気ままな推理帳

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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(9)

2020-04-19 09:48:48 | 趣味歴史推論

 表題の(2)では、SiO2源のひとつである素吹床の内壁の材料である「すばい」(炭灰 素灰 す灰 ブラスク)は、木炭粉と粘土とを練り合わせたものであることを記した。炭粉と粘土の配合割合は、わからなかったので、容積比率で50:50と仮定して熔鉱と反応して熔け出るSiO2量を計算していた。実際の比率の記録を探していたが、別子銅山の床では見つからなかった。但し、阿仁銅山の明治期の熔鉱炉で見つけたので以下に記した。時代は違うが、江戸期の別子でも組成は似ていたのではないか。
「明治工業史 鉱業編」(西尾銈次郎執筆)によれば次のとおりである。1)
「阿仁銅山 2)にて明治15~16年(1882~1883)頃、操業を開始せるストールベル式熔鉱炉は2個1組となりて併立し、レンガ壁にして、砂と粘土の混合物を以て塗り、なおその内面には、良質の粘土を用い、さらに粘土3、炭7の素灰を以て内壁を作れり。---」
これによると、素灰は炭7:粘土3である。単位は、現場で計量しやすい「ます」による体積であろう。
仮定したより、5/10→3/10と粘土割合は低かった。ただ、毎日作り直す床の素灰層の厚みは仮定した10cmより、厚そうである。別子床の数字はないが、他の銅山の例ではある。その床の構造は、筆者が思っていたより大掛かりなものであり、よく理解してからまとめてみたい。

注 引用文献
1. 「明治工業史 鉱業編」第4節熔鉱(西尾銈次郎執筆)p476(日本工業会 丸善 昭和5 1930) 国会図書館デジタルコレクション
2. 阿仁銅山(あにどうざん):小葉田淳「鉱山の歴史」p178~194(至文堂 昭和31.7 1956)
寛文12年(1672)北国屋吉右衛門の手代高岡八右衛門が発見、開発。
元禄15年(1702)大坂屋久左衛門の請山より佐竹氏秋田藩の直営(直山)となる。
元禄16年(1703)産銅高 150~160万斤(900~960トン)
宝永5年(1708)~正徳元年(1711)の年平均登銅高 262万斤(1572トン)
享保元年(1716)長崎御用銅の割賦高 170万斤(1020トン)産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられる。


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(8)

2020-04-12 14:13:43 | 趣味歴史推論

 南部藩尾去沢銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。
慶長3年(1598)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見。寛文から延宝の初期にかけて近くの尾去沢及びその周辺の銅山の開発がはじまった。元禄8年(1695)~宝永2年(1705)に付近の銅山が続々と開発され、尾去沢銅山は、別子銅山 阿仁銅山と並び、日本の主力銅山の一つとなった。明和2年(1765)から明治に至るまで南部藩の御手山(直営)であって、この間荒銅を200~600トン/年産出した。1) 

鉱石 2)
尾去沢銅山の鉱石の組成分析値を探したが、見つからなかったので、近くの小眞木鉱山(こまきこうざん、白根金山)の内、尾去沢と同じ鉱脈型鉱床に属すると思われる白根鉱床の鉱物組成値を参考までに示した。
黄銅鉱(CuFeS2)8.3% 黄鉄鉱(FeS2)42% 石英(SiO2)33% 緑泥石((Mg,Fe,Al)6(Al,Si)4O10(OH)8)11% 他に閃亜鉛鉱((Zn,Fe)S) 輝蒼鉛鉱(Bi2S3) 輝銅鉱(Cu2S)等が少々含まれる。脈石が多く、鉄分も多い。化学分析値に変換すると、Cu 2.9%、Fe 22.1% S 25.3%に相当する。平均銅含有率は、2.4%と低かったので、鉱石は細かく砕いて水を使う選鉱をして、濃度を上げる工程があった。

製錬 
「御銅山傳書」3)(嘉永2年(1849.3.10)写し)が 尾去沢銅山に関連する稼行仕法に関する秘伝、定法、定目の集大成としてあるが、筆者には正確に読み解けないので、今回は残念ながら参考にできない。以下の記述は、麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」1)によった。
なお製錬法は、元禄宝永期に阿部小平治が請けて稼行していた頃は、熊野吹と称する還元法が行われていたようであるが、藩の直山となった明和以降は、以下に記したように酸化法(別子銅山と同じ 真吹法)となっていたとみられる。4)
銅製錬は、焙焼→素吹→真吹で行われた。

選鉱→図1 5)
鉱石は、鉑ごしらえ(鎚で砕き脈石を取り去って(方言で「からめる」という)精製する工程)した後、重鉑(純良の鉱石)以外は全て水中で、ざる、鉢、扇舟(扇型をした木樋)等を使って比重差で精鉑する。細粒のものは粘土水でこねて団子状にして焙焼した。

焙焼(釜燃し(かまもやし))→図2
「一斗窯に木炭、薪材を積み、その上に種々の精鉑を適宜配合したものを盛り上げ、更に衣草(藁、枯草類)をかけて、燃やす(「本燃し」)。20~25日後に焼鉑を取り出し、更に、「焼直し」と称する第二次の焙焼をして15~20日で冷却し、焼鉑を得る。」

素吹(鉑吹 白吹)→図3
「素吹床の大きさは、直径60cm 幅約82cm 深さ75cm位の三味線胴形で、床の内部に風路2条を設けフイゴ2台によって送風する。素吹一と吹きの装入量は焼鉑600貫目であって、燃料は木炭である。まず焼鉑300貫目を熔解し、熔けるに従って順次に焼鉑と木炭を加えて全量を熔解するのに約10時間を要した。熔体の上に浮かんだ鍰を取除き、次に銅鈹を取る。銅鈹を取るには淡赤色を呈した熔体に水を撒布して冷やし、表面に凝固した銅鈹の薄片を鉄鈎で剥ぎ取るのである。この操作を数十回繰返すと底に緑赤色の熔銅が残る、表面に水を撒布して冷結せしめ鈎と針とで取上げる。これを床尻銅といい荒銅である。この操作によって得るところの銅鈹はおよそ80~100貫目、床尻銅25~35貫目であった。燃料として燃やす木炭は約200貫目。操業時間18,19時間、これに従事するもの素吹大工1人、床前働1人、吹子指1人、炭灰搗1人、計4人であった。」

真吹→図3
「真吹床は素吹床より小型で、直径60cm 幅42cm 深さ51cm、内側を炭灰粘土汁で塗り焼き固めること素吹床と同様である。これに銅鈹を装入して木炭を燃料とし強い風をあてて吹き熔かすので、フイゴは伝馬2丁のほかに沸足と称するものを用いた。真吹は口伝の多い作業であって、真吹一と吹きに装入する銅鈹は100貫目とし、まず80貫目を熔解し木炭を加えて強風をあてる。このとき男釜と称する炉蓋を施し、炉の周辺を炭灰と粘土で塗り固め、残りの銅鈹20貫目を装入し木炭を加えて強風を送る。熱と風とによって熔体が酸化する程度を、熔体の変色などによって、紅葉、大割、小湯、槙雲などと名づけ、槙雲が終ったところで銅歩と称する含銅鍰を除去する。また木炭と強風を加えて熔体の状況が「大熔(おおとけ)」となり「剥げ」となったとき「割切渋皮」とよぶ含銅の高い銅歩を除き漸く荒銅となる。この操業によって得るところの荒銅約40貫、銅歩約30貫、木炭消費量45~60貫。これに要する操業時間21~24時間で、従業員は真吹大工1人、手子1人、炭灰搗1人都合3人であった。---銅歩は10~50%程度の銅を含むもので、これを貯えて400貫目程となれば素吹にかけた。」

まとめ
1. 素吹では、珪石の添加操作はなかった(麓三郎著書による)。
但し、このことの信憑性を高めるには、麓が引用した「御銅山記」等の原典や、より技術について書かれた「御銅山傳書」に当たる必要があろう。最終的には江戸期現場の床仕込み記録の古文書を見ないと本当のところはわからないだろう。
2. 選鉱で細粒となった鉑を粘土水でこねて団子状にして焙焼しており、意図せずして大量の珪石分(SiO2分)を素吹床に仕込んでいたことになる。
3. 結論として、SiO2分は、脈石、細粒鉑を丸めた粘土、床の内壁の炭灰(粘土)から、もたらされたと推測した。
 
注 引用文献
1. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p230~234(勁草書房 1964.9.30)
 素吹、真吹の記述は、阿部本「御銅山記」「尾去沢銅山床屋役所稼方手続書上」「尾去沢鉱山志料取調書」等によるとある。
・「御銅山記・全」と「御銅山記・金銀鉛山仕方」内田慎吾(天保9年(1838)生れ)写 日本鉱業史料集第4期近世編上/下(白亜書房1983)尾去沢阿部佐一郎氏所蔵
・「尾去沢鉱山志料取調書」(明治16年民行鉱山志料として工務省に提出の写)
2. 郷原範造「秋田県小眞木鉱山の鉱石について」地質調査所月報 Vol.5(9)7(昭和27.6)←web  第3表の白根鉱床の銅鉱4試料の平均値を使った。
3. 「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))九州大学工学部資源工学科所蔵の内田家文書
4. 「明治工業史 鉱業編」第4節熔鉱(西尾銈次郎執筆)p508 国会図書館デジタルコレクション
「還元熔解法:素吹で得た銅鈹を5~7cm大に破砕し、焼窯に仕込み鉱石の焙焼と同じような作業にて、15~20日間焙焼して、焼鈹を得る。次いで素吹床と同形でやや小さい床に焼鈹を仕込み、木炭によって加熱熔解し、荒銅に還元する。」
寛文12年(1672)秋田の阿仁金山に銅鉱が発見されて大坂の北国屋吉左衛門が請けて稼行し、紀伊國熊野の諸銅山から金掘師及び吹師を呼び寄せて開発したと伝えられ、この以後東北及び東国の諸銅山に熊野式の還元法が広く行われるに至ったとされる。
5. 九州大学学術情報リポジトリ>工学部所蔵鉱山・製錬関係史料)>尾去沢銅山作業図 この図は、明治10年代の稼行情景を描いている。(岡田平蔵、槻本平八郎)→図1,2,3
図1. 「 尾去沢銅山作業図」の「第6 検礦並淘汰之図」(選鉱)

図2.  「尾去沢銅山作業図」の「第7 蒸礦場之図」(焙焼)

図3.  「尾去沢銅山作業図」の「第8 熔礦場之図」(素吹 真吹)


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(7)

2020-04-05 08:33:22 | 趣味歴史推論

 摂津多田銀銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。
多田銀銅山を直轄地として本格的な採掘を行った豊臣秀吉は、当山より多くの銀・銅を得たと伝えられている。江戸期の多田銀銅山は、大坂や京都などの大都市に近接する鉱山として最先端の技術が用いられていたことでも知られ、寛永年間(1624~44)頃には銀を分離する工程として南蛮吹きが取り入れられていたこと、生野銀山に製錬技術を伝えたこと、大坂へは粗銅ではなく抜銀された鍰銅を出荷していることが分かっている。寛文元年(1661)に銀を含んだ良質な鉱脈が発見されたことから、直山(幕府直轄鉱山)となった。寛文期の記録によると、当時産出された銅鉱石中に銀は3%にも達するとされている。寛文4年(1664)には、出銅高最高(453トン)を記録した。1)2)
なお、西尾銈次郎によれば、江戸期以降の「真吹き法」の基になった「山下吹き法」は、文亀永正(1501~1520)の頃、摂津国多田庄山下村において、銅屋新右衛門(あかがねやしんえもん)が開発したとの事である。3)

鉱石4)
「銀山地区の鉱石を構成する鉱物は、斑銅鉱(Cu5FeS4)、黄銅鉱(CuFeS2)、方鉛鉱(PbS)、閃亜鉛鉱((Zn,Fe)S)で、微量の錫鉱物(錫石(SnO2)、褐錫鉱(Cu8(Fe,Zn)3Sn2S12)、モースン鉱(Cu6Fe2SnS8))が銅鉱物と密接して産する。主要な銀鉱物は、自然銀(Ag)と輝銀銅鉱(CuAgS)である。このうち、自然銀は斑銅鉱に密接して産し、輝銀銅鉱は、斑銅鉱や黄銅鉱などの銅鉱物、あるいは方鉛鉱に伴う。脈石は石英(SiO2)、方解石(CaCO3)、蛍石(CaF2)である。地表付近の酸化帯では、銅鉱物は孔雀石(Cu2(CO3)(OH)2)となっている。」

 井澤英二、青木美香は、「吹屋之図」5)が多田銀銅山の技術書であることを明らかにした。6)描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしている。7)この図を基にして、銀山役人の秋山良之助が安政4年(1857)以降に製錬工程を編纂したのが「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増(はくせきふきたてしだいあらまし)」8)である。
この二つの絵図から素吹、真吹の内容を調べた。銅製錬は、焙焼→素吹→真吹で行われた。

焙焼(鉑焼 焼鉱 焼竈)
・「吹屋之図」では、「一度竈に鉑石三駄(108貫)ずつ、松木並びに炭にて焼き申し候」
・「鉑石吹立次第荒増」では、「1竈に鉑石三駄(108貫)ずつ、但し1駄(36貫)につき36貫松木並びに炭にて焼方いたし候」

素吹
・「吹屋之図」では、「銀石は焼鉑目方18貫、銅焼鉑又はからみ目方36貫ばかり相交ぜ、銅鉑は焼鉑1駄半(54貫)ずつ1日に吹きたて申し候、吹き分け候品を鈹尻銅と唱え申し候」→図1
・「鉑石吹立次第荒増」では「銀鉑石は火に強き候につき、焼鉑目方18貫に銅鉑の焼鉑、又はからみと唱え候吹きかす目方36貫ばかり相交ぜ、銅鉑は焼鉑にて1駄半(54貫)ずつ、右吹床にて、1日に吹き立ていたし候。但し右鉑石を4つ5つに分け、一吹ずつ吹き立て候えば湯となり、屑は鍰に相なり、吹床の上の方へ浮き出し、銀鉑は下へ沈み申し候。右からみを取り除き、しばらく冷まし候えば、上より段々へぎ取り申し候。右へぎ取り候品を鈹と唱え、未だ全銅には相なり申さず。その底に尻銅と唱え候銅出申し候もこれあり。または出ずも御座候。下鉑は一度吹に鈹へぎ相なり難しく、2吹、3吹も重ね、鈹へぎ候むきもこれあり候」→図2

真吹
・「吹屋之図」では、「右鈹を吹き立て候えば、どぶと唱え候からむ石を取り除き真吹銅に相なり申し候」→図3
・「鉑石吹立次第荒増」では「右鈹をなおまた吹き立て候えば、どぶと唱え候石を取り除き候えば、これを真吹銅と唱え候」→図4

まとめ
1. 素吹では、珪石の添加操作はなかった。
2. 銅鉑(主に黄銅鉱)の場合は、銅焼鉑だけで素吹した。
3. 但し、自然銀や輝銀銅鉱を含んだ斑銅鉱(Cu5FeS4)の焼鉑は、熱に強く鎔化しにくいとのことで、2倍量の銅焼鉑または鍰と混ぜ合わせて素吹した。鍰を融剤として利用していた。鍰は一度熔けて生成した副産物なので、鎔化は確かにしやすくなるであろうが、銅分の少ない鍰を大量にリサイクルすると素吹床の効率は低下すると思うのであるが、銅焼鉑がない場合には致し方なかったのであろう。脈石に方解石(CaCO3)、蛍石(CaF2)があっても融剤としては、足らなかったのであろう。

注 引用文献
1.  史跡多田銀銅山遺跡保存計画第3章-1 史跡の概要のPDF p30(猪名川町多田銀銅山遺跡保存活用委員会編 兵庫県猪名川町ホームぺージ)
2.  「多田銀銅山」(猪名川町教育委員会)
 infokkkna.com>ironroad>iron12>1609tadagindouzan
3.  ホームぺージ「冶金の曙」>サイトマップ>スクラップBOX(2)>山下吹き法
  原典:西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 1943)
 ホームぺージ homepage1.camvas.ne.jp>yakin>shiryou>nisio0-1
  「日本鉱業史要」西尾銈次郎(三)豊臣徳川時代
 「古来銅の製錬は酸化製錬法にのみよりしものにして、鉱石の品位高き場合においては、
鞴風を掛け木炭を添加しつつ一炉一回に適量の粗銅を仕上げることを得べしかりも、中国、四国、九州の諸銅山にありては、採掘年代古く含銅品位高き部分はすでに掘り尽くし、残れるものは品位著しく低下せしものとなり、したがって旧来の製錬法にては鈹湯の量少なく、そのままにて真吹を続行するにはしだいに不便を感ずるに至れり。ここにおいて、文亀永正(西暦一五〇一~二〇年)の頃、銅屋新右衛門摂津国多田庄山下村において製錬所を設けて、この法を改良せり。この方法たる酸化製錬法にて鍰を除きつつ素吹に達し、ここにて一旦銅鈹を剥離し、作業を中止し、この方法を反復して銅鈹を集め、適量に達したる時、これをさらに炉に装入し、木炭の火力にてこれを熔融して硫黄分を駆逐し、鉄分は銅鍰(ドブ)となりて除去せられ、ついに粗銅を作るに至る。この時代において、吹大工一人指子一人にて一炉につき鈹六七十貫を処理したり。この方法を称して「山下吹き法」と言えり。これより貧鉱再び有利に稼行せらるゝこととなれり。」
4. 井澤英二「多田銀銅山地区で採取されてスラグの分析調査」 猪名川町文化財調査報告書5 「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 第3節 p190(猪名川町教育委員会 2014.3)
5. 九州大学学術情報リポジトリ>工学部所蔵鉱山・製錬関係史料)>吹屋之図 →図1,3
6. 井澤英二 青木美香「多田銀銅山の最高・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 4.の報告書 第1節p171(2014.3) 
7. 井澤英二 青木美香 資源・素材学会平成27(2015)年度春季大会 [3504]
8. 「多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」日本鉱業史料集 第9期近世編・下 p1(昭和63.1 1988)→図2,4
図1. 「吹屋之図」の「素吹の図」


図2. 「鉑石吹立次第荒増」の「素吹の図」


図3. 「吹屋之図」の「真吹の図」


図4. 「鉑石吹立次第荒増」の「真吹の図」