気ままな推理帳

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立川銅山(22) 伊予鉱山は、八日市陣屋一柳権之丞領であった寛文7年~元禄期に開かれた

2023-01-15 14:55:59 | 趣味歴史推論
 宇摩郡土居の伊予鉱山は元禄2年頃の発見と伝えられている1)ということの根拠となる史料を探しているが、先日、地元四国中央市土居の暁雨館(ぎょううかん)から貴重な情報を得たので、それにつき検討した。また筆者は、その当時、鉱山のある場所は天領と記していたが、一柳領であることがわかったので訂正する。

1. 伊藤玉男「あかがねの峰」には、以下のように記されている。2)

「別子銅山で元文4年(1739)頃作られた「諸国銅山見分控」という史料がある。もう一つの「宝の山」と共に泉屋が全国に技術者を派遣して調べ上げた貴重な鉱山調査報告書だ。この中に「宇摩郡浦山に金山小屋という銅𨫤があって、その古鋪(旧坑)を探したが見当たらないので、この銅山のことはよく分からない」と書いてある。そして、続いて注目すべき記事があって、それは「この山は以前一柳家の手山であった」というのである。宇摩郡に五千石を与えられた一柳家は正保2年(1645)から元禄16年(1703)まで采地を治め、その間に銅山の試掘も行ったというわけである。
 中ノ川から峨蔵越に至る途中に見事な滝があって、これを「鉱山の滝」という。この滝の下から下流へ点々と石垣やズリ山がある。昭和の初期に栄えた伊予銅山の跡だ。四国鉱山誌によれば、元禄2年頃の発見らしいとしているから、年代的にも鉱床の分布の上からも金山小屋なる𨫤とほゞ一致する。---」

「諸国銅山見分扣」に当たったところ、伊藤玉男が指摘した所に加え、一柳権之丞領地の銅山見分の記述があと2件あることがわかった。

2.「諸国銅山見分扣」3)
① 文化7年午(1810)10月見分 →写1
  敷方  太兵衛
  炭方  貞助
  山留  八郎兵衛
宇摩郡浦山
・金山小家銅𨫤、先年一柳権之丞(直増)様お手山に成られ、古敷も有りの趣に聞こえ
、山潰え込み(すっかり崩れ)、大岩原となり、𨫤筋見えず、昔この辺りに敷ありしと申し伝わり候処を掘らせ、銅鉑並びに糠目様のもの転び出る。されども古敷見ず、この二色(種)は明かり(坑外)のものとは見ず、敷の内より出候ものなれども、山肉厚く、間符口容易に捜し得ず。近辺の山形なりにては、南かづき(上盤)東西𨫤、東山大岩原、西は山肉厚く、一、二丁西へ下り、少々の焼け(露頭)二ヶ所有り、競い薄く(低品位)、その辺に小家跡らしき処もあり。されども近谷に、からみ様のもの見ず。何れとも一応にては見定め難き場所なり。
② 文政8年酉(1825)11月見分 →写1
・宇摩郡黒滝山銅𨫤見分、先年一柳権之丞(直増)様御手山に成られ候古鋪これ有り候趣、蕪崎甚右衛門と申す仁が見分致しくれ候様申し来り候に付き、山留忠左衛門・八郎兵衛・横番政七差し向け候処、同所山潰え込み、大石原と相成り、古鋪とおぼしき近辺に、鋪内より出た山これ有り、右の中に銅鉑並びに糠目様のもの沢山相見え候。尤も𨫤筋北かづき(被)、東西𨫤、東の方大石原、西は山肉厚く、一、二丁西へ下り、焼け二ヶ所程、競いよろしく(高品質)、その辺に小家跡並びに床屋跡とおぼしき所、吹きからみ沢山これ有り、間符口は一向に相分け難き場所に御座候。しかれども春先かまたは秋口か、木の葉の落ち候時分、得と再見分致すべき場所に御座候。
 文政8酉11月   
     山留  忠左衛門
     同   八郎兵衛
     横番  政七
③ 文政9年(1826)4月見分 →写2
 銅𨫤見分の次第
宇摩郡黒滝山の内金山谷古鋪一ヶ所、先年一柳権之丞(直増)様お手山に成られ候みぎりは、出銅もこれ有り候由
、御公儀より御差構につき、間符口つぶれ込み候由、所の百姓どもより承り申し候、右山見立て受け候処、全先年つぶれ込み様相見え申し候。この度当表役人手子 岡右衛門その外横番政七・周蔵・初五郎・卯太郎、右の者ども差し向け、四ツ留とおぼしき所を掘り明け候処、ほどよく鋪内は仕替えに取り当たり、追々取り込み候処、ひとまずは食い違いもこれ有り、用立申さず様相見え候につき、子の針先に差し向い候処、はみだし様の品これ有り、以前右の品目 当に取り下さり候ものか、被(かづき)のもの建てにふき取り下さりこれ有り候、明かり𨫤筋見受け候処、北被(かづき)にして東西𨫤なり、焼け色だいたいよろしき様相見え申し候、𨫤筋四ツ留近辺青山にして相わかり難し、同所より14、5間上の方に潰え込み場所これ有り、被(かづき)建てども𨫤筋東へ片上げにして、随分山続くよろしき様相見え申し候、この頃青山にてとくと相分け難く、彼山の時分再見分致すべき場所なり。
 文政9年4月  
    大坂 安田伝兵衛
    与州 服部平右衛門
       山留   忠左衛門
       役人手子 岡右衛門

3. 検討と考察
(1)見分の時期と見分者
 ①は文化7年(1810)見分で、発見と伝えられる元禄2年(1689)から121年後である。約5世代後である。2,3世代代後の見分でないのは、残念であるが、貴重な見分記録である。
 ②,③は、文政8,9年(1825,1826)で、137年後である。
見分者は別子銅山泉屋の山留らである。服部平右衛門は、天保元年~同8年(1830~1837)間、別子銅山支配人で、本ブログ 立川銅山(1)に記した人物である。
いずれも121年以上後での銅𨫤、鋪の見分であるが、直ちに再開発するという状況ではなかったようである。
(2)銅𨫤の場所
伊藤玉男は、①の「宇摩郡浦山 金山小家銅𨫤、先年一柳権之丞(直増)様お手山に成られ、古敷も有りの趣に聞こえ」の鉱山を指していると思われる。
二ツ岳の北方で峨蔵越の北側、浦山川の「鉱山の滝」(地図ではハサミ滝)近辺に明治~昭和の伊予鉱山の𨫤、鋪はあった。
②,③は同一の銅𨫤と思われ、③の銅𨫤は、黒滝山の内金山谷古鋪一ヶ所とある。②,③は、①の宇摩郡浦山の金山小家銅𨫤の古鋪と同じものを指すのであろうか。
四国鉱山誌に記された元禄2年頃発見と伝えられている鉱山は、① あるいは②,③ あるいは①と②,③の両方であろうか。
黒滝山(くろたきやま)を現在の地図で探してもわからなかった。伊藤玉男によれば、「黒岳を浦山地方の人は天狗というが、嶺南では黒滝の奥に聳える山だから黒岳とよぶようになったのである」とある。4) 別子山村側から見ると、黒滝のある保土野谷川の水源の山をその当時は黒滝山と呼んでいたのであろう。別子山村から黒滝山を越えた北側が、一柳領の浦山村になるので、黒滝山の北側山域に銅𨫤、金山谷古鋪が存在したことになる。当時は、黒岳-エビラ山-二ツ岳の山域を黒滝山と呼んでいたのかもしれない。
(3)この銅𨫤のあった浦山村の領主について調べた。5)6)7)
宇摩郡の領地は、改易や替地が頻繁になされた。しかも村の区分けや領主の変遷の記録が十分残っていない。地誌の記載にも間違い、混乱がある。宇摩郡土居町の郷土史家村上光信は、散在する史料を収集し解読して、その結果を「旗本八日市一柳氏関係史料集成」(1994)にまとめている。筆者が理解したところを記すと、以下のようになる。
「浦山村は、寛文6年(1666)に八日市陣屋一柳直照(半弥)領地となり、寛文7年(1667)その子直増(権之丞)が継ぎ、元禄16年(1703)播磨国への転封まで、一柳領であった。その後天領となり、別子銅山向けの吹炭用材、坑木用材の確保地となった。」
よって、元禄2年(1689)浦山村は、天領ではなく、一柳直増権之丞の領地であった。

別子銅山開坑後、荒銅を運んだ(一次)泉屋道は一柳領浦山村を通って天満村へ出ていた。
(4)銅𨫤は、浦山村にあり、一柳権之丞(直増)のお手山(おてやま、藩が直営する鉱山)と伝わっているということは、ある程度の規模であったと推測されるが、天領となって掘り続けられたという伝えもないので、𨫤としては小規模であったのではないだろうか。
寛文11年(1671)土居組大庄屋加地文書には、西条領入会4ヶ村(天満、土居、入野、畑野)と浦山村における炭釜山論が記されている。地元庄屋古文書や地誌には、一柳直増権之丞の浦山村銅山お手山については全く記載がない。
(5)浦山村の範囲を調べた。寛文~元禄期の村境は正確にはわからないので、明治初期に出された伊予国宇摩郡誌8)、附地図9)によった。
伊予国宇摩郡浦山村地誌
 「当村は往昔より宇摩郡近井郷に属す、境域変ぜず名称旧による。
境域 東は山字古子山に起線し、赤星山絶頂を経て山字札場峯に至る山嶺を以て本郡津根山村に界し、それより覗き岳絶頂に至る山嶺を以て本郡別子山村に界す。南は覗き岳絶頂に起線し、山字大鈴に至る山嶺を以て別子山村に界す。西は山字大鈴に起線し、山字熊鷹鳥屋山・山字松ケ鳥屋を経て川字十郎ケ渕に至る山嶺を以て本郡上野村に界し、それより山字西谷に至る西谷川中央を以て同村に界す。北は山字西谷に起線し、山字蝙蝠山に至る山を以て本郡畑野村に界し、それより本郡入野村に界し、それより山字平坂に至る耕地および平坂谷川および山を以て同村に界し、それより山字宮ケ谷山に至る山および耕地および古子谷川を以て本郡中村に界す。」

伊予鉱山跡の位置は、伊藤玉男「あかがねの峰」「赤石山系の自然」や安森滋「四国赤石山系物語」を参照にした。2)4)10) 黒岳-エビラ山-二ツ岳-峨蔵越の浦山村側の谷(坊碌谷・戸川谷・木地ケ成谷)は、その周辺に銅𨫤があった可能性もあると思い記した。谷名は、附地図によった。(一次)泉屋道は「あかがねの峰」の図によった。
以上に基づいて、元禄期の宇摩郡の諸村と浦山村の境界を図に示した。この浦山村内の元禄期に、一柳権之丞のお手山があったということになる。

4. まとめ
伊予鉱山は、八日市陣屋一柳権之丞のお手山だったという伝えがあることから、開かれたのは寛文7年から元禄期であり、約120年以降にその𨫤、古鋪を別子銅山山留らが見分していた。
銅山が開かれた当時の浦山村は、天領ではなく、一柳権之丞の領地であった。


暁雨館学芸員の石川桂様、前館長の高橋英吉様、郷土史家の川上義朗様に、伊藤玉男「あかがねの峰」「赤石山系の自然」、村上光信「旗本八日市一柳氏関係史料集成」を教えていただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(19)宇摩郡土居の伊予鉱山も元禄2年頃の発見と伝えられる」
2. 伊藤玉男「あかがねの峰」p36(第2版 1994.6)(p26 初版 1983.12)
3. 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」p217,267,268(思文閣 平成3年1891)
 「諸国銅山見分扣」は、元文4年(1739)から別子銅山で着手されたもので、各地の銅山を調査する毎に、その結果を約90年後の文政13年(1830)まで書き綴ったものである。
4. 伊藤玉男「赤石山系の自然」p88、p55、p69(昭和46年 1971)
5. 土居町郷土史料第8集 村上光信著「旗本八日市一柳氏関係史料集成」(土居町教育委員会 平成6年1994)
6. 寛文6年(1666)浦山村、津根山村、北野村の三村は替地により一柳直照半弥領となり、八日市陣屋一柳直照半弥領は、土居地区周辺の十ヵ村に集結され、権之丞が元禄16年(1703)播磨国三木の高木へ移封されるまで続いた。
この間の八日市陣屋領地は、蕪崎村(934石)、北野村(651石)、中村(452石)、小林村(554石)、野田村(392石)、長田村(349石)、浦山村(36石)、津根村(1504石)、津根山村(31石)の10ヶ村で、五千石(合計は4903石となる、但し慶安元年(1648)の石高で)であった。
7. 正保2年(1645)西条藩三万石の二代一柳直重の死去後、西条藩本家は長男直興二万五千石を継ぎ、次男直照が五千石を分知されて土居津根村の八日市陣屋に移った。
直重の弟直家は宇摩郡川之江に二万石余りを領地としていたが、寛永19年(1642)急逝し、男嗣がいなかったため、宇摩郡領地は幕府に没収され、天領となった(浦山村はこの時天領となった)。元禄11年(1698)宇摩郡川之江の天領18か村(五千石)は、替地により今治藩松平家の領地となった。
寛文5年(1665)本家の西条藩一柳直興が改易となり、天領となったが、寛文10年(1670)に紀州藩から松平頼純が就封し西条藩三万石となった。
8. 愛媛県立図書館蔵 「宇摩郡地誌」(土居町関係村分 その1 p29) 解読編集 井上英文(松山大学総合研究所 研究員 1999)地誌作成年は、記述内容から明治7~10年頃と推定される。
9. 愛媛県立図書館デジタルアーカイブ 地誌附 宇摩郡地図(年不詳)
10. 安森滋「四国赤石山系物語」p485-487(平成18 2006)

写1. 文化7年、文政8年の浦山村銅𨫤の見分(「諸国銅山見分扣」より)


写2. 文政9年の浦山村銅𨫤の見分(「諸国銅山見分扣」より)


図. 元禄期の宇摩郡諸村と浦山村の境界