気ままな推理帳

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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(15)

2020-06-28 09:47:44 | 趣味歴史推論

 江戸時代の鉱山の技術書で、素吹で珪石が添加されている記述がないかを調べている。
羽州佐竹藩の鉱山役人黒澤元重が元禄4年(1691)に著した「鉱山至宝要録」を調べた1)。主に羽州院内銀山について記されており、銅山の記述は少ないが、関係ありそうなところのみを抜粋して以下に示した。( )は筆者書き入れ。

7 .吹立方
(焙焼)竈を拵置、其釜の内一面に炭薪を敷き、其上へ掘出したる鉑を置き、又其上へ炭薪を置き、又鉑を能き程幾く程も積みて、火を入れ、20日も30日も焼くに、釜に大小あり、ぬり様・風穴の掛け様など上手下手有て、拵え悪しければ、焼かね、むら焼にもなるなり。釜の蓋には莚・笊をかくる。少々水うつ、是を焼と云。右の焼には色々拵様も、鉑の燃しやうもあり、末へ出すなり。
(素吹)右焼たる鉑を床にて吹き、よい頃と思ふ時、上の火を除き、からみ(鍰)をかき除け、銅ばかりに成たる時、竿の先へ鍵を付たる物にて、銅の湯の上の氷りたるを、鍵にかけてあくれば、薄くへぎ取らるゝなり。其の如く、10枚も15枚も、へぎ取らるゝ内は取り、へがれぬ残りを床尻と云ひ、へぎ取りたるを皮(鈹)と云、この床を寸吹(すぶき)床と云ふ。
(真吹)右寸吹したる皮を、又床にて吹て銅にするなり、是を真吹銅と云。寸吹時の床尻は、真吹に及ばずして、銅に成る。寸吹床と真吹床は、其拵違ふなり。銀吹床とは、勿論違ふなり。
(銀しぼり)真吹したる銅も床尻の銅も、別床にて銀しぼり取り、この床をしぼり床とも南波(なんば)床とも云。

まとめ
「鉱山至宝要録」には、素吹での珪石添加の記述はなかった。

注 参考文献
1. 黒澤元重「鉱山至宝要録(上)」 三枝博音編纂 日本科学古典全書 第10巻 「第3部 産業技術篇 採鉱冶金(2)」p34~38(朝日新聞社 昭和17年 1942)
2.  三枝博音解説「著者黒澤元重」1のp3~4
  黒澤元重は、延宝2年(1674)に「かね山」の役を申付けられ、同4年まで一人で勤め(惣山奉行)同5年からは同役一人増し二人で勤め、延宝8年には役替りがあり、惣山奉行から離れている。延宝9年(1681)に江戸から御巡視の衆が来藩した時、お尋ねに応じている。天和、貞享年間も院内銀山のことに当たり、元禄2年には江戸の御勘定奉行より藩の金山の事を尋ねられた時、元重自ら記録を差上げてゐる。江戸にも赴いてゐる。仕えた藩主は、佐竹義宜、義隆であったやうである。没年不明。著述のことも本書(至宝要録)以外は不明。
3. Wikipedia「院内銀山」からの抜粋 
院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。院内銀山は、1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、開山した。1617年にローマで作成された地図にもその名が記されている。金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。久保田藩(秋田藩)によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。 江戸時代の中期に、鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、1800年以降新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下町久保田(現在の秋田市)を凌駕する藩内で最も大きな街となり、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(14)

2020-06-21 08:35:35 | 趣味歴史推論

 次に江戸時代の鉱山の技術書で、素吹で珪石が添加されている記述がないかを調べてみる。
まず、佐藤信淵(のぶひろ)が文政10年(1827)に校正した「山相秘録」を調べた1)。祖父・元伯は医者であったが、羽州松岡鉱山(銀山)を繁栄させた実学研究者でもあったので、その口伝をもとに信淵が記したものである。2)3)銅山の記述は金山、銀山に比べ少なく、関係ありそうなところのみを抜粋して以下に示した。

銅鉱には多少はあれども、何れ鉛気及び金銀の気を含有するものなり。然れども皇国諸州の銅には、鉛を多く混ずるは稀なり。銀を含有するの銅は甚だ多し、故に外国にて日本銅を貴ぶこと世界の第一とす。---
凡そ銅鉱を煎煉するの炉は、高さ6-7尺、径り4-5尺にし、鋳造炉の如く下に孔を穿つべし。土塀及び風箱を安置すること、大抵 金山・銀山に同じ。最初より火處に鉛を入るゝにも及ばず。又只炭火を入れ、炭を加へて火を熾んに吹き起し、上より銅鉱1-2斗づゝ投じて炭を加へ、頻りに鼓鞴て、又鉱を投じ炭を加へ、此を煎ずること4-5時、銅をよく鎔化して湯の如くなるに至りて、乃ち杉木の竿を以て炉の下の穴をつきやぶりて、その鎔たる銅を流すときは、鎔銅は泉の湧出るが如く流るものなり。兼て其の流下に埴土と砂とを煉り混たる土にて数多の型を造り置きて、その型に流し入れて、方長き板と為すこと、古来諸銅山皆な常例の如し。---

素吹床には、鉱石と炭を投じて鎔化したとあり、珪石の添加については、記載がなかった。

まとめ
「山相秘録」には、素吹での珪石添加の記述はなかった。

注 参考文献
1. 佐藤元伯述、佐藤孝伯註、佐藤信淵校正「山相秘録」巻之下 三枝博音編纂 日本科学古典全書 第9巻 「第3部 産業技術篇 採鉱冶金(1)」の銅山の節p97~100(朝日新聞社 昭和17年 1942)
2. web.湯沢市ジオパーク推進協議会奮戦記(2012.4.2~10)より抜粋
「松岡鉱山から産出される銀は「湯沢銀」と称された良質なものでしたが、鉱脈に断続があったため、しばしば休山と採鉱を繰り返した鉱山でした。慶長年間(1596~1614)の発見後、寛永~寛文年間(1624~1673)に盛大に稼働し、大量の銀を産出したといわれている。寛政8年(1796)、大直利(良質の鉱脈の発見)が続く。文化元年(1804)に大坂屋彦兵衛の所有となると、文化5年(1808)には良質の鉱脈を掘り当て、1日に銀100貫(375kg)、堀子(鉱夫)200人余りという盛況ぶりを見せた。この時、鉱山経営の指導にあたったのが当時の学者である佐藤信淵であった。信淵の祖父・元伯は、松岡鉱山を繁栄させた実績をもとに、秘伝の技術を口伝し、それを信淵が文政10年(1827)に書き記したものが、「山相秘伝」である。」
3. Wikipedia「佐藤 信淵」よりの鉱山関連事項の抜粋 
「明和6年~嘉永3年(1769~1850)。佐藤信淵の先祖は、横手盆地に勢威を張った戦国大名小野寺氏に仕えていたが、民間にあって医業を生業としていたといい、5代前の歓庵(信邦)以来、元庵(信栄)、不昧軒(信景 元伯)、玄明窩(信季 孝伯)と4代にわたって農学や鉱山学など実学研究にたずさわった一家であったという。天明元年(1781年)、父の玄明窩信季が諸国遊歴の旅に出たのでこれに従い、蝦夷地で1年を過ごしたのち、東北地方各地を転々として実学を学び、家学を人びとに講じながら、さらに1年を経た。こののちも遊歴で各地を周る。天明4年(1784年)、日光を経て下野国足尾銅山を訪れ、そこで父とともに銅の精錬や錫の開発などの技術指導にたずさわった。好奇心の強い信淵は、多種多様な知識を誇ってはいたが、どの分野の知識も専門家と呼ぶには中途半端であり、本業であるはずの医学に関してもみるべき著作はなく、また、信淵が称するところの佐藤家の家学(天文・地理・鉱山・土木・兵学など)も個別にみるならば先人の説の受け売りという水準を大きく越えるものではない。しかし、反面では実に幅広く各分野の諸知識を吸収・消化して自らのものにしていったことも確かであり、こうした知識の幅がときに時代の潮流や転換点を鋭敏につかみとらせる原因になっているように思われる。47歳での平田国学との出会いが信淵の学問に国粋主義的性格を色濃くもたせることとなった。文政年間には『宇内混同秘策』『天柱記』『経済要録』を、天保年間に『農政本論』『内洋経緯記』を著しており、その声望はおおいに高まって宇和島藩や薩摩藩からは出入りを許されている。」 


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(13)

2020-06-14 08:15:06 | 趣味歴史推論

 調べた5ヶ所の銅山の状況は以下のようであった。  
1. (1)~(4)別子銅山 珪石添加の記録はなかった。
2. (5)備中吉岡銅山の素吹で、珪石の添加操作の記録は見つからなかった。
3. (6)越前面谷銅山 荷吹(素吹)では、珪石の添加操作はなかった。 但し、後工程の鈹吹で流れ出た境炉滓(さかいからみ)を、焼鉱あるいは生鉱に添加している。この境炉滓の添加理由は、一つは熔けやすくするためであり、一つはリサイクルして、含まれていそうな銅分の回収であろう。操業者には、珪石の代わりに添加しているという意識はなかったと推定する。喜多村は、「面谷の鉱石は、蛍石・方解石等を包含するために素吹での鎔解は容易であって、そのため生鉱(焙焼なし)を鎔解することが多い」と記している。この表現から、鉱石中の脈石(CaO分が多く含まれている)が融剤となっており、意図して珪石を添加する操作はしていないと推測できる。
4. (7)摂津多田銅山 素吹では、珪石の添加操作はなかった。銅鉑(主に黄銅鉱)の場合は、銅焼鉑だけで素吹した。
5. (8)(10)(11)尾去沢銅山 安永5年9月改(1776) 素吹、真吹に珪石の添加操作はなかった。 素吹では、鍰板7枚(推定10貫目)を添加していた。早く熔けやすくするためであろう。選鉱で細粒となった鉑を粘土水でこねて団子状にして焙焼しており、意図せずして大量の珪石分(SiO2分)を素吹床に仕込んでいたことになる。
まとめると
1. 素吹、真吹で珪石の添加操作はなかった
2. 越前面谷銅山、尾去沢銅山の素吹では、鍰が添加されていた

考察
文化元年(1804)頃に書かれた鼓銅図録では 素吹や真吹で「鉄分を鍰にして除く」ことを意味することは書かれていない。また鉄分と珪石が反応して鍰を作ると思わせる記述はない。 
鼓銅図の素吹では「焼きたる璞(鉑)石を炉の中にて炭火を用いて鎔化し、「滓(どぶ かす)」を流し去り鈹をとるなり。」とある。鼓銅録の素吹では「風火の力到り、鎔化して窪みに満つるに及び、その「土滓(どぶ)」軽く浮び、津々然として槽道に流注し、出るに随って冷結す」とある。鼓銅図の真吹では「」、間吹では「」とあり、鼓銅録の真吹では「滓、土滓」、間吹では「土滓」である。このように、すべてにおいて、鉄分を含んだ物とは記していない。また珪石がこの土滓形成に必要だとも書いていない。
生鉑を砕いてできる限り脈石を取り除いて選鉱した鉑に、今更10wt%もの珪石を加える勇気があったろうか。また必要であったであろうか。1) 選鉱してもくっついている脈石の7割は石英や雲母など主に珪石(SiO2)を主成分とするものである。十分な量だったのではないか。
鉄や珪石の分析技術がなかった時代には、「鉄分と珪石が反応して鍰となる」と推測できていなかったのではないか。素吹すれば、高温で不要な鉱石脈石がうまいこと反応して熔融物の「土滓」となり、都合よく除けると理解していたのではなかろうか。
 ただ、この土滓(鍰)は融点が低いのでこれを少し添加しておけばそこが起点となって早く熔かすことができると分かり、実施していた銅山もあったということではなかろうか。

結論
 調べた5ヶ所の銅山の江戸期の素吹、真吹では、珪石の添加操作はなかった

珪石の添加は、あった可能性も残っているので、今後も気にかけておこう。

注 参考文献
1. 筆者が別子銅山で初めて珪石らしきものを添加した記録は以下ものである。
ラロックによると、明治7年(1874)6月~11月の間に330回の素吹作業を行った結果の物質収支が記録されており、1回あたりに換算すると 仕込:焼鉱 609kg  泥質片岩 40kg 木炭 225~262kg 
 二つ目には、 明治13年(1880)第2内国勧業博覧会出品説明書である。
 ① 素吹 1日の工業は、[焼鉱480貫目]・ [鍰70貫目]・ [千枚(雲母板石)36貫目] を熔融するに、木炭210貫目を消費して、鈹135貫目を得る。(筆者注 鈹135貫は最も多い時である)→1回に換算すると 
 仕込:焼鉱600kg 鍰87kg 雲母板石45kg 


別子銅山と尾去沢銅山の薪と炭

2020-06-07 09:34:49 | 趣味歴史推論

 別子銅山と尾去沢銅山で安永5年(1776)頃に使われた薪と炭について、量や金額を比べてみたいと思って調べてみた。調達方法、鉑の品位、製錬方法などなど非常に多くの条件に使用量や金額が依存するようで、ちゃんとした比較はむずかしいが、少しだけ記してみる。

1. 焙焼に使用された薪、炭
 別子銅山では焼木(やきぎ)と、尾去沢銅山では春木(はるき)と称された。
焼木の使用量は貫目単位で記録されているが、春木は挺(丁)単位であり、まずこれを貫目単位に変換することを試みた。
別子銅山
 宝暦11年から安永元年(1761~1772)では、焼木使用量は 鉱石10荷(120貫目)当り22貫余から34貫余で平均約30貫目であった。生鉑700貫当たりでは焼木175貫目。1) 生鉑700貫当たり荒銅は8%すなわち約56貫できる。すなわち焼木175貫目/荒銅56貫目なので、焼木3.13貫目/荒銅1貫目使われる。
焼木100貫目当りの単価は平均約銀8匁7分であった。焼木100貫目当たりの単価 平均8匁7分であった。銀1匁=83文として2)、722文になり、焼木1貫目当たり(722文/100貫目=)7.22文となる。
焼木代の産銅経費全体に占める割合は、平均2.3%であった。
明和6年(1769)の銅山仕格覚書では、砕鉑1000貫目に付き、焼木300~400貫目をもって30日間焼くとある。3)荒銅約80貫目得られるので、焼木300~400貫目/荒銅80貫目すなわち焼木3.75~5.00貫目/荒銅1貫目となる。
尾去沢銅山
 「春木」の由来4)5)
南部地方の八戸藩や盛岡藩では、薪のことを「春木」と呼んだ。春木というのは春の山(二月山)に入って伐るからであった。(ただし、 春に川流しするから春木というと説明するものもある)。「きさらぎ」(旧暦 2 月)は北東北では、雪解け前の踏んでもつぶれない「堅雪」(かたゆき)の頃にあたり、山に入って作業しやく、運び出しやすい季節であった。谷川を流してきて、春木場(薪場)に揚げるのである。主に、橅(ぶな)などの雑木と呼ばれて用材に不適な樹種を5~3.5~3~2.8尺などの長さに切り落とし流送した。樹皮が剥げるのが特徴だった。毎年2月、春木の伐木を希望するものは、藩の御山所に願い出て、許可を得なければならなかった。
春木1挺の重さの推定
「御銅山傳書」では、春木の数え方が1挺(丁)であり、1挺の定義が書かれておらず、大きさや重量がわからない。挺は細長いものの数助詞であるから、薪の本数であるに違いない。1挺=1本の大きさと重量を推定する。根拠は、「尾去沢銅山作業図」の中の「薪場の図」「焙焼の図」である。6)→図1,2
これらの図は明治10年頃の状況を描いたものであるが、江戸時代も同じようであったと推定した。伐採され流されてきた同じ長さの薪(丸太)が薪場(春木場)で川から引き揚げられうずたかく積まれて、保管乾燥される。ここから馬で焙焼窯のある尾去沢銅山の山中に運ばれ、最後は、女によって、5~6本ずつ背負われて窯に届けられる。これをうけとり作業者が窯に並べて敷き詰めていく。明治では1斗窯、安永5年では2斗窯であった。
 女が春木を背負っている図より、春木の長さは3尺、5挺で30kg(8貫目)と読んだ。よって 1挺は6kg(1.6貫目)である。春木の太さd(cm)を求める。春木の比重は0.65(ブナ)とみて、3.14/4×d×d×90×0.65=30000/5 よってd=11.4cm 春木の直径が11.4cmは、図から見て、妥当である。1挺代8文なので1貫目あたり8/1.6=5文となる。春木費用は4貫文なので、重量で800貫目となる。春木の5文の妥当性をチェックする。別子の焼木1貫目当たり7.22文、炭1貫目当たり41.5文なので、焼木の値段は炭の1/5.7である。尾去沢の炭は、1貫目当たり15文(別子の1/2.8と安い)なので、春木の値段5文は炭の1/3となる。別子より 春木の値段が相対的には少し高いが、値段をもっと低くすると、春木の総費用が4貫文なので、春木の使用重量が、800貫目よりさらに大きくなってしまう。あまりにも量がふえてしまうので、5文は妥当なところとした。
(安永5年)2斗窯で生鉑700貫を本燃込み・焼直しをするのに、春木500挺(=本燃込み300挺+焼直し200挺)を使用する(見積もり)。春木は4貫文、重量にして1.6貫目/挺×500挺=800貫目となる。 生鉑700貫目から荒銅約50貫目が得られるので、春木量は(800/50=)16貫目/荒銅1貫目である。

2. 焙焼・素吹・真吹に使用された炭
別子銅山
 炭の使用量は 運上目録による公的な数字によれば、荒銅1000貫目(3.75トン)を製錬するのに 3881貫565匁余であり、荒銅100斤(60kg)当りに換算すると62貫105匁余となる。安永元年では、炭の使用量の図より、62貫400匁余りとなる。荒銅1貫目当たり炭3.9貫目となる。炭10貫目(37.5kg)当りの単価は銀5匁前後であった。銀5匁は415文となり、炭1貫目当たり41.5文となる。
炭代の産銅経費全体に占める割合は、宝暦13年から安永元年では21~25%であった。
なお天保期(1830~1843)では 出来銅100斤当たりの使用量は約100貫目と運上目録で規定された量の1.6倍になったが、この原因は鉱石の質の低下と考えられている。
尾去沢銅山
 焙焼(生鉑700貫目)では、炭16貫目いる。 
 素吹(焼鉑600貫目)では、炭220貫目いる。
 真吹(銅鈹100貫目)では、炭60貫目いる。 
炭総量は、16+220+60=296貫目となる。得られる荒銅は約50貫目なので、荒銅1貫目当たり(296/50=)炭5.9貫目いる。
炭10貫目は、150文なので、炭1貫目当たり15文である。

3. 2つの銅山の物価比較の一助に米の値段を記す。
別子銅山
 寛延2年(1749)の米1石(100升)の買請値 銀45匁、松山相場 銀60.7匁である。7) 銅山の値が松山相場と同じとすると、買請値の(60.7/45=)1.35倍に相当する。
安永4年買受米(御勘定書下知)予州米6571石、1石に付き銀34匁4分1厘7毛、備中米1728石、1石に付き銀44匁2分2厘2毛。8)加重平均値は、1石に付き銀36.5匁となる。銅山の値にすると(36.5×1.35=)銀49.28匁(4090文)である。すなわち1升40.9文となる。
尾去沢銅山
 米は、銅山で100文に付き4升5合であったので、1升22.22文である。

4. 銅山の薪と炭の比較
 2つの銅山で荒銅1貫目当たりの薪と炭の原単位(使用量)とその金額を比較してみる。
        薪                  炭                            合計金額
       原単位(使用量) 単価       金額     原単位(使用量) 単価       金額
 別子銅山  3.13貫目         7.22文  22.6文   3.9貫目           41.5文   161.9文         184.5文
 尾去沢銅山    16貫目           5文    80文    5.9貫目              15文   88.5文         168.5文
尾去沢銅山では 薪に加えて衣草を使い、その金額は280文/荒銅50貫目=5.6文がプラスされる。

5. 考察とまとめ
① 図3より別子の「産銅経費」は宝暦~明和~安永間 出来高銅100斤(16貫目)当たり 銀150匁(12貫450文)1貫目当たり778文。よって上記の別子銅山の合計金額184.5文は、産銅経費の(184.5/778=)23.7%になる。
② 尾去沢の薪の使用量は別子に比べ、(16/3.13=)5.1倍と非常に大きい。焼直しが一番効いているはず。尾去沢では品位の関係により選鉱で多くが細かく砕かれ団状にして焼窯に入れられたことが焼直しの一因ではなかったろうか。薪量からみて、別子よりかなり高温で焼かれたのであろうか。
③ 尾去沢の炭の使用量は別子に比べ(5.9/3.9=)1.5倍である。
④ 別子の炭単価は尾去沢の(41.5/15=)2.8倍と非常に大きい
⑤ 薪・炭の金額の合計は、6%の違いで、ほぼ同額であった。別子184.5文 尾去沢(168.5+5.6=)174.1文
⑥ 山の米値段からみると別子は尾去沢の(40.9/22.22=)1.84倍と物価高であった。
⑦ 薪、炭の使用量や単価の違いは、民営と藩営、鉑の品位、選鉱された粒子の大きさ、製錬方法、技術力、気候などなど多くの因子があるのであろう。

注 引用文献
1. 「江戸中後期の別子銅山と炭山の拡大」住友林業社史 上巻 p59~63(住友林業株式会社社史編纂委員会 平成11.2.20 1999)→図3
2.  Wikipedia 江戸時代の三貨制度>両替相場の変遷
 安永5年(1776) 金1両=銀60匁 金1両=5000文 よって 銀1匁=83文
3. 小葉田淳「別子銅山史の書問題」日本銅鉱業素の研究 p654(思文閣 平成5 1993)
4. web. 滴石史談会>会報第38号その2
 関敬一「“春木場”での『春木』引き揚げ現場の写真みつかる」滴石史談会報 38巻-2 (平成28.1.23 2016) 
5. web. 菊池勇夫「「春木」伐り出しと川流し─八戸藩島守村を事例に─」環境動態を視点とした地域社会と集落形成に関する総合研究 平成24~28年度研究成果報告書p127~137(東北芸術工科大学東北文化研究センター 平成29.3.27 2017)
6. 九州大学学術情報リポジトリ>工学部所蔵鉱山・製錬関係史料)>尾去沢銅山作業図 この図は、明治10年代の稼行情景を描いている。(岡田平蔵、槻本平八郎)→図1,2「尾去沢銅山作業図」の「第11 薪場之図」(春木場)、「第7 蒸礦場之図」(焙焼)
7. 安国良一「買請米とその利益-別子銅山買請米制の研究-」住友史料館報26号p12(平成7 1995)
8. 別子銅山公用帳7番p191(平成18年 2006))
図1. 「尾去沢銅山作業図」の「第11 薪場之図」(春木場)
図2. 「尾去沢銅山作業図」の「第7 蒸礦場之図」(焙焼)
図3. 別子銅山の「産銅経費」「炭の使用量」「炭の単価」