気ままな推理帳

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濱井筒屋忠七の墓は、西原地藏堂墓地にあったに違いない

2019-07-25 08:55:34 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋忠七の墓を探していたが、真光寺墓地の加藤敏雄建立の加藤家之墓の区画には、江戸時代の墓は一つもなかった。よって西原墓地から移設する時に墓じまいをしたと考えざるをえない。そこで、移設前の西原墓地の記録を探していたら、伊予三島の合田保夫が新居浜の墓地の墓を調べ、庵主と付く仏様をリストアップした昭和36年の報文が見つかった。1)
西原地区の西原大師堂墓地と西原地藏堂墓地とは隣り合っており、3)加藤家の墓は後者に建てられた。加藤家で庵を結んだ人の墓は、戒名に庵主が付けられている。地藏堂墓地で庵主と付く墓は9基あり、そのうち加藤姓が7基であった。慈眼寺の過去帳と照合した結果を合わせ(刻字の訂正も含めて)以下に示した。()内は過去帳の表示

天柱祖暁庵主 宝永6己丑年(1709)12月23日 加藤吉三郎父 (濱吉三郎父)
蓮翁浄休庵主 享保10乙巳年(1725)5月29日 加藤氏    (濱庄屋佐治兵父)
霜凛祐清庵主 宝暦3癸酉年(1753)11月13日 加藤清左ヱ門 (濱藤屋清左エ門ヿ)
別相不伝庵主 宝暦11辛巳年(1761)5月23日 加藤吉三郎重利(濱権左エ門父)
文山梅英庵主 安永7戊戌年(1778)正月15日 加藤権左ヱ門天重(代嶋屋権左エ門ヿ)
大安了道庵主 安永8己亥年(1779)10月26日 加藤忠七   (井筒屋幾右衛門父)
悟心廓道庵主 天明4甲辰年(1784)9月4日  加藤幾右ヱ門 (井筒屋幾右エ門ヿ)


合田保夫は以下のように書いている。
「西原地藏堂墓地は、加藤氏が全部(正確には7/9)庵主の名を専有している。此の氏は天正13年の中国勢小早川隆景の来攻に防戦空しくして代々御代島にも一部住んで居たと聞く。
悟心廓道庵主は、曲肱亭とある。号 東英
辞世
 梧に帰る夢は跡なく秋の空   東英
と墓碑に残る。新居浜の墓地の中で此の一基のみが句を残してくれた。西原墓地の最東北の一角に墓碑の3尺程の花崗岩が目に残るが、西原地区の墓碑は数千基からなる5尺以下の高さの碑が多かった。今年3月以来整理に係り夢の如く一基も今日現存せず、鉄筋コンクリートのアパートとかが此の跡に建立して居る昨今の風景が見える。移転先は真光寺が主として多い。」

2基が井筒屋で、3基は代島屋(吉三郎、権左衛門は、代嶋屋の加藤である2))、残る2基は、どちらか不明である。井筒屋の加藤忠七は井筒屋年表17番であり、加藤幾右ヱ門は18番である。幾右衛門父も忠七と示されており、年表では、筆者の推定で初代から7代まで付けたが、代数は間違っている可能性がある。過去帳から作成した井筒屋年表の5番、7番、17番、18番の仏様に庵主がついていたが、この報文には5番、7番はなかった。古いので、読み取りにくくなっていたとも考えられる。また他の仏様は、庵主が付いていないので、リストアップされることはない。望めば庵を結べたということは、井筒屋が裕福であったことを示している。
加藤幾右衛門(井筒屋幾右衛門)の墓は 土ケ谷墓地に移設された後に、墓じまいし、墓誌に記された。
加藤忠七(井筒屋加藤幾右衛門父)の墓は、移設時に墓じまいしたと推定される。
加藤権左衛門天重の墓は、真光寺墓地の代嶋屋と思われる江戸時代の墓の一区画に現存した。墓石は割れ、剥がれ等あり、読みにくくなっていた。

筆者は、井筒屋忠七の墓が見つかれば、その近くに、切上り長兵衛の墓または供養碑があるのではないかと密かに期待していたが、西原墓地の移転により分からないままに終わってしまった。
井筒屋の加藤家が新居浜浦東の庄屋の七太夫の子孫である可能性があるが、家系図、古文書、位牌などで確証が取れていない。

注 引用文献など
1. 合田保夫「新居浜の庵主」郷土研究第161号p4(新居浜市立図書館 昭和36.2.20 1961)


2. 本ブログ「新居浜浦西の庄屋の加藤家は、新居浜井筒屋ではない」
3. 西原地藏堂墓地の位置
地図1. 明治20年代の新居浜 出典ホームページ「新居浜改造計画-FC」>発展の基盤


地図2. 昭和35年発行の新居浜市戸別明細図(関西住宅調査会)


「別子御銅山未来記」の金十郎は濱井筒屋忠七船に乗って新居浜へ帰った

2019-07-19 08:11:24 | 趣味歴史推論

切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋に関する情報をできるだけ多く集めることにより、過去帳や位牌に書かれたことの真実性を高めたい。そのために住友史料の中に濱井筒屋を探している。今回は、「予州別子御銅山未来記」1)2)の中に見つけたので報告する。

金十郎は明和3年(1766)5月2日、重左衛門船に乗って新居浜を出帆し、12日に大坂九之助(くのすけ)町の泉屋傳右衛門宅に着いた。傳右衛門は、金十郎の母へ旅費を与え、金十郎母子は伊勢神宮に参詣し、22日に傳右衛門宅に帰着した。逗留中、切上り長兵衛の遺言の秘伝を密に物語った。金十郎は母・弟元七・その友4人を同伴して、6月15日忠七船に乗り大坂を出帆し新居浜へ帰った。」

遺言を伝えた金十郎が濱井筒屋忠七船で新居浜へ帰っていた。濱井筒屋と泉屋がかなり親しい関係にあったことがわかる。
密に物語った時に、長兵衛の死に様(宝永5年(1708))や追善供養(50回忌としたら宝暦7年(1757))の話は全く出なかったのであろうか。

注 参考文献など
1. この記は、切上り長兵衛が別子の大鉱脈を見つけその存在を備中吉岡銅山の泉屋田向重右衛門に知らせ、田向らが見分した事、長兵衛が今後の大きな鉱脈のあるところを推定し親友源四郎に遺言として残した事、その遺言がその孫に傳えられ、大坂の泉屋傳右衛門3)に語られそのことを傳右衛門自身が住友友俊の命により書き残したものである。(明和3年(1766)6月15日、開坑から75年経っている)
2. 遺言は、以下の流れで伝えらえた。
切上り長兵衛→親友・源四郎→源四郎の子(兄)・九左衛門→源四郎の子(弟)・半右衛門→半右衛門の子(兄)・金十郎泉屋傳右衛門(聞き手、書き手)
あと登場人物としては、金十郎の弟・元七と母である。(元七は幼少より傳右衛門方に勤仕し、母も身を寄せ世話になっていた)
3. 泉屋傳右衛門について
住友史料叢書「年々諸用留七番」、「別子銅山公用帳五番・六番」に関係した事項が多く記されている。安国良一「予州別子御銅山未来記を読む」住友史料館報第38号p1(平成19年7月 思文閣)に簡明な紹介文があるので抜粋して以下に示す。
「伝右衛門は江戸出身で、中橋店・浅草店役頭を勤め上げ、いったんは父の生地下野国佐野に帰っていたが、宝暦8年(1758)に5年間の約束で大坂の本家勤めを命じられ支配人となった。明和元年(1764)には老病保養のため退役願を出して、跡支配兵右衛門と交代したが、生国帰還は認められず、九之助町に隠居所を建て替え、鰻谷の毛綿店の名義人となって、病気に障りのない時は本家勤めも命じられた。本家支配退役後は、本家・豊後町家支配人の上位にあって御両家参事の肩書で史料に登場する使用人の筆頭であった。彼をこれほどまで取り立てたのは、住友家五代友昌の病中にあって住友を切り盛りした豊後町家の友俊(友昌弟)であり、その信任は厚かった。」


濱井筒屋は加藤家の屋号であることが証明できた(2)

2019-07-09 19:18:23 | 趣味歴史推論
前報に続き、切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋が加藤家の屋号であることを証明したい。

1. 前報の加藤登氏が建立した加藤家墓誌には、慈眼寺の過去帳では見つからなかった四人の仏様(加藤信賢、加藤忠、加藤貞正信勝、加藤幾右衛門娘てん)があった。見落としも考えられるので、慈眼寺のご住職の厚意で再度調査した。
その結果三人はいなかったが、戒名、没年月日が墓誌と一致し、濱加藤貞正ヿと書かれた仏様が見つかった。濱井筒屋の頭字は付いておらず、外れた理由もわかった。
過去帳では、以下のようにあった。
 文化9年(1812)2月14日 井筒屋貞正妻
 文政4年(1821)9月26日 濱加藤貞正ヿ
つまり、先に亡くなった妻には井筒屋がついており、後に亡くなった夫には加藤がついていた。このことから、井筒屋は加藤家の屋号であると証明された。
ただ、夫(主人)に井筒屋がつかず、墓誌には名が貞正信勝と信勝がついている理由はわからない。

2. 戦後、西原の墓地からの移設先の一つである真光寺墓地の墓を調査した。その結果は以下のとおりである。
 昭和32年10月に加藤敏雄氏が建立した「加藤家累代之墓」の区画に、井筒屋年表の34番の仏様の墓があった。→写真参照
戒名、俗名、没年月日が一致したので間違いはない。すなわち、
 ハマ東井筒屋松藏妻リキ    明治2己巳年4月4日 ----慈眼寺過去帳
 同(加藤松造)室りき年52   明治2己4月4日 ----真光寺墓地の墓
夫の名は、過去帳では松藏であり墓では松造であり異なるが、発音はどちらも「まつぞう」なので同一人物である。
このことから、加藤敏雄家の屋号が、井筒屋であると証明された。

ただ井筒屋年表の(18、21、34)番以外の仏様の墓は見つからなかった。
それらの墓は、戦後西原墓地から土ケ谷墓地あるいは真光寺墓地に移設される時に処分されてしまったのであろうか。

写真. 真光寺墓地のお墓