気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

小泉銅山の長兵衛𨫤

2019-10-29 14:09:26 | 趣味歴史推論

 「豫州別子御銅山未来記」の中で、切上り長兵衛が稼いでいた鉱山として、備中國白石銅山が挙げられているが、これは小泉銅山のことを指すのではないかと2018年12月のブログで書いた。1 小泉村は成羽川沿いにあり、付近には石灰石が露出したところもあり(現在も国内有数の採取地である)、厚い石灰岩層からできており、白い石(石灰岩)、すなわち白石が採れる所にある銅山という意味で白石銅山と書いたと推定した。あるいは、小泉銅山のひとつの鋪に白い石に由来する白石鋪(間歩)というのがあったのではないかと推定したのであ。  

 明治29年発行の「岡山圖幅地質説明書」2の中に、小泉鉱山に長兵衛𨫤があることが記されていることを数日前に見つけた。その部分を以下に書き写した。

 小泉鉱山

川上郡中村字小泉村小泉鉱山は 成羽川北岸に嶮崖を為昂起する小泉山腹に位し、海抜約400m突なり。本山は往昔より稼行せられ、山の南北両辺に数多くの旧坑散在し、其最も多量の廃鉱を棄積するは北辺の福本旧坑とす。然れる旧坑に関し参考とすべき記事を得る能わざりしを以て茲に之を陳ぶる能わず。明治の初年に至り佐藤某稼行し一時出鉛産額多量に達し小泉鉛山の名四近の地に嘖々たり。明治21年7月三菱会社所有となり、爾来大切を開鑿し益々出鉱量を増加したりしも、坑内佳良ならざるより輓近頓に出鉱を滅し、當今1カ月約鉛67梱 銅13梱の産額あり。

地質 略

鉱床 数條の鉱脈は玢岩中に挿入し、偶々玢岩質凝灰岩に入るものは𨫤乱れ消失するの憂あり。要するに凝灰岩は硬実ならざる寧ろ軟らかき割目多き岩質なるを以てなり。本山の於ける主要なる鉱脈は 文化𨫤、長兵衛𨫤、一号走先及二号走先𨫤 等なり。略

文化𨫤 文化𨫤は小泉鉱山の本𨫤と称し得べきものにして、往昔より連綿と稼行し、嘗て出鉱多額盛山したるは即ち文化𨫤なり。略

ぬたの窪𨫤 略

長兵衛𨫤 は玢岩に挿入し、文化走先向車道より西南に𨫤の厚さ3尺乃至4尺となり、之に挿入する鉱條は厚さ尺乃至4寸、而して坑道より天井は余す所なし。鉱業は其地並以下の地にありとす。西南の法立に𨫤狭小となり走西南に(は)𨫤に連なり、茲に石灰質粘土𨫤となり、鉱條を雑有せず。車道より東北に𨫤の厚さ3尺にして1尺乃至1尺5寸の鉱條を夾み、天井に採掘し得べき餘量あり。且つ地下に良好なり。該𨫤は東北するに従て鉱條狭小し、凝灰岩に入り僅に粘土𨫤に散鉑となり産出するに過ぎざるなり。()𨫤は東南より西北に走る縫差線の為め厚さ2尺の𨫤を現出し是より走先一号に連なる。

走先𨫤 2條あり、略

 

この長兵衛𨫤は切上り長兵衛と関係あるのかはわからない。いつどのような経緯で名付けられたのか。切上り長兵衛にあやかって明治時代に名付けられたのか。明治時代に小泉鉱山で、切上り長兵衛が働いていたという伝説が残っていて、記念に名付けられたのか。切上り長兵衛が実際に掘り始めた𨫤、またはその続きなのか。

小泉鉱山で長兵衛の名を見つけられたのは幸運である。より詳しい情報を探そう。

注 引用文献

  1. 本ブログ「切り上がり長兵衛が稼いだ備中国白石銅山は、小泉銅山ではないか」(2018.12.07)

    2. 農商務省地質調査所 大塚専一「岡山圖幅地質説明書」p107~116(明治29.6.15 1896 野村宗十郎発行) 国立国会図書館デジタルコレクション

 


播磨新右衛門のひ孫が、明和6年新居浜口屋の銀役 新右衛門か

2019-10-16 21:17:49 | 趣味歴史推論

 切上り長兵衛妻子の墓の隣にある播磨新右衛門息女の墓の播磨新右衛門は泉屋手代の銅蔵分 はりま与兵衛ではないかと推定した。すなわち播磨与兵衛新右衛門は、初代新右衛門となり、家主が世襲名として新右衛門を名乗ったと推定する。既に曽我幸弘らは、瑞応寺住友墓地にある墓「泉屋新右衛門」の子孫が明和6年の新居浜口屋の銀役「新右衛門」ではないかと指摘している。1 別子銅山公用帳七番の人名索引には、新右衛門(泉屋手代)として記されている。この人物について以下考察した。

明和6年(1769)泉屋半兵衛(銅山惣支配人)により書き出された「御銅山師下代人数並役附覚」には、新居浜口屋詰として役と8人の名前が記されている。2

元〆:彦兵衛  銀役:新右衛門、半七  帳面方:政助、文右衛門  荷物方:庄八、伊十郎  買物方:忠八

銀役とは 経理・会計の仕事であろうか。

 初代新右衛門との関係を明らかにすべく年令考をする。初代新右衛門(1663頃?生~1732死)の長男誕生を25才の頃とすると1688年となり、明和6年(1769)との間隔は(1769-1688=)81年となる。この数字からみると3代の間隔となろう。2代目(子)の誕生が1688年、3代目(孫)の誕生が、2代目の25才の時とすると(1688+25=)1713年となる。4代目(ひ孫)の誕生が、3代目の25才の時とすると(1713+25=)1738年、ひ孫は明和6年では(1769-1738=)31才となり妥当な範囲である。よって、この銀役は、4代目の新右衛門の可能性がある。

一方、「住友別子鉱山史(上巻)」には、公用帳、銅山帳、家隷籍貫から調べた明和6年の新居浜口屋の手代の履歴一覧表がある。3これによると、銀役新右衛門は、賃銀(半年)119.45匁、子飼いで、出身は大坂、年令28才、勤続年数12年、出勤年次宝暦8年、出勤年令17才である。

初代新右衛門の墓は新居浜にあるが、大坂周辺の播磨出身という可能性が高い。明和年代以降、新右衛門の名は、別子銅山公用帳や年々諸用留にはなく、当然ながら幕末期の嘉永2年(1849)の別家一覧にもない。4

 まとめ:墓の少女の父である播磨新右衛門の子孫の情報は少なく、少女の死因を探る糸口は全く見つからなかった。

 注 引用文献など

  1. =別子銅山=住友墓地(佛國山瑞應寺)御霊供養・墓標調査(報告書第二報)p5調査者:曽我幸弘 入江義博 小田久美子 谷口淑子(平成20年(2008)2月吉日)
  2. 別子銅山公用帳七番p102(思文閣 平成18年 2006)
  3. 「新居浜口屋の手代一覧」 住友別子鉱山史(上巻)p125 表2-17(平成3.5.9 1991)
  4. 今井典子「幕末期住友の経営危機と別家」住友修史室報 10号p42(昭和58.8 1983)

 写真1. 明和6年「御銅山師下代人数並役附覚」

 写真2. 明和6年 新居浜口屋の手代一覧


播磨新右衛門は「予州手代覚」の銅蔵分の「はりま与兵衛」ではないか

2019-10-09 14:09:07 | 趣味歴史推論

 前々報「切上り長兵衛妻子の墓と播磨新右衛門息女の墓」では、播磨新右衛門を泉屋手代として特定できなかったことを記した。そして元禄8年(1695)の「予州手代覚」に「新右衛門」らしき名はなかったと記した。しかし前々報に添付した住友史料館の回答の中に、「銅蔵分なる役職の箇所(213p)に[はりま与兵衛]なる人物が記されております」と書かれており気になっていたが、非常に重要な示唆であることに気が付いた。


まず、住友史料館から頂いた元禄8年の「予州手代覚」の貴重な写しを添付する。1(写真1) これには、賣場、臺所、銅蔵分、上床屋、下床屋、炭方、上座、木方、乙地、天満、日用廻しの役職名と泉屋の奉公人の個人名が書かれている。2 本来ならば、やはりこの中に、播磨新右衛門がいてしかるべきであると思った。そして示唆から気が付いた。確かに、銅蔵分の2人の内の一人として「はりま与兵衛」とある。この与兵衛が後に改名して新右衛門となったのではないかと思い至った。大火災犠牲者の手代である藤九郎が茂右衛門とも記されるようにである。また、鋪庄屋 吉郎兵衛甚右衛門の例もある(2019.10.11追加)3 このように考えると、瑞応寺に手代である泉屋新右衛門の墓が存在することと播磨新右衛門息女の墓が存在することをうまく説明できる。


まとめ:墓の少女の父である播磨新右衛門は「予州手代覚」の銅蔵分の「はりま与兵衛」ではないか。


 注 文献など



  1. 「予州手代覚」住友史料館収蔵史料(近世14-4-2 覚留帳 元禄8年8月(1695))

  2. 「住友別子鉱山史(上巻)」p34(平成3.5.9 1991) 台所は勘場のことで、入目方・銀払・明手(あかり)・山廻り・賄人などの仕事。売場や銅蔵分は勘場の管理下。床屋は出来銅の改め。炭方は炭買取り。上座は鉑の買取り。木方は焼木・板・柱の買入れや焼鉑の支配。銅・飯米・諸色は弟地を経ておばこ越を通り天満浦との間を運び、天満浦を出入口(口屋)とした。

  3. 本ブログ「切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された」(2019.8.2


写真1 与州手代覚(住友史料館収蔵史料)


 



 


 


大阪実相寺の助七らの供養塔

2019-10-05 23:09:27 | 趣味歴史推論

  住友家菩提寺の大阪実相寺にある助七の供養碑には、白柳秀湖「住友物語」によれば、「本立院玉誉一的居士」と院号が付いており、「二百五十年史話」によれば、花立には、助七の出身歴が書かれているとのことなので、調べに行った。

  1. この碑と花立は見つからなかった。整理されてしまったのであろうか。
  2. 住友家累代の墓所の一隅に、元禄7年の別子大火災遭難者と元禄5,6年の羽州最上幸生(もがみさちゅう)銅山雪中寒死遭難者1とを合わせた供養塔があった。
     竿石 32cm角×86cm高 総高200cm 南向き

   正面      元禄7甲戌天4月25日   嶺月道晶 俗名善兵衛  (写真3)

      玉誉一的 俗名助七   心月窓入 俗名藤九郎

                                                       香月道輝 俗名宇右衛門

 左面      真覚道恵信士 俗名 河野又兵衛                      (写真4)

      豫刕(州)銅山火難焼亡諸霊125人

      宗知 次郎太夫  教甫 弥五兵衛  宗甫 吉兵衛

 右面        元禄5壬申天      元禄6癸酉天 2月23日   (写真5)

      (最)上亡者4人    亡者40人

この供養塔の建立年は刻字されていない。住友墓所の四隅にある燈篭は、塔と同じ石材(淡橙色の犬島産花崗岩と推定)であり、表面加工状態や、宝珠、屋根(四角錐)の形も同じである。西端の燈篭は、嘉永7年甲寅4月、東端は、嘉永4辛亥年5月であることより、(写真6,7)供養塔は、嘉永4または7年(1851、1854)に建立されたのではないか。

別子大火災の犠牲者の俗名と戒名について、瑞応寺の墓、古過去帳2(写真9)、実相寺の供養塔の三者で比べてみる。

 俗名      瑞応寺の墓    古過去帳      実相寺の供養塔

助七       玉誉一的居士   玉誉一的信士      玉誉一的

茂右衛門(藤九郎) 心月窓入    心月窓入信士(心月窓入)心月窓入

善兵衛       嶺月道晶    嶺月道晶        嶺月道晶

宇右衛門      香月道輝    香月道輝        香月道輝

河野又兵衛     釈道仙信士   道恵信士        真覚道恵信士

次郎太夫      教甫信士    宗知信士        宗知

弥五兵衛      道慧信士    教甫信士        教甫

吉兵衛       なし      宗甫信士        宗甫

以下のことが言える。

①    供養塔の刻字は古過去帳とほぼ一致している。古過去帳(1823年頃作成)を基に1851年頃に供養塔を建てたのではないか。

②    助七の位号は、墓では居士だが、古過去帳では信士で違う。

③    河野又兵衛の戒名は、墓では釈道仙信士だが、古過去帳では道恵信士、供養塔では真覚道恵信士で違う。

④    次郎太夫の戒名は、墓では教甫信士だが、古過去帳では宗知信士で違う。教甫信士は古過去帳では、弥五兵衛の戒名である。

⑤    弥五兵衛の戒名は、墓では道慧信士だが、古過去帳では教甫信士で違う。

⑥    吉兵衛は、墓にはなかったが、古過去帳で宗甫信士と記され、供養塔で宗甫である。

⑦    古過去帳では、「心月窓入」の俗名は藤九郎、「心月窓入信士」は泉茂右衛門としており、記載(転載)が混乱している。古過去帳の助七の位号が信士で正しいとすると、墓の居士はその後に昇格したとするしかないが、墓は1823年以前に建てられたとすると矛盾する。古過去帳は転載誤りがあるのではないか。

 まとめ:実相寺で助七の「本立院玉誉一的居士」と刻字された供養碑はみつけることができず、瑞応寺の墓の建立年を推定できるものはなかった。

 注 引用文献など

  1. 「吉岡銅山以前の稼行諸鉱山」泉屋叢考 11輯 p28(昭38 1963) 幸生銅山は、天和2年(1682)に見立て、天和3年~元禄12年(1683~1699)泉屋が稼行した。
  2. 住友の歴史(上巻)p82写真3-4 古過去帳は1823年頃作成された。

写真1. 実相寺の門

 

写真2. 住友家の墓所 右列奥が初代政友夫妻の墓

 

写真3. 助七らの供養塔

 

写真4. 供養塔の左面

 

写真5. 供養塔の右面

 

写真6. 西端の燈篭

 

写真7. 東端の燈篭

 

写真8. 住友(入江)友俊の墓

 

写真9. 古過去帳

 
 
 
 

切上り長兵衛妻子の墓と播磨新右衛門息女の墓

2019-10-03 21:48:34 | 趣味歴史推論

2019-9-13に公開したブログ「切上り長兵衛妻子の墓と幡広新右衛門息女の墓」は、間違いがあったので、修正して、2019-10-3に再度投稿しました。修正箇所は、住友史料館から頂いた見解に基づいています。

  切上り長兵衛妻子の墓の左隣に播磨新右衛門息女の墓がある。この少女は長兵衛妻子と同様に元禄大火災の犠牲者でないにも拘わらず犠牲者の列にある、という不可解を解く推理をしたい。この二つの墓が並んでいることに何か意味があるはずである。少女の墓について調べる。青鉄平石で、大きさは、棹石 幅45cm 高さ95cm 総高120cm(写真1)

 知清童女     广新右衛門息女 元禄6酉年713日  キリーク:あり  蓮の台:なし 

は異体字字典にはないが、幡であろうか。よって广→幡広と考え、「幡広」という地名や苗字を検索したがなかった。住友史料館の見方は、「播磨」であった。当時の手代クラスがふつう苗字を名乗ることはないので、これは「播磨国の、あるいは播磨から流れてきた鉱夫」程度の意味で、新右衛門を形容した表現と想像するとのことである。

念のため、幡广、播广で苗字を検索すると、どちらも実在することがわかった。播广(はりま)姓は、兵庫県、徳島県におられ、先祖は播磨出身と推定される。以上のことから、幡広を訂正して、播磨新右衛門とした。

歿年月日は、大火災の9カ月前である。少女の立派な墓が泉屋手代の墓の列にあることから、父の新右衛門は泉屋手代ではないかと予想した。曽我幸弘らは平成19年(2007)に瑞応寺の住友墓地で墓を調査して報告書にまとめている。1)2) 泉屋名を冠した墓は43基あった。(表1) その中に新右衛門を探した結果、一人だけ新右衛門が見つかった。(A-9)墓は、竿石22cm角 高さ55cm 総高91cm北向きで、刻字は以下のとおり。(写真2)

 雪巌良明信士   泉屋新右衛門  享保171212

 享年は刻まれていない。筆者は、この泉屋新右衛門が父ではないかと予想し、年令考をしてみた。歿年は享保17年(1732)。娘が亡くなったのは、元禄6年(1693)。父の享年を70歳とすると生年は1732-69=1663。娘の享年を10歳とすると 生年は1693-9=1684。新右衛門が1684-1663=21歳の時に生まれた子になる。上記の推量は、妥当な範囲である。

・泉屋新右衛門を、別子銅山公用帳や年々諸用留の人名索引で探したところ、元禄~享保間で記載されていたのは、1件のみであった。3) 享保2年(1717)正月、宗三扶助の仕法の覚の中に、援助する10人の一人として、「泉屋新右衛門様」とある。泉屋本店での事の様で、別子銅山関連ではない。この人物についての住友史料館の見解は以下のとおりである。「文脈から察すると、この新右衛門が住友の手代とは考えにくい。この泉屋新右衛門は、おそらく大坂平野町3丁目在住の両替屋です。大阪市立大学学術情報総合センター所蔵[せん年より御ふれふみ]という史料に、宝暦期ごろの両替屋仲間として[平野町三丁目 泉屋新右衛門][道修町二丁目 泉屋助右衛門]が掲載されています。」

・さらに住友史料館に確認してもらったところ、元禄8年の「予州手代覚」に「新右衛門」らしき名前は見つからなかった。

泉屋手代としての働き、経歴はわからなかったが、墓の泉屋新右衛門が少女の父である可能性が高いと筆者は思う。

以下は筆者の気ままな推理である。

誰が墓を建立して少女を祀ったのか。わが子に息女とは書かないだろう。手代の新右衛門自身が、このような立派な墓を建立するとは考えにくい。病死ならなおさらである。この少女は別子銅山に係る悲業の死を遂げたのではないか。だから立派な墓を建て慰霊鎮魂し、丁寧に祀られて、別子山から瑞応寺に移され、しかるべきところに安置されたのではないか。泉屋が建立し祀ったのではないか。切上り長兵衛妻子も非業の死を遂げたことで、立派な墓を建て祀られているのではないか。切上り長兵衛の貢献を考慮して妻子の墓が建てられたという単純なものではないのではないか。この2つの墓は別子開坑当初の犠牲者なので、大火災の犠牲者と並べて、泉屋は丁寧にお祀りしているのではないか。墓列の右端の墓標「住友関係殉職諸精霊」が正にそれを意味している。(写真3) 長兵衛妻子と新右衛門息女の非業の死を殉職とみてこの列に加えたと見れば、全てが納得できるのである。

 注 引用文献など

  1. 曽我幸弘「瑞應寺・住友別家〔泉屋〕名の墓標調査」新居浜史談 375号p9(2009.4)
  2. =別子銅山=住友墓地(佛國山瑞應寺)御霊供養・墓標調査(報告書第二報)調査者:曽我幸弘 入江義博 小田久美子 谷口淑子(平成20年(2008)2月吉日)
  3. 住友史料叢書 年々諸用留二番・三番p256(思文閣 昭和61.11.1 1986)

表1. 「泉屋」名墓標一覧表

写真1. 瑞応寺西墓地「播磨新右衛門息女」の墓

 

写真2. 瑞応寺住友墓地「泉屋新右衛門」の墓

 

写真3. 瑞応寺西墓地「住友関係殉職諸精霊」の墓標