気ままな推理帳

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口屋の名の由来

2019-03-24 19:51:30 | 趣味歴史推論
別子銅を運ぶ船の船主である濱井筒屋は、切上り長兵衛の死に様を知っている可能性が高い。新居浜口屋に関係する人や文献から井筒屋に迫れないかと考え、まず口屋を知る事にした。口屋跡記念公民館発行の「口屋」には、口屋の歴史と役目は以下のとおりに記されている。1)
「別子銅山の銅の運搬路は、当初、別子から小箱峠を越えて宇摩郡天満浦に出る嶮しいコースであったが、元禄15年(1702)、銅山峰から角石原に出て馬の背を通り、立川の渡瀬~角野~泉川~金子を通り新居浜に至る約18kmの輸送路を完成し、同年8月に「浜宿」として別子銅山の「口屋」を設け、銅山用の百貨、食料等の一切を収納し、物資供給の基地とした。また、この口屋には別子一帯の天領を支配する川之江代官所の役人と住友家の手代が常駐して、入港する船の積み荷の検査、浜倉への格納、牛馬による銅山輸送等の業務を担当した。銅山から口屋へ下ろされた粗銅は、製錬のため大阪の住友銅吹所へ船送りされた。」

なぜ「口屋」というのかという疑問が浮かび、名の由来を調べたので、覚のためにこのブログに残しておく。元禄15年以前で、「口屋」をネット検索し、3か所で見つかった。
石見銀山(絵図)と佐渡金山(絵図)と山ケ野金山(遺跡の表示物)である。
1. 口屋の表示があった所
(1)石見銀山絵図2)3)
元和3年~5年(1617~1619)作成の「石見国絵図」の佐摩郷石見銀山部分→図1
間歩、床、銀蔵などの山内を5kmに及ぶ木柵で囲っており、そこから外への出口に10ケ所の口屋が見られる。
反時計まわりに 1.蔵泉寺口屋(ぞうせんじくちや)2.吉迫口屋(よしさこくちや)3.畑口屋(はたくちや)4.坂根口屋(さかねくちや)5.栃畑口屋(とちはたくちや)6.荻峠口屋(をぎのたをくちや)7.本谷口屋(ほんだにくちや)8.水落口屋(みずおちくちや)9.曽根口屋(そねくちや)10.清水口屋(しみずくちや)がある。
また 清水口屋から続く道の途中の白杯には、単に「口屋」と表示された通り門と家屋がある。
(2)佐渡国絵図4)
天和年間(1681~1684)作成と推定されるこの絵図には、海岸縁に、夷口屋(えびすくちや、北東方向)、赤泊口屋(あかどまりくちや、南東方向)、羽田口屋(はねだくちや、西方向)、大間口屋(おおまくちや、西方向)が見てとれる。→図2

(3)山ケ野金山(遺跡の表示物)5)6)
山ケ野金山エリアに入ってすぐに「金山口屋(関所)跡」と書かれた柱があり、その脇の表示板に由来が書いてある。
「金山萬覚(古文書)に、長野より二里七丁(八キロ六〇米)柵を結ぶとあるので、開発と同時に設けられたものと思われる。山ケ野東西二ケ所、長野一ケ所とある。東の方は番所といって今も地名で残っている。無手形の者の入山、金の密売、キリシタン等厳しく取り締まった。現県道に通ずる道はこれが本道で、下の道は明治期谷頭に製錬所が出来る時、機械を運ぶ為に作られたのでシンミチという。下に続く道を口屋道といった。 山ケ野区会」

「口屋」とは柵内から外部へ通じる道の出入り「口」に設けた家「屋」である。石見銀山の口屋(番所)の大きさは、間口3間、奥行き2間の平屋であった。7) 「口屋」は広くは天領内で金銀鉱山の区域からの道路や船輸送の海岸縁にも設けられた。

2. 名称の変遷
 口屋→(口番所)→番所
(1)石見元和絵図(1617~1619)では、10ケ所の「口屋」表示が、正保(1642)「石見国絵図」では、柵内からの出口には門と家屋が描かれているが、単に「坂根口」などのように「〇〇口」表示に、8) 天保石見国絵図(1835~1838)では、6ケ所の「番所」表示に変わっている。また柵内の中心部の幹道に1ケ所「番所」表示がある。いずれも道を挟んだ門とその脇に平屋が描かれている。9)
(2)正保佐渡國絵図(1645~1647)で下相川に4ヶ所の「口屋」表示があり、10) 天和佐渡国絵図(1681~1684)で「口屋」表示されていた所が、天保佐渡国絵図(1835~1838)では、柴番所、大間番所、材木町番所、羽田番所、下戸番所、夷町番所と「番所」表示に変わっている。11)

3. 口屋の役と名付け
毛利氏支配の天正9年(1581)「石見銀山納所高注文」では、石銀口役銭80貫(銀6.25枚)に対し、江戸幕府の大久保長安が引き継ぎ支配した慶長5年11月の「石見国銀山諸役銀請納書」では、銀山本口屋役銀2,000枚と極端に増えている(請人:住吉屋三右衛門組7人衆)。産銀に関わる間歩役銀8,058枚、汲銀役銀・炭役銀6,000枚と比較しても口屋役銀の大きさがわかる。7)13)14) 運び込まれる米などの必要物資の商売から多くの税がとれることに大久保は着眼したに違いない。そのためであろう、役の名称は「口役」から「口屋役」に変更している。名称を変えて役銀を大幅に上げ幕府に上納させるシステムを大久保長安が作った。このシステムをすぐに佐渡金山にも適用して、人・米・産出金などの船での輸送口である海岸縁の港にも「口屋」を設けた。12)
大久保長安は「口屋」の名づけ親だろう。少なくとも「口屋」に重要な意味を持たせ、使わせた人であることは間違いない。

4. 口屋の役目
口屋の役目は、幕府天領の金山銀山に出入りする人・物・産出金銀・鉱石の監視、管理統制、税徴収である。請人は口屋役銀を上納した。出入りする商人からは税として「歩一運上」を徴収した。天領内の周辺の村に設置された「口屋」では、物流の中継地点として外からくる物資とともに領内で生産された物資商品に関わる役銀を徴収した。

5. 推論のまとめ
 口屋とは、石見銀山の柵内からの出(入)口門の脇に設けた家屋のことをいう。江戸幕府奉行大久保長安が慶長5年(1600)に石見銀山を天領として人・物・産出銀を監視管理統制する際、物である家屋とその役職を表すものとして「口屋」と名付け、地役人と共に業務をおこなう請負人に多額の役銀を上納させるシステムを作った。他の金山・銀山にもこのシステムは適用され、佐渡金山では人・米・産出金などの船での輸送口である海岸縁の港にも作られた。新居浜口屋は佐渡金山にあやかることを願って名付けられた。江戸中期以降、業務の変化により「口屋」は一般的な呼び名の「番所」にとって代わられたが、新居浜では「口屋」の名が残った。

6. おわりに
石川勉氏(元マイントピア別子を楽しく育てる会会長)に、2019年3月20日お会いして、氏が10数年前に書いた説明文の中に「「口屋」とは幕府の管轄区域の「出入り門」のことで関係者以外は出入り出来ない。一般に出入り門を「〇〇口屋」と呼ばれていたが、新居浜では「口屋」だけの言葉が残っている。」とあるが、その根拠を尋ねた。その答えは、「松江に行った時、松江の先生に勧められて見にいった展示会で、石見銀山絵図(筆者の推定では、元和絵図)に、銀山を囲む柵の出入り口に「〇〇口屋」と書かれたところが数か所あった。これで新居浜口屋の名の由来がわかった」でした。筆者は、ネット検索で絵図を見つけて、同じような結論になりましたと申し上げた。

注 引用文献など
1. 編集・発行 新居浜市口屋跡記念公民館 「口屋 ~現在・過去・未来~」p6(平成23.3 2011)
2. 川村博忠 元和年間作成の石見国絵図について 歴史地理学 41- 3 (l94)40~54 (1999.6) 
「 江戸幕府は、近世を通して石見銀山のすべてを幕府の直接支配下においていた。この絵図は、江戸初期のころ最盛期にあった石見銀山の様子を克明に描いている。現在では一般に大森銀山と呼ばれている旧銀山である。この佐摩郷の銀山は16 世紀前半期、天文年間の本格的な開発以来、永禄 5年(1562) に毛利元就によって占有されるまでおよそ30 年間に及んで、周防の大内氏、石見の小笠原氏、出雲の尼子氏など戦国大名の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。慶長 5年(1600) の関ヶ原の戦いの後は徳川家康によって接収され、以来幕府が派遣した代官によって銀山の経営が行われた。 初代の銀山奉行として石見に入った大久保長安が、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を新たに開いて銀山開発に努めた結果、慶長から寛永期にかけての産銀量は年間8千貫から1万貫ほどもあったと推定されていて、この頃が石見銀山の最盛期であったとみられている。この絵図によると、佐摩郷の銀山は集落を含めた谷間の地域一帯に広くめぐらした木柵列によって囲まれている。一般に江戸時代にはこの柵列でとり囲まれた鉱山地域を山内(さんない)と呼んで在方と区別し、柵列の総延長は5,147mにも及んでいたという。山内の中央部を南から北へ貫流する銀山川の谷筋にそって主要街道(銀山街道)が通っており、街道の両側に街村状の家並みがぎっしりと描かれていて、町的集落の形成を窺わせる。山内から外に抜ける道筋10ケ所の出口にはいずれも「口屋」と記す番所が設けられていて、木戸と番屋の絵が描かれている。主要道が「佐摩」村へ抜ける出口には「蔵泉寺口屋」、温泉津方面へ向かう出口には「坂根口屋」と記すように、10 ケ所の口屋 にはいずれも名称がつけられている。」
3. 監修田中琢 編集江田修司 「石見銀山」別冊太陽p109 (平凡社 2007.11)
元和3~5年(1617~1619) に作成された「石見国絵図」(浜田市教育委員会所蔵)→図1
4. ホームページ 佐渡市産業観光部 世界遺産推進課文化財
 佐渡の文化財>県指定文化財32 >佐渡国絵図(天和) →図2
5. ホームぺージ「気ままに鉱山・炭鉱めぐり」>山ケ野金山(2010.4)
「山ケ野金山 
 本金山は寛永17年(1640)宮之城領主島津久通により発見された。藩はすぐ幕府の許可を得て採掘にかかった。藩内外から多数の人々が集められた。本山は地表に金が凝集していたといわれる。幕府はその産出量の余りに多きに驚き、2年余りにして金山の停止を命じてきた。困った藩は再三許可を願い出たが許されず、13年間明暦2年(1656)漸やく採掘を許可した。金山の再開が始まった15の鉱山所、36の町、人口1万2千人と古文書は伝えている。田町に九州三大遊郭の一つが出来たのもその頃である。然し始めの乱獲や地表の金もだんだん少なくなり、採金にも技術を要する様になったので、金の先進地大分の金山より多数の技術者が呼ばれた。然し元禄(1688)以後はとみに産金量は減じていったが明治迄1年も休山する事なく藩財政を潤してきた。---以下略  山ケ野区会」
6. ホームページ「ワシモ」>旅行記>山ケ野金山 (2007.4)
7. ホームぺージ「島根県名所案内」>リスト>大田市>石見銀山遺跡>石見銀山資料>番所跡 絵図から平屋であるが構造は不明
8. 正保2年(1645)作成の「石見国絵図」(津和野町教育委員会所蔵)
 「石見銀山歴史ノート」ふるさと学習誌 銀の道振興協議会発行(平成11.3 1999)
 20110324153859.pdf
9. 国立公文書館デジタルアーカイブ
天保石見国絵図(1835~1838)
10. 近世絵図地図資料集成(第15巻・第16巻)地図リスト (科学書院 2013)
 佐渡國 021 所蔵機関:国立公文書館 通し番号:SM-021-01~02 04689~04690
正保佐渡國絵図(1645~1647)
筆者は絵図を見ていないので、解説文をそのまま載せる。
「西部の雜太郡に属する下相川村付近に、鉱山口、住宅などが配置されていて、海岸縁には四か所の口屋が設置されているのが見て取れる。口屋とはおそらく物流の中継地点とも言える施設で、ここから船を仕立てて、金銀を江戸などへ回送したと推定される。口屋は、他に、南部の赤泊、小木にも設置されていて、金銀のみではなく、他の農産物や漁業資源などの交易を担った港湾と定義してもさしつかえないであろう。北部は佐渡山地、南部は小佐渡丘陵で、山岳地帯の観を呈し、---以下略」
11. 国立公文書館デジタルアーカイブ
天保佐渡国絵図(1835~1838)
12. ブログ「佐渡広場」(2012.3.18) 《参考》佐渡廻船業の発達史 
1600年初期佐渡が徳川の直轄地(天領)になってから、初代奉行大久保長安は、島内の主要な湊に口屋(=番所・役所)を設け、即ち諸国から入ってくる貨物に対し役銀10%を取り立てた。  
・当時番所が置かれた湊は11ケ所。 相川で5ケ所(大間・羽田・材木町・海府(柴町)・上相川)、沢根・五十里・松ヶ崎・小木・夷湊・赤泊。
・どの口屋(番所)にも荷受け業務にたずさわる問屋衆(水揚)がいて、口屋衆と呼ばれた番所役人を派遣して、脇売りを監視し、役銀を徴収。
 例:(相川)大間口屋の問屋は、京屋次左衛門・橘屋重右衛門ほか9人。岩谷口の船登源兵衛船の積荷状などから、廻船の付船問屋が決っており、問屋は奉行所御用商人との一定の取引関係があったとされる。船登船の場合、羽田口屋の桝屋六右衛門を付船問屋にし、桝屋は御用商人の山田吉左衛門に商品を卸していた。また現物納入された入役(色役)は、番所の御蔵納蔵で保管され、大間の勝町でせり売りをして運上蔵に納入。(廻船(運送)業者-問屋-御用商人-役所)
13. 原田洋一郎「石見銀山周辺における「町」を持つ村の基礎的研究」東京都立産業技術高等専門学校研究紀要Vol.4 p91(2010.3) KJ00006858239
 吉岡家文書慶長5年11月「子歳石見銀山諸役銀請納書」より作成した役銀一覧表がある。
14. Wikipedia 
大久保長安(江戸幕府勘定奉行 天文14年(1545)~ 慶長18年(1613)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。
図1.

図2.

切上り長兵衛の追善供養施主・濱井筒屋は別子銅を運ぶ船の船主だった

2019-03-15 20:53:31 | 趣味歴史推論
「切上り長兵衛は実在した」では以下のように記していた。
慈眼寺の過去帳とその写しに「海山利白信士 宝永五子三月廿九日 銅山ノ切リ上リ長兵衛ヿ(こと) 濱井筒屋施主」とある。正岡慶信(芥川三平)は、住友が立川銅山を吸収合併して大別子銅山とした寛延二年(1749)以降に過去帳に挿入されたとすでに推測しており、筆者もその通りで、寛延二年(1749)~宝暦であると推測する。

本報では、施主の濱井筒屋とはどのような職業の家であったのかを明らかにする。
正岡慶信は、「浜井筒屋は、住友指定の現在の中須賀あたりにあった浜宿ではなかったかと言われている」と書いているが、根拠がはっきりしなかった。1)
そこで筆者は、宝永五年(1708)~宝暦13年(1763)のことが記載されている住友史料叢書の「年々帳一番」、「年々諸用留二番~七番」の計7冊について、井筒屋の名前の出現を調べた。
その結果、年々諸用留七番2)に、「新居浜井筒屋忠七船が別子立川銅山の荒銅を積んで大坂に行く途中、宝暦6年9月16日に兵庫沖で大風雨にあい難船、打荷し、その事後処理に泉屋や役人が多くかかわった」事件が詳しく記載されているのを見つけた。2)

「宝暦6年(1756)9月16日 松平遠江守様御領分の摂州兵庫沖にて、松平左京太輔様御領分の西条新居浜浦井筒屋忠七船、同国別子立川御銅山より出候の銅を積み登り候節、大風雨に遭い難船し打荷を致し候一件の事を左記す 3)4)5)
・予州別子立川御銅山より出候御用荒銅220丸(14.4トン)・白米10俵(0.6トン)・日ノ丸御船印2本・浮綱1本請取之、同国西条新居浜浦井筒屋忠七船同年子9月7日積浮之、同日同所出帆、同12日摂州兵庫津浦へ着岸、同二茶屋浦迄乗出、風悪敷船繋仕罷在候処、同16日八つ半時(午前3時)より大風雨北風強吹候付き、碇引沖へ4~5里程も吹流され、積荷物右御用銅220丸の内140丸(9.2トン)程浮綱付けて荷打仕り、並に白米10俵これまた荷打仕り候、乗組人数は別条無之候、帆柱は無別条、船みよし損じ、桓立損じ、伝馬船なかし、兵庫和田の崎南沖に本船繋ぎ居候処、同18日八つ時分(午前2時)漁船4艘にて兵庫川口へ漕入れくれ候して、西条御船宿十河源蔵方へ沖船頭惣左衛門上り候して、右難船次第申入候、右源蔵方より大坂西条御蔵屋敷御役人中へ注進の為飛札を以て申越候、則ち忠七船水主壱人外に壱人相添、兵庫より早船にて大坂表へ差越、18日夜九つ半(午前1時)時分に此方へ参り着、直に手代兵右衛門を飛脚両人に差し添え西条屋敷へ差遣候、同夜八つ(午前2時)時過ぎ右三人此方へ罷帰る。
・同夜右見届きの為、兵庫表へ罷越候人数、与州銅山支配人太次右衛門、本家手代治左衛門・庄八、供両人上下5人、川筋満水につき出船相成り申さず候、翌19日早朝右人数大坂本家より出立
・翌19日西御番所桜井丹後守様月番、右忠七船荷打一件お届けの為口上書御金方御役所へ友昌持参、則左記
 恐れ乍ら口上
・今般予州別子御銅山御用荒銅220丸の内荷打仕候に付き、御届奉り申上候、御用荒銅積登りの為、殊更別子銅山の儀は、御公儀様御銅山にて御座候に付き、先規に従い日ノ丸御印御免成下され、御威光を以て数年来無滞廻着仕来候、此度荷打候御用荒銅荷打候浦手より取り上げ有るべし御座と奉りあり候らえども、猶恐れ乍らより、御公儀様荷打候浦へ御下知成下され候様奉り願い上げ候、以上
 子9月   泉屋吉左衛門直印
 御奉行様
・以下略  」

この一件で、10か所ほど「新居浜浦井筒屋忠七船」と記録されている。忠七船の船主が井筒屋である。

この船の積荷の総重量は15.0トン。乗組員は沖船頭(惣佐衛門)と水主(十五郎、喜八郎、三右衛門)3人の計4人であった。このことから百石積(15トン)弁才船と推定する。6)船の大きさ、運行状況などは、未調査なので、ここではおよそのことを想像してみる。
荷積み、荷揚げ、途中の日和待ちや風待ちの停泊日数も含めて、新居浜-大坂の往復で20日かかるとすると この1船で銅は年間に 14.4トン×365/20=263トン運べる。別子銅山の産銅量は、宝永4年で約200万斤(1200トン)、宝暦6年で約100万斤(600トン)であるから、宝暦6年で考えると600/263=3+α すなわち忠七船の大きさの船が3+α隻必要になる。7)
これらの船の船主であったと推定する。

「新ゐ浜忠七船」は前報の「宝永六年日記」にあったが、そこには井筒屋という屋号はついていなかった。「宝永六年日記」には 忠七船の他に、与次兵衛・五郎右衛門・太左衛門・左一兵衛・三郎兵衛船 の5つの船名が書かれている(忠七船は船頭が忠七であった、ほかの船も船頭の名で呼ばれていたようだ)。宝暦6年(1756)-宝永6年(1709)=47年も経っているので、前の船と同じではなく、2号、3号になるのであろうか。少なくとも昔の忠七が船頭でない。しかし船に名前は残っている。宝暦6年の船頭は惣佐衛門である。

結論:濱井筒屋は、宝暦年間に別子銅を運ぶ船の船主であった。

さらに、船と荷主との間に入り荷物の積込み・水揚げおよび船の手配などの業務を周旋する業である船問屋も兼ねていたのではないかと考えられる。新居浜浦の口屋と提携していたはずで、濱井筒屋は、大坂への銅運送を一手に任されていたのではないか。
濱井筒屋が住友史料で確認されたことにより、切上り長兵衛の過去帳記載の内容の信憑性が高まったといえる。濱井筒屋は泉屋本店と銅運送で深い関りがあったので、切上り長兵衛の追善供養を泉屋から依頼されたのではないかと思う。

注 引用文献など
1. 芥川三平 「瑞応寺西墓地の怪(下の四)」 新居浜史談347号(2004.7)p12
2. 住友史料叢書 「年々諸用留七番」p53~69 (思文閣、平成13.12、2001)
3. 打荷(うちに) 世界大百科事典 第2版
船舶が航海中暴風雨に遭い,危険が迫ったとき,船頭が船および積荷の安全のため,積荷の一部を海中に捨てること。捨荷ともいう。これによる損失は,このため救われた船主および荷主が共同海損として分担した。15世紀後半からの慣行であるが,17世紀からは,打荷した船頭は,最寄りの港の浦役人に届け,海難を証する浦証文を受ける必要があった。これを怠ったときは,船頭は民事上,ときには刑事上の責任を負わされた。荷打(にうち)。
4. 1丸(まる)=50斤(2019.3.15)は間違いであったので、(2019.5.22)次のように訂正する。1丸=109斤375=65.63kg。訂正の根拠:安国良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」住友史料館報第23号p12(平成4.6 1992)
 「銅の個数を数える丸という単位は、享保期はすべて1丸=109斤375=17貫500目であるが、文化期以降は普通1丸=105斤=16貫800目とするほか、1丸=106斤25、107斤5 とするものもあり、その重量は一定していない。だが船の積載量は、享保期の場合普通240丸=2万6250斤、文化期以降も250丸=2万6250斤であり、銅の個数こそ違えその重量には変化がなかったと思われる。」
5. 精選版 日本国語大辞典より
・沖船頭 江戸時代、船長として実際に船に乗り込む運航の責任者。買積船にあっては商取引の責任者をも兼ねる。廻船の所有者、つまり船主を居船頭と呼ぶのに対する語。乗船頭。
・居船頭 江戸時代、船に乗らない廻船の所有者、すなわち船主。雇われて実際に船を運航する船頭を沖船頭と呼ぶのと区別した。通常二艘以上の廻船所有者で、沖船頭に運航、商売上の取引などの権限を与えた。おりせんどう。
・船問屋 全国各港にあって、廻船と荷主とのあいだに入り荷物の積込み・水揚げおよび廻船の手配などの業務を周旋する業。船宿。廻船問屋。ふなどんや。
・水主・水手(すいしゅ) 船頭・楫(かじ)取りなど役付き以外の水夫。また、船頭以外のすべての船乗りをいう。加子(かこ)。
6. 杉原英昭「江戸海運を支えた弁才船」海事資料館研究年報 vol.31 p1-9(2003)
www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005779.pdf 乗組員の数は、帆走専用化を図った五百石積(75トン)弁才船では約8人。
7. データベース愛媛の記憶>愛媛県史 近世 下>六 別子銅山の開発と稼行
図3-21 別子銅山における産銅量の変遷

図. 「 年々諸用留七番」の濱井筒屋に関する記事







「宝永六年日記」には、切上り長兵衛の記録はなかった

2019-03-06 14:25:54 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛の没年月日は 宝永五年三月二十九日(1708.3.29)である。この頃の住友史料館の史料に切上り長兵衛に関することが書かれていないかを調べた。翌年の宝永六年にだけ、泉屋本店の手代が書いた日記があった。1) この中から、与州・新居浜に関する事項と泉屋(田向)重右衛門に関する事項をピックアップした。2)3)

1.大坂の本店と与州の手代たち:九兵衛・源右衛門・源兵衛・十助・長次郎・平右衛門・儀右衛門・数右衛門・平八・又市・四郎三郎・善六・喜右衛門・庄左衛門・彦右衛門、飛脚(手伝)たち:太兵衛・伴助・喜七・次兵衛・喜八・介右衛門・長兵衛、 大工たち:多兵衛・松兵衛、泉屋子供:長松 の大坂・新居浜間の往来や動きの記録が多くあった。乗った船の船頭名 新ゐ浜-:忠七・与次兵衛・五郎右衛門・太左衛門・左一兵衛・三郎兵衛 が記録されていた。
2.泉屋重右衛門は、銅山見分、要人の応対、餅つきなどの記録があった。
3.しかし、切上り長兵衛に関する記録はなかった。

結論:切上り長兵衛に関する記録はなかった。

注 引用文献など
1. 住友史料叢書 「宝永六年日記」(1709)(思文閣 平成8.1.20)
解題の抜粋
「泉屋の本店の日記である。この日記と内容や体裁の類似する記録は現存の史料中には見出せない。寛永十年(1798)以降、万座帳・場帳・庭帳と題する本店の日誌が10冊現存し、欠落はあるが明治六年(1873)まで継続している。「宝永六年日記」の記事は、万庭帳類のそれと比べると、枢機に関わり、時に長文に及ぶことがある。万庭帳類よりも上位の手代が筆記したのであろう。筆跡は複数(二人か)である。当主の友芳(友栄、吉左衛門)は宝永五年(1708)十月二十五日から宝永七年四月二十九日の間江戸に所要で、この日記の期間中不在であった。留守見舞いの記事や江戸へ衣類などを贈る記事が散見する。親類縁者との交際、幼児(友芳娘せつ)の急病から死亡に至る間の医師との応対や見舞い、寺社参詣や開帳にかかる記事などにも、豪商の家の日常生活が具体的に窺われて興味深いものがある。」

2. 与州に関連した記録
宝永6年
正月21日、岸段右衛門殿与州銅山へ下ル新ゐ浜忠七船ニ乗船、此方ゟ舟中賄物入ル
正月22日雨天、西条御屋敷へ忠七舟へ岸段右衛門殿御下り被成候手形相認、忠七加子之宿ニ遣ス、
2月9日、与州ゟ手代九兵衛・源右衛門・源兵衛・十助・長次郎・平右衛門並ニ大工多兵衛・松兵衛上ル
2月10日、与州ゟ上り候手代九兵衛在所へ帰し暇遣ス、荷物渡ス、其外源右衛門・源兵衛・長次郎九日ニ宿元へ戻ス
2月11日、岡山飛脚長兵衛与州状持上ル、与州四日出、笠岡理右衛門状七日出、岡山九日出、十一日晩六つ到着申候
2月11日晩、与州手代十助京都へ船ニて上ル
2月12日、与州六日出状岡山ゟ飛脚介右衛門持上り、直クニ与州へ銀四拾〆匁差下候飛脚壱所ニ相添下ス
2月22日、林啓悦与州へ乗船、但新ゐ浜与次兵衛船ニ而、此方ゟ菜物諸色船へ入遣ス
2月25日、与州ゟ飛脚太兵衛上ル
2月27日、上本町河内屋彦左衛門参、生野銅山在之由咄申ニ付、則口上写覚
     生国薩摩之者先年熊野屋彦太郎方へ罷越、手代役之様ニ成事致、夫ゟ立川銅山ニ四年計も居、夫ゟ生野へ罷越、水かふ受取候ニ付、右銅鉑有之場所見届候由、生野ニおいて銅鉑之思向地方者ニ噺候へとも、銀山稼専之所、銅鉑なと之相談中々申ニ不及由言消候由、此者先年銭座ニ手寄、此度罷登り、銭座江戸向宜成候ハヽ此山為申請、稼可申との相談ニ罷上り候由
4月8日、五兵衛本町御屋敷へ参、杉岡氏予州へ御下りニ付致対談、杉岡氏浅田氏九日朝御発足
4月8日、理右衛門与州ゟ上ル、五郎右衛門船ニて
4月9日、儀右衛門・数右衛門手伝次兵衛連、作州新銅山見分ニ下ル、此度与州新ゐ浜五郎右衛門船下スニ付乗船
4月11日、与州ゟ手代平八・長松上ル
4月12日、手代平八在所土山へ遣ス、いつミや左兵衛卅石ゟ上ス
4月23日、理右衛門・平八予州明石舟ゟ銀七拾五〆匁差下ス
5月6日朝、与州手代又市上ル、太左衛門船ゟ
5月8日、手代又市在所へ帰ル、荷物大塚や六右衛門方迄遣ス
6月5日、鈴木理大夫殿御袋、新ゐ浜左一兵衛船ゟ乗船ニて御下り、此方ゟ船中賄物入下ス
6月6日、与州手代四郎三郎上ル、並飛脚次兵衛・喜七同船ニて戻ル、四郎三郎同日在所へ戻ル
6月7日、与州手代四郎三郎在所ゟ罷帰候
6月11日、伊与素麺金弐歩分、銀座中富与次兵衛方へ使手伝文右衛門ニ持せ遣ス
6月11日、与州鈴木殿ゟ上り候御用状並菰包、本町御屋敷へ手伝文右衛門ニ遣ス
6月13日、手代四郎三郎・長松与州へ出船飛船五郎右衛門船ゟ
6月14日、与州ゟ喜右衛門上着申候
6月22日、与州飛脚伴助上着
6月27日、与州ゟ飛脚喜七戻ル
7月5日、彦右衛門予州へ下ス、手伝喜七連備中へ寄申筈ニて、歩行下ル
8月12日晩、与州手代善六・飛脚次兵衛、盆前精帳持上ル、与州六日出し
8月13日朝、銀飛脚手伝喜七・喜八歩行ニて与州へ下ス
8月26日、新ゐ浜太左衛門船便柳九折壱、平介・理右衛門着類入下ス
8月25日、与州手代善六、在所ゟ罷帰候
9月3日、新ゐ浜三郎兵衛船ゟ大豆拾三俵積上ル、四斗壱升五合入五俵、五斗入八俵、〆拾三俵、代三百六拾匁五分
9月3日晩、手代善六与州へ下ス、銀七拾五〆匁才料、次兵衛・喜八壱所ニ下ス
9月18日、与州千原銅山之義ニ付、土佐堀弐丁目土佐屋仁左衛門殿と申仁、五兵衛へ逢申度と被申参候 千原銅山願人松村半右衛門殿と申仁、元来大坂住人ニ而御座候、---
9月18日、与州ゟ大豆八俵、此升三石四斗弐升四合 此代銀弐百五匁四分四り
10月9日、後藤覚右衛門様ゟ後藤斧右衛門殿へ参候御状、与州へ斧右衛門殿御下りニ付差下シ申候処、其節御上りニ而間違、此度与州ゟ右之状戻し申候ニ付持せ遣ス、使平次郎
10月12日晩、与州庄左衛門上着、太左衛門船ゟ
10月23日、手代庄左衛門在所ゟ罷帰候
10月27日、手代庄左衛門与州へ下ル、新ゐ浜忠七船ゟ
10月28日、与州ゟ塩小鯛五拾枚上ル、代九匁と申来ル
11月18日、与州勘場ニ居被申候医者見廻、頃日与州ゟ罷上り候由、当地宿江戸堀ニ親類在之、其所ニ居申由、則彦右衛門ゟ添状来ル

3. 泉屋重右衛門に関連した記録
5月17日、浜村御屋敷江丹波銅山見分ニ可遣候間、御状御遣可被下由、重右衛門方ゟ状ニ申遣ス、手伝喜七遣ス
5月26日、浜村御役人青木久左衛門殿へ、重右衛門ゟ銅山之義此方望無之由状持ス、使手喜八遣ス
6月19日、長崎ゟ銅支配人衆長崎や五郎兵衛方へ上着致候由、重右衛門ゟ申来
12月24日、餅突申候、泉や重右衛門所ニて