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伊豫軍印(21) 琴主を引き立てた中山忠能卿は 本印とは無関係である

2023-07-23 08:06:02 | 趣味歴史推論
 中山忠能(なかやまただやす)(1809生~1888没)は、幕末から明治前期にかけての公家、政治家であり、明治天皇の外祖父であった。京都公卿の中でも、琴主を一番引き立ててくれたのが中山忠能であった。嘉永6年(1853)琴主50才頃に、公卿の知遇を得て、中山の姓を許された。
中山忠能と琴主の関係と 伊豫軍印について何か情報が得られないかと思い、「中山忠能日記」1)と「中山忠能履歴資料」2)を調べた。

1.「中山忠能日記」(1863~1868) 及び 「中山忠能履歴資料」(1852~1868)
「中山琴主」「琴主」「八雲琴」「二絃琴」「伊予軍印」など多くの関係ありそうな語で全文検索をしたが、何も引っかからなかった。

2. 官職および位階の履歴で伊予に関係する部分3)
文政 3年(1820) 10歳 正四位下に昇叙
   4年(1821) 11歳 左近衛権少将に転任
   5年(1822) 12歳 伊予権介(いよごんのすけ)*を兼任
   7年(1824) 14歳 右近衛権中将に転任し 伊予権介如元 皇太后宮権亮を兼任
   13年(1830) 20歳 伊予権介を去る
天保 5年(1834) 24歳 正四位上に昇叙し 蔵人頭右近衛権中将皇太后宮権亮如元
*京官の俸禄を補う目的のものであり、俸禄のみを得て実際に赴任することはなかった。

 中山忠能は、12~20歳の間 伊予権介の任にあったので、伊予には親近感を抱いていたであろう。しかしまだ若いので、遊びで「伊豫軍印」を作る可能性は低いと思う。

まとめ
1. 中山忠能の日記と履歴資料には、琴主との関係を示唆するものは見つからなかった。
2. 忠能は、11~20歳の時期に伊予権介の任であったが、若いので「伊豫軍印」を作る可能性は低い。
3. 琴主と知り合った嘉永6年頃以降は、忠能は国事に奔走しており、「伊豫軍印」を作り贈ることは考えられない。
4. 以上のことより、中山忠能は、伊豫軍印とは、無関係であると結論する。


注 引用文献
1.「中山忠能日記 : 原題・正心誠意」 第1~3 (日本史籍協会 大正5年(1916)web. 国立国会図書館デジタルコレクション
・中山忠能の二女慶子は孝明天皇に権典侍として奉仕し、祐宮(明治天皇)の降誕あり、忠能は外祖父として養育に任じ、また岩倉具視らと和宮の降嫁に奔走した。文久3年~明治元年(1863~1868)の日記である。安政以降の大事変を背景として、上は宮廷の秘事より、朝廷・幕府・諸侯・諸藩士・浪士の離合消長を記録する。総2245ぺージ
2.「中山忠能履歴資料」第1~10(日本史籍協会 昭和7~10年(1932~1935)) web. 国立国会図書館デジタルコレクション
・往年宮内省において中山忠能の事績調査を試みたさい、当時京都中山家に所蔵された維新前後(嘉永5年から明治元年(1852~1868))の十数年間における日記・書簡を初めとして、達書・建白書・風聞書などあらゆる種類の文書をほぼ年代別に編纂輯録したもの。総4841ぺージ
3. Wikipedia「中山忠能」


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