気ままな推理帳

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伊豫軍印(22) 村上海賊とは無関係である

2023-07-30 08:30:15 | 趣味歴史推論
 新居大島は、八雲神社があり中山琴主の生誕地である土居町天満から海上5kmの近くにあり、漁業や廻船業で昔から交流があった。村上義弘(むらかみよしひろ、没年1340~1370頃と諸説あり)は、村上海賊の祖とも云われ、新居大島を本拠地として南北朝時代に活躍した海賊大将である。村上海賊(村上水軍)は、伊予水軍とも呼ばれているので、「「伊豫軍印」は、伊予水軍の私印である」という説について検証する

 2023.7.17のワクリエ新居浜でのトークショーを聴いた1)。今治市「村上海賊ミュージアム」の元学芸員の田中謙氏によれば、名称や役割の歴史は以下のとおりである。
① 「水軍」は近代海軍の前身の意味合いが強く、江戸時代以降に使われ始めた。
② しかし物流や水先案内など幅広い役割を担った彼らは水軍という言葉では表現しきれないので、古文書にもある「海賊」の呼称を用いるべきだとの見解で、2020年4月から「村上水軍博物館」から「村上海賊ミュージアム」に名称変更した。
③ 海戦で活躍した一方、平時には商人らから通行料を取り、瀬戸内海での安全航行を保障した。
④ 「伊予水軍」の呼称が使われるのは、昭和に入ってからのことである。

まとめ
「伊予水軍」と呼ばれるのは、昭和に入ってからのことであり、それまでは、使われていなかった。よって、「伊豫軍印」とは無関係である。


 田中謙様にはお教えいただきありがとうございました。

注 引用文献
1.  ワクリエ新居浜「日本最大の海賊 村上海賊に迫る!」(2023.7.17)
 映画監督大森研一氏と元「村上海賊ミュージアム」学芸員田中謙氏のトークショー


伊豫軍印(21) 琴主を引き立てた中山忠能卿は 本印とは無関係である

2023-07-23 08:06:02 | 趣味歴史推論
 中山忠能(なかやまただやす)(1809生~1888没)は、幕末から明治前期にかけての公家、政治家であり、明治天皇の外祖父であった。京都公卿の中でも、琴主を一番引き立ててくれたのが中山忠能であった。嘉永6年(1853)琴主50才頃に、公卿の知遇を得て、中山の姓を許された。
中山忠能と琴主の関係と 伊豫軍印について何か情報が得られないかと思い、「中山忠能日記」1)と「中山忠能履歴資料」2)を調べた。

1.「中山忠能日記」(1863~1868) 及び 「中山忠能履歴資料」(1852~1868)
「中山琴主」「琴主」「八雲琴」「二絃琴」「伊予軍印」など多くの関係ありそうな語で全文検索をしたが、何も引っかからなかった。

2. 官職および位階の履歴で伊予に関係する部分3)
文政 3年(1820) 10歳 正四位下に昇叙
   4年(1821) 11歳 左近衛権少将に転任
   5年(1822) 12歳 伊予権介(いよごんのすけ)*を兼任
   7年(1824) 14歳 右近衛権中将に転任し 伊予権介如元 皇太后宮権亮を兼任
   13年(1830) 20歳 伊予権介を去る
天保 5年(1834) 24歳 正四位上に昇叙し 蔵人頭右近衛権中将皇太后宮権亮如元
*京官の俸禄を補う目的のものであり、俸禄のみを得て実際に赴任することはなかった。

 中山忠能は、12~20歳の間 伊予権介の任にあったので、伊予には親近感を抱いていたであろう。しかしまだ若いので、遊びで「伊豫軍印」を作る可能性は低いと思う。

まとめ
1. 中山忠能の日記と履歴資料には、琴主との関係を示唆するものは見つからなかった。
2. 忠能は、11~20歳の時期に伊予権介の任であったが、若いので「伊豫軍印」を作る可能性は低い。
3. 琴主と知り合った嘉永6年頃以降は、忠能は国事に奔走しており、「伊豫軍印」を作り贈ることは考えられない。
4. 以上のことより、中山忠能は、伊豫軍印とは、無関係であると結論する。


注 引用文献
1.「中山忠能日記 : 原題・正心誠意」 第1~3 (日本史籍協会 大正5年(1916)web. 国立国会図書館デジタルコレクション
・中山忠能の二女慶子は孝明天皇に権典侍として奉仕し、祐宮(明治天皇)の降誕あり、忠能は外祖父として養育に任じ、また岩倉具視らと和宮の降嫁に奔走した。文久3年~明治元年(1863~1868)の日記である。安政以降の大事変を背景として、上は宮廷の秘事より、朝廷・幕府・諸侯・諸藩士・浪士の離合消長を記録する。総2245ぺージ
2.「中山忠能履歴資料」第1~10(日本史籍協会 昭和7~10年(1932~1935)) web. 国立国会図書館デジタルコレクション
・往年宮内省において中山忠能の事績調査を試みたさい、当時京都中山家に所蔵された維新前後(嘉永5年から明治元年(1852~1868))の十数年間における日記・書簡を初めとして、達書・建白書・風聞書などあらゆる種類の文書をほぼ年代別に編纂輯録したもの。総4841ぺージ
3. Wikipedia「中山忠能」

伊豫軍印(20) 「熾仁親王日記」に琴主は表れず、親王と印は無関係である

2023-07-16 08:47:57 | 趣味歴史推論
 「八雲神社」額の書を揮毫した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と中山琴主との関係と伊豫軍印について何か情報が得られないかと思い、「熾仁親王日記」を調べた。範囲は、中山琴主存命中の慶應4年(1868)~明治13年(1880)である。

1.「熾仁親王日記」(1976)
明治3年(1870)3月12日 ・山口藩来、豊榮神社額地持参の事
        3月30日 ・萬里小路通房入来、神號額染毫頼の事
        4月2日 ・山口藩知事へ頼の神號染毫遣す処、落手の事
        10月8日 ・萬里小路宮内卿へ以書状健織田神社額面染毫贈の事
明治5年(1872)9月2日 ・神明宮祠官常世長胤来、同社神號二流染毫願出の事
        9月8日 ・照皇大御神、豊受比賣神  右神旗二流染毫令奉納者也
               右 芝太神宮へ今般奉納、祠官へ渡の事
明治6年(1873)5月9日 ・教部省より大教院へ備付の神鏡裏書書神號染毫申来の事
        5月19日 ・教部省御用神鏡裏書書出来に付差出の事
             天御中主神一枚、高皇霊神・神皇霊神一枚、天照大御神一枚 総計三枚
        7月25日 ・下谷神社祠官より同社華表額染毫の儀申出、承知の旨及即答の事
        11月14日 ・教部大丞三島通庸より頼の国常立尊畫像へ染毫出来に付贈の事
        11月29日 ・下谷神社祠官山内憲民より頃日同社華表額寄附に付、挨拶の為神社玉串壹箱・蜜柑一籠到来の事
明治7年(1874)2月3日 ・師岡正胤より松尾二社大神額面染毫頼出の事
        2月6日 ・従一位中山忠能入来、染毫頼、面謁の事
        3月21日 ・従一位中山忠能へ頃日頼の染毫出来に付、以書中贈進の事
            ・松尾社宮司師岡正胤より頼の染筆差遣(さけん)の事 松尾二柱大神
        4月1日 ・茨城県士族松平要来、常磐神社額面染毫頼出の事
        4月6日 ・大蔵大録亀岡勝知来面謁、厳島神社宮司浅野忠より同神社華表額二面勝知を以て染毫頼出、承知の旨及返答の事
        4月16日 ・厳島神社宮司浅野忠・大蔵大録亀岡勝知・広島県士族西本某来。面謁、酒菓差出の事
        4月17日 ・厳島神社華表額二枚 右同神社宮司浅野忠へ
             ・常磐神社額 二枚 右茨城県士族松平要へ 依願染筆遣のこと
        5月1日 ・島根県士族広島亮造より日枝神社華表額染毫頼出の事
        5月11日 ・権少講儀新田邦貞来、面謁、新田神社、並びに、小祝神社華表額面染毫頼出の事
        5月15日 ・日枝神社華表額、 日枝大神 二枚 右 島根県士族広島亮造
             ・小祝神社 新田神社 右 名東県士族新田邦光 
              今般染毫依頼遣の事
        6月3日 ・従四位土屋寅直入来面謁、安房神社額染筆頼の事
        6月4日 ・神宮少宮司浦田長民、並びに、度会県小吏川口等頼の染筆遣の事
        6月13日 ・従三位土屋寅直入来、安房神社額揮毫頼の事
        6月19日 ・従四位土屋寅直より安房神社額料紙二枚相回の事
        6月20日 ・安房神社(表) 裏書 右今般安房神社宮司兼少教正土屋寅直・同少宮司伊藤道房より依頼染染毫す、本日両官同伴申出の為入来、面謁の事
        7月14日 ・多家神社 芸州多家神社華表額 右厳島神社禰宜河野徴依願染毫差遣の事
        7月16日 ・飯高神社額裏書共、 右教部中録常世長胤頼出の事
        8月4日 ・安房神社少宮司伊東道房より頼の染毫出来に付遣の事
        9月7日 ・日枝神社額出来に付、同社神官へ附与の事
       10月17日 ・神宮少宮司浦田長民より中教院掛額一枚頼出の事
       10月27日 ・神宮少宮司浦田長民より宮城県中教院額「天壌無窮」右、染筆下遣の事、右挨拶の為玉風鎮壹刀到来、
             ・山梨県区長田中佐兵衛へ頼の染毫「心清意自」横額差遣の事
明治9年(1876)2月16日 ・射水神社宮司兼権少教生加藤里路来、先般額面染毫謝礼の為来の事        
        2月22日 ・篆刻師荷田可亭印刻落成持参、面謁の事
        2月28日 ・篆刻人羽倉良信三課揮刀落成に付持参、並びに、印材一到来の事
        8月30日 ・小教正芳村正秉来、開成山大神宮額面染毫依頼の事
        9月12日 ・従二位徳川慶頼へ依頼の染毫贈の事
        9月25日 ・大教生常磐井堯凞入来面謁、宮内大丞香川敬三入来、額面染毫依頼
明治10年(1877)2月19日 ・二品親王有栖川熾仁 征討総督仰付られ候事
              朕卿を以て鹿児島県逆徒征討総督に任じ、陸海一切の軍事、並びに、将官以下黜陟(ちゅつちょく 降職昇進)賞罸挙て以て卿に委す、卿、黽勉従事速に平定の功を奏せよ(太政大臣三條実美)
        9月24日 ・西郷隆盛死す(山縣参軍)
明治12年(1879)5月14日 ・開拓長官黒田清隆より来状、左の如し、先般御揮毫相願候、屯田兵招魂碑文字鐫刻出来に付、石摺壹部呈御一覧候也
        9月28日 ・議官秋月種樹より来状、先頃御染筆相願候、彰功碑表面石摺出来候間、供電覧候也

 以上が明治13年(1880)10月末までの分である。なお個人的な依頼の揮毫についての記述は、約30件あるが省略した。

2. 考察
(1)熾仁親王は、書家でもあるので、「○○神社」の揮毫が多い。明治元年の神仏分離令の影響であろう。
揮毫を頼む人は、親王に会って、数週間~数カ月後に書を受け取ったことが細かく記載されている。しかし、日記には、「八雲神社」の揮毫記事はなく、中山琴主の名もなかった。直接面会できるほどの間柄ではなかったことがわかる。ではどうして琴主は親王の書を入手したのかと推理すると、中山忠能を介して入手したと思われる。「明治7年(1874)2月6日 ・従一位中山忠能入来、染毫頼、面謁の事。 3月21日 ・従一位中山忠能へ頃日頼の染毫出来に付、以書中贈進の事」がその根拠である。明治2年11月に八雲神社に改称した後、明治10年頃までの間に「八雲神社」額が奉納されたことと辻褄があう。

(2)この期間になされた揮毫の神社の額は以下のとおりである。
山口藩豊榮神社 健織田神社 神明宮 芝太神宮 教部省御用神鏡裏書 下谷神社 松尾二社 厳島神社 常磐神社 島根県日枝神社 名東県新田神社並びに小祝神社 安房神社 宮城県中教院額 飯高神社 芸州多家神社 射水神社 開成山大神宮 屯田兵招魂碑
この内の数神社の額の写真を比較のために示した。2)→写

(3)「明治9年(1876)2月22日 ・篆刻師荷田可亭印刻落成持参、面謁の事、 2月28日 ・篆刻人羽倉良信三課揮刀落成に付持参、並びに、印材一到来の事」
篆刻師荷田可亭(羽倉良信)3)の作成する印は、官印や書家が押す落款印であったのであろう。

(4)親王は、明治元年の戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。明治10年(1877)の西南戦争には征討総督として出征した。このような経歴の人であるから、遊びで「伊豫軍印」を作って中山琴主に贈ることは、ありえないと結論した。

まとめ 
1. 熾仁親王日記から、「八雲神社」の書は、中山忠能を介して入手したと推定され、琴主と親王との関係は非常に小さいと分かった。
2. 親王は、東征大総督、征討総督となった人なので、遊びで「伊豫軍印」を作って中山琴主に贈ることは、ありえないと結論した。

        
注 引用文献
1. 有栖川宮熾仁「熾仁親王日記」(開明堂 昭和10年 1935)
本日記は全6巻で1巻慶應4年~明治5年、2巻明治6~10年、3巻明治11~ 14年、4、5、6巻明治15~28年である。
web. 国会図書館デジタルコレクション「熾仁親王日記」
2. 揮毫した神社の額の写真のもと(使わせて頂きました)
・八雲神社:本ブログ「伊豫軍印(3)」
・厳島神社:旭山神社公式フェイスブック2020年11月9日  
・多家神社:ホームページ「じゃらん」>多家神社> by kinさん (2018年4月27日撮影)
・射水神社:ホームぺージ「射水神社」>境内のご案内>中門
・開成山大神宮:ホームページ「ぐるっと郡山」>地域ニュース>福島県郡山市の神社>開成山大神宮>ニュース>2018.12.15
3. 荷田可亭(羽倉可亭 はぐらかてい)
web. 国際日本文化研究センター 人物情報 羽倉可亭「「平安人物志」掲載諸家関連短冊」における解説:羽倉可亭( ~明治20年) 篆刻家。名は良信、字は子文、可亭はその号、別号を亦可草堂とも云う。伏見稲荷祠官延年の子、延年没後同宗目代信賢に養われその嗣となる、年十四従五位下駿河守に任じ十七にして非蔵人十八権目代に補せられたが文政五年二十四の時其職を辞し後四方を漫遊して篆刻書画を業とした。少くして村瀬栲亭に就いて儒を学び刻苦累年、又画と篆刻を僧月峯に学び後画は岡本豊彦にも学んだ更に江戸に赴いて大窪詩佛の門をたゝき細川林谷の教えによって篆法の妙を会得した。明治新政府樹立と同時に宮内省の命をうけて御璽六顆を刻し、又山水画数幅を描き諸親王の為の刻印と共に悉く其影を留め「天漢潢清流帖」を残している。殊に有栖川宮の寵遇を賜り黄玉の茶銚を賜はつた。

写 有栖川宮熾仁親王が揮毫した神社の額


伊豫軍印(19) 「一條忠香日記抄」には、何も情報はなかった

2023-07-09 08:34:35 | 趣味歴史推論
 「牛頭天王」額の書を書いた公家の一條忠香と中山琴主との関係と伊豫軍印について何か情報が得られないかと思い、「一條忠香日記(原題・璞記(あらたまき))抄」を調べた。

「一條忠香日記(原題・璞記)抄」(大正4年 1915)
 本書の緒言によれば
・原本は、随感随記とも見なさるべきものにして国事以外一家の私事にかかわるものすこぶる多し。それらは概ね省略せり。
・忠香 性温厚典雅古大臣の風あり。深く皇室の式微(しきび 衰え)を憂え、三條実萬、中山忠能の諸公卿と相謀る所あり。また一橋慶喜、細川慶順等皆姻戚の関係あるを以て、嘉永癸丑6年(1853)以降国事に関し往復せる文書はなはだ少なからず。しかれども当時嫌疑をはばかり火中して家に存するもの本書意外ほとんどなし。
・嘉永7年(1854)~文久3年(1863)の国事に関することが記されている。

抄を読んだ結果のまとめ
1. 国事で中山忠能とかなり頻繁に関係があったことが確認できた。しかし文人としての活動については私事に該当するためであろう、全く載っていなかった。
2. 中山琴主との関係は分からなかった。
3. 「牛頭天王」の書を入手した経緯や、「伊豫軍印」についても、何もわからなかった。

注 引用文献
1.  日本史籍協会叢書「一條忠香日記(原題・璞記)抄」(日本史籍協会 大正4年 1915) web. 国立国会図書館デジタルコレクション

伊豫軍印(18) 八雲琴創始者中山琴主の経歴

2023-07-02 08:45:21 | 趣味歴史推論
 窪田英樹「八雲琴の調べ」1)を基にして、「土居町誌」2)「天満・天神学問の里巡り」3)により中山琴主の経歴をまとめた。(暦年、歳は不確かな箇所あり)

1. 中山琴主の経歴
・享和3年(1803)5月15日 父 岸(加藤)大策正昌、母 加藤八重子 の長男として、天満村で生まれた。岸家は下天満で代々医者 実弟は大岸元琴。生まれながら視力が弱かったので、4、5才となると母は牛頭天王宮へ連れて行って視力が強くなるように願をかけると共に、近藤益春宮司から読み書きの指導を受けさせた。
・文化7年(1810)7~8才 関の峠で「吉の都」師匠から三味線や浄瑠璃を習った。
・文化14年(1817)14才 京へ出立。京で音曲の名人菊岡検校に三絃琴、三味線を習い、免許皆伝を受けた。紀州に行き関口流の剣道を錬磨し印可を受けた。菊岡の計らいで但馬の西村五兵衛家で子弟に筝曲を教えるうちに、眼がよくなり、出雲に向かった。
・文政3年(1820)10月 17才 天日隅宮(あめのひすみのみや)(出雲大社御本殿)で御神意を得て、二絃の八雲琴を創案した。眼病の治癒を感謝して参籠中の出来事と伝えられる。八雲琴は、非常に篤い敬神の念から神に供えるものであり、非常に宗教色の濃い楽器になった。出雲では大社の宮司千家、北島の両家を初め多くの神官・社家に伝授した。
以後、八雲琴、医業、柔術を生業とした。この20年間、八雲琴の普及に全国を旅した。 
・天保14年(1843)40才 京に居を定めた。三味線の印可。八雲琴で公卿・文人を魅了し、多くの支持者と弟子を得た。
・嘉永6年(1853)50才頃 公卿中山忠能(勤皇派)の知遇を得て、中山の姓を許された。仁孝天皇の皇女淑子内親王にも教授することとなり、孝明天皇の天聴を賜った。
・安政5年(1858)55才 「神傳八雲琴譜」を著した。
・文久2年(1862)59才 出雲大社の神官加藤昌晨の次男多利穂(たりほ)を養子に迎えた。
・明治元年(1868)65才 青風山の山頂に出雲大社、青風大明神と大田大明神を祀った。→写
・明治2年(1869)11月10日 66才 牛頭天王宮は八雲神社と改称。     
・明治6年(1873)頃 70才を超えて 京都深草(霞谷に庵)から郷里に帰った。かなり裕福であった。石の橋をかけ道を作り、神社へ御旅所の土地を寄進した。
 ・親類の加藤長次を新に養子に迎えた。
・明治9年(1876)73才 薩摩、萩、美川、山城、大和、南部福島を巡った。(旅日記)
・明治12年(1879)76才 伊豫軍印を寄附した
・明治13年(1880)77才 9月18日没す。琴主の檀那寺は、八雲神社のすぐ西の井源寺(真言宗)である。

2. 琴主と関係のあった人物(略歴は琴主存命中(~1880)のみ)
(1)千家尊福(せんげたかとみ)(1845生~1918没)4) 
・81代出雲国造(1872~1882)、出雲大社宮司。明治6年(1873)1月、出雲大社敬神講を結成した。現在の出雲大社教の前身であり、出雲大社のご祭神の大国主大神の御神徳を主眼とした布教活動を行なった。神歌を爪弾く八雲琴が大きな役割を果たしたと思われる。八雲琴は幕末から明治にかけて爆発的に広まり、千家尊福の時代にピークを迎える。

(2)佐草美清(さくさよしきよ)(1794生~1862没)
・出雲大社でも最も格の高い上官(じょうがん 国造を補佐する高級神職)。国学者。琴主は佐草の篤い信任を得て信仰で深く結ばれていたと思われる。

(3)中山忠能(なかやまただやす)(1809生~1888没)
京都公卿の中でも、琴主を一番引き立ててくれたのが中山忠能であった。忠能の長女慶子は孝明天皇の典侍となり、後に明治天皇となられる皇子祐宮(さちのみや)を産む
・幕末の公家、宮中政治家。父は忠頼 母は綱子。明治天皇の生母慶子の父。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで88廷臣の列参奏上に参画、同年5月議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され、文久1(1861)年10月江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持、尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ、同3年1月議奏を辞職した。翌元治1(1864)年7月、前年の8月18日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが、その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、参朝・他人面会・他行の禁止に処せられる。慶応3(1867)年1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視、中御門経之らと共に王政復古の政変を画策,討幕の密勅作成に関与した。政変後、三職制が新設されて議定に就任。以来、輔弼、神祇官知事、神祇伯。明治2(1869)年9月王政復古の功により賞典禄1500石を永世下賜。同4年麝香間祗候、同7年華族会館の設立に尽力、御歌会式取調掛、柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛、明宮(大正天皇)御用掛などを務め、80歳で没した。著作『中山忠能日記』5)

(4)一條忠香(いちじょうただよし)(1812生~1863没)
・一條忠香公筆の「牛頭天王」の額は、琴主が奉納したものである。
・官位は従一位・左大臣。一条家22代当主。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊王攘夷派の公家と対立した。余技で絵を能くしたほか、鹿背山焼で好みの煎茶器を作らせた。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の実父にあたる。著作『一条忠香日記抄』6)

(5)有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)(1835生~1895没)
・熾仁親王筆の「八雲神社」の額は、琴主が奉納したものである。
・幕末・明治時代の皇族。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持。元治元年(1864)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門の変で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。慶応3年(1867)王政復古とともに総裁職に就任。翌年の戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿、福岡県知事、元老院議長を務め、明治10年(1877)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となった。著作『熾仁親王日記』7)

注 引用文献
1. 窪田英樹「八雲琴の調べ-神話とその心-」(東方出版 1986)
2. 「土居町誌」p754(宇摩郡土居町教育委員会 昭和59年 1984)
3. 「天満・天神学問の里巡り」5、6、25、38、47番(天満公民館 令和3年 2021)
4. Wikipedia「千家尊福」
5. 朝日日本歴史人物事典
6. Wikipedia「一條忠香」
7. 日本大百科全書(ニッポニカ)「有栖川宮熾仁親王」

写 青風神社と琴主(「天満・天神学問の里巡り」より)