気ままな推理帳

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立川銅山(15) 山師「土佐の寺西喜助」は、土佐本川村・大川村には居そうもなかった

2022-05-29 08:07:50 | 趣味歴史推論
 立川銅山の二人目の山師「土佐の寺西喜助」は、本ブログ立川銅山(13)によれば、一柳監物時代とあるので、明暦元年(1655)~万治~寛文5年(1665)頃と推定する。その存在や人物を推定すべく探した。寺西姓は、比較的少ないので見付けやすいはずであるが、手がかりはなかったので、気が付いたものを試した。

1. 新居浜市には、寺西姓が数軒あり、伺ったところ、末裔ではないとの回答であった。

2. 立川・別子銅山に近い土佐(高知県)側の村、土佐本川郷で、寺西姓を文献で探すことにした。すなわち、本川(ほんかわ)村史と大川(おおかわ)村史で、寺西姓がないかを探した。特に、庄屋や林業者、材木商などに注目した。本川村は、現・吾川郡いの町であり、大川村は、現・土佐郡大川村である。

本川村史
1. 本川郷上分の現・本川村は、11村に分かれていた。そのうち、寺川村、桑瀬村、越裏門(えりもん)村には予土間の分水嶺を越す主要な交通路があり、境目番所として重要であった。越裏門村の家数は、25軒で最大であり、山間部なので田地は少なく享保期で3反(3石)であった。村々は主に、伊藤=伊東、山内=山中、筒井氏らが代々庄屋、名元(名本)となって道番、加番役に任ぜられた。1600~1850年の本川郷上分の庄屋番人一覧表には、約50人の名があるが、寺西姓は一人もいなかった。1)
2. 慶長検地・元禄地払帳には、多数の姓名が記されているが、寺西姓は一人もいなかった。2)
3. 林業者、材木商の記録3)
 野中兼山(元和元年(1615)~(寛文3年(1663))は、寛永8年(1631)に土佐藩二代藩主山内忠義の執政となり藩政改革を行なった。大規模な新田開発のための治水工事や用水路の開発が必要になるので、莫大な労働力と巨額の費用が要った。その銀を得るために、吉野川最奥部の本川・寺川地区の檜木は、藩当局の手によって伐採され、吉野川で流材して、上方市場へ売られた。また土佐藩は、江戸幕府に対する課役を、「材木を献上すること」に一本化して、明暦3年(1657)~寛文元年(1661)までの4ヶ年間に33.5万本を献上した。野中兼山は、成果を挙げたが、郷士を厚遇して藩士の困窮を顧みず、重い課役や専売制で農民や町人を苦しめたとして、寛文3年(1663)罷免された。
 材木の担当役人の名は記されているが、本川・寺川地区の林業者や土佐の材木商の個人名は、村史には、記されていなかった。
4. 村史には、現代に至るまでの多くの村民の個人名(千人オーダー)が記されているが、寺西姓は一人もいなかった。

大川村史
1. 本川郷のうち東部を占める本川下分の現・大川村は、高野・北川・大藪・小麦畝など13村あった。地高は、藩政時代を通じて「本川百石」といわれていた。寛保3年(1743)で中切村の戸数33戸、33石で最大であった。4)
2. 伝統的地位のあった本川五党とは、和田・筒井・伊藤・中ノ内・山中の家々である。本川村では中ノ内の代りに川村をあげ、あるいは近藤・吉本・佐竹などを五党に加える説もある。大川地区の庄屋名本は、主として和田・筒井・中ノ内・伊藤が歴代勤めていた。
3. 慶長16年(1611)の検地帳には、村名、人名などに「寺西」は全くなかった。
4. 村史には、現代に至るまでの多くの村民の個人名(千人オーダー)が記されているが、寺西姓は一人もいなかった。
5. 両村とも、田地が少なく、且つ、林業、材木で大きく稼いだ村民はいなかったと結論できる。
 
まとめ
 二人目の山師「土佐の寺西喜助」は、土佐本川村・大川村には居そうもなかった。 
 別のアプローチが必要である。

今回両村史を見ていて、大北川銅山(白滝鉱山)の元禄12年の開坑を知ったので、次回に取り上げたい。

注 引用文献
1. 本川村史p91~96 (本川村村史編集委員会 昭和54年 1979)
2. 1のp120~127
3. 1のp174~182
4. 大川村史p19~73(大川村史編纂委員会 昭和37年 1962)

図1. 本川村・大川村の地図(高知県土佐郡本川村 | 歴史的行政区域データセットβ版より)


図2. 土佐本川郷の元禄絵図(「土佐全国ノ図 」 土佐藩/編 作画年1688~1703)オーテピア高知図書館 おためしデジタルギャラリー(図書館総合展2018フォーラムin高知 開催記念)より




立川銅山(14) 「西條誌」の眞鍋八郎右衛門

2022-05-22 00:00:00 | 趣味歴史推論
 金子村庄屋真鍋八郎右衛門友重が、抜合事件で入牢した山師弥一左衛門である と本ブログ立川銅山(8)で記した。しかし眞鍋八郎右衛門が、当事者で入牢したという記録はないかと探していたら、「西條誌」1)に不十分ながらも弱い証拠となる記述を見つけたので、転載する。

日野和煦編著「西條誌」天保13年(1842)
歌をきヽ、牢を出でし話 
 今の庄屋求右衛門の先祖八郎右衛門と云しもの、銅山(当郡別子立川の両銅山なり、山司・昔より毎々替り、今は大坂の住友吉次郎これを掌る)の事に付き、江府の獄に引かれ、歳久しく繋れて、御吟味の沙汰もなく、欝悶して居けるが、ある夜、牢門の外に歌謡う声あり。
  つれていのぞやお月が出たら、伊予の金子の御城(ごじょ)もとへ
と聞こゆるに驚き、愁臥(しゅうが)の枕を欹(そばだて)見れば、月影・鬼格子の窓よりさし入り、物の色かすかに分るばかりなり。すかし窺えば、誰あけたりともしらず、獄の鎖細めにひらきかけたり。八郎右衛門、こは天の助けなりと喜び、門を出て、足に任せて走り、御領主の邸に帰るに、その国にては、元より咎あるものにもあらず、萬(よろず)あらめなる世の中と云い、彼れ此れの御沙汰にも及ばず、故郷へ帰し、復(また)庄屋役を勤めしむと云う。この話、当村に遺(のこ)りて、今の庄屋求右衛門これを語る。

考察
1. 金子村に遺っていたこの話を当時の庄屋真鍋救右衛門から聞いて、日野和煦らが記録したということである。天保7~13年当時の救右衛門は、真鍋救右衛門尚房である2)。当村に遺っていた話であると末裔の救右衛門が言っているので、古文書などに記されてはなかったということがわかる。当事者八郎右衛門の時代に記されたものでないので、牢から出てきた経緯が事実かどうかはわからない。しかし当主八郎右衛門の140年後の当主救右衛門が語っていたということで、真鍋八郎右衛門が、入牢していた人物であることが、裏付けられた。すなわち弥一左衛門と真鍋八郎右衛門は同一人物であるといえる。
2. 昭和39年以降に書かれた昔話や伝説では、庄屋藤兵衛は2年間の入牢を終え帰郷、甚右衛門は牢死というものや、三人とも無事に逃げられたというものなどいろいろあるが3)、
そのことは西條誌には記されていない。少なくとも眞鍋八郎右衛門と庄屋藤兵衛は、帰郷したことが、墓碑の没年や「新居郡立川山村里正年譜」で確認できた。甚右衛門については、不明である。

まとめ
 天保13年「西條誌」に、真鍋八郎右衛門が銅山の件で入牢したが、戸が開いているのに気づき牢を出て帰郷したという話が村に遺っていることを末裔の救右衛門が語ったとあった。

注 引用文献
1. 矢野益次「註釈西條誌」p266(新居浜郷土史談会 昭和57年 1982)
・日野和煦編著「西條誌」天保13年(1842)巻14
・「西條誌稿本」愛媛大学附属図書館蔵の復刻版
  http://www.lib.ehime-u.ac.jp/saijo/
・上記の復刻版「西條誌」(新居浜郷土史談会 昭和52年 1977)→写真
 「西條誌」とは、西条藩(3万石)の領内70ヶ村の地誌を編纂したものである。第9代西条藩主松平頼学(まつだいらよりさと)の命により、藩の儒学者日野和煦(ひのにこてる1785~1858)が天保7年(1836)~天保13年(1842)に、助編者および絵師と共に領内をくまなく踏査し、村々の庄屋からも郷土史料を提出させ、全20巻にまとめ上げた。
2. 小野清恒「近世の庄屋役変遷記(新居浜市)(1)」『新居浜史談』228号p10(新居浜郷土史談会 1994.7)
 13.真鍋救右衛門尚房尚房:天保6年9代藩主頼学公廻領立寄る。嘉永3庚戌年(1850)3月13日没 行年65卒。「変遷記」には久右エ門とあるが、墓石には救右衛門であった。
3. ・「新居浜のむかしばなし」川西22.(藤田敏雄)p156(新居浜市教育委員会 1989)
 ・合田正良「伊予路の歴史と伝説」p121(新潮堂書店 1964)
 ・合田正良「伊予路の伝説」p61(愛媛地方史研究会 1971)

写真 西条誌稿本 金子村の部分




立川銅山(13)「神野旧記」(6)正徳元年「豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳」

2022-05-15 08:33:10 | 趣味歴史推論
 「神野旧記」第1輯「新居郡立川山村里正年譜」の綴りの後半に 正徳元年(1711)「豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳」があり、古く明細が記載されており、貴重と思えるので、活字化して全文を公表することは、意味のあることと思い、所蔵者神野征子氏の許可を得たので、以下に示す。

表紙
    正徳元歳 
 豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳
    卯十二月


本文
  卯年御免定之事        
1. 高81石7斗2升         伊豫國新居郡 立川山村
   内2石6斗1升         前々永川成
  残高79石1斗1升        毛付

  此取 16石2斗1升8合  高1ツ9分8厘5毛 内 毛付2ツ5厘9毛(0毛)
   外小物成      
1. 銀20目8分8厘         定納綿代
   是は綿261匁代    但し100目付銀8匁宛
1. 銀17匁1分6厘         定納茶の代
   是は茶1貫560目代   但100目に付銀1匁1分宛
1. 銀8匁             定納鍛治運上
1. 銀11匁2分           定納ねそ竹運上
1. 銀10匁            定納入木代
   是は入木20束代    但1束に付銀5匁(分)宛
1. 銀49匁            定納枌(そぎ)運上
   是は枌140束代     但1束に付銀3分5厘宛
1. 銀168匁            定納鈇(おの)綬札運上
   是は鈇(おの)綬札28枚代  但1枚に付銀6匁宛
1. 米1石6斗3升4合        定納夫米
 
納合 米17石8斗5升2合
    銀284匁2分4厘
   
 1. 米48升7合1勺        御口米
 1. 米4升8合           御傳馬宿入用
 1. 銀12匁2分6厘        江戸御蔵入用
 1. 銀8匁5分3厘         御口銀

   
1. 高17石3斗2升1合            庄屋 藤兵衛 判
   此取3石5斗5升8勺
   1斗6合5勺              御口米
   1升                 御傳馬宿入用
  3斗4升6合4勺             定納夫米
  2匁6分                江戸御蔵入用
 米〆 4石1斗(升)3合7勺
   内 2石2斗             11月17日米納
     1石8斗1升3合7勺        12月25日米納
 納〆4石1斗(升)3合7勺         米納相済申候
   銀〆2匁6分             12月25日納相済申候

1. 高7石6斗8升6合            甚兵衛 判
    内2斗5升5合            前々永川成
   残高7石4斗3升1合          毛付
    此取1石5斗2升3合4勺
    4升5合2勺             御口米  
    4合5勺              御傳馬宿入用
    1匁1分5厘             江戸御蔵入用
    33匁8分9厘            御小物成銀
    1匁                御口銀
    1斗5升3合7勺           定納夫米
   米〆1石7斗2升6合8勺
     内 9斗8升           11月17日米納
       7斗4升6合8勺        12月25日米納
  納〆1石7斗2升6合8勺          米納相済申候
  銀〆36匁4厘              12月25日納相済申候

1. 高4石7斗6升3合            蔵右衛門 判
   此取9斗7升6合4勺
    2升9合3勺             御口米  
    2合8勺              御傳馬宿入用
    7分1厘              江戸御蔵入用
    21匁               御小物成銀
    6分3厘              御口銀
    9升5合3勺             定納夫米
   米〆1石1斗3合8勺
     内 4斗5升           11月17日米納
       6斗5升3合8勺        12月25日銭座請合
  納〆1石1斗3合8勺           米納相済申候
  銀〆22匁3分4厘            12月25日納相済申候

 1. 高7石4斗9升8合           六兵衛 判  
    此取1石5斗3升7合1勺
     4斗(升)6合1勺         御口米  
     4合4勺             御傳馬宿入用
     1匁1分3厘            江戸御蔵入用
     33匁7厘             御小物成銀
     9分9厘             御口銀
     1斗5升             定納夫米
    米〆1石7斗3升7合6勺
     内 9斗3升           11月17日米納
       8斗7合6勺          12月25日泉座請合
   納〆1石7斗3升7合6勺        米納相済申候
   銀〆35匁1分9厘           12月25日納相済申候

 1. 高3石7斗6升             清右衛門 判  
    此取7斗7升8勺
     2升3合1勺            御口米  
     2合1勺             御傳馬宿入用
     5分6厘             江戸御蔵入用
     16匁5分8厘            御小物成銀
     5分               御口銀
     7升5合2勺           定納夫米
    米〆8斗7升1合1勺
     内 3斗8升           11月17日米納
       4斗9升1合1勺        12月25日銭座請合
   納〆8斗7升1合1勺          米納相済申候
   銀〆17匁6分4厘           12月25日納相済申候

 1. 高10石6斗5升3合           又左衛門 判
     内9升              前々永川成  
    残高10石5斗6升3合
    此取2石1斗6升5合4勺
     6升5合             御口米  
     6合1勺             御傳馬宿入用
     1匁6分             江戸御蔵入用
     47匁1厘             御小物成銀
     1匁4分1厘           御口銀
     2斗1升3合            定納夫米
    米〆2石4斗4升9合5勺
     内 1石3斗9合5升        11月17日米納
       1石1斗4升          12月25日泉座請合
   納〆2石4斗4升9合5勺         米納相済申候
   銀〆50目2厘             12月25日納相済申候

1. 高1石4斗7升1合            与兵衛 判
    内5斗4升             前々永川成  
   残高9斗3升1合            毛付
    此取1斗9升9勺
     5合7勺             御口米  
     9勺               御傳馬宿入用
     2分2厘             江戸御蔵入用
     6匁4分9厘            御小物成銀
     2分               御口銀
     2升9合4勺            定納夫米
   米〆2斗2升6合9勺          12月25日納相済申候
   銀〆6匁9分1厘            12月25日納相済申候


1. 高5石8升6合              孫左衛門 判  
    此取1石4升2合6勺
     3升1合3勺            御口米  
     3合1勺             御傳馬宿入用
     7分5厘             江戸御蔵入用
     22匁5分2厘           御小物成銀
     6分8厘             御口銀
     1斗1合7勺            定納夫米
    米〆1石1斗7升8合7勺
     内 7升5合           11月17日米納
       4斗2升8合4勺        12月25日泉座請合
   納〆1石1斗7升8合4(7)勺      米納相済申候
   銀〆23匁9分5厘           12月25日納相済申候

1. 高2石8斗6升3合            太郎右衛門 判  
     内8斗1升            前々永川成
   残高2石5斗(升)3合
 此取4斗2升9勺
     1升2合6勺            御口米  
     1合8勺             御傳馬宿入用
     4分3厘             江戸御蔵入用
     12匁6分5厘           御小物成銀
     3分8厘             御口銀
     5升7合3勺            定納夫米
    米〆4斗9升2合6勺
     内 2斗4升2合6勺        11月17日米納
       2斗5升           12月25日泉座請合
   納〆4斗9升2合6勺          米納相済申候
   銀〆13匁4分6厘           12月25日納相済申候

1. 高2石1斗2升              重七 判  
    此取4斗3升4合6勺
     1升3合             御口米  
     1合               御傳馬宿入用
     3分2厘             江戸御蔵入用
     5(9)匁3分7厘         御小物成銀
     2分8厘             御口銀
     4升2合4勺            定納夫米
    米〆4斗9升1合
     内 3斗8升1合          11月17日米納
       1斗1升           12月25日銭座請合
   納〆4斗9升1合            米納相済申候
   銀〆9匁9分7厘            12月25日納相済申候

1. 高3石9斗1升1合            九郎左衛門 判  
    此取8斗1合8勺
     2升4合1勺            御口米  
     2合4勺             御傳馬宿入用
     5分8厘             江戸御蔵入用
     17匁2分7厘           御小物成銀
     5分2厘             御口銀
     7升8合2勺            定納夫米
    米〆9斗6合5勺
     内 5斗             11月17日米納
       4斗6合5勺          12月25日米納
   納〆9斗6合5勺            米納相済申候
   銀〆18匁8分7厘           12月25日納相済申候

1. 高7斗9升2合              徳兵衛 判  
    此取1斗6升2合4勺
     4合9勺             御口米  
     6勺               御傳馬宿入用
     1分1厘             江戸御蔵入用
     3匁4分9厘            御小物成銀
     1分               御口銀
     1升5合8勺            定納夫米
    米〆1斗8升3合7勺         12月25日米納相済申候
    銀〆3匁7分            12月25日納相済申候

1. 高4石9斗3升7合            一郎左衛門 判  
      内1斗7升5合          前々永川成
    残高4石7斗5升9合         毛付
此取9斗7升5合6勺
     2升9合3勺            御口米  
     3合2勺             御傳馬宿入用
     7分4厘             江戸御蔵入用
     21匁7分6厘           御小物成銀
     6分5厘             御口銀
     9升8合7勺            定納夫米
    米〆1石1斗6合8勺
     内 6斗             11月17日米納
       5斗6合8勺          12月25日泉座請合
   納〆1石1斗6合8勺          米納相済申候
   銀〆23匁1分5厘           12月25日納相済申候

1. 高1石3斗3升9合            善左衛門 判  
    此取2斗7升4合5勺
     8合2勺             御口米  
     9勺               御傳馬宿入用
     2分               江戸御蔵入用
     5匁9分2厘           御小物成銀
     1分8厘             御口銀
     2升6合8勺            定納夫米
    米〆3斗1升4勺           11月17日米納相済申候
    銀〆6匁3分            12月25日納相済申候

1. 高1石3斗3升9合            作左衛門 判  
    此取2斗7升4合5勺
     8合2勺             御口米  
     9勺              御傳馬宿入用
     2分              江戸御蔵入用
     5匁9分2厘           御小物成銀
     1分8厘             御口銀
     2升6合8勺           定納夫米
    米〆3斗1升4勺       
   内 1斗5升            11月17日米納
     1斗6升4勺           12月25日泉座請合
  米〆3斗1升4勺            米納相済申候
    銀〆6匁3分            12月25日納相済申候

1. 高3石                 六郎左衛門 判  
    内9升               前々永川成
   残高2石9斗1升            毛付
 此取5斗9升6合5勺
     1升7合9勺            御口米  
     1合8勺             御傳馬宿入用
     4分5厘             江戸御蔵入用
     13匁2分             御小物成銀
     4分               御口銀
     6升               定納夫米
    米〆6斗7升6合2勺
     内 4斗             11月17日米納
       2斗7升6合2勺        12月25日泉座請合
   納〆6斗7升6合2勺          米納相済申候
   銀〆14匁5厘             12月25日納相済申候

1. 高3石1斗8升4合            与左衛門 判  
     内6斗5升            前々永川成
    残高2石5斗3升4合         毛付
 此取5斗1升9合5勺
     1升5合6勺            御口米  
     2合               御傳馬宿入用
     4分9厘             江戸御蔵入用
     14匁1分6厘           御小物成銀
     4分2厘             御口銀
     6升3合7勺            定納夫米
    米〆6斗8勺
     内 2斗6升           11月17日米納
       3斗4合8勺         12月25日米納
   納〆6斗8勺             米納相済申候
   銀〆15匁7厘            12月25日納相済申候
納合
   米17石8斗5升2合
   銀284匁2分4厘
     内
      16石2斗1升8合         本田御取米
      1石6斗3升4合         定納夫米
      284匁2分4厘          御小物成銀
     外
   4斗8升6合5勺             御口米
   4升8合                御傳馬宿入用
   12匁2分6厘              江戸御蔵入用
   8匁5分3厘              御口銀

 右之通大小之百姓不残立会御免定奉頂戴割符仕少モ相違無御座候 此上ハ同日少モ申分無御座候 為其連判如件
  正徳元年卯ノ十二月
     立川山村庄屋 藤兵衛

      同村 組頭 与左衛門 
            六兵衛 
            茂左衛門 
            甚兵衛 
            清右衛門 
            又左衛門 
            与兵衛 
            善左衛門 
            九郎左衛門 
            徳兵衛 
            孫左衛門 
            市郎右衛門 
            太郎右衛門 
            重七 
            六右衛門 
            作左衛門 
 御代官様


読み取れること
1. 税率
  毛付高の2割5厘(0.205 20.5%)が取米となった。
  毛付高の6厘1毛5糸(0.00615 0.615%)が口米となった。
2. 立川山村には、庄屋藤兵衛、組頭与左衛門、あと15人で、合計17人(の本百姓)がいた。
3. 正徳元年(1711)庄屋藤兵衛は、神埜文右エ門忠次である。藤兵衛を襲名していることがわかる。
4. 泉座請合の人は別子銅山に、銭座請合の人は立川銅山に関わっていたのであろう。
 泉座請合-----六兵衛、又左衛門、孫左衛門、一郎左衛門、作左衛門、六郎左衛門の6人
 銭座請合-----清右衛門、重七の2人
5. 数値計算は、正確であった。


・川成(かわなり):江戸時代の租税法上の用語。洪水のため土砂が流出し,田畑が河川の敷地となったもの。その場合,再検地のうえ,年貢課役を免除された。開発不能地は,永代の川成,古川成などと称され放置された。
・毛付(けづけ):年貢取米(税率)を定めるため、田畑作毛の出来具合を定めること。
・定納(じょうのう):一定の年貢率、年貢高で上納すること。
・運上(うんじょう):江戸時代の雑税の一種として、商、工、漁猟、運送などの営業に対して、一定の率で課したもの。
・入木(いりき):薪(たきぎ)
・ねそ竹:竹(女竹、蓬莱竹、真竹など)を細く薄く削ってもみほぐし、ねじりながら編んで縄にしたもので、主に火縄銃に用いた。web.「火縄の作り方& 特徴」に真竹を使って火縄を作る方法がある。 
・枌(そぎ):木を薄く削いだ板  屋根などを葺く薄い板 こけら
・夫米(ぶまい):大名・旗本等の領地・知行所において夫役の代りとして納める米のこと。人足米。
・口米(くちまい):田の本租にかけられた付加税 年貢高に応じて一定の比率で徴収する米
・鈇(おの)綬札:きこりふだ おのふだ

写真 正徳元年「豫州新居郡立川山村人別名寄小割帳」の表紙と末尾の署名


数値計算のチェック
・取米の計算 81.72×0.1985=16.221 ⇔ 16.218 ほぼ合っている
79.11×0.2059=16.289 ⇔ 16.218 僅かに異なる。毛付に対して2割5厘であれば、79.11×0.2050=16.218 ⇔16.218 ぴったり合う(正)。よって取米率は、2割5厘である。
・口米の計算 17.321×Z=0.1065 よってZ=0.00615 口米率は0.615%である。
・合米 16.218+1.634=17.852 ⇔ 17.852 正 ・銀20.88+17.16+8+11.2+10+49+168=284.24 ⇔ 284.24 正
藤兵衛
・17.321×0.2050=3.5508 ⇔ 3.5508 正 ・口米 17.321×0.00615=0.1065 ⇔ 0.1065 正 ・米〆 3.5508+0.1065+0.01+0.3464=4.0137 ⇔ 4.0137 正
甚兵衛
 ・7.431×0.2050=1.5234 ⇔ 1.5234 正 ・米〆1.5234+0.0452+0.0045+0.1537=1.7268 ⇔ 1.7268 正 ・銀〆1.15+33.89+1=36.04 ⇔ 36.04 正
蔵右衛門
 ・4.763×0.2050=0.9764 ⇔ 0.9764 正 ・米〆0.9764+0.0293+0.0028+0.0953=1.1038 ⇔ 1.1038 正 ・銀〆0.71+21+0.63=22.34 ⇔ 22.34 正
六兵衛
 ・7.489×0.2050=1.5371 ⇔ 1005371 正 ・米〆1.5371+0.0461+0.0044+0.15=1.7376 ⇔ 1.7376 正・銀〆1.13+33.07+0.99=35.19 ⇔ 35.19 正
清右衛門
・3.76×0.2050=0.7708 ⇔ 0.7708 正 ・米〆0.7708+0.0231+0.0021+0.0752=0.8712 ⇔ 0.8711 正 ・銀〆0.56+16.58+0.5=17.64 ⇔ 17.64 正
又左衛門
・10.563×.2050=2.1654 ⇔ 2.6154 正 ・米〆2.1654+0.065+0.0061+0.213=2.4495 ⇔ 2.4495 正 ・銀〆1.6+47.01+1.41=50.02 ⇔ 50.02 正
与兵衛
 ・0.931×0.2050=0.1909 ⇔ 0.1909 正 ・米〆0.1909+0.0057+0.0009+0.0294=0.2269 ⇔ 0.2269 正 ・銀〆0.22+6.49+0.2=6.91 ⇔ 6.91 正
孫左衛門
 ・5.086×0.2050=1.0426 ⇔ 1.0426 正 ・米〆1.0426+0.0313+0.0031+0.1017=1.1787 ⇔ 1.1787 正 ・銀〆0.75+22.52+0.68=23.95 ⇔ 23.95 正
太郎右衛門
 ・2.053×0.2050=0.4209 ⇔ 0.4209 正 ・米〆0.4209+0.0126+0.0018+0.0573=0.4926 ⇔ 0.4926 正 ・銀〆0.43+12.65+0.38=13.46 ⇔ 13.465 正
重七
 ・2.12×0.2050=0.4346  ⇔ 0.4346 正 ・米〆0.4346+0.013+0.0010+0.0424=0.491 ⇔ 0.491 正 ・銀〆0.32+9.37+0.28=9.97 ⇔ 9.97 正 (但し5を9に代えたら)
九郎左衛門
・3.911×0.2050=0.8018 ⇔ 0.8018 正 ・米〆0.8018+0.0241+0.0024+0.0782=0.9065 ⇔ 0.9065 正 ・銀〆0.58+17.27+0.52=18.37 ⇔ 18.87 計算間違いにより5分多く取られた。
徳兵衛
・0.792×0.2050=0.1624 ⇔ 0.1624 正 ・米〆0.1624+0.0049+0.0006+0.0158=0.1837 ⇔ 0.1837 正 ・銀〆0.11+3.49+0.10=3.70 ⇔ 3.7 正
市郎右衛門
 ・4.937-0.175=4.762 ⇔ 4.759 僅かに計算違い・4.759×0.2050=0.9756 ⇔ 0.9756 正 米〆0.9756+0.0293+0.0032+0.0987=1.1068 ⇔ 1.1068 正 ・銀〆0.74+21.76+0.65=23.15 ⇔ 23.15 正
善左衛門
・1.339×0.2050=0.2745 ⇔ 0.2745 正 ・米〆0.2745+0.0082+0.0009+0.0268=0.3104 ⇔ 0.0.3104 正 ・銀〆0.20+5.92+0.18=6.30 ⇔ 6.30 正
作左衛門
・1.339×0.2050=0.2745 ⇔ 0.2745 正 ・米〆0.2745+0.0082+0.0009+0.0268=0.3104 ⇔ 0.0.3104 正 ・銀〆0.20+5.92+0.18=6.30 ⇔ 6.30 正
六郎左衛門
 ・2.91×0.2050=0.5965 ⇔ 0.5965 正 ・米〆0.5965+0.0179+0.0018+0.06=0.6762 ⇔ 0.6762 正 ・銀〆0.45+13.2+0.4=14.05 ⇔ 14.05 正
与左衛門
・2.534×0.2050=0.5195 ⇔ 0.5195 正 ・米〆0.5195+0.0156+0.002+0.0637=0.6008 ⇔ 0.6008 正 ・銀〆0.49+14.16+0.42=15.07 ⇔ 15.07 正

納合 取米 
3.5508+1.5234+0.9764+1.5371+0.7708+2.1654+0.1909+1.0426+0.4209+0.4346+0.8018+0.1624+0.9756+0.2745+0.2745+0.5965+0.5195=16.2177 ⇔ 16.218 正
定納夫米
0.3464+0.1537+0.0953+0.15+0.0752+0.2130+0.0294+0.1017+0.0573+0.0424+0.0782+0.0158+0.0987+0.0268+0.0268+0.06+0.0637=1.6344 ⇔ 1.634 正
御小物成銀
33.89+21+33.07+16.58+47.01+6.49+22.52+12.65+9.37+17.27+3.49+21.76+5.92+5.92+13.2+14.16=284.3 ⇔ 284.24 正
御口米
0.1065+0.0452+0.0293+0.0461+0.0231+0.065+0.0057+0.0313+0.0126+0.013+0.0241+0.0049+0.0293+0.0082+0.0082+0.0179+0.0156=0.486 ⇔ 0.4871 ほぼ正

立川銅山(12) 神野旧記(5)神野禮蔵忠紹の文化13年覚書に山師名があった

2022-05-08 08:22:38 | 趣味歴史推論
 第1輯「新居郡立川山村里正年譜」に「神埜禮蔵忠紹の時 文化10年(1813)年11月12日に、立川山村で大火があり52戸が焼失し、里正宅も残らず類焼し、旧記諸帳簿等も過半が焼失した」とあった。第2輯「新居郡立川山村神野舊記」に、忠紹が記憶をもとに書き残したと思われる覚書(文化13年)があり、そこに山師の名前が書かれていることを発見した。今回の神野旧記の調査で最も重要なことであった。以下にその覚書を示した。→写真

立川銅山始り慶安元子年より157年に成り候
別子銅山元禄4未年より当年迄114年に成り候
文化13丙子
別子立川両銅一手相成る 宝暦12年午年也

山仕之名記
一番 西条 戸右衛門     二番 土佐 寺西喜助
 右一柳監物様御代
三番 紀州熊野屋彦四郎    四番 大坂屋 平右衛門
五番 大坂屋 吉兵衛  
   六番 金子村 豫市右衛門
七番 大坂屋 永二郎     八番 大坂泉屋 理兵衛
九番 今之泉屋 住友吉二郎

解読と考察
1. 文化13年(1816)は、書かれた年を示している。書かれた年から振り返ると、慶安元年(1648)は、(1816-1648=)168年(数えで169年)前になり、元禄4年(1691)は、(1816-1691=)125年(数えで126年)前になる。覚書では、157年、114年と、どちらも12年少なく書いているが、十二支を1順少なく間違えたのである。
2. この原文を記したのは、8代神野禮蔵忠紹である。禮蔵忠紹は里正年譜によれば、文化元年(1804)~文化13年(1816)の13年間、里正を勤め、文化14年(1817)に歿した。文化10年(1813)52戸焼失、里正宅類焼し、旧記帳簿等過半数焼失したとある。残った帳簿や記憶を参考にして、禮蔵忠紹が文化13年に書いて引き継いだと推定する。それを、神野信夫が明治15年に筆写し、更に、明比貢が昭和11年に筆写したのであろう。
3. 記された山師の名前について
① 一番 戸左衛門ではなく、戸右衛門であった。
② 一柳監物様御代とは、一柳直興(なおおき)正保2年~寛文5年(1645~1665)である。「右一柳監物様御代」なので、これは、「紀州熊野屋彦四郎」に掛っているのではく、「戸右衛門と寺西喜助」に掛かっている。小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」は、「立川銅山は、西条藩の一柳監物の時代(明暦3年~寛文10年(1657~1670))に紀州彦四郎が稼行主であったという。」と書いていて、引用文献として、「新居郡立川山村里正年譜」が挙げられていた。筆者は、小葉田の記述を正しいとして本ブログ「立川銅山(2)」に書いた。
しかし、この「右」が正しいなら熊野屋彦四郎の稼行時期をうしろに修正する必要がある。そうするのがより正しそうであると筆者は考えた。理由の一つは、前報の里正年譜への書き込みより、この覚書の方が里正により書かれたものであるので信頼できる。二つ目は、以下の理由である。一柳監物が改易されて5年後の寛文10年(1670)に紀州徳川一門の松平頼純が西条藩主となったのである。西条藩から、同郷の熊野屋彦四郎が請われて立川銅山師になったと筆者は推定した。熊野屋は、銅山の経営や技術に既に力を貯えつつある時期であり、立川銅山の本格的な開発を期待されたと筆者は推定する。
③ 四番は、大坂屋平右衛門であった。渡海屋平左衛門や海部屋平右衛門ではなかった。大坂屋であれば、次の五番の大坂屋は、記す必要がないのではないか。四番と五番の間に稼行しない何年かがあったので、大坂屋と再度書いたのか。五番が大坂屋であれば、四番はほかの屋号(例えば海部屋)平右衛門だったのではないだろうか。泉屋叢考で「海部屋平右衛門」としたのは、その頃の「平右衛門」で銅屋に関係しているのが「海部屋平右衛門」なので、「大坂屋」でなく「海部屋」にしたのではなかろうか。
 大坂屋平右衛門が、大坂屋にいたかを調べる必要がある。いなければ、記憶違いで「海部屋」である可能性がある。
④ 五番 吉兵衛は、大坂ではなく、大坂屋としている。
⑤ 六番 豫市右衛門であった。すなわち弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)のことである。与一右衛門と名乗ったこともあったのかもしれない。それとも単なる記憶違いか。
⑥ 七番に当たるところは、本来ならば、「京都銭座仲間」であるが、この山師だけが個人名でないので、思い出せなかったのか、記憶になかったのか。よってこの覚書は、思い出しながら作成したことがわかる。
⑦ 七番の大坂屋永二郎 は大坂屋永次郎で、六代大坂屋久左衛門のことである。
⑧ 九番の吉二郎は、住友吉次郎である。「今の」とある。
住友家歴代当主家督期間一覧によれば、当主が、吉左衛門ではなく、吉次郎を名乗ったのは、次の4人である。2)
 歴代 当主名           家督期間
8代 友端(吉次郎)       寛政4年~文化4年(1792~1807)
9代 友聞(吉次郎のち甚兵衛)  文化4年~弘化2年(1807~1845)
10代 友視(吉次郎)      弘化2年~安政4年(1845~1857)
11代 友訓(吉次郎)      安政4年~元治元年(1857~1864)
文化13年(1816)が「今」に当たるので、今の吉次郎は、9代 住友友聞となる。
⑨ 以上に記したように、この覚書は、数字の間違いや、ぬけがあるが、文化13年(1816)に、当主が神野家に伝わってきた事を思い出しながら書いたものである。前報の「里正年譜」の書き込みより重要視すべきものであると筆者は思う。
 明比貢はこの覚書も筆写しているはずだが、里正年譜への山師名の書き込みには、採用しなかった。里正年譜への書き込みは、この覚書とは、別の出典によるものである。

まとめ
1.  第2輯「新居郡立川山村神野舊記」に、山師の名を記した覚書があり、文化13年に当主神野禮蔵忠紹のものである。
2. 文化10年の火災で古文書類が過半焼失しているので、思い出しながら書いたため、少しあやふやなところがあるが、真実味はうかがえる。
3.  1人目は西条戸左衛門でなく、戸右衛門であった。2人目土佐寺西喜助までが一柳監物の時代であった。
4. 紀州徳川一門の松平頼純が寛文10年西條藩主になって、紀州熊野屋彦四郎が山師として請われたと筆者は推定した。
5. 4人目は、大坂屋平右衛門であった。「平右衛門」が正しければ、当時の業界からみて、「海部屋」の可能性がある。 
6. 5人目は大坂屋吉兵衛であった。


注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(2)熊野屋彦四郎は 明暦3年~寛文10年の稼行主である」
2. 住友別子鉱山史[別巻] p236(住友金属鉱山株式会社 平成3年 1991)

写真 立川銅山山師名(文化13年神野庄屋覚書)
 

立川銅山(11) 「神野旧記」(4) 里正年譜へ山師名を書込んだのは、明比貢だった

2022-05-01 08:33:23 | 趣味歴史推論
 筆写本のコピーのコピー綴じ本では、第1輯「新居郡立川山村里正年譜」の第1、3ぺージが欠落していた。そのため立川銅山の始まりと最初の山師名3人の書き込みは見ることができなかった。しかし4人目から10人目までの山師名の書き込みは見られた。それは、第4ぺージの里正神埜藤兵衛忠明の上部欄外に山師名が書かれた紙が貼り付けられたものであることがわかる。そのぺージの写真を示し、書き込み部分を以下に書き出した。→写真

四 大坂 渡海屋平左エ門
五 大坂屋 吉兵衛
六 金子村 真鍋与一右エ門
七 西京都 銭座仲間
八 大坂屋 永二郎
九 大阪 泉屋理兵衛
拾 大坂 住友氏

考察
1. この書き込みの字体は、筆写本と一致していることから、書き込んだのは明比貢である。よって、書き込みは昭和11年以降である。その根拠となる出典は、わからない。
書き込みでは、4人目は渡海屋平左衛門であり、5人目は大坂屋吉兵衛であった。また7人目が 西京都 銭座仲間 とあることより、芥川三平が見た「神野旧記」1)は、筆者の見たコピー綴じ本で同じであったといえる。

2. また貼り付けた紙から線でつないで、明比貢とは違った筆跡の書き込みがある。

大坂屋吉兵衛----------大坂屋久左衛門
真鍋与一右エ門--------元禄五年より十ヶ年
銭座仲間-----------------糸割賦宝永元年御領
永二郎--------------------享保十一年大阪屋久左衛門
泉屋理兵衛--------------寛延二年
住友氏--------------------宝暦十二年

これらは、誰かが参考のために年代を書き入れたと思われる。

まとめ
1. 里正年譜への立川銅山山師名の書き込みは、昭和11年以降に明比貢によってなされた。その根拠となる出典はわからなかった。
2. 4人目は渡海屋平左衛門 5人目は大坂屋吉兵衛であり、芥川三平の見たものと同じコピー本であった。

注 引用文献
1) 本ブログ「立川銅山(5)神野旧記(1)」

写真 「新居郡立川山村里正年譜」で、立川銅山山師名の書き込みのあるページ