気ままな推理帳

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切上り長兵衛の位牌をお祀りしてきた加藤家は新居浜井筒屋に違いない

2019-04-26 09:42:19 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛を追善供養した浜井筒屋は、銅を運ぶ船の船主であることがわかったが、このことと、位牌をお祀りしてきた加藤敏雄家の関係を明らかにしたい。
芥川三平は、「実は加藤家は昔から慈眼寺の檀家である。御代島城の加藤御三家子孫である。」と書いている。1) 芥川三平(正岡慶信)氏も加藤敏雄氏も故人となられているので、これ以上の情報はとれない。
船と加藤御三家(加藤民部正、彦右衛門、清太夫)とのつながりを探していたら、御代島城主の加藤民部正(かとうみんぶのしょう)は、金子備後守元宅の船手であることに気が付いた。2)船手は水主や船舶を統括管理した。そして天正の陣で金子元宅の水軍の将として戦った。加藤家と船とは非常に強い関係があることがはっきりした。また江戸時代の西條藩の新居浜の水主の多くは、加藤民部正の旗下の子孫と伝える。2) 加藤民部正は庄内で討ち死にし(天正13年(1585)7月17日没)、その地に祀られて、民部さん(民部神社)がある。写真) お守りしている脇の加藤氏に伺ったところ、天正の陣後、ずっとここに住んで10代目であるが、先祖が船に関係していたと聞いたことはないとのことであった。加藤敏雄氏のご親戚に(2019.7.1訂正)御先祖は船に関係があったのではないかとの問いには、聞いたことがないとのことであった。
一方、明治5年(1872)の新居浜浦の船持調書によれば、5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった。7)やはり加藤姓と船との関係は強いことがわかった。しかし、この中に、加藤敏雄家の先祖が含まれているかどうかは、わからない。

筆者の気ままな推理は以下のとおりである。
 船手であった御代島城の加藤御三家の子孫である忠七は、別子銅山が開坑した元禄には廻船を手に入れ、宝永6年(1709)には新居浜口屋と大坂泉屋に出入りしていた。宝永5年(1708)に切上り長兵衛が四国を離れた所で亡くなったことを聞いていた。享保~寛延~宝暦では、船主としてだけではなく、船問屋を経営し、その屋号を泉屋の井桁紋にあやかって井筒紋の新居浜井筒屋とした。新居浜井筒屋忠七船が別子立川銅山の荒銅を積んで大坂に行く途中、宝暦6年9月16日に兵庫沖で大風雨にあい難船、打荷し、その事後処理に泉屋や役人が多くかかわる事件があった。処理後、泉屋と井筒屋は相図り、翌年の宝暦7年(1757)に切上り長兵衛の50回忌供養を慈眼寺で執り行った。
切上り長兵衛が四国を離れる時や遺骨となって戻ってきた時に世話をしたのも浜井筒屋ではないかと想像する。
この推理を確かものにするには、以下のことなどを調べる必要がある。
① 加藤敏雄家の過去帳、系図、繰り出し位牌などを調べさせていただき、ご先祖に忠七さんを見つける。
② 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳と同時期の新居浜浦廻船石数改帳等の古文書を探し、井筒屋、忠七、加藤などの名を見つける。

このような推理の基になった新居浜の海運業の歴史と廻船・船主の情報を以下に記す。
新居浜の海運業の歴史
黒川裕直によれば以下のとおりである。3)
「新居浜に於ける海運業は大島にては非常に古く、南北朝地代から海賊衆となって海を舞台に活躍したが、本当の意味での海運業は太閤の朝鮮の役(慶長3年(1598))後に同役に使った大船を附与され、これを商船に改造して廻船業をはじめたと云われ、新居浜に於ける海運業は大島廻船によって始まったとの事である(ブログの筆者は、この記述の妥当性を未確認)。新居浜ではそれより遅れ、寛永年間(1630年頃)立川銅山口屋が出来、(この記述の妥当性も未確認)また下って元禄15年(1702)から別子銅山口屋が設けられた。これは船宿と廻船問屋の機能をかねたものだったが、住友私設で一般には利用出来なかった。塩、米、竹皮、海産物を大坂、九州方面等へ輸送する廻船が入港し、小さいながら湊としての船宿(出入り船舶に対して一種の行政権を持つと共に、船員宿泊所と倉庫業を兼ねて居た)や廻船問屋(移出入貨物の公認斡旋所で船宿業者が荷物手形を発行した)があった。
西條藩では番所を大島浦・新居浜浦・西條喜多浜・氷見宮の下の4ヵ所に置き、代官所に所属する川口番人を世襲任命し、往来船の取調べや難破船の取扱いをした。新居浜番所は中須賀埠頭にあり、番人荒井氏が番所の水主と主に海上の見張りをした。航海船舶は御朱印の他に海上往来手形を要した。航海者所在の大庄屋がこれを作成し、船籍・帆端・乗組員数・積荷目録・航海目的が記載されている証明書であって、船の出入通過の際番所役人に提示することになっていた。
宝暦13年(1763)の吟味惣改帳によれば、新居浜浦には小廻船20艘と漁船93艘があった。一般船問屋は文政10年頃(1827)までは、新居浜浦鍋吉なるものが経営していた。

また「えひめの記憶(愛媛県史)」には以下の記述がある。2)
西条藩では公認の船宿は大坂宿と呼ばれ、新居浜・大島・松神子津口・黒島の4港に置かれた。特に大島浦は、地乗り時代の近世初頭では、大坂商人の商活動の根拠地となり地方屈指の商港であった。寛文10年(1670)には船28艘分の大坂宿銀363匁を上納し、水主は本浦に237人、黒島128人がおり、うち109人は他国者であった。数百石積の大船を有していた。黒島は多喜浜塩田開発後に塩問屋が置かれて、尾張・伊勢・三河・遠江・阿波なとから塩買船が入港した。
新居浜浦は元禄15年(1702)に別子銅山口屋が埠頭に置かれて発展した。大坂へ通う銅船(300石)中型廻船(100石)と地廻りの小廻船(50石以下)があり、宇摩・道前・美作などから銅山買請米を積む廻船が入津した。松神子は宝永4年(1707)に船問屋が置かれ、特産である素船が入津した。同藩の寛延ごろの帆別銀は1反当たり銀1匁で、7反帆以下は不要であった。

新居浜の廻船・船主の記録
1. 寛文7年(1667)「西海巡見志」によれば、保有する廻船数は以下のとおりである。4) 
大島浦+黒島浦    ・300石積~200石積        17艘+6艘=23艘
新須賀村+新居浜浦  ・250石積~90石積         6艘+11艘=17艘
2. 寛文10年(1670)大島浦指出帳によれば、以下のとおりである。5)
大島と黒島合わせて大船(廻船)が28艘あった。(石数は筆者の推定)
・16端帆(300石積) 2 七右衛門船、三右衛門船
・15端帆(250石積) 4 長右衛門船、長右衛門船、李右衛門船、六兵衛船
・14端帆(200石積) 2 伝兵衛船、八兵衛船
・13端帆(175石積)7 喜兵衛船、弥三兵衛船、庄屋右衛門船、権右衛門船、伝兵衛船、君右衛門船 
・12端帆(150石積) 2 伝右衛門船、八兵衛船
・11端帆(125石積) 6 五兵衛船、清右衛門船、小右衛門船、伝右衛門船、竹兵衛船、源兵衛船
・10端帆(100石積) 4 庄右衛門船、判右衛門船、七右衛門船、源右衛門船
・8端帆(45石積) 1 与兵衛船
16~11端帆の20艘は、主に北国運賃米積に使われ、残りの船は、材木を松山から播州、佐伯、日向から播州に運んだ。船名は、名だけで、姓(苗字)はわからない。
3. 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳によれば、大島浦と黒島の廻船は20艘で、以下のとおりである。6)
・850石積  大島浦船主 村上庄左衛門船  沖船頭吉蔵
・900石積      同人船        沖船頭左次兵衛
・780石積   同所   由左衛門船    沖船頭吉兵衛
・900石積      同人船        沖船頭久兵衛
・850石積   同所   清右衛門船    沖船頭長四郎
・460石積   同所   重郎兵衛船    沖船頭
・770石積   同所   六郎兵衛船    沖船頭伊兵衛
・400石積      同人船        沖船頭伊右衛門
・860石積   同所   弥一右衛門船   沖船頭五兵衛
・520石積      同人船        沖船頭市左衛門
・500石積      同人船        沖船頭儀左衛門
・800石積   同所   与助船      沖船頭弥次郎
・550石積   同所   五郎右衛門船   沖船頭直三郎
・800石積   同所   九郎左衛門船   沖船頭直三郎
・650石積   同所   伊兵衛船     沖船頭惣吉
・730石積   同所   徳兵衛船     沖船頭利助
・800石積   同所   与兵衛船     沖船頭儀
・450石積   同所   与兵衛船     沖船頭四郎兵衛
・800石積   黒島   惣兵衛船     沖船頭茂左衛門
・900石積   同所   常右衛門船    沖船頭直乗り
 寛延元年(1748)辰10月  与州大島浦庄屋 村上庄左衛門
               同浦年寄      小右衛門
               黒島年寄       五兵衛
               同断        次郎兵衛
   薩摩屋半右衛門殿
   淡路屋長左衛門殿
   伊与屋左次兵衛殿
この文書は大島浦から大坂の船問屋に宛てたものである。米をはじめとして各地の産物が江戸、大坂を中心に集積された。大島浦の海運業が非常に栄えていたことがわかる。
4. 寛延元年(1748)頃の新居浜浦廻船石数改帳等
別子銅山の銅や米などを運んだのであるから、記録文書はあるはずであるが、筆者はまだ見つけていない。

注、引用文献など
1. 芥川三平 「瑞応寺西墓地の怪(下の四)」新居浜史談347号p16(2004.7)
2. データベース「えひめの記憶」>愛媛県史近世下(昭和62.2.28発行)>海上交通①
3. 黒川裕直「新居浜港を中心とした海事史話」p1(昭和39.7.20 1964)
4. 幕府巡見使 川口孫兵衛・藤堂勝兵衛・堀八郎右衛門ら「西海巡見志」寛文7年(1667) 伊予史談会双書第11集p28 (伊予史談会 昭和60.7 1985)
5. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p4(昭和50.1 1975)
6. 古文書集編集委員会編(委員長 池田寅雄)「古文書で探るふるさと新居浜」p33(新居浜市教育委員会 平成4年 1992)村上文書
7. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p132(昭和50.1 1975)
明治5年(1872)諸願留より 船持調書  新居浜浦
5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった(以下抜粋)。
 14反帆 200石積  4人乗  沖船頭 明星蔵   住吉丸 加藤徳太郎
 8反帆  40石積  2人乗    自分乗     有尚丸 加藤重造
 8反帆  45石積  2人乗  沖船頭 白石春太郎 喜徳丸 加藤喜平
 6反帆  20石積  2人乗    自分乗     喜徳丸 加藤仙助
 7反帆  45石積  2人乗    自分乗     三穂丸 加藤芳造
 7反帆  45石積  2人乗   自分船頭     長者丸 加藤庄兵衛
 9反帆  75石積  3人乗    自分乗     住吉丸 加藤庄作
 6反帆  20石積  2人乗            御代丸 加藤茂吉
 6反帆  20石積  2人乗    自分乗     御代丸 加藤政右衛門
 7反帆  45石積  2人乗    自分乗     宝栄丸 加藤覚蔵  
写真. 加藤民部正をお祀りした民部神社と明治16年末秋(1883)に建てられた300回忌供養の常夜灯 竿石正面に「金毘羅宮 奉燈」の刻字あり(新居浜市庄内)



新居浜口屋といつから呼ばれたか

2019-04-17 17:58:48 | 趣味歴史推論
「新居浜口屋」の歴史と果たした役割については、「住友の歴史 上巻」に簡潔によくまとめられている。1)
この口屋は、元禄15年(1702)8月、新居浜浦の六左衛門の家と土蔵とを賃借してこれに充てた。2) その時に「新居浜口屋」と書かれた看板が掲げられたという記録は、見つからなかった。その当時の絵図を探したが、見つからなかった。140年後に出版された原本「西條誌」の新居浜浦の絵図が最も古いものであった。3)図
この絵図では中央やや左手前に口屋の建物、2艘の弁才船、中央奥に御代島が丁寧に描かれている。本文には、「口屋と云う」と記されているが、この絵図には「口屋」の表示はない。

いつから新居浜口屋と呼ばれたのかを明らかにするために、「別子銅山公用帳一番・二番」「別子銅山公用帳三番・四番」の中の関連する箇所を抽出した。以下のとおりである。

1.(1706年)予州別子銅山宝永3年戌6月25日大風雨破破損仕候覚4)
新居浜役所並びに土蔵瓦吹落、壁落、其の外所々破損 此入用銀3貫2百目
2.(1707年) 与州別子銅山、宝永4年亥8月18日・19日大風雨破損ニ付、銅座役所並後藤四郎三郎殿江書付相認、差出候控5)乍憚口上
新居浜居宅瓦吹落シ、其外蔵5、6ヶ所壁吹落シ申候
・同所、19日昼過大潮満、津波打掛、浜手之蔵屋ね之中程迄波打掛、海へ投込可申処、漸綱・おもりニて取留申候
右之通不取敢申上せ候故、大概ニ而御座候、----
 亥8月  泉屋吉左衛門 金福印
 銅座御役所へ一通 宛名なし一通、後藤四郎三郎殿へ
亥8月18日亥上刻ゟ翌19日午刻迄、大風雨破損仕候覚6)
新ゐ浜役所並土蔵瓦吹落シ、壁落、其上高潮ニ而蔵々へ潮打込、米其外諸荷物根拼之分、濡捨り候損銀並修覆入用共 此損銀4貫200目
合銀209貫790匁
右者8月18日亥上刻ゟ19日午刻迄大風雨ニ而、破損仕候ニ付、一々吟味仕、損銀之積如此御座候、以上
 宝永4年亥9月       泉屋理右衛門
  神波彦太夫殿
  黒川三右衛門殿
右ハ遠藤様御廻国ニ付、沢右衛門殿新ゐ浜役所ニ9月15日御一宿ニて、黒川三右衛門殿ゟ指出シ被申候処ニ、則沢右衛門殿へ(ママ)、遠藤様へ御上ケ被成候由、与州ゟ書付写如此
3.(1710年)宝永7寅8月2日、予州大風雨ニ付御代官へ破損所注進書付指出し候由、---乍憚書附を以御断申上候7)
・立川口家並蔵6ヶ所、中持小屋数ヶ所、屋ね少ツヽ吹取申候
新居浜口家高汐満、蔵々へ汐満込、米根はへ、1俵半ゟ2俵迄濡レ申候、米之外諸色根はへ之分、汐濡ニ罷成申候、米高3100石余程所持仕候、于今汐高ク御座候故、蔵々詰替難成御座候故、凡米150石も損し可申と奉存候
右之通御座候、----
 寅8月4日       泉屋吉左衛門代 理右衛門
                     彦右衛門
                     勘平
 黒川三右衛門様
 鈴木理大夫様
4.(1715年)正徳5年8)
乍恐書付を以存寄奉願候覚
・右銅山元ニ而掘出候諸入用、並大坂江廻候運送入用等、委細御吟味之上、江戸ニ而成共大坂ニ而成共、可被為下置旨被為仰渡、奉承知候御事
 ---山方諸小屋・銅吹床・焼竈・所々役所、並立川村中次所諸蔵・新為浜役所蔵等、大分之入用を以、普請仕置申候、---
 正徳5年未12月  泉屋吉左衛門
 石原新十郎様
5.(1719年)享保4年9)
乍恐口上
予州別子銅山去戌11月ゟ当正月迄、御用銅勘定仕立指上申候処、諸入用多、銅直段高直相当り申候故、再三被遊御吟味得共、山元下財・掘子・働人給銀難減御座候ニ付、乍恐口々存寄御断奉申上候、---
・銅・炭御運上銀、新銀ニ而も前方納高之員数上納仕候ニ付、三拾割増上納、右之外御用金・浜手金、並薪山年貢・口屋地子銀等も、右之積りニ准シ申候、依之戌11月ゟ亥正月迄、出銅18万8千斤余ニ増銀を割付候得者、銅100斤ニ付8匁8厘3毛宛入用多掛り申候、此訳左ニ記
・新銀150目     新居浜役所地代
・新銀79匁9分9厘  立川村中宿地代
---以上
享保4年亥3月       予州別子銅山師 泉屋吉左衛門
   石原新十郎様 
6.(1721年)享保6年10)
乍恐口上
----
・去ル午年遠藤新兵衛様御支配之節、米請取方之儀、御書付を以被仰付候、右御書付予州新居浜口屋ニ御座候、俵数大分之儀、1俵宛相改候而者急ニ埒明不申候ニ付、36俵は拼へニ仕、鬮を入、3俵宛廻シ取申様被仰付候、依之至只今ニ、如此ニ御請取申候御事
 ---
 享保6年丑正月     立川銅山師下代 松井市郎兵衛
             別子銅山師下代 泉屋安兵衛
 後藤斧右衛門様
 保坂村右衛門様
7.(1721年)享保6年11)
予州別子銅山諸色有物並代銀付覚
・銅63750斤 但銅100斤ニ付100目替 代銀63貫750匁
・12500斤  立川中宿ニ有
 ・36000斤  新居浜口屋ニ有
・銀21貫17匁
 ・2貫目   立川中宿ニ有
 ・15貫目  新居浜口屋ニ有
・米1680石 但1石ニ付37匁替 代銀62貫160匁
 ・480石   立川中宿ニ有
 ・350石   新イ浜口屋ニ有
・鯨油13石5斗8升 但1石ニ付250匁替 代銀3貫395匁
 ・3石8斗9升 立川中宿ニ有
 ・2石5斗   新居浜口屋ニ有
・本筵4820枚 但10枚ニ付1匁1分5厘かへ 代銀554匁3分
 ・2100枚  立川中宿ニ有
 ・870枚  新イ浜口屋ニ有
・紙類397束 但10束ニ付16匁2分5厘かへ 代銀645匁1分2厘
 ・147束   新イ浜口屋ニ有
 合銀389貫342匁2分6厘
右者予州別子銅山不断所持仕候有物、今度御役人中御見分ヲ請、如此御座候、右之外下財・炭焼・樵夫・床屋働人・並立川中持・新居浜舟持・馬持、其外諸働人前借銀70貫目余、又他領炭山敷銀・仕入銀20貫目余、都合470貫匁余、右書上候通少も相違無御座候、以上
 享保6年丑8月    予州別子銅山師 泉屋吉左衛門
 石原新十郎様
8.(1722年)享保7年12)
 乍懼書付を以奉申上候
  当6月22日ゟ24日迄風雨大洪水、又7月9日ゟ12日迄風雨大洪水ニ而、別子御銅山両度破損仕、修覆入用損銀之覚
 ・山里諸役所破損所 此入用銀3貫999匁 但銅山番所並勘庭・諸役所蔵々、弟地・杖建両所炭中宿役所、新居浜・立川役所、銅山下財小家数ヶ所修覆、板・柱・釘・人足入用とも
右之通御座候、--- 乍懼書付を以御断奉申上候、已上
 享保7年寅8月        泉屋卯兵衛
 鈴木利大夫殿
 座光寺甚内殿
9.(1724年)享保9年13)
 乍懼書付を以御断申上候
・当月14日午刻ゟ同丑刻迄辰巳風吹、別子銅山所々破損之覚
 ・新居浜役所屋ね、並蔵々屋ね所々吹取申候
 右之通御座候、--- 乍懼御断奉申上候、以上
  享保9年辰8月        泉屋卯兵衛
  鈴木利大夫殿
  座光寺甚内殿

新居浜口屋は、元禄15年(1702)8月、新居浜浦の六左衛門の家と土蔵とを賃借して始めたとあるが、このことは別子銅山公用帳には、記されていない。原典は分からなかった。
1706、1707年では、新居浜役所、1710年に初めて新居浜口家(くちや)が出てきた。1721年に新居浜口屋と記された。
ふたつの呼び名、役所と口屋とが混在していた。書いた手代が名で役目や家屋(家と蔵)を区別していた可能性もあるが、初期には単に呼び名がふたつあったと考える。

住友史料館によれば、口屋の記録「諸用記」は、現在公開の対象とはしていないが、18世紀後半(天明)から明治にかけてのものなので、切上り長兵衛についての記事はおそらく含まれていないと思われるとのことだった。14)口屋筋から切上り長兵衛を追うのは、難しそうだ。

注 引用文献など
1.住友史料館編「住友の歴史 上巻」p120 (思文閣 2013.8)
2.平塚正俊 住友本社庶務課「別子開坑二百五十年史話」p139(住友本社 昭和16.12.25 1941))原典は分からなかった。
3.2の裏表紙の見返し 原画は 日野暖太郎和煦 編述 樋之口分庄屋・國平有同 図 「西條誌」巻之十四 (天保13年5月 1842)の新居浜浦の図
4.住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p138(思文閣 昭和62.10 1987)
5.同上p173
6.同上p177
7.同上p222
8.住友史料叢書「別子銅山公用帳三番・四番」p7(思文閣 平成7.1 1995)
9.同上p65
10.同上p117
11.同上p135
12.同上p194
13.同上p232
14.住友史料館の回答(平成31年4月3日 2019)

図 新居浜浦(原画は「西條誌」國平有同 1842)