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気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

山下吹(28) 発祥の地 川西市山下町・下財町の山下吹

2025-06-15 12:46:26 | 趣味歴史推論
 山下吹の発祥の地である川西市山下町・下財町を令和7年(2025)6月6日に訪ねた。町の北奥に江戸時代から昭和初期まで銅製錬をしていた平安(ひらやす)家住宅を利用した川西市郷土館がある。→写1
山下吹に関した標示物としては、唯一、郷土館の開館を記念して建立されたと思われる石碑があった。→写2
 
 「山下吹き」平安製練所跡地
 遠き昔の日よりこの地、下財にて製銅の業に力を注ぎ、それはそれなりの長き年月を過した多くの人々の、努力は何にも変えがたきものと感謝して、ここにささやかな碑を建立しました。
       昭和六十二年五月吉日  平安 琴 建立


 「山下吹き」の言葉を残し、この地で製錬してきた人に感謝を表した立派な碑であり、筆者は大変うれしかった。
平安琴(ひらやすこと)は、平安邦太郎(ひらやすくにたろう)の息子平安秋次の妻である1)。平安邦太郎は明治・大正期の下財町平安家の当主で、銅製錬、採鉱、能勢電鉄,猪名川水力発電所の事業等を行った実業家である2)。
平安家の屋号は、銅屋(あかがねや)であり、当主は江戸時代には新右衞門を襲名しており、銅製錬、採鉱、銅山経営を業としてきた。銅屋新右衞門の名は、正徳6年(1716)から記録に残っている3)。

山下吹は、江戸初期にこの山下町下財屋敷で発明されたと考えるのが最も妥当であることを筆者はブログ山下吹(1)~(27)で論じてきた。山下吹の核心の技術は、真吹である。真吹は世界に誇る大発明であり、外国(中国、朝鮮、南蛮)から伝来したものではない。
 
 ここで山下吹をわかりやすく説明したい。
山下吹は、素吹して得た鈹(かわ 主にCu2S)を真吹(O2)して銅(Cu)を得る工程のことである。元素記号で表すと以下のようになる。
  真吹  Cu2S + O2 → 2Cu + SO2

この非常に簡単な反応に気づいて、銅の生産に世界で初めて利用したのが山下吹なのである。この原理は現在も世界で使われている。
銅鉱石は鉄を多く含んだ硫化銅が主である。鉄分は鍰(からみ)として除かれ、硫黄分は亜硫酸ガスとして除かれ、金属銅が生まれるのである。江戸時代の日本の一般的な銅製錬の工程は、焙焼→素吹→真吹であり、各工程の主反応のみを記すと以下のようになる(係数は省いた)4)。
焙焼 CuFeS2 + O2→ Cu2S-FeS + Fe2O3 + SO2
   Fe2S + O2 → Fe2O3 + SO2
素吹 Fe2O3 + SiO2 → Fe2SiO4
   Cu2S-FeS + O2 + SiO2 → Cu2S + Fe2SiO4 + SO2
真吹 Cu2S + O2 → 2Cu + SO2
代表的な鉱石である黄銅鉱:CuFeS2  鈹(かわ):主に硫化銅Cu2S  酸化鉄:Fe2O3  鍰(からみ):主にケイ酸鉄Fe2SiO4 亜硫酸ガス:SO2 

大正・昭和初期の平安製錬所跡の調査結果は、「製銅遺跡Ⅰ」に記されている5)。
この遺跡の製錬の炉は、熔鉱炉と真吹炉から構成されている。→写3
熔鉱炉は、焙焼と素吹を合わせて大型に行った炉である。この炉で大半の鉄分は鍰(からみ)となり除かれ、S分の大半が亜硫酸ガスSO2となり除かれる。炉を高温溶融状態にするための燃料C源としては木炭でなくコークスであった。C+ O2 → CO2 + 熱
真吹炉では、熔鉱炉で得られた鈹(Cu2S)に空気(O2)を吹きこんで金属銅(Cu)を得、S分は亜硫酸ガス(SO2)として除かれる。
聞き取り調査結果には「真吹炉では真吹師3人で一昼夜かけて行い、荒銅をヒシャクで型に流し込んだ」とあるので、江戸時代の真吹を続けていたと推測される。
ただ煙害や土地の重金属汚染が懸念され良い鉱石が減り小規模で採算が取れなくなったことなどにより、製錬所は閉鎖されたと推測される。
なお山下吹を南蛮吹と勘違いしているように思われる記述が紹介記事などに見受けられるが、間違いであることをここに記しておきたい。南蛮吹は、鉛を使って粗銅から銀を取り出す製錬法である。蘇我理右衛門が南蛮人に原理を聞き、慶長年間(1596-1615)に開発した技術である。 

山下町・下財町の見学
 天文10年(1541)に塩川国満によって築かれた獅子山城の下の町(さんげ町)である山下町は、江戸初期に北側の武家屋敷跡が銅製錬をする下財屋敷(下財町)と、南側の商人町に変容した。
商人町は碁盤の目の町となっている。下財町には鍰(からみ)の堆積とそれを使った塀が見られる。→写4
また元禄元年(または元禄3年)に作られた銅山役所の位置は、山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史2 巻頭写真 山下町粗絵図)3)を参照すると、左側手前の二階屋(下財町2-19)の場所ではないかと筆者は推測した(2025.6.26訂正)。吹屋地区の出入り口に相当する場所である。→写5

 川西市郷土館と川西市生涯学習課から貴重な情報を頂きお礼申しあげます。

注 引用文献
1. 日本ナショナルトラスト編「自然と文化」夏季号「多田銀銅山の産業遺跡」p59(1981)web. 国会図書館デジタルコレクション
2. 本ブログ 山下吹(10)西尾銈次郎の山下吹
3. 本ブログ 山下吹(11)山下吹の発明者は?
4. 本ブログ 山下吹(25)別子荒銅の製法
5. 兵庫県生産遺跡調査報告第4冊「製銅遺跡Ⅰ」(兵庫県教育委員会 1994) web.

写1 川西市郷土館


写2 「山下吹き」平安製練所跡地の石碑


写3 大正・昭和初期の真吹炉跡


写4 鍰(からみ)を使った塀


写5 山下銅山役所があったと推定する場所



天満村寺尾九兵衛(31)ツタの五輪塔は井源寺にあり天満村で最大であった

2025-04-13 08:18:47 | 趣味歴史推論
 寺尾ツタの墓は井源寺にある。この事について郷土史家岡本圭二郎が次のように記している。1)「ツタの五輪塔は昭和30年頃、寺尾家墓地整備の際に井源寺住職、長惠敞氏の提唱により、坂之内池用水路が流れている境内に移転して祀られた」

1. 六代寺尾九兵衛宗清の妻ツタの墓 井源寺本堂石段脇 
五輪塔 →写1
 五輪高199cm、全高229cm 水輪(玉)径55cm(1.8尺)花崗岩製→図 
 地輪(竿)の北東面(客殿向)→写2       
  (アーク)實乗妙空大姉
       俗名ツタ

 地輪(竿)の南東面 →写3
      寛○○○○
   (ア)為誉(壽)(祥)(迁)霊
           菩提也  
      二月○○日 
       

ツタの位牌  
   寛延4辛未年二月十六日(1751)
 (ア)實乗妙空大姉霊位
  位牌を納めた観音開きの厨子の背裏に
   施主 寺尾新兵衛
   出所大嶋浦上野庄左衞門娘
    俗名 寺尾おつた
    行年 七十四歳 
 
注 實乗:じつじょう 迁:遷

 北東面の刻字は風化していて読みにくく、わずかな刻を頼りに推定して読んだ結果を記した。位牌で戒名、俗名が分っているので、記したが、墓の刻字だけでは読めない。
 南東面は 「為誉(壽)(祥)(迁)霊」と読んだが、()内は読み間違っている可能性がある。
見世野墓地にある最大の五輪塔は 高198cm、全高228cm 水輪(玉)径48cm(1.6尺)花崗岩製である。これは五代寺尾九兵衛善三春清のものであろう。2)ツタの五輪塔は、それと同高であるが、五輪塔の大きさの指標である玉径は55cm(1.8尺)と一回り大きい。ツタがいかに大事に祀られたかがわかる。

2. 九代寺尾貞之進英清の妻ヌイの墓 塚の端墓地
 ヌイの墓は塚の端墓地の中山琴主墓の40m先の本家墓石列の古くから2番目にある。
 寄せ棟家形墓石 →写4
  天明六丙午十月十二日 (1786)→写5
  澗水妙謡大姉
  土居郷士 加地仁右衛門盛内次女
  寺尾貞之進英清室
  俗名ヌイ


 ヌイの位牌
   天明六丙宇午歳十月十二日
(ア)澗水妙謡大姉
  寺尾貞之進英清妻
  俗名ヌイ女

注 澗水:かんすい 谷の水

 寄せ棟家形墓石は珍しい。3) ヌイの墓では、屋根(笠)の上に載っている空輪(宝珠)・風輪(半月)は、元はなかったのではないか。その理由は石の材質が寄棟本体と異なることである。墓を移転するときに、脇にあった五輪塔が破損して横たわっていた宝珠・半月を、寄せ棟家形墓石の一部と勘違いして、屋根に載せたのではなかろうか。
 加地仁右衛門は、土居村の土居組大庄屋で二、三、五、七代が仁右衞門を襲名している。4)盛内は第五代で郷士、大庄屋である。ヌイが嫁入りしたことで、寺尾家と加地家は、大庄屋同士で姻戚関係になった。大庄屋寺尾九兵衛当主年表修正版(2024.12)5)で分るように、十代(九兵衛)米次郎富清と十一代(九兵衛)為蔵盛清は、加地家からの婿入りである。
夫貞之進英清の墓は見世野墓地にあると推定するが、多くの五輪塔の刻字が風化して読みにくく、特定できなかった。

まとめ
1. 寺尾ツタの五輪塔は井源寺にあり、その大きさは五代寺尾九兵衛善三春清の五輪塔と比べて全高は同じであるが水輪(玉)は一回り大きい。
2. 九代寺尾貞之進英清の妻ヌイの墓は塚の端墓地にあり、珍しい寄せ棟家形墓石である。ヌイは土居組土居村の大庄屋加地仁右衛門盛内の次女であった。


注 引用文献
1. 「天神・天満学問の里巡り」10番(天満公民館 令和3年 2021)
2. 本ブログ「 天満村寺尾九兵衛(16)見世野墓地の大きな五輪塔は五代善三春清のではないか」
3. 児玉康兵「尾道の石造文化(2)石工のこころ見聞記第18回」p63 web.尾道市立大学学術リポジトリ
4. 「土居町誌」p84(1984)
5. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(26)宗清と貞之進英清の間に二代の当主がいた」

写1 ツタの五輪塔 井源寺


図 ツタの五輪塔大きさ


写2 ツタの五輪塔 地輪(竿)の北東面


写3 ツタの五輪塔 地輪(竿)の南東面


写4 ヌイの寄せ棟家形墓 塚の端墓地


写5 ヌイの寄せ棟家形墓の墓誌


天満村寺尾九兵衛(30)寺尾ツタは義甥と寛延年間に坂之内池からの水路を完成させた

2025-04-06 08:51:31 | 趣味歴史推論
 坂之内池自体は寛文7年(1667)に築造された。1)しかしこの時点では、水は天満村には流れてこない。水は樋を通って、元の東谷川として阿島に流れていた。それから80余年経った寛延年間(1748~1751)に第六代寺尾九兵衛宗清の妻ツタが村人を指揮して、隧道(ずいどう トンネル)を掘り、天満村(上天満村・下天満村)への水路を完成させた。

1. 池の概要は以下のとおりである。2)
 池の周囲 約4km、面積約6ヘクタール →写1   堰堤の長さ88m、上幅5m、高さ12.5m
 山腹の岩盤を掘り抜いたトンネル水路 長さ 45m 幅0.7m 高さ1.5m →写2

2. 筆者は、ツタの工事の記録を探したが、見つからなかった。西條誌にも記載はなかった。
 池の畔にある昭和5年(1930)建立の坂之内溜池改修記念碑は、昭和4~5年に行われた改修工事のものである。→写3
老朽で漏水がひどくなった木樋に代えて、コンクリート巻口径1尺2寸(36cm)の土管伏樋(ふせどい)を設置した。築造の由来については「坂之内溜池は寛延年間の築造に係り爾来殆ど200年天満村唯一の灌漑水源を為し来たりしを---」としか触れられていない。
 池の畔には他に小さな3石碑がある。→写4
 ① お地蔵さん 左側「三界萬霊」、右側には年月日が陰刻されているようだが、読めない。→写5
 ② 自然石 「坂之内----」の他は読めない。→写6
 ③ お不動さん 「村内安全」年月日はわからない。→7
正確な工事の開始・完成年月はわからないが、ここでは寛延元年(1748)開始、寛延3年(1750)完成と推測して話を進める。

3. ツタを中心にして時系列で見ると以下のようになる。3) 従来の文献の話と大きく異なる。
 ツタの夫宗清は、別子粗銅が天満村を通っていた時の六代当主であり、正徳2年(1712)に没した。七代当主は、宗清の弟貞清(ツタの義弟)が継いで、享保9年(1724)に没した。八代当主は、宗清・ツタの息子である庸清(つねきよ)が継いだが、元文4年(1739)に43歳で没した。庸清の後を、貞清の息子貞之進英清(ツタの義甥)が20歳で九代当主を継いだ。この九代当主貞之進英清が28歳の時、寛延元年(1748)に坂之内池の工事が始まった。この時ツタは71歳であった。工事が寛延3年(1750)完成した後、ツタは寛延4年(1751)年2月16日に没した。享年74。


4. ツタの活躍は、明治以降に書かれた文に次のように記されている。4)5)6)
 ①ツタは白馬に跨がり陣頭指揮をとった。
 ②天満村への水路を作る際に、夜山肌にたくさんの松明(たいまつ))を連ねてそれを遠望して適当な勾配を決めた。

5. 夫宗清と計画し約束した工事を、自分の息子庸清が当主の時にしたかったが、かなわず、息子は43歳で没してしまった。村のためにも自分が生きている間に天満村に水を引こうと強い意志をもって義甥の当主貞之進英清と図り村人を先導して寛延年間に工事を成し遂げたのである。71歳という高齢で白馬に跨がって現場に行き、体力・知力・気力の限りを尽くしたツタに感謝するしかない。
 「宇摩地方の天災」の年表によれば、元禄~享保の間に7回の干ばつが起きている。7)元禄12年(1699)、享保3年(1718)、享保4年(1719)、享保9年(1724)、享保10年(1725)、享保17年(1732)である。天満村でも同じような天候であったと思われるので、凶作に苦しんだことであろう。享保には間に合わなかったが、寛延の坂之内池完成で天満村は潤ったに違いない。

まとめ
六代当主寺尾九兵衛宗清の妻ツタは、夫亡き後、義甥の九代当主貞之進英清と、寛延年間(1748~1751)に坂之内池から、隧道を掘り天満村(上天満村・下天満村)への水路を完成させた。


注 引用文献
1. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(9) 坂之内池自体は寛文7年に築造された」
2. web.「近世以前の土木・産業遺産」>愛媛県>四国中央市>坂之内の隧道
3. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(26) 宗清と貞之進英清の間に二代の当主がいた」
4. 「天神・天満学問の里巡り」7番、10番、12番、94番(天満公民館 令和3年 2021)
5. 土居町誌「坂之内池を築いた寺尾つた女」p831(1984) web. 国会図書館デジタルコレクション
6. ふるさと宇摩の人々「寺尾ツタ」p76(四国中央市教育委員会 2011)
7. 伊予三島市史p368(1984)web. 国会図書館デジタルコレクション

写1 坂之内池


写2 坂之内の隧道(注2の画像(「ブログ四国の古道・里山を歩く」提供)を転載させて頂きました)


写3 坂之内溜池改修記念碑


写4 池の畔の3石碑


写5 お地蔵さん「三界萬霊」年月日は読めない


写6 自然石「坂之内----」


写7 お不動さん「村内安全」




天満村寺尾九兵衛(29)享保時代の天満村

2025-03-09 10:40:59 | 趣味歴史推論
 元禄4年(1691)から天満村を通って運ばれていた別子粗銅や米等は、元禄15年(1702)に新居浜への道(8月)と新居浜口屋(10月)ができたので、天満村を通らなくなった。その約20年後の天満村の様子を、享保6年(1721)に記された天満村明細帳(長野家文書)で調べてみる。この文書は明細帳の写しであり、写し間違いがありうる。
天満村は、延宝5年(1677)に幕府直轄領となり、大坂奉行所の任官する代官が川之江の旧一柳陣屋に常駐した。この代官支配が44年間続いた。その後徳川吉宗の享保の改革が実施される享保6年(1721)7月からは、松山藩御預所(藩主松平隠岐守定英)へと変更となった。御預所支配の範囲は、宇摩、新居両郡内幕僚30ヶ村、別子銅山、讃岐国那珂郡、小豆郡幕領約10ヶ村であった。陣屋は、川之江の旧一柳陣屋を継承し、宇摩郡内の幕領を東西に分けて、東を川之江組(10ヶ村)、西を天満組(13ヶ村)とし、各組に大庄屋と御用達をおいて、末端の実務機関とした。大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。この天満組の大庄屋が寺尾九兵衛である。御預所の最大の任務は、別子銅山の稼働であった。2)

御料天満村享保6年(1721)明細帳 ( )内は筆者の書き込み
 天正15亥年 福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時名寄帳を以て支配仕候
・高679石8斗3升3合 村惣辻高
  内  172石5斗5升3合 寛文10戌年松平左京大夫様御分地(西条領)
  残高 507石2斗8升   御蔵所(幕領)

   高294石5斗3升9合  田25町2反3畝20歩
   高212石7斗3升4合  畑23町8反5畝1歩
 (詳細は略)
(年貢の履歴)
 ・申年(享保元年)御取箇 109石3斗6升2合 高に2つ1分5厘6毛 毛付2つ4分
  但し半年御年貢米皆済已後、御加免仰付けられ候御付紙の趣
  ・申年取米(享保元年)111石8斗9升6合 本田畑 高2つ2分6毛 毛付2つ4分5厘6毛
 ・酉年(享保2年)御取箇 119石5斗7升1合 高2つ3分5厘7毛 毛付2つ2分6厘
 ・戌年(享保3年)御取箇 69石2斗6升 高1つ3分6厘5毛 毛付2つ6分6厘
 ・亥年(享保4年)御取箇 99石3斗4升7合 高に1つ9分5厘8毛 毛付2つ7分
 ・子年(享保5年)御取箇 105石4斗1升9合 高2つ7厘8毛 毛付2つ7分
・小物成
 ・銀94匁8歩4厘4毛  定納綿代 
    これは真綿1貫185匁5分4厘代 但し100目に付き銀8匁宛て
 ・同6匁8歩2厘4毛  定納苧(からむし)の代
    これは2巻729匁3分の代 但し100目に付き銀2分5厘宛
 ・同65匁6分7厘4毛   定納山手銀
    これは入会山内山へ古来より出し来申候
 ・同21匁3分2厘3毛  定納塩浜運上金
    これは塩主より出申候
 ・同5匁1歩1厘8毛   定納鉄炮役銀
    これは持主より出し申候
  右5口の内にて、銀17匁2分6厘松平左京大夫様へ御分地の節算用違い御座候て、年々村内より惑い申し候、内6匁2分3厘6毛は松平左京大夫様へ上納差上げ来申候
 ・同25匁       年々不同茶分一銀
    但し茶25俵分一銀茶30斤入1表に付き1匁宛
 ・同12匁       年々不同宿請銀
    但し船1艘に付き銀6匁宛船2艘分
 ・同24匁       年々不同樵木分一銀
    但し船3艘の分 7端帆1艘に付き銀8匁宛
 ・同12匁5分     年々不同小網運上銀
 ・米5斗6升8合    松実植定年貢
 ・銀77匁2分6厘    江戸御蔵米(蔵前の間違い)入用銀
 ・米1石3斗      御六尺給米
 ・同3斗6升8夕    御伝馬宿入用
  〆
・御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程新居郡新居浜山師両口屋まで船路3里程御座候
・堤川除沼当て井堰御普請所毎年被損御座候 但し松平左京大夫様御領分立合
・伏樋6ヶ所・指樋浜手御普請所御座候  右同断
・用水溜め池3ヶ所 板(坂の間違い)の内1ヶ所 54年以前御入用にて出来仕候
(この項は「天満村寺尾九兵衛(9)坂之内池自体は寛文7年に築造された」で既出)
     白井、小山田2ヶ所 131年以前出来申候 右同断
   但3ヶ所の小池は近辺の田地までの用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付き3坪より6坪まで百姓田地の内に御座候
・御高札10枚
  内1枚は忠孝の御札、1枚は浦方御札、1枚は切支丹御札、1枚は毒薬質素御札、一枚は海上船御札、1枚は人売買、1枚は放火の御札、1枚は伴天連御札、1枚は抜荷御札、1枚は異国船御札
(山林)
 ・西之山 松御林1ヶ所 たて970間 横900間 この反別291町歩 外野山39町歩 たて130間横900間
 ・宮山 松実植林 たて162間横70間 この反別3町7反8畝歩 但し古来より実植(みうえ)林にて氏宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
 ・権現谷 松実植林 たて20間横15間 この反別1反歩 但し古来より実植林にて権現宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
 ・大地山 松実植林 たて150間横65間 この反別3町2反5畝歩 林主 九兵衛
  右3ヶ所実植林は百姓実植に仕り、立木は川除並びに道橋等御用立ち置き、下枝下草は林主伐遣し申候
 ・ひしは 松実植林 定年貢地 この反別1町3畝10歩  林主 平左衛門
・当村に古来より常市御座候
・当村草刈場は御料浦山村津根山村にて薪肥草等苅来り申し候 道のり2里半より4里程御座候
・船6艘 但3反帆より15端帆まで
・家数176軒 内 92軒高持百姓、84軒家来水呑
・人数889人 内 男467人 女422人
・牛馬65疋 内 牛64疋 馬1疋
・正徳5未年御改 酒造株5軒
   1石1斗3升    平左衛門
   2石5斗5升    徳之丞
   1石6斗1升4合  喜左衛門
   3石4斗2升    九兵衛
   2石1斗3升    弥一右衛門
・(?)家数12軒 人数70人 内男36人 女34人
・百姓作間の稼ぎは、男は上方へ樵木(こりき)積み申し、並びに、日雇賃持または両銅山稼ぎに罷り出、女は木綿(わた)布(し)き並びに薪(たきぎ)こり申し候
(職人)
 医師2人、大工2人、桶屋3人、木挽2人、鍛冶2人、紺屋4軒
・天満村東西6町程南北12町程
  枝郷 大西山田 当村より6町ほど、塩屋 3町ほど
(給米用の年貢)
 ・米5石7升2合8夕   大庄屋一分米
 ・同1石3升8夕     同二厘米
 ・同1石5斗      紙筆墨代
 ・同3石        組頭2人給
 ・同2石5斗2升     小走給米 
 ・同1斗        御札場地敷米
 ・同3斗7升5合     坂ノ内樋守給
 ・同5石6斗       西ノ尾松林山守給
 ・同3斗        御蔵番人給
 (大庄屋寺尾九兵衛宅)
庄屋屋敷惣囲 長さ40間、横30間 (1200坪)
 本家梁行5間 棟行13間
 座敷 上の間 8畳鋪、次の間10畳鋪、同7畳鋪、同10畳鋪、玄関10畳鋪、広間15畳鋪、次の間6畳鋪、台所30畳鋪、竈屋梁行4間 棟行6間、門長屋梁行2間半棟行15間 外に、郡屋、石物蔵、酒蔵、土蔵あり。
 (寺社)
・真言宗雨宝山多聞院井源寺  境内長80間 横60間 
(この項は「天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた」で既出)
 ・瓦葺 梁行4間、棟行6間 高さ4間半
    本尊 大日座像1尺3寸・不動立像3尺5寸・大師座像1尺3寸
 ・毘沙門堂 瓦葺 2間4方 本尊毘沙門天立像1尺9寸
 ・十王堂 瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間 本尊地蔵立像1尺4寸・脇立十王座像1尺1寸
 ・鐘楼 瓦葺 1間四方 高2間
・庵1軒 篠葺 2間四方 高2間半 境内 長7間 横4間  庵守道心良円
    これは実植林の内に御座候
 ・右庵地境内 観音堂  瓦葺 2間四方 高2間半
            本尊 観世音立像 1尺3寸
            脇立 阿弥陀立像 1尺9寸
               地蔵立像  1尺2寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長9間 横3間 庵守道心道清
 ・右庵地の内薬師堂 篠葺 1間半使用 高さ2間半
            本尊 薬師立像  1尺8寸
            脇立 地蔵立像  1尺
               大師座像  5寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長25間 横15間 庵守出家真任
 ・右庵地の内阿弥陀堂 瓦葺 2間四方 高さ2間半
             本尊 阿弥陀立像 1尺5寸
             脇立 大師座像  1尺5寸
                地蔵座像  1尺7寸
  これは墓所にて御座候
・氏宮 天神宮八幡宮 1社境内 長25間 横7間
    こけら葺 2間四方 高さ4間
     瓦葺 幣殿 梁行2間 棟行3間 高さ3間
     同  拝殿 梁行3間 棟行5間 高さ3間
     瓦葺 鐘楼 2間四方 高さ3間 神主塩見伊勢守
 当村より道のり
 ・江戸え海路 202里 東に当る
 ・大阪へ海路 68里  右同断
 ・讃州丸亀へ 13里  右同断
 ・同国高松へ 21里  右同断
 ・阿州徳嶋へ 27里  右同断
 ・土州高知へ 24里  南に当る
 ・当国西條へ  4里  西に当る
 ・同小松へ  5里  右同断
 ・同今治へ  10里  右同断
 ・同松山へ  19里  右同断

注釈・知見など
1. 村石高は天正検地の数値が、慶長、寛文、享保でずっと使われている。
寛文10年(1670)1/4が西条領へ分地され(上天満村)、3/4が幕領(天領、公料、御料)(下天満村)とされた。石高が、西条領0.2538:幕領0.7462 =1:3となっていることが確認できる。
2. 御取箇:江戸時代、田畑に課した年貢のこと。成箇(なりか)。物成(ものなり)。取り。
年貢の履歴
幕領の御取箇(年貢)は、石高に対し、2割2分5厘程度、毛付で2割4分程度である。(507.28石×0.225=114石)
享保3年(1718)の年貢は例年の約61%であり、享保4年(1719)は87%であった。この不作の原因を知るべく宇摩地方の天災の記録を調べると以下のとおりであった。3)
① 享保3年6月 大干ばつ、雨乞い
② 享保4年8月27日 雹が降り大干ばつ、飢饉

3. 苧(からむし):カラムシの茎(から)を蒸(む)して皮を剥ぎ、衣類の繊維を採った。繊維が丈夫だったことから、古代から衣類の原料として最もよく使われた。ここでは巻とあるので、編んだ布単位に対し課税。
4. 宿請銀:船1艘につきを単位としているので、船宿経営への課税であろう。
5. 「樵木分一銀」:樵木(こりき)とは、薪(まき)で燃料にする。上方へ船で運んだので、樵木の量を7端帆1船が年間に運ぶ単位で数え、課税したのであろう。
6. 江戸御蔵前入用銀:(おんくらまえにゅうようぎん)浅草米蔵の諸入用にあてるため、元禄2年以降高百姓(100石)につき永250文(上方は銀15匁)を徴収した。4)
7. 御六尺給米(おんろくしゃくきゅうまい):幕府の雑役夫の給米にあてるため直轄領諸村に対し賦課された租税で、享保6年以降石高100石につき2斗であった。4)
8. 御伝馬宿入用(ごてんましゅくにゅうよう):幕府の直轄地に賦課された役で、御蔵前入用、六尺給米とともに高掛物三役の一つ。高100石につき6升定納。4)
9. 「御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程」とある。1町=60間=109m よって3町=109×3=327mとなる。浜まで327mの場所に御蔵(おくら)があることを意味しており、御蔵は、「天満村寺尾九兵衛(8) 慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」で推定した場所は妥当であるといえる。
10. 川除(かわよけ):江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。
11. 「毒薬質素御札」:「毒薬札」という高札は、「毒薬ならびに似せ薬の売買の禁止を最初の条として、いろいろな条が列記されていた。質素の項は、吉宗の享保の改革で付け加えられたと思われる。毒薬とは、石見国笹ヶ谷鉱山から産出された硫砒鉄鉱から作られた殺鼠剤で、俗に「石見銀山」「猫いらず」という名前で流通していた。5)
12. 「 ひしは 松実植林」:「ひしは」は「ひじば」か。「ひじ」は洲(す)4)。洲場か、洲に近い所にある林か。
13. 常市:この市は別子銅山関係の物流で栄えた「市場」を指すのか。
14. 「大地山 松実植林」と「酒造株」を寺尾九兵衛は所有していた。
15. 百姓作間の稼ぎ:百姓が農業の傍ら、稼いでいた仕事として、男は、①上方へ送る樵木を船に積む仕事 ②日雇いで品物や荷物を運ぶ仕事 ③別子・立川両銅山での仕事、女は、①綿をつむぎ布を織る仕事 ②たきぎこり(薪樵):たきぎを伐り出す仕事 であった。
15. 木挽(こびき):木材を「大鋸」(おが/おおが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者。
16. 庄屋役料 貞享3年(1686)伊予代官は幕領の庄屋役料を、その村の石高の1分と決めた。これが定法となり、一分米といわれた。2)
 大庄屋には、組内村々から 村高の2厘が役料として追加される。大庄屋二厘米という。
17. 庄屋屋敷は、村役場でもある。
郡屋(ぐんや):郡内の村役人の集会所
18. 観音堂の本尊 観世音立像 1尺3寸は、49番「観音菩薩」立像 高さ39cm 台座11cmである。6)
19. 大阪へ海路:享保時代に大坂でなく大阪と書いているのは、めずらしいのではないか。

注 引用文献
1. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)
御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書 横半帳の内)
2. 「川之江市誌」p175~179  p154(昭和59 1984)
大庄屋の役割について「川之江市誌」の記述。
「大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。大庄屋は村方庄屋兼帯であり、原則としては世襲であり、子供も苗字帯刀御免の待遇である。大庄屋は近村の郡方御用を勤め、郡中割の決定に参加し、村方の年貢、小物成、運上等の取立案を作ったり、普請の地方負担分の割振りや、公事、御願事の取次ぎ、村々間の争いの調停、軽犯罪の処分等である。その他、他領大庄屋との交渉の責にもあたる。」
「御用達とは、川之江陣屋では、陣屋の年貢や夫食米、普請の出歩役等について、元締の考えを各村庄屋へ伝達する役目をいう。」
3. 「伊予三島市史」上 p368(1984)国会図書館デジタルコレクション
4. 日本国語大辞典(小学館 昭和48年1973)
5. ブログ「おかやまぷろむにゃーど」>毒藥札について(2016.12.28)
6. 「天満・天神 学問の里巡り」49番(天満公民館 令和3年 2021)
    

天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた

2025-03-02 08:49:13 | 趣味歴史推論
1. 井源寺縁起1)によれば、清賢寺は、弘仁6年(816)弘法大師が四国八十八ヶ所開創のおり、この地に創建したと伝えられている。本尊は毘沙門天(福徳神・武運神)で、雨寳山多聞院清賢寺と命名された。宝蔵寺・円蔵寺・地蔵寺(地名のみ現存)等の青年僧修行寺を直轄した。古来皇室の信仰厚く、延喜年間(900年頃)伊予国司が訪れ寺の興隆をはかったと伝えられる。中世では武将・守護職が武運を祈願したと伝えられる。南北朝から天正の約200年間は当地方も荒れた。清賢寺は天正13年(1585)7月秀吉の四国征伐軍の侵攻で焼失した。

2. 再建
 寺の再建は、天満村が別子銅山の粗銅・米等の道として繁栄していた元禄後期~宝永になされたと伝えられるが、史料がないようで、正確に決めがたい。正徳4年(1714)に、豊かな水を願って、清賢寺から井源寺への改称が、京都大覚寺より許可されているので、この時には遅くとも再建されていたであろう。元禄~宝永以降、寺は火災にあわなかったので、再建についての史料が見つかることを期待したい。
 井源寺縁起によれば、現在境内に残る元禄前後の墓石名より考えて、寺尾家・山中家・近藤家・岸家等の檀家が再建に大きく与力したと考えられるとのことである。
当時の大庄屋寺尾家当主は六代宗清(1712没)であり、先代(五代)春清(1709没)は隠居していたが金毘羅宮への青銅燈籠奉献(元禄9年頃1696,宝永3年1706)や天満神社本殿再建(元禄11年1698)に活動していたと考えられる。二人の存命時(元禄~宝永)に寺の再建がなされたのであろう。 

3. 再建された寺の様子が、享保6年の長野家文書2)に記されている。

長野家文書 御料天満村享保6年(1721)明細帳
真言宗雨宝山多聞院井源寺   境内 長80間 横60間
          瓦葺 梁行4間 棟行6間 高さ4間半
                       本尊 大日座像 1尺3寸
                          不動立像 3尺5寸
                          大師座像 1尺3寸
  毘沙門堂    瓦葺 2間四方 高さ3間
                       本尊 毘沙門天立像 1尺9寸
  十王堂     瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間
                       本尊 地蔵立像 1尺4寸
                       脇立 十王座像 1尺1寸
  鐘楼      瓦葺 1間四方 高2間


これから、当時の堂宇が境内のどこに配置されていたかを推理する。
(1)一番目の堂宇の名称が書かれていないが、最も重要な堂宇のはずであり、筆者は(本堂+客殿)を指していると推測する。その根拠は、以下のとおりである。
 ① 3尊の本尊(すなわち大日如来・不動明王・弘法大師)があること。
 ② 毘沙門天は毘沙門堂にあること。毘沙門天のいる堂宇が本堂と書かれていないこと。
これから、その当時の寺の本尊は、3尊(大日如来・不動明王・弘法大師)であった可能性が高い。
 ③ 本堂と並んで、客殿は必須である。
 この堂宇の場所は現在の客殿の位置と推定する。なぜなら、最も大きな堂宇であり、中腹にあるより客殿の使い勝手が良いからである。→写1
(2)毘沙門堂
 毘沙門堂は、現在の護摩堂(2.2間四方)の位置と推定する。
 その根拠は、
 ① 護摩堂脇に「護摩堂新建立 平成3年1月 旧毘沙門堂」の石碑がある。→写6
 ② 明治初年の記録がある。1)
   本尊 毘沙門天 
   本堂 2間四方
   客殿 7間と5間 
   庫裡 5間四方 
   鐘楼 1間半四方
   仏堂 2棟
 
 これから、明治初年には、本尊毘沙門天が祀られた2間四方の堂宇を本堂と呼んでいることがわかる。毘沙門堂を本堂とも呼んでいたのではないか。
(3)十王堂3)
 十王堂は毘沙門堂より大きくて、役割や境内の平地を考えると中腹の現在の本堂の位置にあったと推定する。
 現在の本堂(5間四方)は昭和12年1月に建立された(住職長良栄・副住恵敞)。十王堂に代わってそこに本堂が建てられたと推理する。その時に、毘沙門天・大日如来・不動明王・弘法大師の像が本堂に集められたのだろう。その後不動明王像は護摩堂に移されたのであろう。本堂の瓦紋は九曜紋(九曜星紋)と右三つ巴紋の両方が見られる。→写2,3
(4)鐘楼 
 現在の鐘楼(1間半)の位置と推定する。
現鐘楼(1間半四方)の竣工は、柱や瓦の新しさから、現在の客殿と同じ頃と推定される。瓦紋は九曜紋である。→写7
 梵鐘は、初鋳は元禄~宝永時代に、二鋳は文化14年(1817)寺尾九兵衛米次郎富清4)寄進により、(これは昭和16年(1941)戦時供出)、三鋳は昭和36年(1961)総檀徒中によりなされた。→写8

 現在の客殿(8間×7間)と庫裡は昭和63年3月27日(1988)に竣工し、落慶法要が平成元年3月28日(1991)に行われた。→写4,10 
瓦紋は寺紋の九曜紋である。→写5 
山門は昭和48年(1973)に再建された。→写9
結局、元禄~宝永時代に再建された堂宇は残っていない

4. 現在の仏像との比較
 享保6年の仏像と「天満・天神 学問の里巡り」記載(54番~58番)5)の現存する仏像とを比べてみる。
 享保6年                現在                    同一性
大日座像 1尺3寸(39cm)   56番本堂  大日如来座像 座高62cm 台座12cm    異なる
不動立像 3尺5寸(105cm)   57番護摩堂 不動明王立像 像高111cm 台座13cm    一致
大師座像 1尺3寸(39cm)   58番本堂  弘法大師座蔵 座高29.5cm        ほぼ一致
毘沙門天立像 1尺9寸(57cm) 54番本堂  毘沙門天立像 像高61cm 台座9cm     一致
-----------            55番本堂  吉祥天立像  像高41cm 台座7cm
地蔵立像 1尺4寸(42cm)   -----------
十王座像 1尺1寸(33cm)   -----------

 像の大きさと座像立像からだけの判断であるが、両者が同一であるかどうかを推定した。
昔の大日座像の座高1尺3寸が正しいければ、現在の大日如来座像は、異なることになる。ただ昔の記載値の間違いという可能性もあるので、断定はできない。
現在、毘沙門天立像は厨子に安置され、その妃の吉祥天立像と息子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)を伴っているが、享保の文書では、吉祥天、善膩師童子を書き忘れたのか。
その他の仏像は、享保6年当時の仏像であるといえよう。
地蔵立像と十王座像(閻魔王)は未確認であるが、本堂にあるのではないだろうか。

まとめ
1. 井源寺の再建は、別子銅山が開坑して粗銅・米などの輸送で天満村が賑わっていた元禄~宝永の時代に、多くの檀家の与力によってなされたようだが、直接の史料がない。再建後の正徳4年に清賢寺から井源寺へ改称された。
2. 当時の寺尾家当主は六代宗清であり、先代春清も存命していた。
3. 長野家文書(享保6年)によれば、本堂に3尊の本尊(大日如来・不動明王・弘法大師)、毘沙門堂に本尊毘沙門天、十王堂に本尊地蔵菩薩・閻魔王座像が祀られていた。
4. 現在の仏像は多くがその頃のものであることがわかった。
5. 再建当時の堂宇は残ってないが、その位置を推定した。


注 引用文献
1. 「井源寺縁起」(口述22世住職長恵敞 編集岸政彦 昭和48年2月 1973)
2. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)の内「御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書)
3. 十王(じゅうおう)は冥界にあって死者の罪業を裁判する10人の王で、閻魔王(えんまおう)は没後五七日(35日)に裁きを行う。閻魔王は地蔵菩薩と組になるが、ここでは本尊が地蔵菩薩で、脇立が閻魔王となっている。
4. 第10代寺尾九兵衛米次郎は、貞治郎、貞次郎の名もある。1704生年~1804没年。生前に寄進し、梵鐘が鋳られたのは、文化14年(1817)である。
5. 「天満・天神 学問の里巡り」54番~58番(天満公民館 令和3年 2021)

写1 井源寺全景(左から山門、本堂(中腹)、客殿、庫裡 2025.2.27)


写2 本堂


写3 本堂の瓦


写4 客殿


写5 客殿の瓦


写6 護摩堂


写7 鐘楼


写8 梵鐘


写9 山門


写10 庫裡