気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

古和同銅銭用のアンチモン総量と供給鉱山はどこか

2018-01-19 14:36:25 | 趣味歴史推論
インターネットと書籍の情報により推理する。

推理のながれ
1. 新和同開珎の発行総量を推定する。
2. 古和同開珎銅銭の発行総量を推定する。
3. 古和同銅銭用のアンチモン総量を計算する。
4. そのアンチモンを産出した鉱山を推定する。
5. 当時市之川鉱山が稼働していたと仮定した場合の生産能力を推算する。


1.和同開珎の発行総量を推定する。
和同開珎の発行開始年は現在最も支持の多い和銅説をとる。1)8)
和銅元年(708)古和同銅銭鋳造 銅産地は長門の於福、豊前の香春岳など
養老4年(720)新和同開珎本格鋳造
天平2年(730)新和同開珎銅銭の量産 長登銅山の銅を長門鋳銭所で鋳造
天平寳字4年(760)萬年通宝銅銭
よって古和同銅銭の鋳造期間は約10年、新和同銅銭量産は40年と見積もる。
鋳銭司の年間生産量の史料は少なく、和同開珎のものはない。

史料のある貨幣の発行枚数と出土数から推定する。
年代が最も近いところで、富寿神寳は、発行から3年後の弘仁12年(821)まで、年間5,670貫文(5.67百万文)ほど生産されたとある。2) 
その後銅の採掘量が減少したため、旧銭を回収して鋳直すことで一時期生産量が回復したが、更に時代が下がると旧銭も底をついたとのことである。そこで、富寿神寳は818~835年の17年間発行されたので、前半の8年間は年間5.67百万文、後半の9年間はその半分の5.67/2=2.84百万文と筆者は見積もることにした。その結果富寿神寳の発行総枚数は、5.67×8+2.84×9=70.9百万枚となる。

貨幣の発行総数と出土数は比例すると考える。
富寿神寳と和同開珎の全国出土数を同時に示した資料として、辻川哲朗「近江地域出土の古代銭貨」3)の図があった。それによれば、和同開珎4970枚、富寿神寳780枚である。よって和同開珎総枚数は、富寿神寳の(4970/780=)6.37倍となる。すなわち和同開珎総枚数=70.9×6.37=452百万枚である。 
白川忠彦ブログ「コインの散歩道」4)には、「和同開珎の発行枚数は、根拠の少ない推定ながら年産1万貫×50年とすると、50万貫(5億枚)。当時の人口からすると、一人当たり100枚。和同開珎の記録のある出土数は全国で約5000枚。現存数は、推定で数万枚。」とある。
筆者の推定は、白川氏の500百万枚に近い数値となった。

岡田茂弘ら5)によれば、1枚の平均重量は、古和同4.29g、新和同3.38gであるので、新和同開珎の銅総重量は3.38×452=1,528トンとなる。

奈良の大仏に使われた銅量と比較してみる。
新和同開珎の発行年代は、ちょうど国家の一大事業であった奈良の大仏の建造と重なっていた。奈良の大仏では 熟銅739560斤(495.5トン)と白(=錫)12618斤(8.5トン)、合わせて504トンが使われた。
よって和同開珎の総銅重量は大仏の(1,528/504=)3.0倍、すなわち3体に相当する。思っていた量より数倍と大きいので驚きである。

貨幣の発行総数と出土数は比例すると考えるのは、少し無理があるのかもしれない。しかし、この方法以外には、数量を推算する方法がないので、452百万枚は、現在とりうる最も妥当な方法で導かれたものとして、以後この数値を基に計算していくことにする。

2.古和同銅銭の発行総量を推定する。
古和同銅銭の出土総枚数を記した文献は見つからなかった。そこで古和同の枚数を記した文献を探した結果、次の4件があった。
① 斎藤努ら「皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析」6)の分析資料リストには 古和同銅銭13点、(新和同27点)が記載されている。
② 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵「和同開珎目録」7)には、古和同銀銭(34+7=)41点、古和同銅銭10点と記載されている。
③ 松村恵司「和同開珎と富本銭,無文銀銭の評価をめぐって」8)には、「昭和 26(1951)年 田中啓文は「鑑定上から見た古和同銭の鋳造年代」を発表し、長年に渡って収集研究を続けた古和同の体系的な分類と編年観を提示する。「私の鑑識した古和同銭は百数十枚に及んで、日本に存在する古和同銭の 大略を検討したと己の鑑識眼を自負している」とある。古和同銅銭の枚数は記載されていないが、大半が銀銭と思われ、銅銭はたかだか数十枚と推定する。
④「歴博」9)には、「現在残っている古和同の中で、銅銭の数は極めて少なく、銀銭の十分の一くらいしかない」とある。
よって①~④から判断して、古和同銅銭の出土数を30枚と見積もる。
古和同銅銭出土数/和同開珎出土数=30/4970=0.6%である。
出土枚数と発行枚数とが比例すると考えるので、古和同銅銭の総枚数=452百万枚×0.006=2.7百万枚。
古和同銅銭総重量=4.29g/枚×2.7百万枚=12トンとなる。

3. アンチモンの総重量を計算する。
斎藤努ら6)の古和同3点のSb分析値は、6.2 12.8 2.7 と大きくばらついているが平均値を求めると、7.2%となる。よって 古和同用アンチモンの総重量=12トン×0.072=0.86トン=860kg。これが約10年間で使われた量になる。

4. 古和同用のアンチモンを産出した鉱山を推定する。
飛鳥奈良時代のアンチモン金属の重量で分かっているのは、次の2つだけである。
① 正倉院伝来のアンチモンインゴット 1,088g 10)
② 「日本書紀 持統天皇5年(691)7月3日伊豫國司 田中朝臣法麻呂等 獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。」で表されたアンチモンインゴット 11)
  
1斤=670gで換算すると②のアンチモンインゴットの重量は3.5×670=2,345gとなる。1塊とすると、その体積は(密度6.7g/ml)350mlとなり、当時の1合=80mlとすれば、4.38合に相当する。鋳造型が当時の5合仕込みのものか。
低濃度の合金用に使いやすい重量に1本、1本が鋳造されていたら、都合の良い1本は、8両(=0.5斤)=335gであり、それを7本献上したことになる。

この献上されたインゴットの重量から、三間鉱山のアンチモン生産能力を推定する。筆者の開発品製造経験からの第六感から、このインゴット2,345gは、1週間程度で得られたものではないかと思う。すると、年間生産能力は、122kgとなる。
古和同用アンチモンの総重量860kg(約10年間で)は、三間鉱山産の7.0年分に相当する。よって、三間鉱山がこの期間、同程度の生産を継続していれば、賄える量である。三間鉱山跡を調べて、その程度の量を産出できる大きさがあったのかを確認したいところである。
貨幣という重要性を考慮すると、1か所の鉱山だけに頼るのではなく、2~3か所の鉱山が供給していたと考えるのが妥当である。
他の鉱山はどこであろうか?


5.市之川鉱山は、この時代には、まだ発見、開発されていない可能性が高い。11)
もし奈良時代に、市之川鉱山が採掘していたら、どの程度の年産能力が期待できるかを見積もってみる。
田邊一郎「市之川鉱山物語」12)によれば、
「曽我部親信は延宝7年(1679)、仏ヶ峠で偶然、輝安鉱の鉱脈を発見、その後の50年間で処後、千荷、大鋪、本番鋪など135ヶ所を開坑し鉱山の経営主となったが、製錬には苦しんだようで近くの立川銅山を経営する大坂屋源八と共同経営したりしている。その結果、享保年間の製錬出来高は月1000斤に上がったとある。」
すなわち享保年間(1716-1735)の月の最高出来高は、月1,000斤=600kgである。通年の月平均はその1/2程度だろう。135ヶ所を開坑した結果の出来高であり、その時稼働していたのは、10分の1程度の10抗程度であろう。1抗あたりの月の平均出来高を見積もると600/2/10=30kg。年間に換算すると360kg となる。奈良時代に1抗しかなかったとすると、360kg/年となる。この量であれば、古和同銅銭用を十分賄えたと思われる。

結論
1. 古和同銅銭に使われたアンチモン総量は、860kgと推定した。
2. 三間鉱山のアンチモン年産能力は122kgと推定した。古和同銅銭用を、三間鉱山で賄えた可能性がある。ただ、貨幣用なので複数の鉱山が必要であろう。
3. 市之川鉱山はまだ発見、生産していない可能性が高いが、もし生産していたと仮定してその能力を見積もると、年産360kgとなった。

和同開珎、古和同の発行数量などの推定では、白川忠彦氏の「コインの散歩道」4) および直接の示唆を参考にさせていただきました。お礼申し上げます。


参考文献と注 
1) 花野韶ブログ「新和同開珎の発行年について」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/wado01.html

2)松村恵司 「お金の源 素材の歴史と作り方-銅貨」 広報誌 にちぎん NICHIGIN No.41 20-23(2015)
http://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin41-6.pdf

3)辻川哲朗 「近江地域出土の古代銭貨」紀要第18号p30 滋賀県文化財保護協会(2005.3)
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/18_tsujikawa.pdf

4)しらかわただひこブログ「コインの散歩道」
「和同開珎」とその実力
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J006.htm
皇朝十二銭
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J061.htm

5)岡田茂弘 田口勇 斎藤努「和同開珎銅銭の非破壊分析結果について」金融研究 第8巻3号 149(1989.10)
日本銀行金融研究所の貨幣博物館の所蔵する和同開珎銅銭および国立歴史人族博物館所蔵の大川天顕堂銭貨コレクション中の和同開珎銅銭に対する非破壊分析とその分析結果と銭種との関係を研究した。古和同6点(歴博3点、日銀3点)、新和同38点(歴博26点、日銀12点)の計44点。
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk8-3-8.pdf

6)斎藤努、高橋照彦、西川祐一 「古代銭貨に関する理化学的研究—皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析---」日本銀行金融研究所 IMES Discussion Paper Series 2002-J-30 2002年 9月
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-30.pdf

7)日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵「和同開珎目録」
http://www.imes.boj.or.jp/cm/research/data/wado/wadokaidai.pdf

8)松村恵司 「日本初期貨幣研究史略---和同開珎と富本銭,無文銀銭の評価をめぐって---」IMES Discussion Paper Series  2004-J-14 日本銀行金融研究所 p44
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk24-1-2.pdf

9)「皇朝十二銭の原料と制作技術」歴博第144号
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/144/witness.html

10)成瀬正和「正倉院伝来のアンチモンインゴット」正倉院紀要 17号73(1995)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/en-US/Bulletin/Pdf?bno=0000000114

11)気ままな推理帳「文武2年伊予国献上の白は市之川鉱山のアンチモンか」 
http://blog.goo.ne.jp/hagiustar

12)田邊一郎「市之川鉱山物語」(現代図書 2016.5)p51


文武2年伊予国献上の白は市之川鉱山のアンチモンか

2018-01-17 10:42:43 | 趣味歴史推論
インターネットと書籍の情報によって推理する。
調査のながれ
1. 「続日本紀」に表れる 白 を洗い出し、この文字が アンチモンであるとすることが妥当かを調べる。
2. 「日本書紀」持統天皇5年の伊予国司献上の宇和郡御馬山の白銀がアンチモンを表すのかを調べる。
3. 「続日本紀」の白は、市之川産アンチモンであるのか。

検証
1. 続日本紀 索引年表 1) によれば、白 は以下の4個所に表れる。は俗字で、鑞は正字である。
① 文武2年(698)7月17日 伊予国献白。
② 文武2年(698)11月5日 伊勢国献白。
③ 霊亀2年(716)5月21日 勅。大宰府佰姓家有蔵白。先加禁断。然不遒奉。隠蔵売買。是以鋳銭悪党。多肆奸詐。連及之徒。陥罪不少。宜厳加禁制。無更使然。若有白。捜求納於官司2)。
④ 天平神護2年(766年)7月26日
散位従七位上昆解宮成得下似白者上以献。言曰。是丹波国天田郡華浪山所出也。和鋳諸器。不弱唐錫。因呈下以真白所鋳之鏡上。其後。授以外従五位下。復興役採之。単功数百。得十餘斤。或曰。是似鉛非鉛。未知所名。時召諸鋳工。与宮成雑而練之。宮成途窮无所施奸。然以其似白。固争不肯伏。寶亀八年。入唐准判官羽栗臣翼齎之以示楊州鋳工。僉曰、是鈍隠也。此間私鋳濫銭者、時或用之3)。

(1)同じ年に伊予国と伊勢国が白を献上している。これは同じ金属を表しているに違いない。
(2)伊予国と伊勢国には、アンチモン(輝安鉱)鉱山、鉱床があるのでアンチモンSbを表している可能性は高い。
その時代に採掘されていたかは不明であるが、本報告では、近代までに存在した鉱山、鉱脈を挙げることにする。その時代に採掘された可能性がゼロではないから。
伊予国のアンチモン鉱山、鉱床4)は、寒川鉱山、市之川鉱山、弘法師鉱山(砥部町川登、明治43年~)、万年鉱山(砥部町、江戸~)、優良鉱山(砥部町川登)、銚子滝鉱山(砥部町千里)、久万町富重鉱山(明治中期~)大宮鉱山(1961~、砥部市)、古宮鉱山(砥部町)、鳴滝鉱山、横道鉱山(江戸時代~、砥部市)、栃の木鉱山(伊予市)、富重鉱山、竜沢寺鉱山(江戸時代~、西予市)、嵐鉱山(宇和島市津島町嵐)、三間(宇和島市三間町の戸雁、是能)
など多数ある。
伊勢国のアンチモン鉱山、鉱床5)は、森鉱山、見江島、船津鉱山(隣の紀州国)、鈴鹿鉱山、丹生鉱山などである。
(3)伊予国と伊勢国には錫鉱山、錫鉱床はない6)。よって、白は錫Snではない。
(4)僅か2年後の文武4年(700)2月8日 令丹波国献錫。 とある。
丹波には錫鉱山6)として明延鉱山(平安初期から 日本一の錫鉱山)、多田鉱山,赤金鉱山、赤松鉱山、入角鉱山があり、飛鳥時代に錫を産出してもおかしくない。続日本紀の著者編者は、 白と錫を別の金属と認識していて、異なる字を使ったと推定する。
続日本紀で、「錫」の字で金属を指して使われた箇所は、「丹波国献錫」 と④の「不弱唐錫」の2か所だけである。
(5)①の僅か10日後に、文武2年(698)7月27日 伊予国献。 とある。
わざわざ一項目として献上し記載することは、非常に見栄えのする鉱石であるはずで、とは輝安鉱の大きな結晶である可能性が大きい。錫は伊予国では産しないし、錫(Sn)鉱石では見栄えはしないので、単独に献上したり記載したりはしないであろう。
2の日本書紀の持統天皇5年(691)の伊予国宇和郡御馬山の白銀(アンチモンと本報告の後半で推定する)の献上の場合も「あらかね」を一緒に献上しているが、それに倣った感がある。
(6)③では、大宰府の長者(おさ)が白を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、白を見つけ出して官司に収めよ との勅が出された。
「続日本紀 和銅三年(710)大宰府が銅銭を献上」の記録から考えると、年代的に私鋳されたのは古和同銅銭であり、古和同銅銭の分析値ではアンチモンが数%オーダーあるので、白はアンチモンを指すと推定される。
(7)④については、かまさい「冶金の曙」サイト7)では「宮成詐欺事件」として詳しく書いており、白を純度の低い錫(Sn)、華浪山の鉱物を輝水鉛鉱(MoS2)と推定している。
これに対し、谷口徹8)は、白を輝安鉱(Sb2S3)、華浪山の鉱物を輝蒼鉛鉱(Bi2S3)とすると内容がうまく説明できるとしている。
宮成詐欺事件の時期は、766年と①②③の半世紀も後のことである。奈良の大仏には、アンチモンSbでなく錫Snが使われていたことは、前報9)で述べたが、その時の錫Snは、大仏殿碑文(752年)で「白鑞」と表されていた。天平年(729)以降では、銅と合わせて合金を作るのは、錫Snあるいは(錫Sn+少量の鉛Pb)が主になっており、それが「白鑞」と呼ばれていたと思われる。新和同も錫Snとの合金になっている。もはやアンチモンSb は使われなくなっていたのであろう。
この④の白は、Snを指すのかSbを指すのかを決め難い。

以上のことから、総合的に判断すると、伊予国献白は、アンチモンSbである。

2. 持統天皇5年(691)7月3日伊豫國司 田中朝臣法麻呂等 獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。鑛(アラカネ)一篭。
「白銀」は何をさすのか。
可能性があるのは、銀Ag アンチモンSb 水銀Hg スズSn である。

(1)「銀」の文字は 日本書紀全文検索1) によれば、32ヵ所あり、うちこの1か所だけが「白銀」という表記である。
その31か所の銀の出方を分類整理すると以下のようになる。
① 金銀 例 金銀之国、金銀彩色、金銀霞錦、金銀珠玉、金銀など 18か所
② 金銀銅 例 金銀銅、金銀銅鐵、金銀鐵            3か所
③銀 例「誕受銀郷」「大小靑冠之鈿、以銀爲之」「銀始出于當國」「凡銀有倭國初出於此時」「用銀莫止」「賜陰陽博士沙門法藏・道基、銀人廿兩」など8か所
④銀銭 例 「稻斛銀錢一文」「莫用銀錢」            2か所

31か所の「銀」はしろかね、しろがね、ぎん などとふりがなをし、読まれたかもしれないが、明らかにAg を表している。すなわち Ag =「銀」の一文字 である。
よって「白銀」は、Ag ではない。
(2)伊予国に銀鉱山ないので、「白銀」は 銀ではない。
もし、伊予国から 銀を献上したなら、対馬の銀と同じように「銀」一文字で表記されるはずである。日本書紀によれば、「御馬山の白銀」の17年前に対馬国から銀が発見され、献上された。初めての産銀である。
天武天皇3年(674)3月7日對馬國司守忍海造大國言。銀始出于當國。即獻上。由是大國授小錦下位。凡銀有倭國。初出於此時。故悉奉諸神祇。亦周賜小錦以上大夫等。

(3)水銀鉱山4)としては三間の東10kmのところの日吉地区に 双葉鉱山(日吉鉱山、父野川鉱山)がある。そこ産の水銀Hgが献上されたとの可能性があるが、飛鳥時代にはすでにHgは「水銀(みづかね、みづがね)」「汞」「銾」「水金(みづかね)」として表記されていたので、「白銀」と表記することはない。
また、同時に「あらかね」として鉱石が同時に献上されているが、水銀の鉱石は硫化水銀HgSで、辰砂、朱砂、朱沙、丹、丹砂など の名称でよく知られているので、そう書くはずである。実際はそうでないので、「白銀」は 水銀ではない。
但し日本書紀には、「水銀」「汞」「銾」辰砂、朱砂、朱沙、丹、丹砂は全く出現していない。
(4)錫の鉱山鉱床は伊予にはないので、「白銀」は錫ではない。
(5) 以下、「白銀」はアンチモンSbであるとする根拠を述べる。
① アンチモンSbは、銀白色に輝く金属なので、白銀と書くことは、十分考えられる。
② また同時に𨥥、鑛、「あらかね」を篭に盛って献上している。日本書紀に「あらかね」は、この1か所しかない。他の金属(銀、銅、錫)を献上するときにその鉱石を合わせて献上した例はない。なにか特別な理由があって、「あらかね」を献上しているはずである。それは、「あらかね」が見栄えのする特記すべきものであったからにちがいない。アンチモンの「あらかね」である輝安鉱Sb2S3は、非常に美しい結晶なので、同時に献上する価値がある。
③ 三間町誌10)によれば、「白銀」を産出したという御馬山とは、戸雁金山(とがりかなやま)の城山のことをいっているのではないかととりざたされてきた。昭和62年(1987)度より三か年間にわたり行われた三間町遺跡分布調査により、坑道跡から輝安鉱を発見でき、アンチモン坑道跡であることが実証された。但し、坑道が飛鳥時代に掘られたかは確認できていないようである。また、ここから西方3kmの是能の山中にも昭和16年頃まで稼働していたアンチモン鉱山がある。三間町のアンチモン鉱山の存在は御馬山が三間の山であったと言えそうである。三間付近には、金属や鋳造に関係ある地名が多くあり、伝承もあり、古代から開けた地域であったと思われる。
戸雁には、第41番札所 龍光寺がある。龍光寺の開基は空海であり、山師でもある空海は、すでに三間町戸雁でアンチモンが採掘されているのを知っていて、ここに寺を建てたと推測する。
以上のことから、「白銀」は、アンチモンSbである。


3.「続日本紀」の白が市之川産アンチモンである可能性を問う。
(1) 1.2.より、持統天皇の白銀、天武天皇の白は、アンチモンSbであった。
献上したのは、伊予国司 田中朝臣法麻呂であり、伊予総領~国司として、689~699(または703)の間あった。11)
このころアンチモンを献上した理由は、国が銅銭鋳造を本格的に行うために、銅と合金を作るアンチモンに注目し、求めていたためであろう。富本銭や古和同銅銭の原料としてである。
法麻呂は、天皇の代が変わったので、再びアンチモンを献上し、自身と伊予国をPRしたと考えられる。以前と同じ御馬山のものを再び献上したかもしれない。あるいは、新鉱山から得られたアンチモン塊をまず献上し、そして同時に送られてきた非常に立派な輝安鉱結晶を10日後に献上したとも考えられる。そうであれば、新鉱山が市之川鉱山である可能性はある。しかし伊予国には市之川以外にも砥部周辺をはじめとして、多くのアンチモン鉱山があるから、特定することは難しい。

(2)銅銭用アンチモンの点から検討する。
斎藤努らは古和同銅銭と新和同銅銭と銅産地の鉛同位体比分析を行った12)。その結果、古和同の銅産地は豊前国(福岡県田川郡香春町)の 香春岳(かわらだけ)であり、「続日本紀 和銅三年(710)大宰府が銅銭を献上」の記録から考えると、大宰府で古和同の鋳銭を行っていた蓋然性が十分あるとしている。新和同の銅は長門国長登が多い。古和同銅銭と新和同銅銭の鉛同位体比分析結果は、古代銭貨の研究者が「和銅産出と和同開珎に直接的関係はない」という説を支持している。「和銅」は、製錬しなくてもすでに金属になっている銅「自然銅」のことである。
また和同開珎25点の金属組成分析の結果、古和同銅銭の3点のSbは6.2,12.8,2.7とバラツキがあるが、それ以外の新和同が概ね0.3~0.7で、最大でも2.1であるのと比較すると、高い特徴があった。
また、飛鳥藤原宮跡発掘調査部 村上隆によれば、古和同様のSb 6.2,6.1,2.3 (Sn 0.4~1.3)であり、古和同より古くに鋳銭された富本銭は、Sb 5.1, 11.9, 7.2 (Sn 0.8~2.6)と高かった13)。
680~720年頃の銅銭(富本銭、古和同)は、銅にアンチモンSbを加えて鋳造されたものであり、Snを加えたものでなかった。錫Sn(または鉛Pb)を加えた銭は、720年以降であったと思われる14)。
大宰府で古和同銅銭の鋳銭を行っていたとすると、香春岳の銅と合金を作るためのアンチモンは、少量だったので、輝安鉱鉱山のどこでも可能性がある。伊予国だけでなく、西日本には多くの鉱山があり、地元では、香春岳の南20km福岡県田川郡添田町に、妙法鉱山、日昭鉱山がある。
もし、市之川鉱山周辺から、古和同銅銭や富本銭が多数発見されれば、市之川鉱山の可能性が少しあがる。
柴田圭子「四国出土の和同開珎」15)によれば、市之川鉱山に一番近い所では、西条市小松町新屋敷の柏木古墓(市之川の西10kmにあり、その西2kmには飛鳥~白鳳期創建の法安寺がある)から、12点の和同開珎のみが出土している(7点が現存)。写真から古和同ではないようにみえるが、確認が必要である。できれば、蛍光X線分析でSnまたはSb の確認をしたい。

(3)市之川鉱山の発見のいきさつから検討する。
明治34年(1901)に曽我部家13代 政太郎が作成した「市之川鉱山沿革史」に以下のように記載されている。
「延宝7年(1679)9月5日保野山より市之川山に通ずる道路破壊せしに付、山民に命じて修繕せしむ。親信山民と共に保野山字佛ケ峠に於て午餐を喫し休息す。然るに足下の巌石と巌石の間に鎗(やり)の穂の如き形をなせる石あり(石英ならん)。直ちに山民に命じて掘出さしめしに、其下より燦然たる一塊の金を掘出す。名づけて白目と云う。延世7年(1679)より享保15年(1730)迄に開坑せし場処左の如し。」
市之川鉱山は、曽我部親信が江戸時代に道路修繕時に輝安鉱を、全く偶然に見つけたことが始まりである。 山師がアンチモンや銅の鉱脈を探していて、見つけたのではない。飛鳥奈良時代に、輝安鉱が出ていたら、もっと早くに開発され、古い坑道や伝承が残っていてもよいのではないかと思う。そうならば、山師が嗅ぎつけて鉱脈を探していたと思う。江戸時代の発見のいきさつから考えると、飛鳥奈良時代には採掘されていなかった。

(4)空海は市之川を訪れていない。既にアンチモンを採掘していれば、山師である空海が訪れたはずである。訪れたのは、市之川鉱山の西5kmにある第64番札所 前神寺(天武天皇(673-86)時に役行者小角が開基)であった。
よって空海の時代に市之川鉱山はなかった可能性が高い。

結語
文武2年献上の伊予国白は、アンチモンである。その7年前の持統天皇5年に献上された御馬山の白銀が、宇和島市三間町産のアンチモンであるので、文武2年の献上品も三間産である可能性が高い。しかし伊予の他の地産の可能性も残されている。
奈良の大仏建立のような大事業でないので、遺跡や記録の発見は難しい。
市之川鉱山産出を裏付けるには
① 市之川鉱山近辺の寺社や伊予国府跡で、文武2年に市之川産を献上したという文字記録を発見する。法安寺にはないか。
② その時代の坑道跡や製錬跡を発見する。
③ 鉱山近辺の地、寺社、墓、古墳などで富本銭や古和同銅銭を多数発見する。
④ 市之川鉱山博物館や西条郷土博物館などにあるアンチモン塊の数点を蛍光X線分析にかけ、正倉院のアンチモン塊16)と不純物を比較してみる。似ていれば、そのアンチモン塊が市之川産の可能性があり、当時の市之川鉱山の存在を支持する可能性があるが、違っていても、何とも言えない。

結論
文武2年の白は、アンチモンであるが、市之川鉱山産の可能性は非常に低い。

参考文献と注
1)続日本紀は国史大系 続日本紀 前編後編 (黒板勝美 昭和63.4 吉川弘文館)と
新日本古典文学大系 続日本紀1~5、索引 青木和夫ら(1989.3~2000 岩波書店)
 日本書紀は国史体系 日本書紀 黒板勝美 (昭和61 吉川弘文館)
 日本書紀の全文索引は以下http://www.seisaku.bz/search3/searchn.php?word=%E6%9C%B1%E6%B2%99&mode=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
2)勅したまはく、「大宰府の佰姓が家に白を蔵むること有るは、先に禁断を加えたり。しかれども遵奉せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加え、更に然らしむること無かるべし。もし白有らば、捜り求めて官司に納めよ」とのたまふ。
3)散位従七位上昆解宮成、白に似たるものを得て献る。言して曰く、「これ丹波国天田郡華浪山(はななみやま)より出でり。諸の器に和(ねや)し鋳るに、唐の錫におとらず」といふ。よりて、真の白を以て鋳る鏡をたてまつる。其後、授くるに外従五位下を以てす。また役(えだち)を興して採らしむ。単功数百にして、十餘斤を得たり。或は曰く、「これ鉛に似て鉛に非ず。名くる所を知らず」といふ。時に諸の鋳工を召して宮成とともにまじりて練らしむ。宮成みち窮りて奸(ひすかわざ)を施ゐる所無し。然れどもその白に似たるを以て、固く争ひて伏することを肯にす。寶亀八年、入唐准判官羽栗臣翼これをもちて楊州の鋳工に示す。みな曰く、「これ鈍隠なり。此の間、私に濫銭を鋳る者は時に或はこれを用ゐる」といふ。
4)渡邊武男 沢村武雄 宮久三千年 「日本地方鉱床誌(3)四国地方」(朝倉書店、昭和48.8)
愛媛県総合科学博物館「愛媛の鉱山」
www.i-kahaku.jp/research/special/kouzan/index2.htm
平谷元典 「鉱床と鉱山-日本の鉱山-」広島大学
http://home.hiroshima-u.ac.jp/yhiraya/er/Rmin_K%26K(2).html
石原舜三[日本の主要アンチモン鉱床とその成因に関する考え方」資源地質Vol.62 158(2012) 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigenchishitsu/62/2/62_151/_pdf

5) 三重県総合博物館ホームページの「輝安鉱」「三重県内でも、細かい針状結晶が亀山市、松阪市、渡会郡南伊勢町などで見つかっています」とある。
木村多喜生、森岡靖「三重県森鉱山のアンチモニー鉱物について」地学研究Vol.46(3)151(1997)
以下は、三重県総合博物館 学芸員 津村善博 氏による情報
文武2年に伊勢国から献上した白を産出した鉱山は特定されていません。
① 森鉱山 三重県松阪市飯高町森 
② 見江島 三重県度会郡南伊勢町鵜倉見江島
③ 船津鉱山(国境の紀州国にあり伊勢国には該当しないが)三重県北牟婁郡紀北町新田
④ 鈴鹿鉱山 三重県亀山市安坂山町坂本
⑤ 他には、三重県多気郡多気町五桂新田 や 多気町 丹生鉱山などで少量産出した

6)河勝 (2013ブログ)日本のスズ鉱山と古代製品出土分布図(元資料は村井章介ほか「境界の日本史」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55926482.html
Wikipedia「日本の鉱山の一覧」中の三重県のうちの伊勢国相当部分と愛媛県伊予国相当https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%B1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E4.B8.89.E9.87.8D.E7.9C.8C

7)かまさい 「冶金の曙」 宮成詐欺事件
http://www.geocities.jp/e_kamasai/bangai/ban2.html

8)谷口徹のブログ「理学部のゴミ箱(副題 鉱物才集日記)」白は輝安鉱か
http://unkonshi.exblog.jp/19211670/

9)気ままな推理帳 「市之川鉱山のアンチモンが奈良の大仏に使われたのか」
blog.goo.ne.jp/hagiustar/e/715ca342b3e06a0f5fe6c6520a4de00a

10)三間町誌 平成6年11月編集三間町誌編集委員会
 Awatennbou ブログ 三間町史跡巡り(1)(2010.6.2)
http://blog.livedoor.jp/awatennbou/archives/1346487.html#comments

11)伊予国司 田中朝臣法麻呂の経歴。持統3年(689)8月伊予総領となる(伊予着任)。持統5年(691)伊予国司となる。文武3年(699)10月 遣---直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。---並分功修造焉。(法麻呂はこの時点では、伊予国守を退任していた?)大宝3年(703)8月 従五位上百済王良虞 伊予守となる(法麻呂はこの時まで任官していた?)。

12)斎藤努、高橋照彦、西川祐一 「古代銭貨に関する理化学的研究—皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析---」日本銀行金融研究所 IMES Discussion Paper Series 2002-J-30 2002年 9月
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-30.pdf

13)村上隆「飛鳥藤原地域で出土した銅、青銅、金属製品」奈良文化財研究所年報1996 30-31 (1997.3.15)
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/5239/1/AN00181387_1996_30_31.pdf
村上隆 「材質から「富本銭」を考える」考古学ジャーナルVol.454 38-42(2000)
14)東野治之 「東アジアの中の富本銭」文化財学報 Vol19,23-41(2001)
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN0000711X-20010300-1003.pdf?file_id=2544
 「皇朝十二銭の原料と制作技術」歴博 第44号(2007.9.20)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/144/witness.html
松村恵司 「お金の源 素材の歴史と作り方-銅貨」 広報誌 にちぎん NICHIGIN No.41 20-23(2015)
http://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin41-6.pdf

東アジア史のなかの和同開珎 ―わが国の古代貨幣に関する新見解 添田馨(詩人・批評家)アジア太平洋研究センター年報 2011-2012 3-16
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2012-01.pdf

15)柴田圭子「四国出土の和同開珎」奈良文化財研究所 和同開珎出土遺跡データベース(2008) http://mokuren.nabunken.go.jp/wadou/022.pdf
正岡睦夫・十亀幸雄「愛媛県周桑郡小松町柏木古墓出土の和同開珎」,『遺跡』第35号(1996)
16)成瀬正和「正倉院伝来のアンチモンインゴット」正倉院年報17号73-76(1995)http://shosoin.kunaicho.go.jp/en-US/Bulletin/Pdf?bno=0000000114

次の三人の方々の本、ブログは、全般的に大変参考にさせていただいた。

田邊一郎「市之川鉱山物語」(現代図書 2016.5)
愛媛の鉱物鉱山のページ
http://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/menu.html

古賀達也の洛中洛外日記
 第495話 古代貨幣とアンチモン(2012.11.22)
 第496話 越智国のアンチモン鉱山(2012.11.23)
 第497話 大宰府とアンチモン(2012.11.28)
 第498話 「古和同」の銅原産地(2012.12.02)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki8/nikki496.html

かまさい 冶金の曙 「富本銭」など
http://www.geocities.jp/e_kamasai/bangai/ban3.html


市之川鉱山のアンチモンが奈良の大仏に使われたのか

2018-01-14 15:02:00 | 趣味歴史推論
 平成29年3月5日西条市で、田邊一郎先生の「私が市之川鉱山に学んだこと」講演会があることをたまたま知りました。愛媛県に住んでいますが、この鉱山と輝安鉱のことはあまり関心がありませんでした。鉱物、石マニアでもないのですが、ただ 多くの元素の有機金属化合物をCVD材料として合成していたことがあり、元素や結晶には興味を持っていました。そこで、先生の講演を聞きたいと思い、先生のホームページやブログを拝読し、随想に引き付けられました。2月17日に西条市郷土博物館で、素晴らしい輝安鉱や鉱山の歴史を見て、解説の英文に、「奈良の大仏の建立に錫の代わりに約7.5tのアンチモンが使われていたとも言われ、このアンチモンが市之川産の可能性がある。が歴史的記録はない」と書かれていることに見つけました。(この文は、あとでWikipedia市之川鉱山の参照文献 から「市之川鉱山の未来を考える会」の小冊子からとられたものとわかりました。)
もう少しはっきりしたいと思い、先生の著書「市之川鉱山物語」を調べたところ、p163に「なお、東大寺要録巻二 の白鑞12618斤(約7t)の白鑞は比率の重量からするとアンチモンではなく、錫をさすのであろう」と書かれていました。
その根拠をはっきりしたいと思い、インターネットで調べ、まとめました。

調査の流れ
1. 大仏殿碑文の「白鑞」はアンチモンSbか錫Snかをはっきりさせる。そのために、
①  奈良大仏の奈良時代の仏体部分の組成分析値を探す→Sb分析値が約1.7%な    ら、白鑞はアンチモンといえる。
② アンチモンでなく錫Snであるなら、Snを供給した鉱山を特定する。
③ 不純物量のアンチモンなら、銅からもたらされている可能性があるがどこの銅山か。
2. 市之川鉱山の奈良時代のアンチモンについての伊予国や郷土の史書、寺伝、言い伝え、遺跡などはあるのか。

結論 
  奈良建立時の大仏に使われた「白鑞」は、アンチモンSbではなく、錫Snである。
  よって市之川鉱山のアンチモンが使われたことはなかった。
根拠
① 創建時の仏体と推定される3か所のSb 分析値が0.06~0.08%と不純物量である。
② Snが大分県佐伯市の木浦鉱山から、供給された。
③ 市之川鉱山近くにある僧行基建立といわれる保国寺や、伊曽乃神社、王至森寺などで、この鉱山産出の白鑞が、大仏に使われたという伝承、遺物などが見つかっていない。


1. 奈良の大仏の建立時の分析値
奈良の大仏は、二度の火災で再建されており、「Wikipediaの奈良の大仏」では、「頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている」とある。その部分の分析値が見つけられれば、簡単であるがなかなか見つからなかった。奈良の文化財研究所などにはあるのであるのかもしれない。見つけた分析で最も詳しいものは、石野亮(1)の報文の14点の分析値である。なおこの分析(昭和32年)は、荒木宏(2)であるようだ。
第3表の注にNo.11(背部下の入口1m上)、No.12(上部入口付近)、No.13(左膝下部)は創建当時のものと推定とある。また江本義理(3)の第2表には、No.11に相当する部分の備考欄に「奈良時代の火中の形跡」と記載がある。
分析値は添付表参照。
この分析によれば、
    Cu   Sn   Pb   As   Fe   Bi   Sb   Au   Ag 
No.11 93.57  1.43 0.57 2.91 0.16 0.16 0.06 0.00817 0.1657
No.12 93.10 2.45 0.60 3.14 0.28 0.12 0.08 0.00886 0.1414
No.13 92.78 1.77 0.49 2.99 0.30 0.13  0.08 0.00236 0.1421

3点平均 93.15 1.88 0.55 3.01 0.25 0.14 0.07 0.00646 0.1497

  よって建立時の部分と推定される3か所の分析値平均は Sn 1.88% Sb 0.07%であり、白鑞配合割合=白鑞/(白鑞+熟銅)12618斤/(12618斤+739560斤)=1.68%に近いのは、Sn 1.88%である。よって奈良の大仏の白鑞はSnの可能性が大である。
碑文に書かれた配合物は、熟銅と白鑞のみなので、0.07%のSbは、銅か錫の不純物として含まれていたと考えられる。
また0.55%の鉛Pbは、銅の不純物か、錫の不純物か、白鑞としての錫に意図的に加えられたものか、のうちのどれかと考えられる。
2. 錫を供給した鉱山の特定
大分県佐伯市字目にある「やど梅路」のホームページ4)によれば、奈良大仏の錫は大分県木浦(きうら)鉱山産出であることが2004年にほぼ立証されたとのことです。この時点で、奈良の大仏の「白鑞」は錫であることが確実である。関係部分をコピーして貼り付けると以下のとおりです。
そうだじゅんのブログ5)にもいきさつを考察した記述がある。
 
1) 『金梅仙』。697年(奈良時代初期)韓国経由で渡来した中国系鉱山技術者。秦の武帝を崇拝した優れた霊能者。山岳信仰でムラ興しに貢献して霊亀(715年)頃、現在の木浦に定住。この地を最初に「木浦・モッポ」と呼び、武帝に祈りをささげた岩に今は御霊が宿っています。天平元年(729年)夏の終わり、権力争いに巻き込まれて山中に逃れたとき「きうら」と呼ばれるようになったようです。奈良の大仏造立の際、佐藤大膳、植木武平治、金梅仙は義兄弟の堅い契りのもと、錫と鉛を産出。長門の国へ送ったと言われ、今も「大字木浦鉱山字長門町」という地名がのこっています。
2)下段の岩の写真は、梅路の上方、西の方角に当たるセリバ谷の極めて古い壊れた坑口です。奈良の大仏建立の時、長門の国から錫と鉛を取りに来ていた力の強い人がいたので、「大字木浦鉱山字長門町」と地名が残っています。さらに地質学会の権威者によって、この坑口から微量要素のホウ素が検出されました。
2003年11月11日、分析通知書 造幣局広島支局長 神徳茂夫 印 の中で微量要素としてホウ素が認められたとあり、ほかの坑口のサンプルからは検出されていないので、セリバ谷から掘り出された鉱石を長門町錫製錬所で製造された錫だと科学的に立証され、2004年1月12日、大分県の地質学会の総会で報告されました。
3)2016年07月07日
理学博士 野田雅之 元地質学会の会長先生  昭和40年代7人ほどで木浦鉱山の錫を研究されたそうです。現在はおひとり。ご高齢になられ長い間収集されてきた貴重な鉱石サンプルはジオパークに取り組み中の豊後大野市三重町の博物館に寄贈されたとか。ご自宅でサンプルを整理されておられるのを聞きつけたバイヤーも見えるそうですが、お金に換える人に渡すとすぐバラバラになるから売らない。梅路なら大切にするだろうから寄贈するよと言って下さいました。それで鍵のかかるケースを2台新調して玄関に展示させていただきました。先生の作成された説明書付きですから、もっと広いところできちんと展示すべきですが、今はこれが限界で心苦しく存じております。先生のご尽力で500年代開発された水晶の鉱脈、鉛の谷で二次鉱物の緑鉛鉱も発見。700年代半ば、奈良の大仏造立の時、大量の錫を採掘した極めて古い鉱口のサンプル分析で微量要素のホウ素を確認。私は広島の造幣局でサンプルを分析。「長門町錫製錬所遺跡」からホウ素が検出されました。「セリバ谷の極めて古い坑口」から掘り出された鉱石が、長門町錫製錬所で製錬され、長門の国の銅に混ぜて奈良に送られた事が科学的に立証され2004年1月12日大分県の地質学会の総会で発表されました。現在「大字木浦鉱山字長門町」と町名が残っています。

3.  奈良時代の市之川鉱山アンチモンの奈良の大仏への供給を示唆する、郷土での、歴史記述、伝承、遺跡、遺物などはあるか

奈良の大仏の建立は国家の一大事業であったので、国司や官の技術者が絡んでいたはずであり、また当時の約7tのアンチモンは非常に大量であったから、その製造に携わる人も多く、採掘や製錬の痕跡を示す遺跡、遺物があってもよいはずである。

1) 伊予国の国府は今治市桜井付近にあり、市之川鉱山と40km程度離れている。
 743年聖武天皇は大仏建立を決心し、行基(668-749)に協力を頼んだ。行基は伊予にも訪れ、寺や堤防、橋などを民衆とともに作った。
2) 鉱山から直線距離で3km内に、聖武天皇時にはすでに建てられていた4つの寺や神社がある。伊曽乃神社(6)、保国寺(7)、真導寺、王至森寺(8)である。このことから市之川鉱山近くは開けていたと思われる。
3) 特に保国寺は行基の開山といわれているので、奈良の大仏の造立に、もし市之川のアンチモンが使われているのであれば、「白鑞」のことが寺伝や付近の伝承としてあってもおかしくないが、ネットで調べた限りでは見つけられなかった。
4) よって今のところ、郷土では、市之川鉱山の「白鑞」が奈良の大仏に供給されたという、寺伝、社伝、伝承、遺跡、遺物は見つかっていない。
5) 続日本紀の698年に「伊予国献白 」「伊予国献 鉱」と記述されるものが、市之川鉱山産出の白鑞アンチモンであることを裏付ける寺伝、社伝、言い伝え、遺跡、遺物を、これらの4つの所から発見したいものである。冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるアンチモンの出所の可能性に対しても、伝承や遺物を発見したいものである。

4. 銅を供給した銅山
銅は主に長門国(山口県)長登鉱山のものであった(9)。
ヒ素AsとコバルトCo が多く含まれるのが、この鉱山の銅の特徴である。
酸化銅鉱石の還元製錬を主とし、硫化銅鉱石の酸化製錬もしていたであろうと推定されている。新井宏(10)によれば、前者で得た銅の微量不純物は、鉱石組成の他に、製錬温度の影響が大きく、ヒ素やアンチモンは、銅の融点降下に働くため一定量銅に入るとのことである。大仏鋳造にヒ素の多い長登の銅は、好都合であったと言われている。
1989年京都府大山崎町の山崎院跡で、円盤状の銅地金6枚が出土した(最大2680g)。
大仏鋳造に使われた長登鉱山の銅に多く含まれるコバルトや錫が検出され、鉛同位体比の分布もほぼ一致したことがわかり、平成22年秋に発表された。山崎院は大仏建立に貢献した行基が建立した寺院であることから、余った銅の一部が褒賞として山崎院に下賜されたとも考えられている。あるいは、大山崎は、水陸交通の要衝で長登銅がここを通り、奈良に運ばれ、精製され鋳造に供されたという可能性もある(11)。
この円盤状の銅地金の分析値(wt%)(12)
Sn   Pb   As   Fe   Bi   Sb   Au   Ag   Co
0.015  0.002  6.8   3.8  0.001  0.036  0.019  0.11  0.021
 
引用文献
(1) 石野亨「奈良東大寺大仏の塗金」現パ-68-6 p7  https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj1954/15/6/15_6_7/_pdf 
(2) (2)荒木宏 「技術者のみた奈良と鎌倉の大仏」有隣堂(昭和34)
(3) (3)江本義理「金属製文化財の材質研究」 10巻1号p52  https://www.jstage.jst.go.jp/article/materia1962/10/1/10_1_50/_pdf
(4) やど梅路 yado-umeji.jp/topics/index.html
(5) そうだじゅんブログ「民俗学伝承ひろいあげ辞典」大仏と錫 その二
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49167647.html?__ysp=5aWI6Imv44Gu5aSn5LuPIOS9leWHpuOBrumMq%2BmJseWxseOBiw%3D%3D
(6) Wikipedia伊曽乃神社 社伝によれば、第13代成務天皇7年(4世紀半ば?)に創建。文献では、古く続日本紀天平神護2年(766)条において、「伊曽乃神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。
(7) Wikipedia 保国寺 727年、行基によって創建されたと伝えられる。聖武天皇の勅願寺として創立したといわれる古刹。伊曽乃神社の裏手にある。
(8) 王至森寺 西条市在住の人(たかし)のホームページ四季の風車
http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history35.html  寺伝によると、舒明天皇(在位629~41)が道後温泉へ行幸の途中、燧灘で暴風雨に遭い、この時、森の中の寺で難を避けた故事に因み王至森寺と称したという。創建年(伝)舒明12年
(9) 新井宏「金属を通して歴史を観る. 奈良の大仏の銅の製錬」Boundary 2000.3 p64  http://arai-hist.jp/magazine/baundary/b15.pdf

   古代長登銅山跡の発見 池田善文「美東町史・通史編」(平成 16 年 11 月 3 日発行)http://www.c-able.ne.jp/~naganobo/mitoutyousi.pdf
(10) 新井宏「青銅器中の微量成分と製錬法」情報考古学 6(2), 29-37,( 2000)
(11) 山崎院跡出土の銅塊http://www.jcda.or.jp/Portals/0/resource/center/shuppan/dou172/d172_03.pdf#search=%27%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F+%E6%88%90%E5%88%86%E5%88%86%E6%9E%90%E7%B5%90%E6%9E%9C%27
(12)  かまさい「冶金の曙」 山崎院跡出土の銅地金 http://www.geocities.jp/e_kamasai/zakki/zakki-12.html