山下吹の発祥の地である川西市山下町・下財町を令和7年(2025)6月6日に訪ねた。町の北奥に江戸時代から昭和初期まで銅製錬をしていた平安(ひらやす)家住宅を利用した川西市郷土館がある。→写1
山下吹に関した標示物としては、唯一、郷土館の開館を記念して建立されたと思われる石碑があった。→写2
「山下吹き」平安製練所跡地
遠き昔の日よりこの地、下財にて製銅の業に力を注ぎ、それはそれなりの長き年月を過した多くの人々の、努力は何にも変えがたきものと感謝して、ここにささやかな碑を建立しました。
昭和六十二年五月吉日 平安 琴 建立
「山下吹き」の言葉を残し、この地で製錬してきた人に感謝を表した立派な碑であり、筆者は大変うれしかった。
平安琴(ひらやすこと)は、平安邦太郎(ひらやすくにたろう)の息子平安秋次の妻である1)。平安邦太郎は明治・大正期の下財町平安家の当主で、銅製錬、採鉱、能勢電鉄,猪名川水力発電所の事業等を行った実業家である2)。
平安家の屋号は、銅屋(あかがねや)であり、当主は江戸時代には新右衞門を襲名しており、銅製錬、採鉱、銅山経営を業としてきた。銅屋新右衞門の名は、正徳6年(1716)から記録に残っている3)。
山下吹は、江戸初期にこの山下町下財屋敷で発明されたと考えるのが最も妥当であることを筆者はブログ山下吹(1)~(27)で論じてきた。山下吹の核心の技術は、真吹である。真吹は世界に誇る大発明であり、外国(中国、朝鮮、南蛮)から伝来したものではない。
ここで山下吹をわかりやすく説明したい。
山下吹は、素吹して得た鈹(かわ 主にCu2S)を真吹(O2)して銅(Cu)を得る工程のことである。元素記号で表すと以下のようになる。
真吹 Cu2S + O2 → 2Cu + SO2
この非常に簡単な反応に気づいて、銅の生産に世界で初めて利用したのが山下吹なのである。この原理は現在も世界で使われている。
銅鉱石は鉄を多く含んだ硫化銅が主である。鉄分は鍰(からみ)として除かれ、硫黄分は亜硫酸ガスとして除かれ、金属銅が生まれるのである。江戸時代の日本の一般的な銅製錬の工程は、焙焼→素吹→真吹であり、各工程の主反応のみを記すと以下のようになる(係数は省いた)4)。
焙焼 CuFeS2 + O2→ Cu2S-FeS + Fe2O3 + SO2
Fe2S + O2 → Fe2O3 + SO2
素吹 Fe2O3 + SiO2 → Fe2SiO4
Cu2S-FeS + O2 + SiO2 → Cu2S + Fe2SiO4 + SO2
真吹 Cu2S + O2 → 2Cu + SO2
代表的な鉱石である黄銅鉱:CuFeS2 鈹(かわ):主に硫化銅Cu2S 酸化鉄:Fe2O3 鍰(からみ):主にケイ酸鉄Fe2SiO4 亜硫酸ガス:SO2
大正・昭和初期の平安製錬所跡の調査結果は、「製銅遺跡Ⅰ」に記されている5)。
この遺跡の製錬の炉は、熔鉱炉と真吹炉から構成されている。→写3
熔鉱炉は、焙焼と素吹を合わせて大型に行った炉である。この炉で大半の鉄分は鍰(からみ)となり除かれ、S分の大半が亜硫酸ガスSO2となり除かれる。炉を高温溶融状態にするための燃料C源としては木炭でなくコークスであった。C+ O2 → CO2 + 熱
真吹炉では、熔鉱炉で得られた鈹(Cu2S)に空気(O2)を吹きこんで金属銅(Cu)を得、S分は亜硫酸ガス(SO2)として除かれる。
聞き取り調査結果には「真吹炉では真吹師3人で一昼夜かけて行い、荒銅をヒシャクで型に流し込んだ」とあるので、江戸時代の真吹を続けていたと推測される。
ただ煙害や土地の重金属汚染が懸念され良い鉱石が減り小規模で採算が取れなくなったことなどにより、製錬所は閉鎖されたと推測される。
なお山下吹を南蛮吹と勘違いしているように思われる記述が紹介記事などに見受けられるが、間違いであることをここに記しておきたい。南蛮吹は、鉛を使って粗銅から銀を取り出す製錬法である。蘇我理右衛門が南蛮人に原理を聞き、慶長年間(1596-1615)に開発した技術である。
山下町・下財町の見学
天文10年(1541)に塩川国満によって築かれた獅子山城の下の町(さんげ町)である山下町は、江戸初期に北側の武家屋敷跡が銅製錬をする下財屋敷(下財町)と、南側の商人町に変容した。
商人町は碁盤の目の町となっている。下財町には鍰(からみ)の堆積とそれを使った塀が見られる。→写4
また元禄元年(または元禄3年)に作られた銅山役所の位置は、山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史2 巻頭写真 山下町粗絵図)3)を参照すると、左側手前の二階屋(下財町2-19)の場所ではないかと筆者は推測した(2025.6.26訂正)。吹屋地区の出入り口に相当する場所である。→写5
川西市郷土館と川西市生涯学習課から貴重な情報を頂きお礼申しあげます。
注 引用文献
1. 日本ナショナルトラスト編「自然と文化」夏季号「多田銀銅山の産業遺跡」p59(1981)web. 国会図書館デジタルコレクション
2. 本ブログ 山下吹(10)西尾銈次郎の山下吹
3. 本ブログ 山下吹(11)山下吹の発明者は?
4. 本ブログ 山下吹(25)別子荒銅の製法
5. 兵庫県生産遺跡調査報告第4冊「製銅遺跡Ⅰ」(兵庫県教育委員会 1994) web.
写1 川西市郷土館

写2 「山下吹き」平安製練所跡地の石碑

写3 大正・昭和初期の真吹炉跡

写4 鍰(からみ)を使った塀

写5 山下銅山役所があったと推定する場所

山下吹に関した標示物としては、唯一、郷土館の開館を記念して建立されたと思われる石碑があった。→写2
「山下吹き」平安製練所跡地
遠き昔の日よりこの地、下財にて製銅の業に力を注ぎ、それはそれなりの長き年月を過した多くの人々の、努力は何にも変えがたきものと感謝して、ここにささやかな碑を建立しました。
昭和六十二年五月吉日 平安 琴 建立
「山下吹き」の言葉を残し、この地で製錬してきた人に感謝を表した立派な碑であり、筆者は大変うれしかった。
平安琴(ひらやすこと)は、平安邦太郎(ひらやすくにたろう)の息子平安秋次の妻である1)。平安邦太郎は明治・大正期の下財町平安家の当主で、銅製錬、採鉱、能勢電鉄,猪名川水力発電所の事業等を行った実業家である2)。
平安家の屋号は、銅屋(あかがねや)であり、当主は江戸時代には新右衞門を襲名しており、銅製錬、採鉱、銅山経営を業としてきた。銅屋新右衞門の名は、正徳6年(1716)から記録に残っている3)。
山下吹は、江戸初期にこの山下町下財屋敷で発明されたと考えるのが最も妥当であることを筆者はブログ山下吹(1)~(27)で論じてきた。山下吹の核心の技術は、真吹である。真吹は世界に誇る大発明であり、外国(中国、朝鮮、南蛮)から伝来したものではない。
ここで山下吹をわかりやすく説明したい。
山下吹は、素吹して得た鈹(かわ 主にCu2S)を真吹(O2)して銅(Cu)を得る工程のことである。元素記号で表すと以下のようになる。
真吹 Cu2S + O2 → 2Cu + SO2
この非常に簡単な反応に気づいて、銅の生産に世界で初めて利用したのが山下吹なのである。この原理は現在も世界で使われている。
銅鉱石は鉄を多く含んだ硫化銅が主である。鉄分は鍰(からみ)として除かれ、硫黄分は亜硫酸ガスとして除かれ、金属銅が生まれるのである。江戸時代の日本の一般的な銅製錬の工程は、焙焼→素吹→真吹であり、各工程の主反応のみを記すと以下のようになる(係数は省いた)4)。
焙焼 CuFeS2 + O2→ Cu2S-FeS + Fe2O3 + SO2
Fe2S + O2 → Fe2O3 + SO2
素吹 Fe2O3 + SiO2 → Fe2SiO4
Cu2S-FeS + O2 + SiO2 → Cu2S + Fe2SiO4 + SO2
真吹 Cu2S + O2 → 2Cu + SO2
代表的な鉱石である黄銅鉱:CuFeS2 鈹(かわ):主に硫化銅Cu2S 酸化鉄:Fe2O3 鍰(からみ):主にケイ酸鉄Fe2SiO4 亜硫酸ガス:SO2
大正・昭和初期の平安製錬所跡の調査結果は、「製銅遺跡Ⅰ」に記されている5)。
この遺跡の製錬の炉は、熔鉱炉と真吹炉から構成されている。→写3
熔鉱炉は、焙焼と素吹を合わせて大型に行った炉である。この炉で大半の鉄分は鍰(からみ)となり除かれ、S分の大半が亜硫酸ガスSO2となり除かれる。炉を高温溶融状態にするための燃料C源としては木炭でなくコークスであった。C+ O2 → CO2 + 熱
真吹炉では、熔鉱炉で得られた鈹(Cu2S)に空気(O2)を吹きこんで金属銅(Cu)を得、S分は亜硫酸ガス(SO2)として除かれる。
聞き取り調査結果には「真吹炉では真吹師3人で一昼夜かけて行い、荒銅をヒシャクで型に流し込んだ」とあるので、江戸時代の真吹を続けていたと推測される。
ただ煙害や土地の重金属汚染が懸念され良い鉱石が減り小規模で採算が取れなくなったことなどにより、製錬所は閉鎖されたと推測される。
なお山下吹を南蛮吹と勘違いしているように思われる記述が紹介記事などに見受けられるが、間違いであることをここに記しておきたい。南蛮吹は、鉛を使って粗銅から銀を取り出す製錬法である。蘇我理右衛門が南蛮人に原理を聞き、慶長年間(1596-1615)に開発した技術である。
山下町・下財町の見学
天文10年(1541)に塩川国満によって築かれた獅子山城の下の町(さんげ町)である山下町は、江戸初期に北側の武家屋敷跡が銅製錬をする下財屋敷(下財町)と、南側の商人町に変容した。
商人町は碁盤の目の町となっている。下財町には鍰(からみ)の堆積とそれを使った塀が見られる。→写4
また元禄元年(または元禄3年)に作られた銅山役所の位置は、山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史2 巻頭写真 山下町粗絵図)3)を参照すると、左側手前の二階屋(下財町2-19)の場所ではないかと筆者は推測した(2025.6.26訂正)。吹屋地区の出入り口に相当する場所である。→写5
川西市郷土館と川西市生涯学習課から貴重な情報を頂きお礼申しあげます。
注 引用文献
1. 日本ナショナルトラスト編「自然と文化」夏季号「多田銀銅山の産業遺跡」p59(1981)web. 国会図書館デジタルコレクション
2. 本ブログ 山下吹(10)西尾銈次郎の山下吹
3. 本ブログ 山下吹(11)山下吹の発明者は?
4. 本ブログ 山下吹(25)別子荒銅の製法
5. 兵庫県生産遺跡調査報告第4冊「製銅遺跡Ⅰ」(兵庫県教育委員会 1994) web.
写1 川西市郷土館

写2 「山下吹き」平安製練所跡地の石碑

写3 大正・昭和初期の真吹炉跡

写4 鍰(からみ)を使った塀

写5 山下銅山役所があったと推定する場所
