気ままな推理帳

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切上り長兵衛の霊言の検証(2) 祖谷の6寺には言い伝えがなかった

2019-02-27 14:18:36 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛の祖父か先祖の墓が祖谷の寺にあるに違いないと前報で推定した。そこで、山城と西祖谷にある6寺、正賢寺、光明寺、長福寺、圓明寺、持性院、安楽寺に、先週直接電話して、切上り長兵衛に関する言い伝えがあるかどうかを尋ねた。その結果は以下のとおりである。
1. 5寺はそのような話は聞いたことがないとのこと。
2. 1寺は私(電話に出た方)にはそのような話には答えられないとのこと。
3. 火災で過去帳が焼失して、古いことは調べられない。
4. この寺は、境内にお墓がない寺である。
現在のところ、これらの寺には切上り長兵衛に関する言い伝えはないという結果になった。

今後、各寺の歴史と当時の状況がどうであったかを調べ、再度尋ねてみたいと思う。もう少し調査地域を広げ、多くの寺を対象にした方がよいかもしれない。

切上り長兵衛の霊言の検証(1) 祖父か先祖は祖谷の人

2019-02-13 08:25:30 | 趣味歴史推論
昨年夏(2018年7月) 筆者は林霊能師に会えた。切上り長兵衛に降霊していただき、藤田敏雄氏に代わって対話をすることをお願いしているが、まだ実現できていない。そこで、藤田敏雄氏が今まで得た霊言の検証をして対話の備えとしたい。霊言によれば、生まれは土佐清水であるが、10才から15才まで阿波にいたし、阿波とは大いに関わりがあるとのこと。今回はこの点を検証する。
霊言:内容は主に以下の2点である。
①祖母と住んでいた所は、阿波の東の方で、後には小高い山があり、近くに小さい川が流れていた。海も近くにみえた。今は札所のお寺は近くにあり、温泉もある。でも観光地というほどではない。
②祖母に連れられ祖谷の寺によく参った。
検証
1.住んでいた場所の特定
阿波の東の方で海が近くに見えたということから実際に見えるかどうかは別にして海岸線から直線距離にして約10km以内にある八十八箇所札所であるという条件に、祖谷の寺によく行ったという条件を加味して、寺の候補を挙げると以下のようになる。
撫養街道(吉野川の北側を走る)沿い:1番霊山寺、2番極楽寺、3番金泉寺、4番大日寺、5番地蔵寺、6番安楽寺、7番十楽寺
伊予街道(吉野川の南側を走る)沿い:11番藤井寺、13番大日寺、14番常楽寺、15番国分寺、16番観音寺、17番井戸寺。
古湯としては、吉野川温泉(5番近く)、6番(寺に温泉がでる)、鴨の湯(11番近く)などがある。
寺の候補は多数あり、絞るのは難しい。祖母と住んでいた所で、棟付帳から探すのも難しい。よってこれ以上の追究は当面置いておく。
2.祖谷の寺の特定とよく参った理由
上記の寺の近くから、池田までは約50kmあり、それからさらに祖谷の寺まで5~20kmある。片道60~70kmの距離であり2日はかかるであろう。よって祖谷というのは、霊言自体の間違いや、聞き間違いではないかと疑念を持っていた。しかし先日、横山春陽が昭和39年に書いた本の中に、以下の記述があることを見つけ、疑念が晴れた。1)2)
「長兵衛、源四郎、久右衛門はともに阿波人といわれるも出生地は不明、とくに長兵衛については現在の山城町、池田町あたりと推測せられるので、その調査には筆者(横山春陽)はおよぶ限りの手を尽くしているが、いまだに手がかりが得られないのは遺憾である。」
山城町、池田町あたりと推測している根拠は不明であるが、何らかの言い伝えなどがあると筆者は推定する。
この事が、「祖谷の寺によく参った」という霊言に符号した。祖父や長兵衛の先祖の墓が祖谷の寺にあるに違いない。だから、片道2日以上もかけて祖母と孫の二人でお参りしていたのであろう。銅山川は吉野川と山城で合流している。祖谷の寺といっているので、池田の寺は省いて、山城と西祖谷にある寺を探した結果、以下の6寺があった。3)4) 図参照
正賢寺、光明寺、長福寺、圓明寺、持性院、安楽寺
上記のどこかの寺の過去帳や墓に長兵衛の祖父あるいは先祖が書かれていると推定する。

 筆者の気ままな推理は以下のとおりである。
阿波の東の方に住んでいた母方の祖母は、長兵衛が10歳になる以前に、夫(長兵衛の祖父)を亡くした。そこで、土佐清水で生まれた長兵衛を阿波に引き取り10歳から15歳まで育てた。その間、祖谷の寺に祀られた夫(長兵衛の祖父、あるいは、祖母の先祖 長兵衛の曽祖父)の墓参に孫の長兵衛を連れて、撫養街道(あるいは伊予街道)を歩いて池田にいき更に吉野川沿いの道を歩いて、片道2日あまりかけて行った。命日、お盆、彼岸など年に2~3回は参った。寺の過去帳で没年が1647年以前の人である。(霊言によれば、長兵衛の生年は寛永15年頃(1638)(筆者の推定では寛永16年頃) 正保、寛永、元和と記されている人を探す。長兵衛はもしかしたら、祖父の名前をもらっていたかもしれない。
祖父は鉱山か金属関係の職業または家柄であった。祖母は、孫も同じような職業で大きく羽ばたいてほしいと思い、16歳から京都に送り出した。
長兵衛は立川銅山で働いている時に、この寺を懐かしく訪れ、住職に「全国の鉱山を渡り歩いたよ」と語り、別子銅山を去る時は、「別子銅山は、必ず大きく発展していくよ」と語った。その住職の話が言い伝えとなって昭和の時代まであり、それが横山春陽に届いた。

阿波郷土会の方、お寺の方をはじめとして、「長兵衛の出身地が 山城町や池田町である」という言い伝えを知っている方にお願いしたい。ぜひその情報の元を教えて頂きたい。どんな些細なことでも結構です。コメント欄にお願いします。
長兵衛の霊に、筆者は寺の名前と先祖、祖父の名前を質問したい。

注 引用文献など
1.横山春陽 奇行と逸話の泉<阿波の奇人 第2集> 「別子銅山を発見した切上長兵衛」p233(株式会社 出版(徳島市) 昭和39年10月 1964)
この本は、荒尾弘章 調査研究報告書「切り上がり長兵衛は土成町の出身である」に参考文献として記載されていた。
2.Webcat Plus >横山春陽
1891年生、1966年没、新聞記者、郷土史家、阿波郷土会員。阿波の人、伝説、宝、物など広く阿波に関する事柄について興味を持ち研究執筆していた。非常に顔が広く、種々の話を聞きだしてくる人である。
3.タウンページライブラリー>徳島県版 2019年1月発行>
寺院の項の三好市に25寺あり。池田の町中や井川、三野、奥深い東祖谷の2寺を除いて、祖谷渓と山城地域には以下の6寺ある。
正賢寺 三好市池田町川崎重兼520  0883-74-0993
光明寺 三好市池田町松尾松本55  0883-75-2080
長福寺 三好市山城町大月297  0883-86-2024
圓明寺 三好市山城町国政619  0883-86-1258
持性院 三好市山城町上名1514  0883-84-1934
安楽寺 三好市西祖谷山村字宇上吾橋160  0883-84-1163
正賢寺を除いて5つは阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場とされている。
4.ホームページ>阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場紹介>各寺院紹介
図1.横山春陽 奇行と逸話の泉<阿波の奇人 第2集> 「別子銅山を発見した切上長兵衛」

図2.祖谷のお寺

土成の長兵衛は「切上り長兵衛」ではない

2019-02-10 17:26:46 | 趣味歴史推論
荒尾弘章の調査研究報告書によれば、徳島県土成の神宮寺の過去帳(元禄~享保~寛保年間)に以下の人の記載があった。1)
① 「吉田村 義全信士 寛保三年八月十六日没 重助父 長兵衛 七十九歳」
② その妻、父、母
③ 切上り長兵衛の親友とされる「源四郎の母」及び「久右衛門の父」
④ 元禄7年の大火災の犠牲者名簿の内の阿波の人、銅丸仁右衛門、六兵衛母(大坂?)、源右衛門、権助(権介?)、与兵衛の本人または親族
⑤ 別子山で死亡した土成の人の戒名と長兵衛の戒名に同じ「義」という字がつけられている
以上のことから、別子銅山と土成出身者と深い関係があったとし、この土成の長兵衛が、切上り長兵衛であると結論した。

しかし筆者は、この結論を容認できない。土成の長兵衛は「切上り長兵衛」ではないとする筆者の根拠は以下のとおりである。
1. この長兵衛には、銅山、別子、鉱山、切上り、山留、渡り鉱夫など、職業や履歴で表される記載が何もない。
2. この長兵衛は 寛保3年8月16日歿(1743) 享年79歳である。生年は(1743-78=1665) 寛文5年となる。よって田向重右衛門に露頭の存在を知らせた元禄3年(1690)の年令は、(1690-1665=25)25歳である。全国の鉱山を渡り鉱夫として過ごしたにしては、若すぎる。
3. この長兵衛の家系はしっかりしており、調査当時にご子孫がおられ、氏名、住所が判明している。しかしご子孫から先祖の「切上り長兵衛」に関する言い伝えなどの記載が本報告書には書かれていない。ご先祖様であれば当然何等かの言い伝えなどがあるはずである。
4. この妻は寛保3年(1743)没である。これは瑞応寺にある切上り長兵衛の妻子の墓に書かれた妻の没年元禄7年(1694)と違う。戒名も違う。
5. この子は、俗名重助である。これは瑞応寺にある切上り長兵衛の妻子の墓に書かれた子の俗名石見五郎と違う。
6. 切上り長兵衛の親友の源四郎や久右衛門はよくある名前である。江戸時代の名前で、□数郎 ○右衛門 の□や○に 源や久はよく使われた。2) 銅丸仁右衛門でさえ、同じ時期、隣村同士で、二人いたことが この報告書に記されている。名前のみでその人と同定するのは難しい。

1,2はすでに正岡慶信や藤田敏雄らが指摘している。4,5に関しては、この妻、この子が、瑞応寺の墓の妻子が亡くなった後、(あるいはいつの期間でも)切上り長兵衛が、縁を持った結果の家族である可能性は非常に低いと筆者は思う。
以上のことより、土成の長兵衛とその家族は、切上り長兵衛とは全く別の一家と認めるのが妥当である。
ただ 親友や火災犠牲者などが土成の人であった可能性は、残っている。

注 文献など
1. 荒尾弘章 調査研究報告書「別子銅山の発見者「切り上がり長兵衛は土成町の出身である」」平成13.1(2001.1) (荒尾弘章:神宮寺名誉住職権大僧正)
2. 油井宏子 古文書はじめの一歩 第5章(柏書房 2008.5)