賃
 ・13匁5分   素吹入用 内訳:3匁素吹大工1人、2匁7分同手伝人足1人、7匁8分吹子差3人
 ・10匁7分   真吹入用 内訳:3匁2分大工1人、5匁8分手伝人2人、1匁7分吹子差1人
 ・63匁     素吹真吹入用炭21俵代 但1俵に付3匁替(←3×21)
 ・4匁6分   大阪迄の運賃駄賃蔵敷並荷作入用 内訳:1匁4分成羽迄3里駄賃、1匁4分成羽より玉島迄9里川船運賃、2分玉島問屋蔵敷、1匁4分玉島より大阪迄46里船賃、2分山元に荷作賃
 ・11匁7分   御運上銅6分5厘の分(←0.65×16×1.125(?))
 雑用合 171匁1分7厘
(以下略)

考察
1. 鉑の産出が減少し、山は困窮したので、捨ててあった鍰(少し銅分あり)と、鉑石を砕いて選鉱する際に出た脈石(少し銅分が付いている)を拾い集め、吹立て銅を作るという計画書である。
「捨鍰」「捨からみ」の吹立願は、文化9年(1812)南部藩家老席日誌に記されているが、2)それよりも吉岡銅山のこの願書は、22年ほど古いものであった。
出カラミは、からめ作業で出た脈石を指すと筆者は推定する。「至宝要録」(1691)には「銅の石鉑に、鉑にてなき石交りたるは、打ちくだき捨て、鉑ばかりにする、是をからめると云う」とある。3)
「からめ」「からみ」は、佐渡や奥羽での鉱山の作業名が元になって出来たと思われる。吉岡銅山で作業したのは、かなめ女であるが、出た脈石は「出カラミ」と云われたのであろう。
佐渡金銀山では、元和2年(1616)に「からめ鏈」とあり、天保(1830~1843)では「からみ鏈」と記されている。4)
南部藩では「からめ節」の元になったのは、「石からみ節」とされている。5)
 上記の例からみると、「からめ」と「からみ」では、「め」と「み」は発音も似ているので、「め」→「み」に変化したと思われる。
佐渡金銀山の「ひとりあるき」(1830~1843)では、「鏈石撰候内、白石勝なるをばからみ石とて除置外、鏈撰仕舞候跡にて、白き石を鎚にて打落し、上中下を撰分候、これをからむという。右白き石打落し候鏈を、からみ鏈という」とある。5)「からみ石」は、全てが脈石ではなく、何割かの鏈がくっ付いているのであり、「からめ」作業に廻し、良い鏈を処理した後、処理されるのである。処理され出てくる脈石(出からみ)は捨てるのであるが、この中にもまだ銅分が少し残っている。出からみは、がらやま(柄山)と同じ又は近くの場所に捨てられたであろう。

2. 大坂と大阪
 この2つの書面には、大坂と大阪の両方の表記がある。
 ・来春早々大阪廻着仕り候様仕るべく候
 ・荒銅に仕立て大坂へ差登為候迄之入用
 ・大阪迄の運賃駄賃蔵敷並荷作入用
 ・玉島より大阪迄46里船賃
 筆者は、原典を見ていないので確実ではないが、正しく活字にされているとすれば、寛政2年(1790)には、「大阪」の表記が既にあったことになる。

まとめ
 寛政2年(1790)吉岡銅山では、「捨てカラミ」と「出カラミ」を吹立て銅を作る願書があり、「出カラミ」の由来は、鉑のからめ作業(砕いて選鉱)で出た脈石であるによる。「捨てカラミ」は、鉱滓の「鍰」が山に捨てられたものである
 
注 引用文献
1. 長尾隆「ふきやの話」p79(昭和51年 1976)
2. からみ・鍰の由来(11)
3. からみ・鍰の由来(18)
4. からみ・鍰の由来(23)
5. からみ・鍰の由来(22)

からみ・鍰の由来(27) 「かなめ」の当て字「砕女」は、元禄に泉屋が作ったのであろう

2021-08-08 08:50:07 | 趣味歴史推論
「かなめ」の初出は多田銀銅山の寛文6年(1665)であることがわかったが、1)「砕女」の初出はいつで、誰がこの当て字を考案したかを推定する。

 住友(泉屋)は、貞享に吉岡銅山第一次経営に着手した。貞享元年(1684)8月 請負人泉屋彦兵衛、請任泉屋吉左衛門(友信)同吉右衛門(友芳)の名義で、代官服部六左衛門宛に次の主な箇条を含む一札を納れて、請負契約を行った。2)
・水貫普請の目的で5箇年の季限で許可されること。
・運上は掘出した銅1000貫目に付、銅100貫目とし、その代銀530匁宛の計算で、毎月上納する。
そして、今後の稼行について更に願い出た。
1. 「願書」貞享元年(1684)3)
・大水貫の儀茶木間歩より仕るべく候。この1ヶ月1日も懈怠なくしきり申すべく候。火灯り不申節は風廻し仕るべく候。その外50間30間の水貫の儀は、この方勝手次第段々切り申すべく候御事。
・大水貫成就仕らず内は、千枚・関東大根戸古壺水鋪は稼ぎ申すまじき候。その外は勝手次第に稼ぎ仕りたく候。壺に入らずにても埋め申しまじく候。並びに危所念入り申すべく候御事。
・略
・末広間歩より上六枚東迄、やらい(矢来 仮囲いの柵)仕り候儀は、喜多方領分に、下財・ゑふ引・水取・日用・かなめ女等御山稼ぎ仕り候もの数多く御座候。取分寒風の節は難儀仕り候間、やらいの儀御免下されるべく候御事。
・略
 貞享元年子9月    泉屋彦兵衛
 服部六左衛門様

稼行状況の役人への報告は次の通りである。
2. 「備中川上郡吹屋村御山用控」貞享2年(1685)4)
 「覚」に書かれた山内の従業人総数は635人で、その内訳は次の通りである。
・山師家内人数35人
  間符4ヶ所鏈番人(16人)、床屋役人(5人)、鏈くだき場役人(2人)、炭焼木支配人(3人)、蕒物方手代中間共(9人)
・山内下財人数600人
  掘子(157人)、得符引(62人)、水樋引(46人)、床屋大工手子(30人)、くたきゆり物女(208人)、日用(47人)、老人並びに子供(50人) 
 貞享2年9月28日     泉屋彦兵衛
 加賀美彦兵衛様
 佐藤守右衛門様

3. 「備中銅御山仕様之覚」元禄9年(1696)5)
・略
鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候
鏈碎女場より焼竈へはこび申す人足を鏈持と申し候。
・略
 元禄9年子9月    備中吉岡御銅山師 泉屋貞右衛門
 右の通り大坂にて御認山木様へ御上げ成られ候写し如此。

 泉屋は、元禄4年(1691)に、別子銅山を開坑した。
4. 「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)6)
 予州宇摩郡別子山足谷銅山焼失之覚の内
砕女小屋 3ヶ所
 元禄7年(1694)戌4月28日  泉屋理右衛門手代 勘右衛門
                   同     勘介

 その後、吉岡銅山では、「かなめ」は、どのように呼ばれ表記されたのであろうか。
吉岡銅山では享保7年6月大塚利右ヱ門宗俊が引請、寛保2年10まで21年間の稼業を大塚家が行った(大塚の第一次経営)。その後を京都銀座が引継いだのであるが、その際の文書が以下の引渡し覚である。
5. 大塚文書寛保2年戌10月福岡屋利右衛門の「吉岡銅山家小屋引渡し覚」(1742)によると、大塚は銅座名代長尾九郎左衛門に、勘定、門長屋1軒、砕小屋1軒、ゆり物小屋1軒、炭蔵2軒、床屋3軒(鉑吹3床、真吹2本の設けある)および焼釜7軒(釜数55あり)等を引渡したとある。7)

 大塚の第二次経営にあたって大塚家が提出した書面の中で、「かなめ」が記録されている所は以下の通りである。
6. 「乍恐以書奉願上候」寛政2年(1790)8)
(前略)天明4年辰より去る8年申まで5ヶ年大坂瓦町百貫町小橋屋長左衛門請負仰付けられ、---- この度御検分成され候通り、当時休山同様にて敷村住居稼ぎ人渡世これ無く、遠国稼所に離散仕り者または鉑石金女女子供の内残りこのものども外に渡世これ無く難渋至極の段なげかわしく存じ奉り候。---
早川八郎左衛門御代官所
 寛政2戌歳10月21日
    備中川上郡吹屋村百姓   大塚兵十郎
        証人同村庄屋   要助
 御銅山見分御役人様

7. 「吉岡銅山捨カラミ、出カラミ吹方並びに出来銅仕様書」寛政2年(1790)9)
・銀80目 右鉑石金女賃銀
       但し1日10人宛掛け 1ヶ月分 300人後にて砕かせ候積り 
       1人賃金 銀6歩宛
考察
1. 泉屋は、貞享元年には、「かなめ女」と書き、「かなめ」は仮名で、その作業にあたっていた「おんな」を「女」と書いた。これから明らかなように、「かなめ」は、作業名を表している。しかし、貞享2年の同じ泉屋彦兵衛が書いたものには、「鏈くだき場役人、くだきゆり物女」 と書いており、かなめ場役人、かなめゆり物女とはしていない。この時点では、「砕女」が生まれていないことが分かる。
 しかし、吉岡銅山で、銅山師泉屋貞右衛門は、元禄9年には「鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候。鏈碎女場より---」と書いている。作業者を「碎女」と呼んで定義している。「鏈碎女場」は「くさりかなめ場」と読み、この「砕女」は作業名を表していると思われる。「砕女」は、作業名と作業者を表しているが、この「女」は、「め」の音を表す字で、「おんな」を表しているのではない
 泉屋は、元禄4年(1691)別子銅山を開坑したが、「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)の大火焼失の覚に「砕女小屋」と書いている。これは「かなめ」作業の小屋を表している。これを書いたのは、泉屋理右衛門手代の勘右衛門と勘介である

2. この元禄7年の「砕女小屋」の「砕女」が、筆者の調べでも、鳥谷芳雄が指摘したとおり、「砕女」の初出である
 「砕女」は、センスのある当て字である。これを考案したのは、貞享から元禄期の泉屋の手代であると推定した。泉屋は、同時期に、しぼり→鍰、間歩→間符と独自の漢字をあてている。砕女も同じ人が考案した可能性がある。泉屋は、別子銅山で一貫して「砕女」を使っていることも、自ら考案したことの裏付けになろう。
「砕女」作業を受け持ったのは、女たちで、いうならば「砕女女」が、女のかなめ作業者なのであるが、これが、いつしか「砕女」だけで、かなめ女を意味する様になったと思われる。
 「砕女」の当て字は、センスが良かったこと、泉屋が使ったことなどから広く使われるようになり、明治以降現代でも生きており、過去の歴史を記す際に、一般的に使われる当て字となったと推定する。
                   
3. 吉岡銅山では、経営者が代わると、使用する言葉も違っていることが分かる。大塚家では、「かなめ」は「砕女」ではなく、「金女」で表していた。また「砕小屋」は、「くだき小屋」であろう。寛政2年の「乍恐以書奉願上候」では、鉑石金女女子供とあり、「金女」のあとに「女子供」とあることから、金女の「女」は「かなめ」の「め」を表す音の「め」である。仮名文字「め」の元の漢字「女」である。鉑石金女賃銀は、「かなめ」作業の賃銀を表しており、「女」は「おんな」を意味しない。

まとめ
1.  「砕女」の初出は、「別子銅山公用帳一番」元禄7年の「砕女小屋」である
2.  「かなめ」の当て字「砕女」は、元禄に泉屋が作ったのであろう

注 引用文献
1. 当ブログ 「からみ・鍰の由来(26)」
2. 「泉屋叢考」第12輯 p22(住友修史室 昭和35年 1960)
  附録 天和4年の再稼行願関係資料
3. 同上p25 附録 天和4年の再稼行願関係資料
4. 同上p35 附録 「貞享2年9月の覚」
5. 同上p36 附録 「備中銅御山仕様之覚」
6. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p16(思文閣 昭和62年 1987)
7. 長尾隆「ふきやの話」p67(昭和51年 1976)
8. 同上p81
9. 同上p86

からみ・鍰の由来(26) 寛文6年多田銀銅山の「かなめ搥」が「かなめ」の初出

2021-08-01 08:18:02 | 趣味歴史推論
 関西の古い鉱山である、石見銀山、多田銀銅山、生野銀銅山、吉岡銅山、別子銅山の史料で、「かなめ」を探した。最も古い記録としては、「猪名川町史第5巻」の多田銀銅山史料編多田銀銅山記録1(山内荘司文書)の「かなめ搥」であった。以下に多田銀銅山の関連する記録を示した。

1. 多田銀銅山記録1 寛文6年(1665)1)
・大口間歩出鏈極上品は、1駄36貫目に付き、銅12貫目余 滴銀1貫目余吹出し候由、これは、銀銅綴鏈と申す品にて、かなめ搥にひっ付候て砕けずと申し伝え、中上品1駄に付き、銅3貫目 滴り銀500目位、又中品にて同断に付き、銅2貫4~500目 滴り銀300目位吹出し候由に候。
 但銅10貫目に付き、上中品平均凡500目余の滴り銀と相見え候。

2. 摂津国多田銀山御役所古来勤方大概 正徳6年(1716)2)
正徳6年(1716)銀山町の5軒ある吹屋のうち、2軒の吹屋建物の記録は以下のとおりである。
・吹屋六右衛門 棟数合5軒
  家     表口 7間半   裏行 8間半
  同     桁行 3間半   梁  3間
  吹小屋   長  7間半   横  2間半
  鉑砕場   長  5間    横  1間半
  鉑小屋   長  4間    横  2間
  炭小屋   長  5間    横  2間
・吹屋理兵衛  棟数合7軒
  家     表口 15間    裏行 9間
  同     桁行  7間    梁  5間
  土蔵    長  10間    横  5間
  吹小屋   長   7間半   横  2間
  同小屋   長    5間    横  2間
  鉑石小屋  長   6間    横  2間半
  炭小屋   長   7間   横  2間半
  鉑砕小屋  長   3間半  横  1間半

3. 「摂州川辺郡多田銅山覚書」中の「鉑石吹様之次第」寛延2年(1749)3)
 鉑石吹様之次第 但鉑石1駄は36貫目に御座候。
 ・鉑石細にくだき篩にて通し置、鉑焼釜へ入れ焼申し候。---- 

考察
1.「かなめ」の初出は、寛文6年(1665)の多田銀銅山の「かなめ搥」である。但し、狭い範囲の調査であるので、もっと調べれば、更に古い時期のものが見つかる可能性がある。
搥は鎚(つち)であろう。「極上品の銅銀つづら鏈は、かなめ鎚に引っ付くので砕くことができない」とある。かなめ鎚という名が当時あったこと、かなめと仮名で書かれていたことが分かる。
2.  鉑砕場、鉑砕小屋 は、「はくくだき」と読むのではないか。「砕」一字で「かなめ」を表すとは、記されていないからである。
寛延2年の覚書では、「細にくだき」とあり、「かなめ」という語を使っていない。多田銀銅山では、「かなめ」という語はほとんど使われなかったと思われる。
3. 「かなめ」の初出は、奥羽の「からめ」より古いが、佐渡の「からめ」(1616)より50年も後である。鉱山開発は関西が古いにもかかわらず、「かなめ」の古い記録がない。
このことから、鉑石を砕くという意味の「かなめ」は、「からめ」が訛ってできたのではないかと筆者は考える。「かなむ」「かなめる」という動詞語は、日本国語大辞典や古語辞典に載っておらず、普通に使われる語ではない。鳥谷芳雄は、延享4年(1747)の石見銀山の「銀山覚書」に「かなめるとハ 石を去り鏈を細かにくたき候を申候」とみえることを指摘しているが、4)わざわざ定義を記している「かなめる」は、「からめる」が転訛したものと筆者は考える。時期的にもそう考えて妥当である。
「ナ」と「ラ」は、発音が似ており、「から」を「かな」と聞き間違いから出来たとも考えられる。

まとめ
1. 寛文6年(1665)多田銀銅山の「かなめ搥」が、「かなめ」の初出である
2. 「かなめ」は、「からめ」の転訛した言葉であると推定した

注 引用文献
1.  「 猪名川町史第5巻」多田銀銅山史料編 p362(猪名川町 平成3年 1991)
  多田銀銅山記録1(山内荘司文書)は、寛文元年(1661)~元禄3年(1690)の事を、史料を引用しつつ年代順にまとめたものである。
2.  同上 p79 摂津国多田銀山御役所古来勤方大概
3.  同上 p647「摂州川辺郡多田銅山覚書」中の「鉑石吹様之次第」寛延2年(1749)
4.  鳥谷芳雄「かなめ石のかなめについて」季刊文化財112号56(島根県文化財愛護協会 2006)