気ままな推理帳

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「銅山略式志」で沢下に描かれた7基の墓が瑞応寺墓地に移った

2019-12-25 20:51:04 | 趣味歴史推論

瑞応寺にある切上り長兵衛妻子の墓の建立年を調べている。

筆者の現在時点での推定は、別子大火災の元禄7年から10年以内、すなわち元禄年間(1694~1704)である。その根拠は

  1. 大火災殉職者の元締助七と同じ浄土宗で祀られており、ほぼ同時期に泉屋が建立したのではないか。
  2. 隣の墓の播磨新右衛門息女(没年は元禄6年)も大火災殉職者でないにも拘わらず、殉職者の列に置かれているが、少女の墓が歿後、数十年も経ってから建てられるとは考えにくい。少なくとも数年以内ではないか。
  3. 大火災殉職者である河野又兵衛は銅山詰役人であるから、泉屋は鄭重に祀ったはずで、墓の建立は早かったに違いない。
  4. 享保9年(1724)5代当主友昌が勘場より沢下にある墓所で助七らを回向しているが、この時には既に墓は建てられていたはず。泉屋は信心深いから早い時期に墓を建てたはず。

しかしながら証拠はまだ見つからないので、探している。

今回は、時代的にはかなり後のことで元禄年間に墓が建てられていたという根拠とはならないが、その後の墓の状況を示す絵図があったので、記しておく。それは最近(2014)見つかった「銅山略式志」である。12) 天保12年頃(1841)に別子銅山支配人の北脇治右衛門(広瀬宰平の叔父)が著した絵図である。この銅山略式志の第二図「銅山繁栄之図」については既に以下のように記されている。

末岡照啓は2「この図で注目したいのは、勘場の上方に現在の蘭塔場の高台が描かれているが墓石はなく、その右下に墓石群がある。当初の蘭塔場は、文献にあるように現在の蘭塔場の沢下にあったことが明らかになった。」

坪井利一郎は3「墓地が描かれているが、風呂屋谷の牛車道の栄久橋の北詰の西方上部に当たる。牛車道の2箇所の折り返しあたりになろうか。歓喜・歓東坑から30m下、 西へ150mあたりになる。今のところ絵図には蘭塔場が描かれていない。」

 添付した銅山繁栄図6の左半部分の中央左に描かれた墓石群をよく見ると、自然石らしき墓が7基あり、そのうち5基が並んで、2基が別に並んで置かれていることに筆者は気が付いた。

これらは、まさに 図中の墓地→現在の蘭塔場(明治11年(1878))→瑞応寺(大正5年(1916)と移された7基を表しているのではないか。即ち、大火災殉職者の5基(助七、5人の手代、河野又兵衛、當山火滅精霊、有縁無縁等三界万霊)と犠牲者の2基(長兵衛妻子、播磨新右衛門息女)である。

図中の墓地は、大火災以前から墓地として使用されていて、播磨新右衛門息女の墓は既に建てられていたのではないか。

田向重右衛門が享保9年(1724)に書いて5代当主友昌に供した「予州別子銅山初発之書付」では、「助七・茂右衛門・善兵衛・宇右衛門墓所は、今の勘場より沢下に土葬に致置申候、御尋被遊御廻向可被遊哉と存寄申候」とあるので、4人だけの墓所かと筆者は思っていた。実際には、助七は1基であるが、殉職した手代5人(藤九郎茂右衛門・宇右衛門・善兵衛・次郎太夫・弥五兵衛)は一つの墓である。役所に提出した死者名簿によれば、「助七・藤九郎(茂右衛門)・宇右衛門・善兵衛の〆て4人は大坂より下る者共」なので、5代当主友昌が見知っている4人の墓所を言ったのではないかと推測する。あと二人の手代 次郎太夫(予州川之江の者)・弥五兵衛(備中銅山よりの参候者)も同じこの墓所に葬られたので5人が一つの墓になっているのではないか。ただ、もう一人の手代 男吉兵衛(備中松山の者)は、遺体を特定できなかったので、墓に名がないのであろう。当山火滅聖霊に含まれたのであろう。(後に建立されたと思われる大坂実相寺の供養塔には、吉兵衛の名がちゃんと記されている。)

役人の河野又兵衛もこの墓地に葬られたのであろう。

以上のように考えると説明がつく。

 墓についての情報としては次のことがある。

  1. 南光院住職 妻鳥良諦師口述によれば、4「この人々こそ別子の祖先と称すべきである。しかるにその石碑のみ角野瑞応寺に引き取りその基礎は其儘に残してある。この人々の中には切上り長兵衛妻の墓もあるが中でも玉誉一的居士は自分の考えでは泉屋主人と考えるべきだと思ふ、当時居士号をつけるのは余程の人でないと出来なかった。」とある。
  2. 芥川三平によれば、5「西墓地9基中、蘭塔場より人肩により下山したものは7基であるので、---」とある。

この二つのことから、現在の蘭塔場にあった7つの墓の棹石に相当する碑石は、台石と切り離して瑞応寺へ下げられ、新たな台石の上に置かれたと推定できる。また、切上り長兵衛妻子の墓も蘭塔場にあったことが、はっきり分かる。移動する場合には、棹石に相当する碑石のみを持って行くので、現在の蘭塔場および沢下の墓地には、各々7つの墓の台石が残されている可能性がある。

台石が見かれば、沢下の墓地の場所を特定できるはずである。いつか探してみたい。

注 参考文献

1. 椎亭老人著 尾崎一楼画「銅山略式志」(天保12年(1841)~弘化元年(1844))

田邊一郎氏が、2014年にインターネットオークションで発見し、購入し、新居浜市広瀬歴史記念館に寄託して、初めて公開された江戸時代末期の絵図書物である。

2. 末岡照啓「北脇治右衛門著「銅山略式志」について」

「書名の「銅山略式志」とは、別子銅山の年中儀式を省略して掲載した書物という意味であり、勘場の売場における飯米や酒の支給風景、盆踊りや大山積神社の秋の祭礼などのようすをくわしく紹介している。著者の椎亭(すいてい)老人とは、別子銅山支配人の北脇治右衛門(生没年1797~1870)のことで、実名は紹満、百録・遠大・柴人・椎亭と号した。近江国野洲郡八夫村の出身で、広瀬宰平(北脇駒之助)の叔父として幼少の宰平を別子銅山につれてきた人物である。治右衛門は13歳で住友の奉公人となり、16歳で大坂の大黒庵・園女庵などの俳社にはいり、19歳で別子銅山に勤務した。----尾崎一桜は新居浜の絵師尾崎梅芳の一族ないし同門であると考えられる。---本書の成立は天保12年から弘化元年の3年間に絞ることができる。」

3. 坪井利一郎「別子鉱山史の留意点-改訂版 」平成29年(2017)初出平成27年(2015) ウェブサイト 新居浜市立図書館>別子銅山・住友>講座「別子銅山を読む」

4. 芥川三平(正岡慶信)「瑞応寺西墓地の怪(中)」の 南光院住職 妻鳥良諦師口述(昭和25年)筆記録 新居浜史談343号p16(2004.3)

5. 芥川三平「瑞応寺西墓地の怪(下の二)」新居浜史談345号p12(2004.5)

6. 写真 「銅山略式志」第2図の「銅山繁栄之図の左半部分」

田邊一郎氏のホームぺージで、元の第2図のきれいなカラー図が見られる。→

 userweb.shikoku.ne.jp/mineral/siitei3b.jpg

 

 


「切上り長兵衛の実在を証明する」の発表会

2019-12-16 13:36:33 | 趣味歴史推論

2019年12月15日(日)新居浜市マイントピア別子において、「別子銅山の歴史を学ぶ会」の第57回で、上記の題を発表させていただきました。

発表の機会を与えてくれた「別子銅山の歴史を学ぶ会」の現会長入江義博様、元会長曽我幸弘様、会場の設営をしていただきました「新居浜観光ガイドの会」の会長石川潔様と会員の皆様に感謝申し上げます。

当日は50余名のご参加があり、多くの方がこの題に関心を持っていただいてうれしかったです。

ご参考までに当日配布した資料を添付します。


元禄6年の別子銅山大風雨災害

2019-12-12 11:41:38 | 趣味歴史推論

 本ブログの「切上り長兵衛妻子と播磨新右衛門息女の死因」(2019.9.21)の中で、新右衛門息女の没した元禄6年については、公用帳や年々諸用留には項目の記載がなく、近世別子災害年表にも災害は記載されていなかったと記した。しかしその後の調べで、元禄6年に大風雨災害が起きていることがわかった。

 元禄9年2月付の「別子銅山稼行請負5ヵ年延長訴願」 の中に、1)2

「去る酉(元禄6年)6月21日の大風雨に、蔵13ヶ所・下財小屋200軒余吹つぶされ、」と記載されている。元禄7年4月25日の大火災の10ヶ月前である。

これは、播磨新右衛門息女の没した7月13日より3週間前のことである。

 

この大風雨災害と息女の死は、何か関係はないのだろうか。

 

注 引用文献など

1. 別子銅山公用帳一番 p51(昭和62.10.20  1987)→写真

2. 泉屋叢考 第13輯 p66(昭和42.10 1967)