気ままな推理帳

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古和同銅銭用のアンチモン総量と供給鉱山はどこか

2018-01-19 14:36:25 | 趣味歴史推論
インターネットと書籍の情報により推理する。

推理のながれ
1. 新和同開珎の発行総量を推定する。
2. 古和同開珎銅銭の発行総量を推定する。
3. 古和同銅銭用のアンチモン総量を計算する。
4. そのアンチモンを産出した鉱山を推定する。
5. 当時市之川鉱山が稼働していたと仮定した場合の生産能力を推算する。


1.和同開珎の発行総量を推定する。
和同開珎の発行開始年は現在最も支持の多い和銅説をとる。1)8)
和銅元年(708)古和同銅銭鋳造 銅産地は長門の於福、豊前の香春岳など
養老4年(720)新和同開珎本格鋳造
天平2年(730)新和同開珎銅銭の量産 長登銅山の銅を長門鋳銭所で鋳造
天平寳字4年(760)萬年通宝銅銭
よって古和同銅銭の鋳造期間は約10年、新和同銅銭量産は40年と見積もる。
鋳銭司の年間生産量の史料は少なく、和同開珎のものはない。

史料のある貨幣の発行枚数と出土数から推定する。
年代が最も近いところで、富寿神寳は、発行から3年後の弘仁12年(821)まで、年間5,670貫文(5.67百万文)ほど生産されたとある。2) 
その後銅の採掘量が減少したため、旧銭を回収して鋳直すことで一時期生産量が回復したが、更に時代が下がると旧銭も底をついたとのことである。そこで、富寿神寳は818~835年の17年間発行されたので、前半の8年間は年間5.67百万文、後半の9年間はその半分の5.67/2=2.84百万文と筆者は見積もることにした。その結果富寿神寳の発行総枚数は、5.67×8+2.84×9=70.9百万枚となる。

貨幣の発行総数と出土数は比例すると考える。
富寿神寳と和同開珎の全国出土数を同時に示した資料として、辻川哲朗「近江地域出土の古代銭貨」3)の図があった。それによれば、和同開珎4970枚、富寿神寳780枚である。よって和同開珎総枚数は、富寿神寳の(4970/780=)6.37倍となる。すなわち和同開珎総枚数=70.9×6.37=452百万枚である。 
白川忠彦ブログ「コインの散歩道」4)には、「和同開珎の発行枚数は、根拠の少ない推定ながら年産1万貫×50年とすると、50万貫(5億枚)。当時の人口からすると、一人当たり100枚。和同開珎の記録のある出土数は全国で約5000枚。現存数は、推定で数万枚。」とある。
筆者の推定は、白川氏の500百万枚に近い数値となった。

岡田茂弘ら5)によれば、1枚の平均重量は、古和同4.29g、新和同3.38gであるので、新和同開珎の銅総重量は3.38×452=1,528トンとなる。

奈良の大仏に使われた銅量と比較してみる。
新和同開珎の発行年代は、ちょうど国家の一大事業であった奈良の大仏の建造と重なっていた。奈良の大仏では 熟銅739560斤(495.5トン)と白(=錫)12618斤(8.5トン)、合わせて504トンが使われた。
よって和同開珎の総銅重量は大仏の(1,528/504=)3.0倍、すなわち3体に相当する。思っていた量より数倍と大きいので驚きである。

貨幣の発行総数と出土数は比例すると考えるのは、少し無理があるのかもしれない。しかし、この方法以外には、数量を推算する方法がないので、452百万枚は、現在とりうる最も妥当な方法で導かれたものとして、以後この数値を基に計算していくことにする。

2.古和同銅銭の発行総量を推定する。
古和同銅銭の出土総枚数を記した文献は見つからなかった。そこで古和同の枚数を記した文献を探した結果、次の4件があった。
① 斎藤努ら「皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析」6)の分析資料リストには 古和同銅銭13点、(新和同27点)が記載されている。
② 日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵「和同開珎目録」7)には、古和同銀銭(34+7=)41点、古和同銅銭10点と記載されている。
③ 松村恵司「和同開珎と富本銭,無文銀銭の評価をめぐって」8)には、「昭和 26(1951)年 田中啓文は「鑑定上から見た古和同銭の鋳造年代」を発表し、長年に渡って収集研究を続けた古和同の体系的な分類と編年観を提示する。「私の鑑識した古和同銭は百数十枚に及んで、日本に存在する古和同銭の 大略を検討したと己の鑑識眼を自負している」とある。古和同銅銭の枚数は記載されていないが、大半が銀銭と思われ、銅銭はたかだか数十枚と推定する。
④「歴博」9)には、「現在残っている古和同の中で、銅銭の数は極めて少なく、銀銭の十分の一くらいしかない」とある。
よって①~④から判断して、古和同銅銭の出土数を30枚と見積もる。
古和同銅銭出土数/和同開珎出土数=30/4970=0.6%である。
出土枚数と発行枚数とが比例すると考えるので、古和同銅銭の総枚数=452百万枚×0.006=2.7百万枚。
古和同銅銭総重量=4.29g/枚×2.7百万枚=12トンとなる。

3. アンチモンの総重量を計算する。
斎藤努ら6)の古和同3点のSb分析値は、6.2 12.8 2.7 と大きくばらついているが平均値を求めると、7.2%となる。よって 古和同用アンチモンの総重量=12トン×0.072=0.86トン=860kg。これが約10年間で使われた量になる。

4. 古和同用のアンチモンを産出した鉱山を推定する。
飛鳥奈良時代のアンチモン金属の重量で分かっているのは、次の2つだけである。
① 正倉院伝来のアンチモンインゴット 1,088g 10)
② 「日本書紀 持統天皇5年(691)7月3日伊豫國司 田中朝臣法麻呂等 獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。」で表されたアンチモンインゴット 11)
  
1斤=670gで換算すると②のアンチモンインゴットの重量は3.5×670=2,345gとなる。1塊とすると、その体積は(密度6.7g/ml)350mlとなり、当時の1合=80mlとすれば、4.38合に相当する。鋳造型が当時の5合仕込みのものか。
低濃度の合金用に使いやすい重量に1本、1本が鋳造されていたら、都合の良い1本は、8両(=0.5斤)=335gであり、それを7本献上したことになる。

この献上されたインゴットの重量から、三間鉱山のアンチモン生産能力を推定する。筆者の開発品製造経験からの第六感から、このインゴット2,345gは、1週間程度で得られたものではないかと思う。すると、年間生産能力は、122kgとなる。
古和同用アンチモンの総重量860kg(約10年間で)は、三間鉱山産の7.0年分に相当する。よって、三間鉱山がこの期間、同程度の生産を継続していれば、賄える量である。三間鉱山跡を調べて、その程度の量を産出できる大きさがあったのかを確認したいところである。
貨幣という重要性を考慮すると、1か所の鉱山だけに頼るのではなく、2~3か所の鉱山が供給していたと考えるのが妥当である。
他の鉱山はどこであろうか?


5.市之川鉱山は、この時代には、まだ発見、開発されていない可能性が高い。11)
もし奈良時代に、市之川鉱山が採掘していたら、どの程度の年産能力が期待できるかを見積もってみる。
田邊一郎「市之川鉱山物語」12)によれば、
「曽我部親信は延宝7年(1679)、仏ヶ峠で偶然、輝安鉱の鉱脈を発見、その後の50年間で処後、千荷、大鋪、本番鋪など135ヶ所を開坑し鉱山の経営主となったが、製錬には苦しんだようで近くの立川銅山を経営する大坂屋源八と共同経営したりしている。その結果、享保年間の製錬出来高は月1000斤に上がったとある。」
すなわち享保年間(1716-1735)の月の最高出来高は、月1,000斤=600kgである。通年の月平均はその1/2程度だろう。135ヶ所を開坑した結果の出来高であり、その時稼働していたのは、10分の1程度の10抗程度であろう。1抗あたりの月の平均出来高を見積もると600/2/10=30kg。年間に換算すると360kg となる。奈良時代に1抗しかなかったとすると、360kg/年となる。この量であれば、古和同銅銭用を十分賄えたと思われる。

結論
1. 古和同銅銭に使われたアンチモン総量は、860kgと推定した。
2. 三間鉱山のアンチモン年産能力は122kgと推定した。古和同銅銭用を、三間鉱山で賄えた可能性がある。ただ、貨幣用なので複数の鉱山が必要であろう。
3. 市之川鉱山はまだ発見、生産していない可能性が高いが、もし生産していたと仮定してその能力を見積もると、年産360kgとなった。

和同開珎、古和同の発行数量などの推定では、白川忠彦氏の「コインの散歩道」4) および直接の示唆を参考にさせていただきました。お礼申し上げます。


参考文献と注 
1) 花野韶ブログ「新和同開珎の発行年について」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/wado01.html

2)松村恵司 「お金の源 素材の歴史と作り方-銅貨」 広報誌 にちぎん NICHIGIN No.41 20-23(2015)
http://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin41-6.pdf

3)辻川哲朗 「近江地域出土の古代銭貨」紀要第18号p30 滋賀県文化財保護協会(2005.3)
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/18_tsujikawa.pdf

4)しらかわただひこブログ「コインの散歩道」
「和同開珎」とその実力
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J006.htm
皇朝十二銭
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J061.htm

5)岡田茂弘 田口勇 斎藤努「和同開珎銅銭の非破壊分析結果について」金融研究 第8巻3号 149(1989.10)
日本銀行金融研究所の貨幣博物館の所蔵する和同開珎銅銭および国立歴史人族博物館所蔵の大川天顕堂銭貨コレクション中の和同開珎銅銭に対する非破壊分析とその分析結果と銭種との関係を研究した。古和同6点(歴博3点、日銀3点)、新和同38点(歴博26点、日銀12点)の計44点。
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk8-3-8.pdf

6)斎藤努、高橋照彦、西川祐一 「古代銭貨に関する理化学的研究—皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析---」日本銀行金融研究所 IMES Discussion Paper Series 2002-J-30 2002年 9月
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-30.pdf

7)日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵「和同開珎目録」
http://www.imes.boj.or.jp/cm/research/data/wado/wadokaidai.pdf

8)松村恵司 「日本初期貨幣研究史略---和同開珎と富本銭,無文銀銭の評価をめぐって---」IMES Discussion Paper Series  2004-J-14 日本銀行金融研究所 p44
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk24-1-2.pdf

9)「皇朝十二銭の原料と制作技術」歴博第144号
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/144/witness.html

10)成瀬正和「正倉院伝来のアンチモンインゴット」正倉院紀要 17号73(1995)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/en-US/Bulletin/Pdf?bno=0000000114

11)気ままな推理帳「文武2年伊予国献上の白は市之川鉱山のアンチモンか」 
http://blog.goo.ne.jp/hagiustar

12)田邊一郎「市之川鉱山物語」(現代図書 2016.5)p51



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1 コメント

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見ています (Aさん)
2018-03-06 15:32:11

詳しく調べていますね
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