気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(9) 坂之内池自体は寛文7年に築造された

2024-08-25 08:10:47 | 趣味歴史推論
 坂之内池については、寛延年間(1748~1751)に天満村大庄屋寺尾九兵衛の妻ツタが村人を指揮して、池を作り、隧道(ずいどう トンネル)を掘り、天満村への水路を完成させたと郷土史に書かれている。しかし、実情は少し違うのではないかというところを古文書で見つけたので、記しておきたい。

長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」1)→写
・用水溜池3ヶ所     壱ヶ所 板之内     54年以前御入用にて出来仕候
             弐ヶ所 白井・小山田  131年以前出来申候
     右同断*1
但三ヶ所の小池近辺の田地迄の用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付3坪より6坪迠 百姓田地の内に御座候
(中略)
・米5石7升2合8夕*2   大庄屋1分米
・同1石3升8夕      同 2厘米
・ (中略)
・同3斗7升5合      坂ノ内樋守給2)
・同5石6斗        西ノ尾(山?)松林山守給
・同3斗         御蔵番人給

*1右 は前項目に書かれた「但松平左京太夫様御領分入会」を意味する。
*2 大庄屋給  大庄屋給として、各村から2厘米の他に高100石に付き1分定納として徴収した。

検討
1. 土居町郷土史料第六集の長野家文書では、1カ所の池の名を「板(ママ)之内」とあるので、原典の状況を調べるべく、所蔵する四国中央市歴史考古博物館にお願いして、その部分の写しをいただいた。
それを見ると確かに「坂之内」ではなく「板之内」である。文書を書いた、あるいは書き写した人が書き違えたと推定した。郷土史家の村上光信は、(ママ)でそれを表した
坂之内池であることは、後半に記された「坂ノ内樋守給」の存在でも確認できる。大庄屋給と同じように、樋守りへ給が支払らわれていたからである。これは享保6年(1721)のことである。
溜池3ヶ所の最初に挙げられているので、最も大きい池であろう。板之内という地名はない。これらの事から、1カ所は 坂之内池であると結論できる。ツタはこの古く作られた池を大きく増強する工事もした可能性はある。
2. ほぼ同じことが、加地家文書に書かれている。3)
「・坂之内用水池 54年以前御入用にて出来つかまつり申し候
 ・白井・小山田2ヶ所用水池、131年以前出来つかまつり申し候」
しかしこの文書が書かれた年は享保13年(1728)と推定され、長野家文書より新しいにも拘わらず、54年前に出来たと記しており、長野家文書を写したようなので、採用しなかった。ここでは、「坂之内」としている。ただ原典でそうなのか、読み下した編者が直しているのかは確認していない。
3. 享保6年の54年前は(1721-54=)1667寛文7年に相当する。別子銅山開坑より24年前、寺尾ツタの築造より81年も前のことである。この池は近辺の田地までの用水であった。山を越えた東の天満村には水は届かなかったので村民は水の恵みを受けられなかった。
4. 時代的にみて、大庄屋寺尾九兵衛(三代九兵衛成清)が池の築造を指揮したと推定する。田の水を確保することは重要なので、まずは近辺田用としてでもよいから、堰き止め工事を行って堤を作った。そして山を越えた天満村にいつか隧道を掘って水を流すことを計画していたに違いない。しかし、労力、資力が足りないので延び延びになっていたと思われる。また銅山開坑で村は忙しかったこともあろう。
5. 白井・小山田池ができたのは、享保6年の131年前で、(1721-131=)1590年天正18年である。天正の陣の後である。初代寺尾九兵衛より1代ほど前に相当するであろうか。
6. 御蔵番人給の記載があることから、享保6年(1721)に御蔵(おくら)があったことがわかる。

まとめ
坂之内池自体は寛文7年(1667)に築造された。


 長野文書の写真では、四国中央市歴史考古博物館学芸員の伊藤吏沙様にお世話になりました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 土居町郷土史料第六集「村々明細帳」p19(土居町教育委員会 平成元年 1989)村上光信編述
 明細帳の原本は長野家文書である(四国中央市歴史考古博物館 -高原ミュージアム-蔵)→写 
長野家は伊勢田丸の国人出身と伝わる。一柳氏の伊予入部に従って、川之江村に移住した。宇摩郡が松山藩の預所となると、郷士格となり、浦手役人・普請所役人に任じられた。
2. web. 改訂新版 世界大百科事典 「樋 (ひ)」:池水や河水を放出・流下させる水門のこと。池の樋には降雨期などで池水の満水したときに溢水・流出させる〈打樋〉があり,その所は最も大切で,池の破損は十中八九まで打樋の所からの堤切れによるから,地盤の固い所であることが要求される。
3. 千葉誉好編「新居郡宇摩郡天領二十九箇村明細帳 土居大庄屋加地家文書」p91(1992)

写 長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」


天満村寺尾九兵衛(8) 慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した

2024-08-18 08:31:10 | 趣味歴史推論
「天満・天神学問の里巡り」17番には、郷土史家岡本圭二郎の以下の記述がある。

 天満浦の船着場には口屋(濱宿)や倉庫(蔵)が建っていた。銅山の請負人は泉屋(住友)であるが、この支配は川之江代官所に属するものであった関係から、下天満の天領分大庄屋寺尾家は、代官所より荷役受け渡しなどに関する取り扱い権利を委譲され、船着場での采配を振るっていた。船着場の口屋では銅山用の食料米を荷役して別子荷送り、別子の粗銅をここから船積みにして大坂へ輸送していた。300有余年を経た現在では、その址は空しくよすがもないが、字地名「蔵ノ東(くらのひがし)」と呼ばれているのは、往時の船着場にあった「蔵」の名残だと伝わっている。

 筆者としては、海岸沿いの船着場に口屋(元禄にこう呼ばれていたかは問題、また口屋の機能についてはいずれ論じたい)や粗銅蔵が建っていたとは、考えにくい。なぜなら泉屋の出店(でみせ)が八雲神社の近くにあったので、それらは、出店の脇にあったと推理する。代官所役人の立場と合理的な物流を考えれば隣にあるのが最も都合がよいからである。
 字「蔵ノ東」の地名があることから「蔵」があったことは、間違いない。ではその「蔵」は何を貯蔵したのか、どこにあったのかに焦点を絞って、今回は検討したい。

1. 宇摩郡地図(1884)→写1
この地図より、字「蔵ノ東」の地区は、千々ノ木(ちちのき)川の東をほぼ真っ直ぐ北上して海岸に出る道(海岸道の表示)の東側に位置する。大庄屋寺尾家屋敷を含み千々ノ木川河口を囲んだ地区は、字「橋の川」である。よって、字「橋の川」地区で、千々ノ木川河口の東側に「蔵」はあったことになる。
また、粗銅は千々ノ木川より西側の海岸から出荷されたと推定されることから、東側には、粗銅蔵は置かれるはずがない。
2. 「西条藩領内図八折屏風」(元禄7年(1694))→天満村寺尾九兵衛(6)の写1
「千々の木川」の河口が広かったことが分る。すなわち弧の西側は大きく開いており、河口は100m程度あったと思われる(河口湾)。
天正13年(1585)の毛利水軍の四国攻めの上陸地点の一つとなったのではないか。
3. ゼンリン住宅地図(1986)→写2
千々ノ木川は、海に出る前に大きく弧を描いていることが分る。
4. Google Earth(2024)→写3
 古い道、古い川筋、汐溜堀などの址などが、Google Earth写真で見つけやすいことがわかった。
ゼンリン住宅地図と同じ色で位置を書き込んだ。
5. 土居町誌(1984)
 「1650年 天領分の上納米、上納銀は天満村の御蔵に納入し、大庄屋寺尾家がその役儀を兼ねていた。」
その根拠は書かれていない。
御蔵(おくら)は幕府が建てた蔵であり、その管理が大庄屋寺尾九兵衛に委託されたことは頷ける。
古文書における大庄屋寺尾九兵衛の初出は1666年であるので、年代的にも妥当である。二代九兵衛貞清ないし三代九兵衛成清の時代に相当する。
 結論として、「蔵」は、「御蔵」を指し、別子銅山開坑より少なくとも40余年以前から存在した。「蔵」は別子銅山の粗銅蔵や口屋とは、直接的な関係はなかった。
 では御蔵はどこにあったのであろうか。筆者は、御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。管理上、大庄屋寺尾九兵衛屋敷に近いことが好ましく、土地がしっかりしていることが重要である。当時の海岸は今より引いていたと地図上から推定されるので、上記の場所を第一候補として挙げた。この御蔵は幕末まで存在したはずであるから、その位置は、口伝により比較的容易に見付けられるだろう。

6. 以上の事をわかりやすくするために、ゼンリン住宅地図に書き込んだ。
① 字蔵ノ東 緑色
② 大庄屋寺尾九兵衛屋敷 赤色
③ 御蔵(推定) 黄色
④ 元禄には広かった千々ノ木川河口 青色
⑤ 筆者の推定する粗銅の道 赤色線 これについてはいずれまとめて記したい。

まとめ
1. 字「蔵ノ東」の蔵は、御蔵(おくら)のことであり、幕領の年貢米を貯蔵するものであった。
2. この御蔵の管理を大庄屋寺尾九兵衛が川之江代官所より慶安(1650)頃には委託されていた。
3. 「蔵」の名の存在は、別子銅山とは無関係であり、その近くに粗銅蔵や口屋の存在を示唆しない。
4. 御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。


注 引用文献
1. 「宇摩郡地図 地誌付」web.愛媛県立図書館デジタルアーカイブ →写1
 地図の凡例脇に、「愛媛県令関新平 県主任七等属宮脇通赫」の名が記されていることより製作されたのは、明治17年と筆者は推定した。
2. 天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村(2024-07-28 )
3. 「土居町誌」p854(1984)
第八編 年表(執筆担当者 真鍋充親)真鍋充親は郷土史家。

写1 宇摩郡地図(明治17年 1884)


写2 ゼンリン住宅地図(1986)


写3 Google Earth (2024)


天満村寺尾九兵衛(7) 二代貞清・三代成清の五輪塔が観音堂墓地にあり

2024-08-11 06:16:49 | 趣味歴史推論
 寺尾九兵衛当主の墓を探していたら、「天満天神学問の里巡り」49番に「天満神社の参道下の中腹にある観音堂は、寺尾九兵衛大庄屋の墓守の庵として創建されたと伝承されている。」を見つけた。1)この観音堂墓地は草木に覆われ墓石が遠くから見えない状況であった。そこで、2023年9月2日に、天満神社総代の岸幸雄様、友人桑原忠勝様と三人で草刈りし、墓石の調査をした。墓石は8基余りあり、状態がよく刻字が読めるものから、崩れているものまでいろいろであった。寛永から元禄までのようであるが、総高6尺の五輪塔が2基、高さ5尺の笠付方形墓が3基あり、みな立派な墓である。→図
これらの墓は、以前は少し高い場所にあったのだが、斜面が崩れたため現在の位置に下ろして設置したとのことである。刻字が読みにくいこともあり、位牌と一致したのは、わずかに2基であった。過去帳で詳細に調べればさらに明らかになるだろう。
ここでは、はっきりした2基の五輪塔について記す。

観音堂墓地の五輪塔 
観5 五輪塔  (周囲の四隅に愛媛県標石あり)→写真1,2
    旹寛文九己酉年没 七月廿八日 (1669)
            〇清
 (アーク)月空常清禅定門

観6 五輪塔 →写真3,4
    貞享元年甲子年  余月余日 (1684)
      乃(生?)浩家(豪?)
 (アーク)右為花山宗知信士霊
      平等(稚?)(迂?)

対応する位牌
・月空常清禅定門 寛文9年7月17日 ----観5 に対応 
・花山宗知信士 貞享元年3月26日 ----観6 に対応   

これから、観5は二代九兵衛貞清、観6は三代九兵衛成清の墓と比定した。

考察
1. 二代九兵衛貞清の五輪塔は、周囲の四隅に愛媛県標石が建てられている。県が江戸前期の貴重な墓石と評価していると思われる。古くて風化が少ない立派な五輪塔である。
没年月日は、寛文9年(1669)7月28日と刻字されているが、位牌では、同年7月17日でわずかな違いがあった。刻字〇清は、俗名貞清と思われる。墓の大きさは玉の直径45cm(1尺5寸)総高 183cm(6尺)であり、石材は花崗岩である。尾道石工の製作ではなかろうか。
戒名の上に刻まれた梵字は一般的な「ア」ではなく、「アーク」であった。寺尾家の菩提寺は、真言宗の清賢寺(現在の井源寺)であったので、真言宗による五輪塔であったことがわかる。
なお、二代九兵衛貞清の当主期間は1630~1650年と筆者は推定している。
2. 三代九兵衛成清の五輪塔は、二代とほぼ同じ大きさである。没年月日は貞享元年(1684)余月余日と刻字されている。余月は陰暦4月の別名。位牌では没年は、同年3月26日であるので、少しの違いがあった。
乃(生?)浩家(豪?)は出自の姓名であろうか。平等(稚?)(迂?)はよく読めず、意味がわからなかった。
なお、三代九兵衛成清の当主期間は1650~1670年と筆者は推定している。
3. 初代九兵衛 月窓常祐禅定門 寛永16年(1639)8月4日 の墓は、ここにあってもよさそうなものであるが、該当するものはなかった。四代目以降の当主の墓もここにはなかった。

まとめ
二代貞清・三代成清の立派な五輪塔が観音堂墓地にある。


次報では、寛文前後の天満村の様子や九兵衛の残したものについて述べたい。

注 引用文献
1)「天満天神学問の里巡り」49番(天満公民館 2021)公民館報178号(2006.2)

図 観音堂墓地と墓群       二代寺尾九兵衛貞清の五輪塔の大きさ


写真1 観5 五輪塔 (二代貞清)


写真2 観5の地輪 (二代貞清)


写真3 観6 五輪塔 (三代成清)


写真4 観6の地輪 (三代成清)

立川銅山(24)「戸右衛門」は「下島山村の西原十右衛門」ではないか

2024-08-04 08:18:35 | 趣味歴史推論
 立川銅山の1番目の山師「戸右衛門」は見つけられなかったとブログで書いた。1) 神野旧記では、立川銅山の開坑は慶安元年(1648)とあるので、戸右衛門の時期は、1650年代となろう。
先日、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」を読んでいたら2)、「西条の十右衛門」を見つけた。「十右衛門」は普通には「じゅうえもん」と呼ばれているが、もし「とえもん」と呼ばれていたら、神野旧記では「戸右衛門」と書かれたかもしれないと気づいた。「西条の十右衛門」は財力あり、場所や時代も合うので、筆者は、この人物が「とえもん」であるという説を提起したい。

1. 以下の情報は、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」と「西条誌」による。
 「寛政7年(1795)西条藩は藩札を初めて発行したが、その札元メンバー3人の内の一人が、志智屋(しちや)小左衛門(屋号と通称 下島山村庄屋格 西原家)である。小左衛門の諱は「十右衛門乗諧」であった。次代は荘左衛門吉慶(寛政11年発行)、次次代は12代十右衛門吉隆(文政期発行)。志智屋では、諱は十右衛門と荘左衛門が交互に一代毎に命名されている。
 「西条誌」3)には、「家名を質屋と称す。先祖は禁裡北面の武士より出で、大和国に暫住の後、伊予国新居郡中村の瀧の宮に居てその後、下嶋山村に移住するとある。元御所の北面にあって、院中を警護した武士で、当時においては、武芸に優れた者が任じられる名誉ある地位であったと考えられる名門の出である。
 天正15年(1587)「長安村本帳」(現在の西条市玉津永易)天正の検地帳には、「きもいり」・「与三左衛門」の名が記されている(名請人)。下嶋山村と長安村(現永易)とは隣接し、当該土地は渦井川の川下に位置する。
 新居浜瀧宮神社(現滝神社)の棟札に「文禄3年(1594)大旦那西原與三左衛門と云文字あり、西原ハ、此家の氏なり、」と記されている。この時には、既に下嶋山村に移住していたと思われる。
 西原家は、下嶋山村に来てのち、元和3年(1617)の村方本帳に、勘右衛門(十右衛門の家、三代目)は新開の田畑の大地主であったことが記されている。この勘右衛門の三男が近くの西福寺(さいふくじ)の開基精堯法印という。
 明和年中(1764-1771)居宅焼失、古記類皆灰燼となり拠り所がなくなったので、先祖については申し述べずという。これ当時の十右衛門が申状にて、家風の一言宜しく聞こえる。
 寛政期(1795)には、西原家は藩札の発行と両替の業務を担当し、藩の財政経済の維持、地域の発展に寄与したのである。天保元年(1830)には庄屋格を申しつけられた。
 明治12年の地租改正「地価一筆限帳」記載の下島山村、西原荘左は、「与三左衛門」(十右衛門)の後裔である。 

2. 下嶋山村の十右衛門であれば、立川山村庄屋神野家と距離的に近く、一番目の山師として可能性があるのではないか。西原家には、立川銅山に関係したという口伝はないであろうか?

まとめ
立川銅山の1番目の山師「戸右衛門」は「下島山村の西原十右衛門」であるという説を提起した。


注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(21)1番目の山師「西条 戸右衛門」は見つけられなかった」(2022.7.31)
2. 加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」p215「西条藩札札元志智屋小左衛門について」(2021) 
3. 日野暖太郎編「西條誌」巻之五 下島山村(天保13年(1842))p36-41(西条史談会 昭和9年 1934)
 web. 国会図書館デジタルコレクション「西条誌 第5-8」コマ40-42/257

写 「西条誌 稿本 五」 ○ 「庄屋格 十右衛門」のページ