気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

立川銅山(6)「神野旧記」(2)

2022-03-27 08:27:51 | 趣味歴史推論
 露口誠一氏(平成11年当時、住友金属鉱山(株)別子事業所精銅工場長)から、神野旧記に関する情報を令和4年3月13日に頂いた。露口氏は、神野家の古文書の一部分を読み下し解読し活字化することを試み、その成果を小冊子にした。その趣旨を記した序に、神野旧記についての貴重な情報があり、露口氏の了解を得たので、以下に転載する。

    神野旧記活字化にあたって
 ここに使用した神野旧記の底本は、神野一義氏から頂いた。これは2部に分かれており、第1輯は『新居郡立川山村里正年譜』 第2輯は『新居郡立川山村神野旧記』の表題が付いている。奥書に『この旧記纂輯は、大阪神野幸男所蔵のものを今夏借閲したれば、ここに書写し所のものなり。昭和11年6月1日 明比貢』とあり、西条の郷土史家明比貢氏が、大阪の神野さんから借りてきて書き写したものとわかる。
 第1輯は、立川山村最後の里正(庄屋)神野信夫が記したもので、元和7年の神野藤兵衛忠秀から神野信夫に至るまでの11代の里正の年譜である。冒頭に『ここに、明治15年3月立川山村里正連綿履歴年譜取り調べ記載致し置くべし』とある。尚、この1輯は既に、神野一義氏によって活字化されている。
 第2輯は、『恐れながら願い上げ奉る御事』、『角野村立川山村山論の旧記』の他、税の詳細を記したもの、境界問題に関する覚え等の他、信夫作と思われる、漢詩、和歌、等が含まれている。今回は、物語性のある『恐れながら願い上げ奉る御事』と『角野村立川山村山論の旧記』の2つを活字化することを試みた。解読に当っては、新居浜市東田大師堂住職喜代吉榮徳氏にご教授願ったが、文字、内容等の間違いについては全て浅学非才の私の責任である。歴史的背景の知識をもってすれば、更に貴重な資料になりうるであろうと思いながらも取りあえず第1版としたい。
                       平成11年9月
                        露口誠一

 この序により、小葉田敦が引用した「新居郡立川村理正年譜」1)と「別子開坑二百五十年史話」に記載の「新居郡立川村庄屋神野家の文書」の関係がはっきりした。
すなわち 「神野旧記」は、11代里正の神野信夫がまとめたものである。
その第1輯が「新居郡立川山村里正年譜」であり、元和7年(1621)から明治15年(1882)までの里正の履歴年譜である。
第2輯は「新居郡立川山村神野旧記」であり、立川山村神野家の古文書と、それに神野信夫作の漢詩、和歌などが加えられたものである。
 前報によれば、立川銅山の開坑年や、山師の名前は、第1輯に書かれていたことになる。そして、原典は戦災で焼失しているが、明比貢氏が昭和11年に筆写した本は、存在する可能性が高い。

まとめ
 神野旧記は、明治15年に最後の里正神野信夫が編纂したものである。
 昭和11年の筆写本を探し、第1輯の「新居郡立川山村里正年譜」を調べたい。


 貴重な情報を頂きました露口誠一様にお礼申し上げます。また露口様に繫がる情報を頂きました喜代吉榮徳様にお礼申し上げます。

注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(2)」

立川銅山(5) 「神野旧記」(1)

2022-03-20 08:22:24 | 趣味歴史推論
 立川山村庄屋神野家の「神野旧記」が、立川銅山山師の名前の出所になっているようだが、この「神野旧記」について、郷土史家正岡慶信(ペンネーム:芥川三平)が 「新居浜史談」に以下のように記している。1)

1. 「「神野旧記」には、次の記載がある。(A,B,Cの区分けは筆者が付けた)
A
  立川山村初而庄屋
     神野藤兵衛忠治

 寛永11年戌年4月 領主松平中務様御領地に換り、同年同日当村に於て初而里正被仰付候
 正保2酉年5月領主一柳丹後守様御領分に相成事等

B
 立川銅山始マリ慶安戌子年始ム、別子銅山は元禄未年始ム。宝暦12年両銅山がひとつになる。

C
 1. 西条 戸左衛門
 2. 土佐 寺西喜助
 3. 一柳監物時代 紀州熊野屋彦四郎
 4. 大坂 渡海屋平左衛門
 5. 大坂吉兵衛
 6. 金子村 眞鍋与一右衛門
 7. 西京都 銭座仲間
 8. 大坂屋 永二郎
 9. 大阪 泉屋理兵衛
 10. 大坂 住友氏

 芥川によれば、「Bは、右文面Aの上段に細字で書かれていた。そして細々とC 歴代稼業主の名が並んでいる」とある。

考察
1. この旧記は、庄屋神野家の由緒書・年譜Aであり、Aが書かれてから後に、B,Cが書き足されたものである。Aはいつ誰が書き、B,Cはいつ誰がどのような根拠で書き足したか
大阪泉屋理兵衛の注に「ここだけ大阪と出ている。筆写間違いか?」とあるので、芥川が見たものは、筆写したものであろう。大阪の字によれば、かなり新しいのか。いつ筆写されたのか。
2. Aについて
 神野藤兵衛忠治と書かれており、 初代里正は「忠治」であることがわかった。元禄8年の抜合、10年の訴訟時の名前も藤兵衛なので、「藤兵衛」を襲名していることがわかる。2代又は3代か。この人はどのように記されているのかを見たい。
 神野藤兵衛は、西条戸左衛門らと立川銅山を開発したと言われているがそのことが書かれていない。由緒書・年譜という事を意識すれば、書いてもよいと思うのだが。
3. Bについて
 「慶安戌子年」は「慶安戊子年」の間違いであるが、どこで間違ったか。「慶安元年始む」とした情報源はなにか。
4. Cについて
 ① 「渡海屋平左衛門」とあるが、泉屋叢考では「海部屋平右衛門」である。なぜ2説あるのか。2)
 ② 「大坂屋吉兵衛」ではなく、単に「大坂吉兵衛」である。あまりにもおおざっぱすぎる。これでわかると考えて書いたのであれば大坂屋を意味しているのであろう。しかし「永二郎」では ちゃんと「大坂屋」と書いているのだから、「吉兵衛」は大坂屋でない可能性も残る。
 ③ 「金子村 眞鍋与一右衛門」とあるが、泉屋の文書ではこの人は「間鍋彌一左衛門」と表記されている。「豫州別子立川両銅山開発覚書」宝暦8年(1758)において、また抜合時の山師として「彌一(市)左衛門」元禄8~10年(1695~1697)と書かれている。
「まなべ」を「眞鍋」と表記するようになったのはいつからか。新居浜では、当時から「眞鍋」だったのか。また、左衛門と右衛門あり。どこかで誰かが「右」と「左」を読み間違えたのか書き間違えたのか。
 ④ 「銭座仲間」は、「京都」ではなく「西京都」としていることより、書き込み者の情報源がわからないか。筆者は「西」とあるのを初めて見た。
 ⑤ 「大坂屋永二郎」は、大坂屋永次郎のことで、永次郎は六代大坂屋久左衛門智清の初名である。3)書き込み者は、永次郎が、泉屋に譲る時の久左衛門であることを知っていることになる。

2. 「神野旧記」原典の行方4)
 芥川は、立川物語の基本は「神野文書」としたいと考えて、その完本を図書館等いろいろ探したが、見つからなかった。そこで、立川出身の郷土史家K先生にその所在を訪ねた。先生の答えは「神野文書はないのです。私も長年に亘って神野文書を尋ねているのですが、ありません。神野の庄屋の孫に当たられる方が古文書等も纏めて大阪へ出ておられたが、昭和20年の戦災で家財もろとも焼失してしまったようです。本当に残念な事を致しました。」であった。

まとめ
 神野旧記で、立川銅山山師の名前は、余白に後から書き足したように見える。
 原典は焼失したようなので、その写真か筆写本を探し出して、疑問を解明したい。


上記の「新居浜史談」の存在は、郷土史家の入江義博様、眞木孝様に教えていただきました。お礼申し上げます。

本報は、3月10日に書き上げたものである。その後、神野旧記について進展があったので、追って書きたい。

注 引用文献
1. 芥川三平「山の掟と彩(上)」『新居浜史談』332号p6 (2003.4)
 里正(りせい):庄屋、村長のこと
2. 本ブログ「立川銅山(3)」
3. 本ブログ「立川銅山(4)」
4. 芥川三平「立川物語(6)」『新居浜史談』304号p23 (2000.12)

立川銅山(4) 大坂屋吉兵衛は 豪商大坂屋久左衛門の手代ではないか 

2022-03-13 08:31:07 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛が立川銅山で働いていた時期は、貞享~元禄初年と推定され、山師・支配人は時期的にみて、大坂屋吉兵衛である可能性が高い。大坂屋吉兵衛が大坂屋久左衛門と関係する人物と考えて、大坂屋の経歴を調べた。
大坂屋については、ホームぺージ「豪商大坂屋久左衛門」に詳しい。このホームページは、十四代にあたる官浪辰夫氏が管理されている。以下の『』の記述はそのホームぺージからの引用である。

『 豪商大坂屋久左衛門当主年表
                    当主在任期間
初代 大坂屋久左衛門(1576~1668)  1596~1661(21歳から85歳まで64年間)
②二代 大坂屋久左衛門(1641~1707)  1661~1682(21歳から42歳まで21年間)
   初名は久三郎
三代 大坂屋久左衛門清浚(1666~1715)1682~1715(17歳から50歳まで33年間)
   初名は長松
④四代 大坂屋甚之烝清胤(1697~1723) 1715~1723(19歳から27歳まで8年間)
   初名は甚之烝
⑤五代 大坂屋吉之助清達(1719~1724) 1723~1724(5歳から6歳まで1年間)
   初名は吉之助
六代 大坂屋久左衛門智清(1721~1770)1724~1770(4歳から50歳まで46年間)
   初名は永次郎
⑦七代 大坂屋久左衛門清富(1747~1784)1770~1784(24歳から38歳まで14年間)
   初名は長松
⑧八代 大坂屋久左衛門鰹清(1774~1850)1784~1833(11歳から60歳まで49年間)
   初名は永蔵
⑨九代 大坂屋駒太郎清憲(1816~1867)1833~1867(18歳から52歳まで34年間)
   初名は佐次郎  
大坂屋は徳川幕府瓦解と共に全ての業務から撤退した。
大坂屋の家系は初代久左衛門から数えて十四代目にあたる子孫の官浪辰夫に続く。

 初代大坂屋久左衛門は、天正4年(1576)摂津国西成郡に生まれる。慶長元年(1596)頃に創業。初期は備後福山大坂屋久十郎と連携して中国地方の鉱山開発により財を成す。創業期に佐竹氏家臣牛丸の要請を受け、慶長7年(1602)あるいは8年(1603)から秋田の同開発に着手した。佐竹氏の常陸から秋田への移封は慶長7年(1602)、徳川家康による江戸開幕は慶長8年である。慶長8年(1603)に大坂北炭屋町に住居を構え、銅吹を開始した。銅吹・南蛮吹は當時の世界最先端産業であった。寛永8年(1631)頃にはすでに海外貿易を行っていたと記録にある。銅山経営から銅吹、銅販売さらに海外輸出まで、開発・生産から流通・貿易に至る多角的な一貫掌握が莫大な利益を生み、久左衛門は、豪商大坂屋の初代となる。大阪屋久左衛門の名称は代々世襲され、当主九代に渡り、幕末まで270年間続いた。
 二代大坂屋久左衛門は、寛文10年(1670)に手代大坂屋七郎右衛門に秋田阿仁の三枚山の調査を命じた。同年、手代大坂屋彦兵衛が三枚山に銅鉱を発見し、秋田阿仁十一山における全山支配のきっかけになった。延宝6年(1678)二代大坂屋久左衛門に銅貿易株が認可され(十六人株仲間)、幕府御用商人として住友家に次ぐ地位を得た。
 三代大坂屋久左衛門清浚は、特に阿仁銅山の存在が大きかった。秋田藩各地の鉱山には、大坂屋をはじめ住友、鴻池、北国屋などにより経営されていたが、元禄10年(1697)には大坂屋が一手に独占して経営するようになった。享保元年(1716))には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられた。
 六代大坂屋久左衛門智清(初名永次郎)は、享保12年(1727)立川銅山の経営を京都糸割符仲間から引き継ぎ、22年稼行し、寛延2年(1749)に泉屋に譲渡した。大坂屋は元文3年(1738)から秋田藩の要請により鋳銭のための鉱山経営を再開するものの、秋田藩から利益を得られず延享2年(1745)には累積2万両の赤字を計上した。立川銅山の売却代は、秋田での損失補填に充てられた。』

考察
 大坂屋吉兵衛は、大坂屋の手代ではなかろうか。吉兵衛は、請負願の単なる名義人か、現地の銅山支配人なのか。どちらにしても、大本は大坂屋久左衛門であろう。筆者は、立川村庄屋神野家が接触していたのが支配人の大坂屋吉兵衛だったので、伝承には、その名が残ったのではないかと推測する。
 官浪辰夫氏に、2022年2月に伺ったところ
「大坂屋四代大坂屋甚之烝清胤の系図に吉兵衛の名はなかった。本家家系図、過去帳もざっと調べたが、吉兵衛の名はなかった。手元にある史料などには記録がなかった。」
とのことであった。
大坂屋手代の名を当主年表から拾うと、大坂屋七郎右衛門、大坂屋彦兵衛、大坂屋善右衛門、大坂屋儀兵衛 がある。
大坂屋吉兵衛は、本家・分家筋の人ではなく、手代である可能性が高い。

 さて、切上り長兵衛が働いた時は、三代大坂屋の時であろうか。三代の経歴には以下の記述がある。
「貞享4年(1687)別子銅山の開発権をめぐり大坂屋と住友家の抗争が起きた。大阪屋稼業の四国の立川銅山の隣山の別子山に大坂屋は銅鉱脈を発見するが、大坂屋使用人切揚長兵衛が住友家に告げ、元禄4年(1691)幕府から別子の開坑許可は住友家に下りたと記録にある。」

この記述を検討してみる。筆者の疑問点と気ままな推理である。
 この記述の根拠になる大本の史料が、泉屋の史料でなく、大坂屋独自の史料であればよいのであるが、どうであろうか。
「大坂屋が銅鉱脈を発見するが、」とあるが、発見したのは大坂屋使用人の切上り長兵衛なのか、それとも切上り長兵衛とは無関係に大坂屋手代社員らが、発見したのか。発見当時の記録があるのか。大坂屋が発見したのであれば、なぜ開発申請書を幕府に提出しなかったのか。
また、別子銅山の鉱脈発見は、貞享4年(1687)宇摩郡三嶋村の祇太夫が見立て、新居郡金子村の源次郎が祇太夫に試掘を申し入れて試掘させたことと言われている。筆者が思うに、立川銅山山師の大坂屋が、別子の露頭を最も発見しやすいはずである。そばを掘っているわけであるから。大坂屋は、露頭を発見していたのか。発見したが有望性を見損なったのか。
伊藤玉男「あかがねの峰」は、露頭は比較的容易にわかる地形にあったと推定しているが、そうではなかったので大坂屋は発見できなかったのか。
 元禄4年頃、三代大坂屋久左衛門が立川銅山から手を引いたとすれば、その理由は阿仁銅山などの秋田藩鉱山の稼行に注力するためだったのではなかろうか。大坂屋吉兵衛も、もしかしたら秋田へ異動させられたのではないか。

 今後以下に記す事項がわかれば、立川銅山の初期の歴史がより詳しくわかると思う。
① 三代大坂屋久左衛門の時、貞享~元禄初期に大阪屋が立川銅山を稼行していたと思われるが、その証拠となる史料。請負開始年と終了年の記録。
② 上記の証拠は、西条藩の史料にないか。
③ 六代大坂屋久左衛門は、立川銅山を享保12年(1727)~寛延2年(1749)稼行していたが、その期間の記録のなかに、貞享~元禄初期の経営や、吉兵衛、切上り長兵衛の記録がないか。 
④ 大坂屋吉兵衛の手代としての記録。
⑤ 大坂屋吉兵衛(立川銅山)からの荒銅の受入記録
⑥ 切上り長兵衛に関する大坂屋での最初の記録

 官浪辰夫氏によれば、「切上り長兵衛が大坂屋の使用人であることを示した記録、古文書は、見つかっていない。上記の種々の記録については古文書を細かく当たればわかるかもしれない。」とのことであった。古文書の発見・解読が進む事を強く願っている。

まとめ
 大坂屋久左衛門家の史料を調べたら、貞享~元禄初期の立川銅山の状況がわかるかもしれない。

官浪辰夫様には、貴重な情報をいただきました。厚く御礼申し上げます。

注 引用文献
1. web. 「豪商大坂屋久左衛門」
2. 伊藤玉男「あかがねの峰」(発行責任者 山川静雄 初版1983 第2版1994)

立川銅山(3) 海部屋平右衛門は 寛文11年~延宝2年に堺の銅貿易商だった

2022-03-06 08:31:24 | 趣味歴史推論
 立川銅山の4人目の山師として、渡海屋平左衛門(とかいやへいざえもん)が挙げられているが、ネット検索では、全く情報が得られなかった。そこで、本を探した結果、有力な情報が得られた。
 住友修史室の泉屋叢考に、立川銅山開抗から別子銅山開坑までの立川銅山稼行者については、「今のところ唯一つ神野家の記録に、立川銅山は慶安元年(1648)に始まったとして、間鍋氏に至る迄の同山稼行者5人の名を挙げ、4人目を大阪の海部屋平右衛門(かいふやへいえもん)、最後の5人目を同じく大坂屋吉兵衛としているので、---」とある。1)
この「海部屋平右衛門」の注に「神野家記録では渡海屋平左衛門とある」とあり、筆者は混乱するのであるが、この「海部屋平右衛門」をネット検索したら、1件見つかった。

1. 白柳秀湖著「住友物語」に、寛永15年(1638)幕府により許可された22人の銅貿易商の一人として、「堺 海部屋平右衛門」が、泉屋理兵衛、大坂屋久左衛門、そして熊野彦三郎らと共に「古来銅屋株御免之名前」に記されていた。2)3)
寛永15年とは、かなり早くから海部屋が銅貿易をしていることになる。この記述の信頼性を疑い調べた。

 泉屋叢考は、この記述を詳しく検討していた。4)この記述の元は、「銅吹屋仲間由緒書」であるが、銅貿易の禁止、解禁の年や記述に矛盾があり、挙げられている泉屋3人の名前や年齢、役割から考えて矛盾があることを指摘している。この由緒書は、旧記紬調して宝暦13年(1763)に大坂屋久左衛門智清と丸銅屋次郎兵衛正徳が記し、住友が文政3年(1820)に写したものである。5)これに「垂裕明鑑」の編者はつられ、白柳秀湖も依ったのである。
22人の名前が出てきた根拠は、延宝6年(1678)に決定された銅名代所有者15人に加え6)、それ以前の廃業者7人を加えたものであると泉屋叢考は結論している。由緒書には延宝2年(1674)の廃業者4人の一人として、「堺 海部屋平右衛門」が記されている。
貞享5年(1688)「銅異国賣人数16人之年来之覚」の開業時期からみると、寛永中あるいはそれ以前の開業者は、確実なところで、泉屋、大坂屋、平野屋(太刀屋、銭屋は、家が亡んだ)に過ぎなかった。
以上のことから、「海部屋平右衛門が銅貿易商の免許を得たのは、寛永15年(1638)である」は間違いであることがわかった。また延宝2年(1674)には、廃業したこともわかった。
後世からの由緒書には不確実な記載があるので、(由緒正しい、古くから権利を持っているなどを示すために)、注意が必要である。

2. 次に海部屋平右衛門が実際に銅貿易をしていた時期や規模の記録を探した。
(1)幕府は、貨物輸入額が増大し金銀流出を抑えるため、寛文12年(1672)貨物市法商賣法を施行した。銅輸出業者は貨物の輸入業を兼営し外貨を購入していたので、寛文12年度は前年買物高に応じ以下のような貨物銀高の割当を受けた。7)貨物銀高は、銅輸出高とは無関係であった。
 表1. 寛文12年銅商売人の銅売高と貨物銀高
             銅売高(斤)     貨物銀高
 京   布袋屋加兵衛    26,000      24貫200目
    帯屋六兵衛     49,000      29貫900目
 同   糸屋治兵衛     50,000       26貫400目
 同   紣屋徳左衛門    108,900      21貫200目
 同   海部屋平右衛門   82,500      26貫400目
 同   銭屋喜兵衛     352,700      29貫900目
 大坂  塚口屋與右衛門   112,600       24貫200目
 同   塩屋小兵衛     50,600        4貫目
 同   銅屋善兵衛     59,000       1貫500目
 同   平野屋平兵衛    150,400      29貫300目
 同   大坂屋小左衛門   273,371       26貫400目
 同   泉屋平八      134,400      26貫400目
 同   泉屋長十郎     272,629      32貫500目
 同   泉屋與九郎      402,200      29貫900目

(2)「銅異国賣覚帳」中の「子丑両年(寛文12年(1672)延宝元年(1673))銅屋中より長崎へ銅下し高」覚書8)→図1
 表2. 銅屋の長崎への銅下し高
                   寛文12年(斤)   延宝元年(斤)
 増田屋弥左衛門         12,400        29,900
 山形屋弥右衛門                    29,000
 塩屋小兵衛           62,500        154,600
 徳岡與次兵衛                     62,500
 銅屋半左衛門          111,450        164,050
 平野屋長兵衛          401,926        356,000
 銭屋喜兵衛+大坂屋小左衛門   847,126        328,400
 泉屋(與九郎・平八・長十郎) 1,336,829        940,400
 熊野屋彦三郎                    349,600
 塚口屋與右衛門        170,800
 海部屋平右衛門        165,350        174,050
 紣屋徳左衛門           165,600        101,000

(1)によれば、寛文12年の貨物銀高は前年の実績によって割当てられたとあるので、海部屋平右衛門は寛文11年(1671)に銅貿易をしていたことがわかる。表2によれば、銅貿易額は中堅であるといえる。延宝元年(1673)に確かに銅貿易をしていたことがわかる。
これと先の廃業年を考慮すると、海部屋平右衛門は、少なくとも寛文11年(1671)~延宝2年(1674)の期間は銅貿易免許を有し、銅商をしていたと結論される。
開業は、寛文11年より前と思われるが、証拠となる文書がない。

3. 以上のことから、海部屋平右衛門は、羽振りのよかった寛文11年(1671)~延宝2年(1674)の間、立川銅山山師となったと筆者は推定する。3人目の熊野彦四郎が止めた年が前報によれば寛文10年であるので、妥当である。また銅貿易を廃業した延宝2年には、5人目の大坂屋に譲渡したのではないかと思う。廃業は、立川銅山の経営状態と関係があったのであろうか。
 海部屋平右衛門が銅貿易を廃業したあとは、どうなったのであろうか。「海部屋平右衛門」では見つからなかったが、「海部屋-------」では、以下のものが見つかった。
① 海部屋市左衛門 「銅異国賣覚帳」に元禄7年(1694)12月16日附の泉屋平兵衛より海部屋市左衛門へ銅名代譲渡願書が見えている。9)
② 海部屋市左衛門(堺) 正徳2年(1712)銅屋16人の一人として見える。元禄元年(1688)および元禄7年(1694)に見えない。10) 
③ 海部屋儀平(出羽立石銅)
  海部屋権七(陸奥獅子沢銅 京橋6丁目)
  海部屋徳兵衛(獅子沢銅 京橋6丁目)
の3人が、銅問屋 正徳2年(1712)~4年(1714)に見える。11)
 銅問屋は、山元の荷主(銅山師)から銅荷物を受け取り、大坂で買い手(銅吹屋、のちには銅座)に渡し、代価を荷主に送り、所定の手数料を取得する。
④ 海部屋与一兵衛(南堀江4丁目)が 銅問屋 元文3年(1738)に見える。12)
これらの人は、平右衛門と同族と推定するが、規模はやや小さそうである。

4. 海部屋と渡海屋とは、どうような関係にあったのであろうか。ほとんど同じ史料と思われるものに、二つの名前が見られるのはなぜか。渡海屋という屋号からは、瀬戸内海の海運問屋にも思える。海部屋の銅や貨物を運んだのが、渡海屋なのか。立川銅山請負人としての単なる名義人かもしれない。海部屋平右衛門を本家とするなら、渡海屋平左衛門は、分家なのか。「海部」という屋号から、平右衛門は阿波の出身ではなかろうか。
本ブログでは、4人目の山師として「海部屋平右衛門」を採用した。

まとめ
 4人目の山師 海部屋平右衛門は、寛文11年~延宝2年に堺の銅貿易商だった。この間に、立川銅山山師となったと推定した。         

注 引用文献
1. 泉屋叢考 第13輯「別子銅山の発見と開発」p11(住友修史室 昭和42年 1967)
2. web. 白柳秀湖「住友物語」大阪毎日新聞 1931.1.1-1931.2.13(昭和6年 1931)
3. 白柳秀湖著「住友物語」p60(千倉書房 昭和6年 1931)
4.  泉屋叢考 第8輯「近世前記の銅貿易株と住友」p11~29(住友修史室 昭和31年 1956)
5. 4のp6
6. 熊野屋彦太郎が延宝3年に銅貿易商に公認されたので、16人である。
7.  泉屋叢考 第9輯「近世前記に於ける銅貿易と住友」p42(住友修史室 昭和32年 1957)
8. 4のp30 →図1
9. 4のp30
10. 今井典子「近世日本の銅と大坂銅商人」p38(思文閣 2015)
11. 10のp43
12. 10のp44

図1. 「銅異国賣覚帳」の長崎への銅下し高(寛文12年、延宝元年)泉屋叢考第8輯より