気ままな推理帳

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山下吹(7) 足尾銅山(維新前)の山下吹

2020-08-30 08:49:59 | 趣味歴史推論
 足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県下野国上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山である。口碑に伝うる所は、慶長15年(1610)の開始なりという。以来、江戸幕府直轄の鉱山として採掘された。慶長18年(1614)頃より産銅総額の5分の1をオランダに輸出し、延宝4年(1676)より貞享4年(1687)まで12ヵ年間には吹床31坐を設けて、年々精銅1320~1500トンを産出した。
 足尾銅山の米国シカゴ万国博博覧会(1893.5~10)出品解説書(古河鉱業 明治25年 1892.5編)に記された足尾銅山の維新前の製錬法は、以下のとおりである。

「往昔より当山に行わるゝ製錬法は、すこぶる混沌なるものにして、最初に精選鉱1トンを土竈(径1m突深さ2m突にして地面を掘り石を畳みて造る)に装入し、日数15日ないし20日間をもって煆焼し、これを熔解に供す。熔解の方法は山下吹と称する本邦固有の法式にして、炉の構造は地面を掘り下げ石と粘土をもって畳み、その内部は炭末と粘土の混和物にて塗り固めたる径610mm突深さ1m突の円底炉にして、操業の始めには炭火をもって炉内を乾燥し、一吹の量は焼鉱1トンと木炭564kgを交々装入し、送風にはフイゴを用い、およそ6時間にして熔解を終る。装入物すでに熔解したる時は、送気を止めて、鉱瘴を掻除し、銅鈹の鏡面に水を散布するか、または外気の自然作用によりて冷凝せしめ、薄片としてこれを剥ぎ去り、下部に沈溜する荒銅は鉄杓にて型に汲み入る。かくすること2面をもって熔解炉1日の工程とす。銅鈹は、鉱石の煆焼に使用するものと同一なる土竈において酸焼したる後、再び熔解して荒銅を製出す。」

考察
1. 足尾銅山では、煆焼した鉱石の熔解を山下吹で行っていると書かれている。これは、素吹に相当する吹きである。すなわち素吹を山下吹で行ったということである。この素吹で得られた銅鈹を焙焼窯と同じ土竈で酸化し、次いで炉で熔解還元して荒銅を製造していた。この後半は、いわゆる奥州吹といわれるやり方である。
2. ここでの問題は、「山下吹」の素吹はいつから行われていたか、初めから山下吹と言っていたのかということである。足尾銅山開坑の慶長期に、多田銀銅山で山下吹が発明されたと筆者は推測しているので、すぐ足尾銅山に伝わるには、早すぎると思う。山下吹が導入されたのは、もっと後であろう。またそれを山下吹と言っていなかった可能性もある。明治25年の解説書を書いた技術者が「これは山下吹に相当する」と考え、書いた可能性もある。このあたりの事情はさらに調査が必要である。

まとめ
明治維新前の足尾銅山では、素吹は、山下吹であった。その続きは、奥州吹であった。

注 引用文献 
1. 米国万国博博覧会(1893.5~10)出品解説書「足尾銅山」(古河鉱業 明治25年(1892.5編)
 web. 足尾銅山跡調査報告書5 史料3. P9(日光市教育委員会 2014.3)より

元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?

2020-08-23 08:41:20 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋忠七は宝永6年(1709)から記録があるが、それ以前の記録を探していた。住友史料叢書「銅座公用留」に元禄14年(1701)の別子銅船の記録を見つけたので、以下に示した。1)

元禄14年(1701)
3月12日 板屋彦右衛門船上着 与州銅 124丸 凡13640斤 (8.18トン) 1)のp12,42
3月13日 川ノ江清右衛門上着 与州銅  50丸 凡5500斤 (3.30トン)  p43
3月19日 蕪崎善左衛門上着  与州銅 100丸 凡11000斤 (6.60トン) p32 p43
3月27日 手舟左七郎上着   与州銅 121丸 凡13300斤 (7.98トン) p43
3月27日 手舟又八上着    与州銅 135丸 凡14850斤 (8.91トン) p43
3月27日 手舟八左衛門上着  与州銅 135丸 凡14850斤 (8.91トン) p43
正月より3月晦日迄銅入払目録 予州手山銅上り高476750斤 (286トン)  p48
4月6日  黒嶋惣兵衛船・黒嶋吉郎兵衛船上着 与州銅201丸(13.27トン) p59
4月7日  黒嶋彦市郎船・黒嶋新七船上着   与州銅230丸(15.18トン) p61
4月11日  天満与市兵衛船廻着        与州銅101丸(6.67トン)  p71
5月2日  黒嶋彦市郎着           与州銅130丸(8.58トン)  p98
5月6日  4艘入津             与州銅465丸(30.69トン)  p101
5月14日  廻着                 銅139丸(9.17トン) p106
5月17日  廻着               与州銅80丸(5.28トン)  p112
9月7・8日  入津                 270丸(17.82トン) p175         
別子銅廻着の見積もり
与州銅凡40~50万斤(240~300トン)但し9月21日より11月中迄着船可仕哉と奉存候 p178
元禄15年(1702)
5月8日(11日予定)入津 与州銅375丸(24.75トン)うち120丸(7.92トン)は 黒嶋庄九郎舟 9日出しにて、日ノ丸御船印差上る、初登り。p290
別子銅廻着高の覚
 正月分  798丸 (52.67トン)
 2月分  1580丸 (104.28トン)
以降は、船主、船頭の名前の記載はなし。

考察
元禄15年(1702)8月に新居浜口屋が開設され、銅の送り出し港が新居浜浦に移った。開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間は、別子銅山から、(第一次)泉屋道を通って天満浦から送り出された。上記記録は、その時のものである。
1. 船主または船頭の名前は、地元天満浦周辺の出身や籍を示している。板屋(いたや 板谷と推測)、川ノ江、蕪崎(かぶらざき)、黒嶋(くろしま)、天満(てんま)であった。これらの村名を伊藤玉男「あかがねの峰」中の図に書き入れて示した。2)→図1 
黒嶋籍が最多であった。以前から黒嶋は大島に次いで廻船業が盛んであったので、小型廻船を銅船に向けたのであろう。3)
2.  新居浜浦の忠七の名はなかった。忠七は、新居浜口屋が開設されてから、銅船を開業した可能性が高い。
3. 銅積載量が 120~130丸程度で、後の250丸程度の約半分である。船は、100石積より小さそう。天満浦が浅瀬のためか?
4. 別子銅を運ぶために泉屋は少なくとも手船3艘を所有していた。4)
5. 元禄15年に別子銅を積んだ黒嶋庄九郎舟が初めて日ノ丸御船印(みふねのしるし)を掲げて、天満浦から大坂へ航行した。

まとめ
浜井筒屋忠七は、新居浜口屋が開設されてから、銅船を開業した可能性が高い。

注 引用文献
1. 住友史料叢書「銅座公用留・銅座御用扣」(思文閣 昭和64年 1989)
2. 伊藤玉男「あかがねの峰」巻頭図1 (発行責任者 山川静雄 第2版1994.6)
3. 気ままな推理帳「切上り長兵衛の位牌をお祀りしてきた加藤家は新居浜井筒屋に違いない」(2019.4.26)
4. 手船(てぶね) 國史大辞典9 p911(吉川弘文館 昭和63.8 1988)より
 「近世、水運に利用するため自分で所有する船をいう。手船の所有者には幕府・各藩藩主、回船問屋・河岸問屋など運輸業者のほかに物資輸送に関与する商人や農民などもいた。藩主が年貢米や台所用物資あるいは商人荷物の運送に使用する船を藩手船ともよんでいる。運輸業者は雇船で荷物を運送するより問屋手船を使う方がより収益が大きかった。」
図1.  別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主の出身地(伊藤玉男「あかがねの峰」巻頭図1に記入)

山下吹(6) 面谷銅山の山下吹

2020-08-16 09:35:31 | 趣味歴史推論
 面谷銅山(おもだにどうざん)は、越前大野郡箱ケ瀬村枝村の持穴村地内に開坑した銅山である。小葉田淳によれば、1)「面谷銅山の開坑の時代は康永年間(1342~45)とか天正年間(1573~92)とか伝える向もあるが、寛文9年(1669)の発見という所伝もあり、このころより銅山稼行が興ったと思われる。天和2年(1682)土井利房が大野に封ぜられても面谷もその領となるが、そのころはかなりの産銅をみたらしい。元禄またはそれに近いころより面谷の山元で南蛮吹により灰吹銀の採取も行われたようである。大坂では灰吹銀を絞(鉸)った銅を鍰(しぼり)銅というが、正徳4年(1714)には大坂廻着の大野(面谷)鍰銅126,992斤、同荒銅6,400斤に達している。」さらに

「「銅山御用留」の初めのところに、(中略)面谷の荷吹より真吹までの工程を列記し、合吹・絞吹について床炉の構造や吹方につき詳細な説明をしている。ところが絞吹について、次のような所伝のあることを述べている。先年稼行方を大坂の泉屋が請けた時、吹方頭取として久右衛門と申す者が来って、面谷の仁兵衛を試吹したところ「同じ銅にて仁兵衛よりは鉛270~280匁余計に要て、久右衛門吹き候は、吹銀2匁8~9分余計に之有り候」とあり、差引勘定は久右衛門の吹方が利であるとし、その吹方を指示どおり使用することになったというのである。」
これは寛政10年(1798)のことである。なお泉屋の記録には久右衛門の名はないが、しぼり大工茂兵衛の名があり、面谷の所伝は人名を間違えたのであろうかと小葉田は記している。また註に、「絞吹の仕法として山下吹の名を伝えることを記し、久右衛門も山下吹達者の者といい、絞吹に優れたことを述べている。山下吹はいうまでもなく、摂津川辺郡山下(兵庫県川西市)の名を負うたもので、製銅法である。」と記している。

解釈と考察
面谷銅山では、絞吹(南蛮吹)を山下吹と言っている。このことから南蛮吹は多田銀銅山から伝わったということを示唆している。銀含有銅鉱石から銀と銅を取り出す製錬法は、どの工程であろうが、多田銀銅山から伝えられた工程は、山下吹といったのではないか。

まとめ
面谷銅山では、山下吹とは南蛮吹のことを指している。

注 引用文献
1. 小葉田淳「面谷銅山の稼行法と製錬法-近世の面谷銅山-」住友修史室報第16号p1-29(昭和61年 1986) web.より  
「天保3壬辰年(1832)より銅山御用留書抜 横田重興扣」 「大野市史藩政史料編二」(1984.3)

山下吹(5) 多田銀銅山の寛延2年「鉑石吹様之次第」は、かたけ吹か

2020-08-09 09:33:16 | 趣味歴史推論
 多田銀銅山のかたけ吹の内容について知りたい。多田銀銅山の銅製錬法に付いて書かれた史料は、奉勤要用帳三に書き写された寛延2年(1749)の「鉑石吹様之次第」が最も古いものである。1)以前のブログで引用した「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」(以下荒増と略)の図と「吹屋之図」があるが、描かれた年代がはっきりしない。よって寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」を推定する史料は、83年後の寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」しかない。以下にこの関連部分を写した。→2)図1.2.
なおこの文書には、かたけ吹とは一切書かれていないが、これがかたけ吹であるかを探っていく。

寛延2巳年7月(1749) 摂州川辺郡多田銅山覚書
  多田銅山役人   藤井庄左衛門  市田与右衛門  秋山珎蔵
摂州川辺郡・能勢郡・豊島郡山方有之村々、古来より銀山支配に被仰付候、村方御割替被仰付候えば、山稼有之御運上場所之旨御窺被成、銀山付に被仰付候先格に御座候
・銀山御役所    多田銅山役人 市田与右衛門 秋山珎蔵
・山下御役所    多田銅山役人 藤井庄左衛門
中略
鉑石吹様之次第
 但鉑石1駄は36貫目に御座候
鉑焼
・鉑石細に砕き篩にて通し置き、鉑焼窯へ入れ焼申候、この仕様焼窯およそ鉑石5駄より3駄位まで焼候積り、まず右の釜へ松木34~5貫目並べ、その上へ炭4貫目俵半俵程並べ、また上へ松木を一通り火蓋に並べ置き、その上へ砕き候鉑石の荒き分6分ほど入れ置き、また中木を14貫目程並べ、その上へ細かなる鉑石を置き、右の炭へ火を掛け、さて翌日釜の上に古莚または古菰にても掛け置き、夏なれば7日程、冬なれば6日程に冷め申候
鉑吹(=素吹)
・右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目(36/4.5=8貫目)1日吹右枡に6杯(8×6=48貫目)、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候
・炭を粉にいたし白土汁にて練り、地を窪め吹床を拵え、夜八つ時より炭をくべ焼立て、翌朝六つ時より吹掛け申候、床の内へ炭を1杯入れ吹立、その上へ鉑石を乗せ吹き候えば、湯に成り床の内へ流れ入り申候、1時余り吹候て辛味(からみ)と申すかすをかき捨て申候、そのあと鈹と申す物に成り候、これを1枚ずつ剥ぎ上げ申候、底に床尻と申候て銅1枚出来候、またはこれ無き事も御座候、これは鉑石の善悪により不同御座候
真吹
・右鈹と申す物を真吹床と申にてまた吹申候、これもどぶと申すかす出で候を取除き、半時ばかり吹候えば銅に成り申候、これを真吹銅と申候、右床は鉑吹床同前に御座候 但し鉑吹床と申すは前素吹床の事に候
合吹
・右鉑吹の床尻銅と真吹銅と一緒にいたし、銅10貫目程に鉛2貫目程、または銀滴り有之ものには鉛3貫目ほど入れまた吹き申候、これを合吹(あわせふき)と申候、銅は合せ銅と申候
南蛮吹
・右合銅を難波床を申す床にてまた吹き申候、この床はよき赤土と炭の灰とにてよく塗り堅め、上に1尺四方の吹床を拵え、それより吹き候前へ、坂のごとくにいたし置き吹候えば、右坂の如く成る所へ、地黄煎(じおうせん 下り飴)のごとくに成り流れ出申候、これを生松木にて押し戻し候えば、次第々に下の溜りへ銀鉛一緒に成り出申候、これを紐鉛と唱え候、全体銅の内に含み居り申候銀を、鉛相誘い一緒に成り流れ出申候也、かくのごとく銀鉛をよく鉸り取り候跡を鉸り銅と唱え候て、全て銅に成り申候
灰吹) 
・右鉸り出候紐鉛を灰吹床と申すにて吹き申候、この灰吹床拵え様は、よき土を塗り堅め丸く穴の如くいたし候、その底に鍋をいけ込置き申候て、紺屋の灰を入水にて練り堅め焼き、また砕き候て藁の灰と合わせ水嚢にて篩い、右床の内へ入れ、すべ帚にてよく押し固め、真ん中を瓢箪にて窪め置き、右の紐鉛をくべ吹き候えば、鉛は右灰へ吸い取り、真中の窪め候所へ銀ばかり残り止り申候、これを灰吹銀と申し、全て上銀に御座候
ルカス流し吹
 但し、鉛の分は石灰へ吸い取り灰中に止り申候、この灰鉛一緒に成り候をルカス(留粕)と唱え申候、この灰鉛をわけ候には、ルカス流し吹と申すを致し候わば鉛とれ申し候えば、多分合吹につかい申候

右の通段々に吹申候、取り掛り候時刻は夜八つ時より鉑床拵え・[素吹ともいう也]鉑吹・真吹・合吹・南蛮吹・灰吹まで1日仕廻と申すにいたし候えば、翌日1日吹候て夜に入り四つ時までに吹仕廻申候、これより鉑吹と真吹と合吹まで1日に仕廻い置き、翌日南蛮吹・灰吹と仕候て2日仕廻に仕候時は、夜八つ時より床拵え仕り、明け六つ時より吹掛り、昼すぎ八つ時までに仕廻い申候
 但し御運上銅は真吹銅にて取立申候
右の通に御座候、以上
 寛延2巳年7月(1749)摂州川辺郡多田銅山役人 藤井庄左衛門 市田与右衛門 秋山珎蔵

解釈と考察
1. 「吹屋之図」と「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」が描かれた年代と内容について  
猪名川町史には、「「荒増」は、「鉑石吹様之次第」の写しで、第2条目に寛延2年当時と「荒増」の成立時期では、鉑吹1回当たりの鉑石高が増えているという意味の但し書きが付されている部分以外は、ほぼ同文である。」とある。2)筆者はこの内容を調べた。
「荒増」には、(鉑吹(=素吹))「右釜より取出し候鉑石、1升枡にて1駄を4杯5合に計り、1杯の掛目1日吹右枡に6杯、この掛目48貫目、この床数4吹に吹立申候」 に続いて「但し、古来は右の通にて吹立申候えども、文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱え、鉑石3駄この掛目108貫目、1日分4吹に吹立申候」が挿入されている。則ち寛延2年では吹立1日分は48貫目であったのが、文政年では108貫目に増えていることを記している。また「吹屋之図」と「荒増」の素吹の図に書かれた文で見ると「銅鉑は、焼鉑1駄半(54貫目)ずつ1日に吹立申候」とどちらも同じ文面であり、寛延2年の48貫目から54貫目に増えている。2)以上のことから、井澤英二・青木美香が「吹屋之図」の描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしているが3)、それほど古くはなく、寛延2年より後の可能性がある。

2. 「 鉑石吹様之次第」は「かたけ吹」を記したものか
「 鉑石吹様之次第」の工程で、「生野銀山秘録」との違いは、以下のとおりである。
①鉑焼(焙焼)をしている。
②素吹と真吹を分けていて、素吹から床尻銅を、真吹から真吹銅(平銅)を取り出している。
③床尻銅と真吹銅と鉛で合吹をしている。
「生野銀山秘録」に記された製錬方法は前々報で述べたように明和~天保のものと推定されるので、「 鉑石吹様之次第」の方が古い。また前報より多田銀銅山は「かけたけ吹」の発祥の地であった可能性が高い。よって寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」と同じかそれの進化したものが、83年後の寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」ではないであろうか。
かたけとは、「銀かたけ」であり、銀を含む銅鉱石(斑銅鉱(Cu5FeS4)、黄銅鉱(CuFeS2)など)から、鉑焼→素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」であると筆者も今結論したい。
 既に昭和29年、小葉田淳は「生野銀山史の研究」の中で、「かたげ吹は、かたげ吹・なんば(南蛮)吹・灰吹の3工程を一連とする吹方で、運上銀の基準となる床1挺という場合に、この3床をあわせていう。「銀銅山覚書」の「吹屋之次第」に「かたげ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記し、また「生野銀山吹方入用」に「床 1挺前の入用を内訳して、以上の3床を含めている。かたげ吹の床は大床とよぶ。」」と記している。そしてその手順として、「生野銀山秘録」に記された方法を示している。4)
 多田銅山でも文政(1818~1829)度の頃より大吹と唱えとあり、生野銀山のかたけ吹きの床は大床と呼ぶに対応している。生野銀山の、素吹と真吹を一つの床で続けて行うとか、合吹に相当する工程を塗込と称して、石銀(PbS)と留粕(PbO)を使うこととかが、かたけ吹の特徴かと思ったが、そうではないことが、多田銅山の「鉑石吹様之次第」をみてわかった。そこは小さな違いであり、かたけ吹→南蛮吹→灰吹で銀かたけと鉸り銅を得る方法が「かたけ吹」なのである。

まとめ
1.  寛延2年(1749)の摂州川辺郡多田銅山覚書のなかの「鉑石吹様之次第」が、寛文6年(1666)頃に多田銀銅山のほとんどの吹屋が行っていた「かたけ吹」を推定する最も古い史料である。この「次第」中にはかたけ吹きとは書かれておらず、また寛文6年ごろの手法と同じかどうかはわからなかったが、かたけ吹といってもよいと考えられる。
2. 多田銀銅山は生野銀山と違って、鉑焼、素吹と真吹の分離、合吹をしている。
3. どちらの銀銅山も 南蛮吹と灰吹を行っている。
4. 2は小さな違いであり、かたけ吹とは、銀を含む銅鉱石から、(鉑焼→)素吹→真吹→合吹→南蛮吹→灰吹で、銀かたけと鉸り銅を得る方法を広く指すものであると筆者も今結論したい。

注 引用文献
1. 奉勤要用帳三:幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「元文2年(1737)から宝暦6年(1756)にかけて銅山の稼方や役人の勤方などを時々の代官に届け出た書類」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p642~649(猪名川町 平成3年12月 1991)
2.  猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p808~809
3. 「気ままな推理帳」江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(7)(2020.4.5)
この中に素吹の図あり。
井澤英二 青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 猪名川町文化財調査報告書5 「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 p171(猪名川町教育委員会 2014.3)
4. 「気ままな推理帳」山下吹(3)生野銀山のかたけ吹とは?(2020.7.31)
図1. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)

図2. 摂州川辺郡多田銅山覚書の中の鉑石吹様之次第-1(猪名川町史5より)


山下吹(4) 多田銀銅山のかたけ吹

2020-08-02 08:44:27 | 趣味歴史推論
 かたけ、かたけ吹の初出を探し、かたけ吹の手順と名称の由来を明らかにしたい。
泉屋叢考(住友修史室 1955)によれば、「天正・文禄より慶長・元和にかけて、主要な都市には天秤屋あるいは銀屋とよばれた業者が興り、領主の御用を勤め特権を与えられ、運上を納めて、天秤座・銀座とよんだ。その業務とするところは、定にも見える如く金銀の吹替、判金銀の鋳造、金銀の秤量、銀の包装等があり、また天秤の製造販売をも行った。」とある。
寛永4年(1627)の金沢藩の記録に、「天秤座御定」に「かたけ」がでてくる。1)→図1.2.

「天秤座御定
・前略
・今極印銀と鉛持之事
並銀とかたけ持之事
・後略
右如斯被仰付候、念を入以来迄無相違様可仕者也
 寛永4年正月2日        稲葉左近
                青木助之丞
   天秤座 彦四郎殿
    同  次郎兵衛殿

--- 丁銀も今極印銀(金沢藩の判銀で天秤座が鋳造した)も約2割の銅を含有する。それ故に、銀吹替のためには、定にあるように鉛を購入準備するとともに、銀銅吹分の床が必要であろうと思われる。定に見える「かたけ」持というのは、生野銀山へ伝えられたカタゲ吹と同じ吹床の装置を意味するのではあるまいか。これについては、暫く疑を残して将来の研究に期待したい。」

と著者は書いている。しかし筆者は、この「かたけ」は「銀かたけ」または「かたけ吹で得られた銀」を意味しており、銀その物を指していると推定する。前項の「今極印銀と鉛」に対応し、「並銀とかたけ銀」である。銀貨の銅含量の調節用には、安価な銀かたけを使えと指示していると推定する。藩の財政上にも好都合であるから。
このことから、寛永4年(1627)当時には「銀かたけ」あるいは「かたけ銀」はかなり普及していたと結論できる。
この「銀かたけ」「かたけ銀」はどこ産かが問題となるが、生野銀山に伝わったのが寛永9年なので生野銀山ではない。そうすると伝えた元の多田銀銅山の産である可能性が高いと筆者は思う。
そこで数日前に入手した猪名川町史5「多田銀銅山資料編」の全ページを「かたけ吹」の語で調べた。その結果、1ヶ所あり、驚くべきことを見出した。寛永4年より39年後になるが、寛文6年(1666)の多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であったのである。残りの157床は素吹床であった。以下にその部分を記した。2)→図3.4.
摂津国多田銀銅山略伝における文書の写しは以下のとおりである。

寛文6年6月30日
摂州多田銀山吹床役御運上銀帳 この帳面の趣にては吹屋54軒
   吹屋    かたけ吹床   素吹床    運上銀
本町市郎兵衛    12挺    --        24匁
本町伝兵衛     14      --       28
和久源右衛門    12      --       24
本町喜右衛門      4      --       8
本町市兵衛      2      --        4
本町長左衛門    16      --       32
万善市左衛門    17      --       34
能瀬太兵衛     15      --       30
万善五郎右衛門   14      --       28
若宮清左衛門    18(19?)   1      39
瀬戸太兵衛      3      --        6
横山惣右衛門    18     --        36
若宮長七      16      --        32
松屋清右衛門    16      23       55
新町七兵衛       6      --        12
若宮治兵衛      --      17       17
村上平慎       --       5        5
村上平兵衛      6      23       35
奥山又右衛門    12       28       52
宝路伝兵衛      --      24       24
津慶吉兵衛     25      1       51
奥山伝三郎     13      --       26
奥山五郎右衛門   11      --       22
芝辻次郎兵衛     4       --       8
奥山甚右衛門     --      10       10
奥山八右衛門     --       21      21
出石仁兵衛      3       --       6
中嶋屋次郎兵衛    3       --       6
村上忠兵衛      4      3        11
寺前市左衛門     2       --       4
横町孫左衛門     10      --        20
2丁目太兵衛      10       --        20
2丁目又右衛門    1      --       2
2丁目次郎右衛門   12      1       25
2丁目仁右衛門    6      --       12
但馬哉仁右衛門    9      --       18
池田屋次郎右衛門   4      --       8
竹中九郎左衛門    20      --      40
山下八兵衛      5      --       10
牧野屋仁右衛門    10      --      20
灰屋八兵衛      15(17?)  --       34
金屋藤兵衛      21       --       42
いかり屋庄兵衛    4       --      8
生野屋市右衛門    31       --       62
灰屋仁助       12       --       24
菊屋太左衛門     8       --       16
竹田屋仁兵衛    17       --      34
但馬屋理左衛門   35       --      70
薬屋弥右衛門    26       --        52
3丁目市郎右衛門   2       --       4
3丁目四郎左衛門   4       --       8
3丁目治右衛門      3       --       6
但馬屋与左衛門     20       --       40
奥山長兵衛       1      --        2
         545床    157床      
(銀計)     1090匁     157匁      1,247匁
         (552?床)        (1,267?匁)
かたけ吹床1挺に付き運上銀は2匁、素吹床1挺に付き1匁である。
かたけ吹床数と運上銀の合計が1~2%合わないが、運上銀がからんでいるので、かなり信頼がおける記録である。津慶吉兵衛(かたけ吹床数25)、竹中九郎左衛門(20)、金屋藤兵衛(21)、生野屋市右衛門(31)、但馬屋理左衛門(35)、薬屋弥右衛門(26)、但馬屋与左衛門(20)が、かたけ吹床20床以上保有する吹屋であった。
寛文年の出銅高は、以下のとおりであった。
寛文2年(1662) 57,261貫 (357,881斤)
寛文3年(1663) 91,627貫 (572,672斤)
寛文4年(1664) 120,935貫 (755,846斤)

重要な大口間歩の鏈の極上品は、「銀銅綴れ」といい、砕こうとしても槌にひっついて砕けないような性質のものであったという。この極上品をはじめ、中上品・中品1駄(36貫 135kg)に含まれる銀・銅は以下のとおりである。3)
極上品  銀1貫目(3.75kg)   銅12貫目(45kg)
中上品  銀500目(1.85kg)   銅3貫目(11.25kg)
中品   銀300目(1.1kg)    銅2貫目400~500目(9kg前後)

寛文6年(1666)は、生野銀山へ伝えた寛永9年(1632)より34年後であるが、ほとんどがかたけ吹床であること、および寛永4年の天秤座御定の「かたけ」から、伝えた当時には、多田銀銅山にて、かたけ吹と呼ばれていたと筆者は推定する。すなわち寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろう。「かたけ」が低品質ということを表しているのではなく、単に銀の性質をわかりやすく表しているにすぎないのであろう。
ただ、寛永、寛文年間のかたけ吹の手順の記載は見つからなかった。寛延2年(1749)の吹き方は書かれていたので、後日検討したい。

まとめ
1.  寛永4年(1627)の金沢藩の記録「天秤座御定」の中に「かたけ」が出てきており、「銀かたけ」 または「かたけ銀」を意味すると考えられる。
2. 寛文6年(1666)の摂州多田銀山吹床役御運上銀帳によれば、多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であった。
3. 以上のことから、寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろうと推定した。

註 引用文献
1. 泉屋叢考 第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」p64~66(住友修史室 昭和30年 1955)
2. 摂津国多田銀銅山略伝(山内荘司文書):幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「寛文元年(1661)の銀山奉行中村杢右衛門の着任から正徳4年(1714)の代官町野惣右衛門支配の終わりまで約30年間分の文書の写しあるいは抜き書き」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p236~239(猪名川町 平成3年12月 1991)
3. 猪名川町史2 近世p58(猪名川町 平成元年3月 1989)
図1. 寛永4年天秤座御定の箇所-1(泉屋叢考 第6輯より)

図2. 寛永4年天秤座御定の箇所-2(泉屋叢考 第6輯より)

図3. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-1(猪名川町史5より)

図4. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-2(猪名川町史5より)