気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(4) 家紋は「三つ扇」で上柏村寺尾家と同じなので同族である

2024-07-14 08:19:40 | 趣味歴史推論
 寺尾家の位牌および分家若竹屋寺尾家の家紋は「三つ扇」(みつおうぎ)であった。「三つ扇」にも日の丸の有無、扇の骨の本数の違いがある。より詳しく観察すると、写真1のように、貞享2年(1685)や元禄5年(1692)では日の丸のない「三つ扇」であり、文化元年(1804)は「日の丸三つ扇」であった。古い方の本家は「三つ扇」で、分家は「日の丸三つ扇」のようにも見える。
 この家紋から出自が推定できるのではないかと考え、インターネットで「寺尾 三つ扇」の検索をした。その結果、ブログ「フクロウ日誌」で、尾張藩家老寺尾直龍が修復した知多市の慈雲寺の寺紋が「三つ扇」であることが分った。1)そして、この寺紋は万治3年(1660)再建を援助した寺尾家の家紋なのである。
「フクロウ日誌」著者K氏の了解を得てブログより抜き出して作成したのが、写真2である。
慈雲寺の「寺紋」は全て「日の丸三つ扇」であり、鬼瓦・棟瓦では扇の骨5本である。塀の瓦(笠木瓦)・手水舎・庫裡では、骨3本である。「士林泝洄」の寺尾家の家紋は「日の丸三つ扇」で骨4本である。2)本堂内でお祀りされている寺尾直龍の位牌は「日の丸三つ扇」で骨5本、父直政の位牌は「日の丸三つ扇」で骨3本である。骨の本数に微妙な違いはあるが、全て「日の丸三つ扇」であることに間違いない。
「士林泝洄」によれば、尾張藩寺尾家の系図は以下の通り。(数字は生年-没年)2)
祖寺尾壱岐守―――寺尾正俊―――寺尾直政―――寺尾直龍
(?-1604) (?-1636) (1603-1650) (1640-1724)

壱岐守は前報の上柏村の屋敷主で、「福富半右衛門覚書」の寺尾喜右衛門は、寺尾正俊の弟である。
 これにより、上柏村寺尾家の家紋は尾張藩家老寺尾直政、直龍の家紋であるといえよう。天満村寺尾九兵衛本家の家紋は位牌によれば、「三つ扇」であり、尾張藩寺尾家の家紋は「日の丸三つ扇」であり、同系列と見なせる。よって両家は同族であったと考えられる。尾張に移った際、「日の丸」を付け加えたのではないだろうか。
なお上柏村寺尾家と尾張藩寺尾家の家系については、次報で述べる。
慈雲寺は、観応元年(1350)、宮山城主であった足利一族の一色修理太夫範光を開基、夢窓国師(夢窓 疎石)を開山として創建された臨済宗妙心寺派のお寺である。3)上柏村の寺尾家の屋敷の庭は、夢窓国師が築造したと伝わっており、不思議な縁を感じる。

まとめ
 天満村寺尾九兵衛家の家紋「三つ扇」は、尾張藩寺尾家すなわち上柏村寺尾家の家紋と同系であることより、天満村寺尾九兵衛家は、上柏村寺尾家と同族である。


注 引用文献
1. 「フクロウ日誌」(2017.8. 1)>寺尾直龍 ② 知多と直龍
2. 松平秀雲「士林泝洄」延享4年(1747年)完成。
web. 名古屋叢書 続編 第18巻 「士林泝洄 第2」巻第37 p233(名古屋市教育委員会編 1967)コマ数123
3. 「岡田ブログ」知多>岡田のみどころ>街並>慈雲寺

写真1 天満村寺尾九兵衛家の家紋


写真2 知多市慈雲寺の寺紋・尾張藩寺尾家の家紋


天満村寺尾九兵衛(3) 先祖は鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか

2024-07-07 14:09:49 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋寺尾九兵衛家の先祖について、公表された資料を調査した。
以下の3つの説が見つかった。
第1の説「寺尾九兵衛家は、500年前まで常磐(ときわ)の武士であった」
「土居町誌」(山上統一郎執筆 1984)に以下の記述がある。
「寺尾家は、今から500年程前まで常磐(ときわ)の武士であったが、戦いに敗れ、所々を経て天満に落ち着いて、郷士になった。郷士は、平時は農をしているが、事があれば地方人を従えて大名の戦列に加わるので、大名と庄屋の中間に地位にあった。宇摩郡では、豊田の秋山、川之江の長野が郷士であった。寺尾はまた天領の大庄屋でもあった。宇摩郡では、土居組の加地、川之江の猪川などがそれであったが、寺尾と猪川は天領の大庄屋、加地は西條領の大庄屋であった。寺尾家は農にも従ったが、運送業が主であった。天満港は仏崎で西風を防ぎ、海が深い、東風が強い時は近くの大島が避難港となる。」
 郷土史家の記述なので、何らかの調査結果に基づいているはずであるが、出自の根拠は書かれていない。寺尾家の口伝であろうか。500年前は、(1984-500=)1484年で文明16年に相当し、応仁の乱(1468~1477)頃である。戦いに敗れ、所々を経てとあるので、3世代が渡り歩いたと仮定すると(1484+20×3=)1544年(天文13年)頃に天満に落ち着いたことなる。これは天正元年(1573)の29年前となる。
 では常盤(ときわ)の武士とはなんであろうか。
筆者は、常盤家(ときわけ)の家臣を意味していると推測した。常盤家は、桓武天皇を祖とする鎌倉北条氏の一派で「吾妻鏡」や「太平記」にも登場する相模国の名家である。常盤家の祖は北条時茂(ときもち/ときしげ 1240~1270)であり、北条義時(鎌倉幕府第2代執権、北条政子の弟)の孫である。屋敷を鎌倉郡常盤郷に構えたため「常盤殿」と呼ばれ、常盤(ときわ)を称した。この常盤北条氏の家臣として寺尾家があったのではないだろうか。ではその寺尾家はどこに居たのか。寺尾の地名が付く場所を相模国(神奈川県)に探すと3ヶ所ある。2)3)→図
①寺尾村(高座郡渋谷荘 綾瀬市)
 鎌倉幕府の御家人渋谷重国(しぶやしげくに)は相模国高座郡渋谷荘を本拠とした(~1194~)。現在の東京都渋谷区から神奈川県綾瀬市の地域である。長子の光重(地頭職)は、宝治合戦(1247)の恩賞として薩摩国川内川流域を下賜され、光重は長男の重直を相模国の渋谷荘に留め、他の5人の男子に薩摩の各領地(地頭職)を与え、それぞれ東郷氏、祁答院氏、薩摩鶴田氏、入来院氏、高城氏となった。領地は美作、伊勢にも及んだ。入来院祖となった定心(じょうしん)の次男重経(しげつね ~1277)は、綾瀬市寺尾村を本領とし、地名をとって寺尾氏と名乗った。綾瀬市史によれば、文永/弘安の役を経て、重経は、渋谷氏一党の鎌倉幕府における役割の中心を担っていたようだ。9)この寺尾重経の後裔が、薩摩国と相模国の寺尾氏となった。相模国寺尾氏の情報は、鎌倉幕府と執権北条氏が亡んだ頃(1333)以降の文書に見つからないようである。
筆者の推理は「常盤北条氏の家臣としてあった寺尾氏一族は、相模国にいたが、常盤北条氏の没落と共に勢力を失い、応仁の乱(~1477)頃には後北条氏に敗れ、一部が伊予国宇摩郡にやってきた」である。
寺尾城が2ヶ所ある。
②川崎市多摩区菅馬場 寺尾城(菅(すげ)寺尾城) 室町時代に寺尾若狭守によって築造されたと言われる。若狭守はその後、後北条氏(小田原北条氏、北条早雲を祖とする北条氏)の家臣となって、諏訪氏を称したと言われている。
③横浜市鶴見区馬場 寺尾城 室町時代の諏訪三河守の居城とされる。後北条氏の旗本であった。この諏訪氏は、信濃の諏訪氏の支流とのことである。
 名字の由来を検索すると、4)「寺尾氏は信濃国埴科郡寺尾(現長野県松代町)発祥。諏訪神党関屋氏の支流という。」とある。上記の②③の寺尾城主も先祖は、諏訪の名称から推測すると信濃国寺尾発祥と思われる。②③のケースは、後北条氏(祖は北条早雲(1456~1519)~5代)の家臣であったので、後北条氏が1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びるまで、両寺尾城の家臣(その中に寺尾氏を名乗ったものがいたのではないか)は、力があったと考えられる。一方、天満村寺尾家はその時には既に天満村で力を持っていたと思われるので、この両寺尾城の家臣の後裔ではないと筆者は推理した。
2. 「天満村郷土誌」(1912)によれば、5)
「寺尾九兵衛は、今を去る300有余年天正年間前より天満村に居住し、家主代々九兵衛を襲称し 明治年代に至り 求馬 貫一 和 を経て現代助二郎まで系統連綿たり」とある。
天正元年(1573)より前、即ち秀吉時代より前から天満村に居住していたとある。この証拠は示されていない。口伝か? 出自については記されておらず、第1の説を否定するものではない。

第2の説「周布郡寺尾村の発祥」
3. 信藤英敏「宇摩の苗字」(1983)には、以下の記載がある。6)
「寺尾: 伊予三島・川之江市両市と土居町に百戸ほど。宇摩地方としては多い部類にはいる。周布郡に寺尾村、村高285石7斗7合の地があるから、ここを発祥の地とする族かと思う。」と記している。
この説の信憑性を調べた。「日本地名大辞典」(1981)7)には「寺尾の地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。」とある。この記述を検討した。
「中川村郷土誌」(1914)の大字の名称由来の項には以下の記載があった。8)→写
「大字寺尾:弘安4年6月(今より620年前*)元寇筑紫に来襲の際北條氏の家臣寺尾三郎右衛門義之故あって此地に病歿せしものなりと言い伝う。墓跡等據(よ)るべきものなければ詳ならざれども、按(あん)ずるに或いは之より寺尾と称ぶに至りしものならずや」
*正しくは、弘安4年(1281)は今(1914)より633年前である。
 鎌倉幕府第8代執権北条時宗が御家人を統率して元寇と戦った。郷土誌の「弘安4年6月」は、元寇襲来の月日を記しているのであって、寺尾が没した日ではないと筆者は読んだ。北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、関東から博多への行きがけか帰りがけかに何等かの理由(急病?)でこの地に留まったと思われる。そしてこの地で病歿したのではなかろうか。この地に寺尾の名がついたとすれば、没するに当たり、この地の寺に大きな寄進をしたのではなかろうか。以下は筆者の推理であるが、安養寺の山下六院の一つ地蔵寺への寄進がある。堂坂の地蔵さんの三墓や、鎌倉時代建立と推測される五輪塔(五輪さん)があることも、鎌倉時代との関連が想定される。9)この北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、上述した寺尾重経の一族である可能性がある。
 もし寺尾家が地頭職等としてこの地に居住していたのであれば、その一族が残り、「寺尾」姓がこの地にあってもよさそうなものであるが、現在、丹原町寺尾とその周辺には、「寺尾」姓は1軒もない。10)
よって長期間寺尾家がこの地に住んで居たのではないと思う。もし、一族がすぐに天満村に移住したとすると、天正時代の300年程前になり、寺尾九兵衛家にとっては、古すぎる。
 
 次報で述べるが、天満村寺尾家と上柏村寺尾家が同じ家紋(三つ扇)であることが分った。よって同族であったと思われる。そこで上柏村寺尾家の出自を調べた。
第3の説 「上柏村寺尾家は、豊後国宇佐八幡宮旧臣であった」
4. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)で引用している「今村家家譜坤の巻」には今村又兵衛近秀について記した中に
「豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家が豫洲宇摩郡真庄山口郷に移り---」とある。11)
すなわち上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったという。この家譜は、他の記述をみると信憑性に少々問題があるので、そのまま信じることはできない。筆者は、豊後国宇佐八幡宮の氏の姓に寺尾がないか、および付近に寺尾の地名がないかを調べたが、見つけられなかった。よって八幡宮旧臣であったという記述は今のところ肯定できない。
5. 宮脇通赫「伊豫温故録」(1893)によれば12)
「寺尾土佐守直政宅跡: 上柏村字居屋敷にあり。土佐守は天正以前当村の地頭にしてこの地に館す。天正年中その家亡ぶ。今の住人今村喆逸の祖その館跡に移住し子孫世襲して現今に至る。この宅内の築山は夢窓国師行脚の時この館に留錫して自ら築く所なりと云ふ。」
 次次報で述べるが、「福富半右衛門覚書」「士林泝洄」等によれば、「寺尾土佐守直政宅跡、天正年中その家亡ぶ」の記述は間違っている。正しくは「尾張藩家老寺尾土佐守直政の祖父寺尾壱岐守(父寺尾正俊も青年まで居たようだ)や叔父寺尾喜右衛門の住宅跡で、慶長9年(1604)にその家亡ぶ」である。また、寺尾土佐守が地頭であったのではなくその祖先が天正以前に地頭であったということであろうか。地頭の直接的な証拠を筆者は見つけられなかったが、その可能性は上柏村にある瀧神社の由緒から伺うことができる。13)
 瀧神社の由緒によれば、「室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれている。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立した。」とある。細川頼之(よりゆき)(1329年生-1392年歿)は、室町時代初期の守護大名で室町幕府2代管領であった。
 細川頼之は、貞治元年(1362年)四国を平定した。管領となった頼之は足利義満を補佐していたが、政変があり、敗れた頼之は、領国の四国へ落ちて行き、河野通堯らを破り、永徳元年(1381)、河野氏と和睦した。以後細川氏が宇摩新居郡を支配した。この事から、瀧神社の由緒が事実なら、社殿は、1381年以降に寺尾氏によって建立されたことになる
 夢窓国師(1275生~1351歿)は、禅僧で禅庭・枯山水の最高の完成者でありその庭があるということは、細川氏と寺尾氏の緊密な関係があったからではないかと想像する。
 今の住人今村喆逸の祖とは、八代前の今村又兵衛近秀(初代義親の孫)であり、近秀の妻が寺尾喜右衛門の娘であった。11)
 上柏村は天満村から直線距離で東15kmにある。筆者が調べた限りでは、両寺尾家が親戚関係を示す証拠は、家紋以外には見つけられなかった。

まとめ
1. 天満村大庄屋寺尾九兵衛の先祖は、鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか。
2. 同族の上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったと今村家譜に記載されているが信用し難い。
3. 上柏村寺尾家は、永徳元年(1381)頃に室町幕府2代管領細川頼之の命で、瀧神社を建立しているので上柏村の地頭であったと推測できる。


 中川村郷土誌では、丹原史談会長今井義親様と中川公民館様にお世話になりました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1.「土居町誌」(寺尾つた女の項)p832(1984)執筆山上統一郎の経歴:土居町藤原(天満神社から東南約4km)に居住。第6代の豊岡小学校校長。著書に、「書による星山先生研究」(1986 尾崎星山は、土居町北野村出身の勤王家・教育者である)、「安藤正楽遺墨集」(1978)、「土居町誌」人物編などがある。
2. web. 「MARO参上」寺尾城(川崎市)、寺尾城(横浜市)
3. web. 「埋文よこはま」33号(2016) 横浜の中世城郭「寺尾城の堀跡を発見」
4. web. 「名字由来net」
5. 「土居町誌」p89(1984)近世史部分執筆は郷土史家の真鍋充親 
6. 信藤英敏「宇摩の苗字」(昭和58年1983)信藤英敏は、昭和48年「宇摩史談会」創立初代会長 「角川日本地名大辞典」38愛媛県分担執筆 「川之江城の研究」など
7. 「日本地名大辞典」38愛媛県(角川 1981)の寺尾<丹原町>の項
「寺尾:高縄半島南部、中山川の南岸に位置し、中央構造線の断層崖の麓一帯。地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。
[近世]寺尾村:江戸期~明治22年の村名。周布郡のうち。松山藩領。「慶安(1648)郷村数帳」では、高285石余、うち田215石余・畑69石余、「元禄村浦記」285石余、「天保郷帳」300石余、「旧国旧領」305石余。「周布郡大手鑑」による宝永7年(1710)の家数50軒・人口166、牛22・宇摩8、田16町余・畑13町余。神社は日吉神社。用水堰は中山川にかかる寺尾堰がある。以下略。
8. 「中川村郷土誌」第一篇p55(中川村 大正3年 1914)編者 三毎柏東 →写
9. 「中川村 歴史と文化財」p12~18(郷土を見直す会 平成21年 2009)
10.「ゼンリン住宅地図」愛媛県 西条市 2 東予・丹原・小松(2022)
11. 石川士郎「伊予今村家物語」p58(今村武彦発行 2006)
12. 宮脇通赫「伊豫温故録」p365(松山向陽社 大正4 1915)明治26年(1893)書の再版である。
国会図書館デジタルコレクション「伊豫温故録再版」コマ196/335
13. web. 瀧神社ホームページ>由緒
「御祭神は素戔嗚尊・稲田姫尊・大巳貴尊の三柱。室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれています。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立しました。御祭神が素戔嗚尊ということもあり災厄を封じる神様として多くの人に参拝され、牛頭天王にあやかった牛馬の病気平癒・厄除祈願は三郡の信仰を集め、農家の人々が連れてくる牛馬が後を絶たなかったといわれています。明治時代の神仏分離令により薬師堂は廃止され、松柏町内の神社がこの地に合祀されました。現在の本殿は貞享3年(1686)再建の社で現存する市内最古の神社本殿です。拝殿天井に描かれている龍の絵は、中曽根村今村伊八郎幽山斉が描いたもので、おそらくは薬師堂の天井に描かれていたものだといわれています。」
図. 相模国の常盤・寺尾村・寺尾城(鎌倉幕府~室町幕府時代)

写.「中川村郷土誌」(1914)名称由来「大字寺尾」


天満村寺尾九兵衛(2) 大庄屋寺尾九兵衛当主年表

2024-06-30 08:03:18 | 趣味歴史推論
 幕領天満村の大庄屋寺尾九兵衛は、当主のほとんどが「九兵衛」を襲名しているので、個人や代替わりがわかりにくい。そこで、文献・墓・燈籠・位牌の調査をして、当主年表を作成した。             
寺尾本家の後裔は海外に移住したので、墓と位牌のお守りをしているのは、分家の若竹屋寺尾家である。仏壇に祀られた江戸時代の40余りの位牌を若竹屋の寺尾清和様・順子様のご厚意で調べさせていただいた(2024.1.17)。その際天満神社総代の岸幸雄様に手助けいただいた。天満神社北側の観音堂墓地にある墓は、岸幸雄様と友人桑原忠勝様と調査した(2023.9.2)。皆様にお礼申し上げます。調査内容は追々時期に合わせて書きます。
 この当主年表はあくまで現時点の暫定版(2024.6)である。初代~十一代および当主期間は筆者の推定である。根拠がある確実な部分は太字にしている。また妻は、〇〇室と書かれていたのは少ないので、没年、享年などからの推定である。今後、過去帳等の記載から、修正や追加ができることを望んでいる。



天満村寺尾九兵衛(1) 寛文6年(1666)には大庄屋であった

2024-06-23 08:45:45 | 趣味歴史推論
 伊予国宇摩郡天満村(現愛媛県四国中央市土居町天満)は、別子銅山開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間、別子粗銅を大坂に送り出した物流の基地であった。粗銅の量は、元禄11年(1698)には1521トンという驚異的なものであった。粗銅や米の物流で問題があれば、泉屋の記録に残るはずであるが、記録がないということは、大きな問題は起こらずうまく経営していたと推測される。天満村の大庄屋寺尾九兵衛の貢献も大きかったに違いない。
このブログでは、別子銅山開坑前後の天満村の状況や大庄屋寺尾九兵衛の業績を、残された遺産・遺物・文書をもとに時系列で追っていきたい。
切り上り長兵衛が生きていた時期が重なるので、調査の中で、彼に関する新情報に出会えないかとわずかな期待を持っている。

 大庄屋寺尾家当主は、全てが「九兵衛」を襲名したかは確認できていない。
九兵衛の読み方は、くへえ、くへい、きゅうべえ、きゅうべい等のどれであろうか。江戸時代では、「くへえ」が多いようである。「きゅうべえ」だったら久兵衛が宛てられたか。
別子銅山公用帳一番・二番の索引では、「く」の項に、九兵衛(天満村)とあるので、ここでは「くへえ」としておこう。
Ⅰ. 泉屋の記録に「天満村九兵衛」が見られるのは、わずか2カ所しかない。
第1は、元禄3年見立てに行く田向重右衛門一行が面会した、よく知られた箇所である。
 豫州別子銅山初発之書付(1724)1)
この書付は踏査人田向十右衛門が、踏査より35年後の享保9年(1724)正月、住友家当主友昌が別子を視察するにつき、参考資料として手記して差し出したものである(ここでは読み易くしている)。

1. 別子銅山の山見立は、元緑3年(1690)(4年は間違い)未9月、十右衛門・原田為右衛門・山留メ治右衛門・男1人、備中吉岡銅山より備後の鞆へ出て、それより船にて豫州川之江阿波屋六郎兵衛方へ着、翌日川之江御陣屋後藤覺右衛門様御手代衆に御目にかかり、右山見立の断り致し、それより天満村へ3里、大庄屋九兵衛方へ参り、翌日天満村よりおばこ峠へ登り乙地の近くに宿致し、夜の七ッに松明にて山入り致し候所に、乙地より唯今の勘場所までおよそ3里余りの所材木山にて夥しく生え茂り、道もなく獣の声増すにて人の通ひたる所にては無しの所、ここかしこと尋ね廻りようやく尋当たり、夜中かがりを燒き、只今の歓喜間符に掘入り、2,3尺も切り入り候ほど、次第に鏈太く成り候故、石色萬端山の情分見届け、鏈持参致し大坂へ登せ候て、江戸願には助七指下し、首尾能く訴訟相叶い、山師助七・請負人中橋泉屋七右衛門と御裏判出し申し候。山見立元禄3年より享保9年まで35年(34年は間違い)になる。段々山栄え2,3年の内めっきりと御蔵入りこれ有り、これにより友信公ご機嫌にて十右衛門・助七に家督下され、助七・十右衛門今一両年備中豫州相勤め申す筈にて、助七は豫州へ下り駆け引き致し候内に。2. 以下略

第2は、別子銅山公用帳一番の中の別子山村御林札建替に関するものである。2)
 ① 大町村金右衛門口書(1695)
3年以前酉の年(元禄6年(1693)、別子山村御林札建替候時分、庄屋長右衛門相煩申し候故、私儀山へ立合候様にと、御役人様方仰せら候由、天満村九兵衛申し渡し候に付き、立合申し候。その節銅山役人河野又兵衛どのへ、-----以下略。
    元禄8年(1695)亥2月10日
 ② 別子山村庄屋・組頭口書(1695)
 ------前略
 右の通り相違なく御座候、右御札場の儀、5年以前未年(元禄4年(1691)、初めて御建替なられ候場所へこの度も御札建て申し候てば、先規よりの札場違い申しに付き、立川村より何角と申す儀御座候、御林の木伐採申さず候様にとの御札の儀に御座候えば、何方に御建なされ候ても、別子山村の百姓、申し分は無御座候、以上
    元禄8年(1695)亥2月9日
             予州宇摩郡別子山村庄や  伝吉 印
                    同所組頭  仁兵衛 印
                    同所組頭  権三郎 印
右の通別子山村組頭口書差上げ候通り、相違無御座候、以上
                  天満村大庄や  九兵衛 印
                  大町村庄や   金右衛門 印
 平岡吉左衛門様
     御手代中

Ⅱ. 次に広く宇摩郡の古文書に探した結果、「寺尾九兵衛」の初出は以下の文書であった。
 土居組大庄屋加地文書(1666)3)
 一柳半弥様(直照)へ御引渡の節、入山の儀、松山御役人衆・一柳御役人衆立会仰合せられの証書也、寛文6年(1666)吉安右近右衛門殿、中嶋又右衛門殿入山稼方の証文(包紙表書)
 ・浦山にて樵木仕村 (但し川なかし共) 入野村 畑野村 土居村 天満村 
 ・上野村にて樵木仕村          北野村
 ・津祢山にて樵木仕村          藤原村
 ・3ヶ村(浦山、津根山、北野) 種子借し米当秋取納の事 
 ・北野村井水の儀先規の通り
 ・巳年(寛文5年)米大坂上納入用割符銀宇摩郡一所の事
 右は先規の通り互に相談申し置き候 以上
 寛文6年(1666)午8月27日      中嶋又右衛門(花押)
                    吉安右近右衛門(同)
 宇摩郡天満村大庄屋   九兵衛殿 (寺尾氏)
    土居村大庄屋   仁右衛門殿(加地氏)
    中曽根村大庄屋  小左衛門殿(今村氏)
    河之江村大庄屋  彦右衛門殿(三宅氏)

 これにより、寛文6年(1666)に寺尾九兵衛は天満村大庄屋当主であったことがわかった。

まとめ 
1. 天満村は、別子銅山開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間、別子粗銅を大坂に送り出した物流の基地であった。
2. 寺尾九兵衛は寛文6年(1666)には、天満村大庄屋当主であった。


 本ブログ2023.8で中山琴主の墓について記した際、その近くで、探していた墓を見つけたようだと書いた。それは別子銅山開坑時の寺尾九兵衛の墓と思ったのだが、その後の調査で違うことがわかった。そこでより詳しく調べることにした。
天満村・寺尾九兵衛・別子銅山については、次の文献を参考にして調査を行っていく。
 ①  岡本圭二郎執筆「天満・天神学問の里巡り」冊子(天満公民館・天満自治協議会発行 2021)4)
 ② 坪井利一郎「第一次泉屋道」益友 第60巻1号p15(2009)

注 引用文献
1. 泉屋叢考第13輯 附録(住友修史室 昭和42年 1967)
  web. 住友史料館>刊行物案内・泉屋叢考>13輯
2. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p37,39(住友史料館 昭和62年 1987)
3. 土居町郷土史料第8集 村上光信著「旗本八日市一柳氏関係史料集成」p37加地文書No.10(土居町教育委員会 平成6年 1994) 
4. 天満公民館(近藤三千代編集)「天満・天神学問の里巡り」(天満公民館・天満自治協議会発行 令和3年8月 2021)本冊子は、郷土史家岡本圭二郎が執筆し、平成13~23年(2001~2011)の間、公民館報「てんま」に計100回掲載されたものをまとめたものである。地域の歴史や文化、風景、先人たちなどを紹介している。

写 「天満・天神学問の里巡り」製作:天満公民館


伊豫軍印(23) 結論:中山琴主が作らせた印であろう

2023-08-06 08:27:44 | 趣味歴史推論
1. 本印は、幕末~明治初期に作られたもので、公家や神官が琴主に贈ったか、琴主自身が作らせたものであるという説を提唱し、検証してきた。
千家尊福、佐草美清は調べる手がかりがなかった。何れも神官であり、軍とはなじまないので、可能性はないと判断した。
よって、琴主と関係した公家、神職は、本印とは無関係であると推定した。
2. 由緒書が無いことが決め手である
もし誰かから贈られたなら、その旨を記したはず。それがないのは自分で作ったからである。
3. 本印の奉納は、絵馬の奉納と同じ意味である。自身の守り印、八雲神社を護る印、故郷の伊予を護る印として奉納したと推定する。本印は、中山琴主が印文を考え、京の印師に作らせた印であろう。字は、自ら書いたのではないか。

まとめ
 結論:中山琴主が幕末~明治初期に京の印師に作らせた印であろう。


筆者は、2023.7.26に土居町天満にある中山琴主の墓に参った。→写真

そして、琴主の墓の先20mの所に、別に探していた人の墓を見つけた。これは、この半年間親しんだ中山琴主の手引きと感謝したい。ほぼ確実と思うが、次回(涼しくなって)からはその人物と天満村、別子銅山との関係について推理していきたい。

写 中山琴主の墓(土居町天満 塚の端墓地内)