気ままな推理帳

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山下吹(3) 生野銀山の「かたけ吹」とは?

2020-07-31 13:45:08 | 趣味歴史推論
 2020.7.26に投稿公開したが、かたけ吹の名称の由来で、間違いがあったので、その部分を訂正し、投稿し直す。なお名称の由来は、2020.8.2のブログ山下吹(4)を見てください。

 山下吹を解明するために、寛永9年(1632)生野銀山に伝えられた当時の「かたけ吹」の実態を知りたい。「かたけ吹」と思われる製錬方法を記している2,3の記述は既にある。そこで挙げられた史料を見直し、筆者なりに寛永9年当時を推測してみたい。
昭和29年に小葉田淳は「生野銀山史の研究」の中で、「「銀銅山覚書」の「吹屋之次第」に「かたげ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記してあること。また「生野銀山吹方入用」に「床 1挺前の入用を内訳して、以上の3床を含めている。かたげ吹の床は大床とよぶ。」その仕法は、「銀山秘録」中の製錬方法をかたけ吹として詳しく紹介している。1)
平成のブログ「冶金の曙」は、「このカタケ吹というのは、「銀山秘録」記述の製錬法から、粗銅に石銀(含銀硫化鉛;含銀方鉛鉱など)と留粕(酸化鉛;密陀僧)を加えて熔錬して銅-鉛合金とし、これを南蛮床で貴鉛(含銀鉛)を絞り出すという方法と見られている。合銅の工程が南蛮吹法と異なるが、生野銀山や、カタケ吹を伝えたという摂津の多田銀山では銅も産出しており、銅と銀の生産工程をひとまとめにした方法に発展させたものと思われる。」と要点をついている。2)

元になる3つの史料を成稿年代順に並べると以下のようになり、関連個所をほぼそのまま写した。()内は筆者の注
1. 銀山旧記(元禄3年(1690))3)
2. 銀銅山覚書(元禄9年(1696)頃)4)
3. 銀山秘録(天保14年(1843))5)
 
1. 銀山旧記には「かたけ吹」が3ヶ所出てくる。
① 前報で記した箇所「寛永9年(1632)津の国能瀬(摂津国能勢、多田銀山の地)より長兵衛・庄兵衛というもの来りて、かたけ吹きを致す、銀山の買吹これよりかたけ吹きをして石床止む、銅を主として銀をしぼり上げる故、昔の上灰吹よりこれ以後の上灰吹は位少し悪し、何ど吹き抜けても気つよきより銀かたし」 →図1.
② 大永元年(1521)に建立された山神の社に「此処大木共ありて深々として物さびたり、廿間四方はびこる樫木あり、本口にて五囲、昔此木の下にて狸腹鼓を打たりと言伝うる名木なり、近代かたけ吹出来して、この森絶えて今は浅々しく昔の跡形もなし、」とあり。(今は元禄3年頃)→図2
③ 元和2年(1616)家康公薨御にあたり、代官山川庄兵衛殿(在任期間1616~1620)が東照寺(御位牌堂)を立て銀山廻りの山畑を棹を入れ、高42石6斗8升2合と打出し、右の内にて10石3斗を東照寺扶持に遺した。残る処を御年貢として御帳面に記す。藤川甚左衛門殿(1623~1633)来たり。しかる処に、この畠 カタケ吹出来してより以来、金気当りて悉く荒地となる。されども銀山繁昌なれば納処に片時も隙不取に、杉田九郎兵衛殿代(1660~1668)に至りて、なんとも皆済成り難く難儀に及べば、九郎兵衛殿 免を出され5ツ5歩になる。よって東照寺領5石に減少す。何程免ありても皆無の山(畑)なれば納所難渋す。松波五郎左衛門殿(1668~1679)3ツ5分に成され、東照寺領高3石と成るなり。→図3

2. 銀銅山覚書には、「かたけ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記された。4)
3. 銀山秘録に、「かたけ吹」と記されているかどうかを筆者は確認できていない。生野史には、「以下「銀山秘録」中に記す製錬方法を述べる。」として「1. 灰吹銀吹方 2. 上銀吹方 3. 留粕(るかす)流し」とある。この文中、及び前後に、「かたけ吹」とは書かれていない。
1. 灰吹銀吹方
A 素吹
1. 銀山内、所々より掘出し候鉑石、買吹共買取
2. 上中下鉑石取交え、右鉑石荒砕仕り
3. 粉に成候て砕候鏈、升目およそ6斗4,5升の分、3つに分け
4. 床と申候て、口差渡し1尺2,3寸深さ1尺ばかりなる湯坪を堀り、炭火を入れ、その上に右鉑石を置き
5. フイゴ2挺にて強く為吹候。これを素吹と唱来候。
6. 右の通り吹かせ候えば自然と鉑石吹熔けし候。炭の儀も段々入れ次ぎ吹かせ熔し候
7. よく吹熔候時分、吹大工の者相考、火を除き候えば火の上に「皮」と申す物出来申候。これは銀気等無之物にて流し捨て申候。からみと名付け候。
8. 如此段々石の鉑石を吹き次ぎ、荒吹仕候。
B 真吹
からみを取候て湯壺に残り候湯を、真吹と申吹方に仕候。
1. この仕方は熔け候湯の上へ炭火をかけ
2. その上に「にやし」と申すものを置き、廻りには小蓋と申すものをたて
3. フイゴ1挺にて吹立候えば、「どぶ」と申すもの出来候
4. これを取上げ、そのあと「はがし」と申すものに相成候。これは則ち、銅鉛(鉛は間違いでは?)湯にてこの内に銀あり
5. それより塗込と申すものに仕掛け候。この塗込と申すは、吹熔候かね湯の中へ、およそ石銀(いしがね 鉛鉱)1貫目、留粕と申すもの2貫目火の上に置
6. フイゴ1挺にて吹候えば「合がね」(合銅)と申すものに相成候
C 南蛮床
1. この「合かね」はまた南蛮床と申してフイゴ1挺にて吹分候えば
2. 銀鉛は一所に成り、床前の灰吹壺と申す所へ垂り落
3. 銅の分はその床の内に残り候
D 灰吹床
右銀鉛を吹分け候儀は
1. 灰吹床と申して、灰にて鉢なりの炉形を拵え、その内に吹立候えば
2. 鉛の分は灰の内へ引かせ、銀之分は灰の上に残る
3. その節「かぶり候」と申して、銀湯色に成り候を合図に致しそのまま水打かけ冷やし候て取上申候。これを灰吹銀と申候。
2. 上銀吹方
右灰吹銀を上銀に吹立候儀は
1. 4升入位なる鍋の内に炉を作りて
2. 小さきフイゴにて吹立申候。風をうけ候えば吹損じ之有るのにて、大切に仕上げ上銀に吹立
3. それより生野御陣屋御運上蔵に上納致し、丁銀に御引替下せられ候。
3. 留粕(るかす)流し
灰と一所に成り候鉛を留粕と唱申候。これを正味鉛に致し候儀は「留粕流し」と申し
1. 一と流14貫目、右の留粕大床に入れ
2. フイゴ1挺にて熔かし候て
3. 上に浮候灰あか残らず取り捨て候えば
4. その床底鉛湯に成り候を、水にて冷やし候ては鉛の湯飛散候に付き、常の湯を掛け
5. 固まり候を少々ずつ剥ぎ取り候後、残らず砕て
6. また「絞り分け床」にて吹熔かし候えば
7. 床前の灰吹壺へ流し出し、溜り申候節、「竿鉛」に仕候儀は、銅にて拵候竿形と申すものに汲込申候。もっとも留粕14貫目流し、8貫400目程に成申候。 

解釈と考察
 銀山秘録に記された製錬方法は、天保時代の吹方あろう。伝えられてから210年余り経っているので、改良されて、伝えられた当時の吹方と違っている可能性がある。銀山秘録に「これがかたけ吹である」と記されているかどうかを筆者は確認できていない。しかしこれしか、寛永9年の吹方を推定する根拠が見当たらないのでかたけ吹として論を進める。
銅山秘録の「かたけ吹」は、「A素吹+B真吹」を一つの床(大床)で行い、更に合銅まで造ってしまうところが特徴的である。すなわち、通常の真吹に加え「塗込(ぬりこみ)」の工程が追加されていることである。通常の真吹が終わった後、銅は取り出さずに、熔けたままのなかに鉛の原料である石銀(PbS)と留粕(PbO)を火の上に置き、吹いて、鉛とし、その鉛が銅と合わされ、合銅(Cu-Pb)となるのである。黄銅鉱の中の銀と方鉛鉱の中の銀を一つの床を使って合銅の中に凝縮できるのであるから大きな発明といえる。
前報で「宝の山」の岩屋鉛山で 鉛鉱石(方鉛鉱)から山下吹により鉛(Pb)を得ていたこと記した。生野銀山では、これと同じ原理を使って、鉛にし、合銅にしていたのである。この塗込は伝わった寛永9年当時にすでに組み込まれていたのであろうか。その当時は、真吹で一旦銅をとりだし、鉛と合吹をして、合銅(Cu-Pb)にしていた可能性もある。
多田銀銅山の吹き方は、6)「吹屋之図」「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」で知られ、「吹屋之図」は、井澤英二、青木美香によれば17世紀初頭に描かれた可能性も指摘されている。(筆者はこの時期の根拠は原典を見ていないので不明である。もしかしたらこのかたけ吹として生野銀山に伝わったことを根拠にしているのか。)まさに寛永の頃である。この図のうち、「「鉛吹の図」で石かね(含銀方鉛鉱)を吹き、鉛と成し、「合せ吹の図」で、銅と鉛を吹交ぜ熔かし、合銅と成す」ことが描かれている。これによれば、多田銀山では、銅鉱石と鉛鉱石は別々に吹き、銅、鉛を得た後、それらを合わせ、合銅にしていた。一旦各金属にして取り出しているので、合銅の品質は高いであろう。しかしこの方法でも「塗込」方式程ではないが、灰吹で得られた銀は銅がかなり含まれ硬かったので「堅げ物」と言われたと推定する。
伝えられた「寛永9年頃のかたけ吹」が「塗込」を組み込んでいたかどうかははっきりしない。が元禄9年頃成稿の銀銅山覚書に「かたけ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」とあり、かたけ吹となんば吹の間に、「合吹」がないことから、「塗込」が組み込まれていたとも考えられる。いずれにせよ、黄銅鉱を一つの床で素吹真吹をし、銅にしていたことは間違いない。
元禄3年頃(1690)に「山神の社の森が、かたけ吹出来してから(1632~)、この森絶えて今は浅々しく昔の跡形もなし」と書かれていることから、鬱蒼とした森が 約60年後に薄っすらとした森になったことが分かる。かたけ吹で発生する亜硫酸ガス(SO2)によるものであろう。家康公を祀った東照寺の畠がかたけ吹が出来してより以来、金気当りて悉く荒地となる。かたけ吹伝わってから約30年後の杉田九郎兵衛殿代(1660~1668)には年貢を減らし扶持を10石3斗から5石に下げられた。荒地となったのは、黄銅鉱に係る鉱毒水のためか。
以上のことから、寛永9年頃の「かたけ吹」は、「黄銅鉱を炭火助けに空気で酸化する素吹と真吹を一つの炉で連続して行い銅を得る工程」を含んでいると推定した。

「かたけ吹」の名称の由来を推定する。
前報でも述べたように、かたけ=かたげ=堅気 であろう。発音は「かたけ」が多いのであろう。7)得られた銀が硬い(銅の含有率が高いので)のである。

まとめ
1. 寛永9年の「かたけ吹」は、「黄銅鉱を炭火助けに空気で酸化する素吹と真吹を一つの炉で連続して行い銅を得る工程」を含んでいると推定した。
2. 寛永9年から210年後の天保時代の「かたけ吹」と思われる製錬法の特徴は、「塗込」である。「塗込」とは、通常の真吹が終わった後、銅は取り出さずに、熔けたままのなかに鉛の原料である石銀(PbS)と留粕(PbO)を火の上に置き、吹いて、鉛とし、その鉛が銅と合わされ、合銅(Cu-Pb)となるのである。黄銅鉱、方鉛鉱を原料にして合銅までを一つの炉で造る方法であった。「塗込」が寛永9年当時に組み込まれていた可能性はある。
3. 「かたけ吹」の基は、多田銀銅山の後に山下吹と称される吹き方であろう。
4. 「銀山秘録」では、「かたけ吹」と書かれているか、また「かたけ吹」と書かれている全箇所を調べる必要がある。天保14年は、成稿年か、写した年かも確認したい。

注 引用文献
1. 小葉田 淳「生野銀山史の研究」 京都大學文學部研究紀要 第3巻p1-70(昭和29年1954) web.京都大学学術情報リポジトリ「紅」
2. ブログ冶金の曙>番外編>南蛮吹>南蛮吹の成立諸説
 引用文献は、「生野史 (1)」校補鉱業編 太田虎一著 生野町役場 1977(1962復刻版) p.193-198
  「「かたけ」と「かたけ吹き」について」 植田晃一 『資源・素材学会 1993(春季大会)予稿集』 p.217-218 この予稿集を筆者は確認できていない。
3. 「銀山旧記」:天文11年(1542)より天和 3年(1683)までの生野銀山史。原本は元禄3年(1690)生野奉行所附役人寺田十郎左衛門豊章が著したとされ、享和3年(1803)勝岡同好が原本の写本を筆写し、銀山旧記という表題を付けたとみられる。
「読み下し「銀山旧記」」①p56 ②p24 ③p38(生野古文書教室 平成30.3 2018)
4. 1のp36 「銀銅山覚書」を筆者はみていない。1.の中で引用される事例は、寛文3年(1663)~元禄9年(1696)のものである事、及び1.のp4に「銀銅山覚書に収めた諸稼山の記録は、元禄8年までの稼山を列挙し、当時の記録を伝えたものと思われる」と書かれていることから、この文書の成稿は、元禄9年以降であるが、筆者は成稿年を元禄9年(1696)頃とした。  
5. 「銀山秘録」:生野銀山の初期の様子を記した書物で、採掘. や製錬の方法、操業規則などが 詳細に書かれている(web. /www.city.asago.hyogo.jp の中、生野まちづくり工房「井筒屋」、吉川家寄贈の史料として展示)。生野史(1)p185によれば、「天保14年(1843)山留姫路屋幸兵エ(保月)が50年の苦心経験に基づき記した「銀山秘録」とある。但し1.の中で引用された事例は、延宝~明和4年(特に享保、宝暦)のものである事から、この文書の成稿は、明和4年(1767)以降である。明和と天保の隔たりが76年と大きすぎる。筆者は、原典を見ていない。
製錬方法は、 生野史.第1(校補鉱業編)太田虎一原著 p193~198(生野町 昭和37 1962)に、「以下「銀山秘録」中に記す製煉方法を述べる」とある記述を用いた。 国立国会図書館デジタルコレクション
6.  井澤英二、青木美香は、「吹屋之図」が多田銀銅山の技術書であることを明らかにした。描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしている。この図を基にして、銀山役人の秋山良之助が安政4年(1857)以降に製錬工程を編纂したのが「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増(はくせきふきたてしだいあらまし)」である。井澤英二 青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 猪名川町文化財調査報告書5「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 第1節p171(猪名川町教育委員会 2014.3)より
「気ままな推理帳」2020.4.5 に既出
7. 1の銅銀山覚書の引用文では「かたげ吹」と書かれていたが、小葉田淳「生野銀山」日本鉱山史の研究 p223(岩波 昭和43 1968)では「かたけ吹」に直されていた。他の箇所でも、生野の古文書の引用では、「かたけ吹」に直されていた。著者が論じる場合は「かたげ吹」であった。
図1. 「銀山旧記」の「かたけ吹」①部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より

図2. 「銀山旧記」の「かたけ吹」②部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より

図3. 「銀山旧記」の「かたけ吹」③部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より


山下吹(2) 山下吹の初出は「宝の山」か

2020-07-19 10:24:33 | 趣味歴史推論

 「山下吹」を解明するために、「山下吹」の語を用いた初出の文書を探している。同じ著者でも初出のものを探した。わずか数週間の探しで不十分であるが、現時点で時系列的に取り上げ内容を検討する。「山下吹」は、「鉱山至宝要録」(元禄4年(1691)にはなかった。今のところ、「宝の山」が初出である。

1.  「宝の山」宝永末年~元文5年(1710~1740)1)

(1)摂津国 →図1.

 ・多田銀山  堅ゲ物 但し足り物、則山本にて鍰(しぼり)取り、銅大坂へ上る。右請負の儀、場所望み次第、明かりにて𨫤通り見立て、公儀へ願い候えば見分なられ、50間限りに法地立て相渡る、但し土底獄法地なり。證文之取り候て、吹屋そのほか人数相極め候、見立て候わば、山先科1ヶ月45匁ずつ、右中間より之取り候、運上は吹屋より之出し、鉑は36貫目を1駄と定め売買之致し、床は山下吹に仕候

(2)石見国 享保10年4月(1725)泉屋手代の山所見分の覚書→図2.

 ・邑智郡出羽村組見分所 岩屋村の内、打ち通し1ヶ所 但しこれはにて候、最初銀山と申すに付き、領主より少々お稼ぎなられ候えども、とうと無く相れ候を、右村組頭五郎左衛門堀り上げ之有り鉛鉑を焼き、なおまた舗内少々内稼ぎ見候由、四つ留より山向うへ2~3間走り、それより竹樋9丁尺下り候由、鉉筋は前の谷へ向下り込み候ゆえか、次第に水も強く相成り、相止め申す由、根戸大方谷端までは出候様にあられ候、この谷下までも平地にて、水貫の切り所之無き候、尤も鉛歩付きは生鉑60貫目焼き、四つに〆山下吹にいたし候えば、鉛8貫目ずつは之有り由、右8貫目に足し銀50匁余ずつ之あり、留粕はその時分、銀山領久喜の山に少々ずつ売り候、これは仕替丈夫に致し掛け稼ぎ候わば、3~4年ともは稼ぎ申すべき様あられ候。

2. 解釈と考察

(1)多田銀山

 「堅ゲ物(かたげもの)」とは、多田銀山の銀は「銀堅気(ぎんかたげ)の品質のものである」といっていることである。「鉱山聞書」(1785)によれば 銀堅気とは「銅の気交じりて色黒く成りたる」銀のことである。2)銀は本来白銀色で軟らかいものであるのに対し、銅(あるいは別の金属かもしれない 筆者)が少し含まれているため堅い(硬い)ものになっていると筆者は推測する。黒くなるということから、不純物として銅だけではなく他の(金属)不純物も含まれていたのではないかと思う。堅ゲ物(かたげもの)は、大坂の銅吹屋において、合吹・南蛮吹・灰吹されて得られた(純)銀に比べ品質が一段劣るとして低価格であった。但し、銀の含量は基準を満たしていたので「足り物」であった。「堅気物」の言い方は、大坂の銅屋(泉屋か?)から始まったのであろう。山元の人は、自ら「硬い銀」(劣った銀)ですとは言い出さなかったに違いない。大坂と商売しているうちに大阪銅屋の言い方が一般的になったのであろう。銀を含んだ銅鉱石を原料として製錬されてできた荒銅から銀を絞りとる工程まで、山元で行っていた。鍰取り(しぼりとり)とは「一般的には、荒銅に鉛を加え合銅(あわせどう)にし、次いで南蛮吹にて銀を含んだ鉛を分離し、残った銅を鍰銅(しぼりどう 絞銅)すなわち銀を絞り取られた銅」を得る工程のことである。

 元禄3年(1690)頃に書かれた生野「銀山旧記」には、「寛永9年(1632)津の国能瀬(摂津国能勢、多田銀山の地)より長兵衛・庄兵衛というもの来りて、かたけ吹を致す、銀山の買吹これよりかたけ吹きをして石床止む、銅を主として銀をしぼり上げる故、昔の上灰吹よりこれ以後の上灰吹は位少し悪し、何ど吹き抜けても気つよきより銀かたし」とある。3)「宝の山」時代も多田銀山では、[かたけ吹き・カタゲ吹き・堅気吹き]をしていたと思われるが、「宝の山」では、「床は山下吹に仕候」と記している。

[かたけ吹き・カタゲ吹き・堅気吹き]の工程がどのようなものかを論じるのは、容易でないので、後に廻すとして、ここでは、かたけ吹と山下吹は、関連がありそうだということに留める。

「かたげ吹 かたけ吹」とは、低品質の銀を得る方法という意味であまりよくないイメージの呼び名である。しかし筆者が推量するに、この方法は黄銅鉱などの硫化銅鉱石から、銅(ひいてはその中に含まれる銀)を大量生産するのに、生産性、経済性に非常に優れた吹き法であったので、得られた銀が少し低品質であることは承知の上で採用されたのであろう。

泉屋の手代が、多田銀山の銀が「堅ゲ物」と書きながら、床は「かたけ吹」と書かずに「山下吹」と書いていることに注目したい。

(2)岩屋鉛山

ここは、銀を僅かに含んだ鉛山である。鉱石は方鉛鉱(PbS)である。この方鉛鉱は、量論ではPb 86.6wt%、S 13.4wt% と非常に鉛の含量が高い。この方鉛鉱鉑石を焙焼し、次いで山下吹すると、生石鉑15貫(=60/4)から鉛8貫と銀50匁が得られた。収率は8/(15×0.866)=61.6%と充分高い。鉛の製錬に使っている方法も山下吹であると技術屋の手代が認識していたことになる。単に銅鉱石、黄銅鉱(CuFeS2)の製錬だけに対して山下吹があるのでないということである。山下吹は、焼いて吹くと臭いガス(SO2)がでる鉱石の製錬に適用できると認識していたに違いない。

当時の山下吹による鉛製錬法は未調査であるので、推測になるが以下の様な化学反応ではなかったか。3段目はあったのかどうか。

2PbS+3O2→2PbO+2SO2   2PbO+PbS→3Pb+SO2   PbO+C→Pb+CO

留粕とは、主成分が一酸化鉛(PbO 密陀僧(黄色顔料))で、鉛と同様に南蛮吹の合吹に用いられた。

岩屋鉛山の鉛製錬が「山下吹」と言われたことを見つけたことは、「山下吹」を解明するのに役立つはずである。

まとめ

1. 住友史料「宝の山」(1710~1740頃)に「山下吹」が2か所あり、今のところこれが初出である。

2. 多田銀銅山で銀含有銅鉱石の製錬に山下吹が使われていたできた銀は「堅げ物」であったが「かたげ吹 かたけ吹」とは呼んでいない。

3. 山下吹の発祥の地は、多田銀銅山の地であった山下町の可能性が高まった。

4. 岩屋鉛山の鉛製錬で山下吹が使われていた。よって山下吹とは、銅製錬だけでなく、より広く適用できる技術である。

「宝の山」より前に「山下吹」と書いた文書はあるはずだと思うので探していきたい。

注 引用文献

1. 住友史料叢書「宝の山」p6,p66(住友史料館 平成3年12月 1991)

2. 赤穂満矩「 鉱山聞書」 天明5年(1785)著 筆者はこの記述の原本を見ていないので、井澤英二・青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術」 猪名川町文化財調査報告書5「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書」p171(猪名川町教育委員会 2014.3)から引用した。

3.「銀山旧記」:天文11年(1542)より天和 3年(1683)までの生野銀山史。原本は元禄3年(1690)生野奉行所附役人寺田十郎左衛門豊章が著したとされ、享和3年(1803)勝岡同好が原本の写本を筆写し、銀山旧記という表題を付けたとみられる。

筆者は、2020.7.18に朝来市生野史料館生野書院より 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室 平成30.3 2018)を頂いた。お礼申し上げます。

図1. 「宝の山」の多田銀山の山下吹の部分

図2. 「宝の山」の岩屋鉛山の山下吹の部分


山下吹(1) 発祥の地とされる摂津国多田山下町

2020-07-12 09:36:17 | 趣味歴史推論

 別子の銅製錬法は、伊予吹ともいわれ、山下吹が元であるともいわれている。黄銅鉱の酸化製錬法である。黄銅鉱の素吹で得られた銅皮を炭燃焼の助を借りながら、空気中の酸素で鉄分、硫黄分を酸化し、その発生する熱で高温を保ち、荒銅を得るという真吹が山下吹の本質ともいわれている。この原理は、1856年にイギリスで発明・実用化された鉄製錬法のベッセマー法(熔銑に空気を吹き込んで不純物ケイ素や炭素と反応させ、鋼(炭素が少ない)を作る方法で、酸化熱によって鉄の温度が上がり、燃料がいらずに熔けた状態にできる)と同じであり、より古くしてなされた日本の貴重な発明であるという指摘もなされている。但し、山下で始まったので山下吹といわれているようだが、その方法や定義ははっきりしない。論じる人により異なっているように思える。山下吹の由来や技術については、「冶金の曙」に要点が簡潔にまとめられているが、筆者はそれをスタートとしてさらに山下吹に迫りたい。1)

 次回以降に紹介する文献に記されているが、銅鉱の酸化製錬法,いわゆる山下吹は、摂津国多田荘山下町で始まったと伝えられている。その時期は、文亀~永正年間(1501~ 1521)、天正(1573~1591)、慶長(1596~1614)、寛永9年(1632)以前、元禄(1688~1703)など諸説がある。

 「山下」は多くの地域にありうる地名であり、本当に摂津国多田の山下なのかについても検討されなければならないであろう。しかし今のところ文献に示された、摂津国山下町として、町の成立経緯についてまず調べた。

 山下町の成立経緯は、中島康隆の説「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」が説得力ある。2) その説は、「「川西市史」で「山下町は銀銅製錬のために造られた町」と断定されているが、3)、天正2~5年頃に完成した塩川氏の城下町(侍町と町人町)が、慶長から江戸前期にかけて銀銅製錬の町に変貌したと考えるのが妥当である」であり、筆者は納得したので、その説に基づいて以下の年表を作成した。

天文10年(1541)    塩川国満が摂州多田に獅子山城(ししやまのしろ 多田一蔵城 いわゆる「山下城」)を築城。

元亀(1570~73)頃   獅子山城の麓に侍町が成立か?(後の江戸期に下財屋敷とよばれる地域)。 

天正2~5年(1574~1577)南隣接地に商業地(町人町)が完成、これを山下町(狭義)といった。侍町と町人町を合わせ、塩川家獅子山城下町が完成した。 

天正4年(1576)     国満病死 塩川長満城主(3万石)

天正5年(1577)9月   「高代寺日記」に「近来(2月に紀州遠征で戦死した多田)元継ノ古室娘共ニ山下へ帰ル」とあり、初めて「山下」名が記される。

天正7年(1579)     長満が信長から「銀子百枚(16kg)」を賜る。(信長公記)

天正8~14年(1580~1586)の間に破城(防御施設等を破却)された可能性がある。

天正11年(1583)    羽柴秀吉によって所領を半減させられたと思われる。

天正14年(1586)    長満病死

天正16年(1588)春~夏頃 塩川氏滅亡、廃城、侍町廃絶。(城下町として最長14年続いた)

天正16年(1588)   「言経卿記」に「冷泉為満、早朝ニ摂州多田郷銀山見物ニ被行了、此此出来也」とあり。これが多田鉱山から銀が産出した「最古の文献」である。

慶長(1596~1614)頃  廃城したので、侍町が吹屋や下財居住の下財屋敷として形成される。(時期は筆者の推論)

慶長10年(1605)    慶長十年摂津国絵図に「山下町」の表示あり。

元禄3年(1690)      下財屋敷に幕府の「多田銀山山下役所」設置。

文化12年(1815)    「笹部村野山之一件」に「吹場の火事が多かったので、1軒、2軒と退いて天正2年に山下町ができた」と記された。

考察

中島康隆の城下町説が妥当と思う筆者の根拠として一つ提示したい。慶長十年摂津国絵図(図3)には、「多田古城 塩川」とあり「多田ノ庄内 山下町 四十石八斗五升」と書かれて大きな四角枠で囲まれている。絵図で他の地区の表示は 「□□村」であり、「□□町」と「町」表示されたところは見当たらない。自然発生的に吹屋と下財屋敷が集まった所を当時は「町」と表示しない。このことは、山下町が城下町の商業地である町人町を起源としていることを表している。図2の掟書きの安土山下町のようにである。よって、城に近い北隣接地(後に下財屋敷となる)は侍町に違いない。

山下吹がいつ生まれたかを城下町起源とする上記年表に基づき推論する。図1.で天保10年(1839)の下財屋敷の方には、吹屋と鍰捨場が多数箇所あり、一方、町人町には見られない。この事から、広義の山下町(下財屋敷+山下町(狭義))で天正以後に吹屋があったとすれば、下財屋敷の方である。また元禄元年の銀山役所も下財屋敷に設置されたことからも、吹屋は下財屋敷の方である。天正16年(1588)に塩川氏滅亡し廃城になったことにより、侍町は廃絶となり、さびれたであろう。一方、銀の生産は銀山地区で栄えていたので、買鉑によりさびれた侍町で吹屋を始める者が出てきたのではなかろうか。その時期は廃絶してからほどなくではないかと推測する。それは慶長年間である。下財屋敷の方で銀銅の製錬精製が始まり、町人町もにぎわいを取り戻したので、慶長十年(1605)摂津国絵図に、「山下町 四十石八斗五升」と書かれたのであろう。

まとめ

 山下町で吹屋ができたのは、慶長年間であろう。よって、山下吹が生まれたのは、慶長以降であろう。山下吹の発祥の地は「山下」や「山下村」ではなく、あくまでも「山下町」なのである。

年表を作成するにあたって中島康隆氏に貴重な教示をいただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献

1. web. ホームページ「冶金の曙」>スクラップBOX(2) >山下吹き法 および製錬法(酸化還元について)は >関連情報>製錬について>銅製錬

2. web.中島康隆「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」東谷ズム(ヒガシタニズム) 特に、第10回(2018.2) 第12回(2018.8) 第14回(2019.1)

3. 川西市史第2巻(執筆 八木哲浩)p49(昭和51.3 1976)

4. 慶長十年摂津国絵図(1605) にしのみやデジタルアーカイブ(西宮市)

図1. 獅子山城と山下町、下財屋敷 2の中島康隆第12回から転載

図2. 慶長摂津国図絵の山下町, 天保14年の下財屋敷 2の中島康隆第10回から転載

図3. 慶長十年摂津国絵図の山下町部分 4の「にしのみやデジタルアーカイブ」より


江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(16)

2020-07-05 08:21:58 | 趣味歴史推論

 江戸時代の鉱山の技術書で、素吹で珪石が添加されている記述がないかを調べている。
佐渡奉行所が文化文政(1804~1829)の頃、経営や技術をまとめた「独歩行(ひとりあるき)」を調べた1)。そのなかで、銅山技術が書かれた「銅山勝場(せりば)」の関係ありそうなところのみを抜粋して以下に示した。( )は筆者書き入れ。

3. 銅鏈粉成(こなり)方之事
 ・(選鉱)略
 ・(焙焼)日々取揚げ溜置き候汰物、先々迄打合せよく切り交ぜ焼立申候。この焼方土にて高さ3尺程、四方3尺余に塗り揚げ候竈に炭を入れ、汰物(ゆりもの)貫目掛改、帳面に記し候上にて握り堅め、右竈の内へ積込、その上へ古叺(かます)を打掛け候えば、竈の下より風吹込み自然と蒸焼に相成申候。よく焼候えば煙立止り候につき、とくと火気をさまし竈より取揚げ、貫目なお又掛改め候えば、大概2割程の焼欠相立申候。これを焼汰物と唱え追って吹入申候。
4. 焼汰物荷吹之事
 (仕込)
     焼汰物     4貫目
     鉛       400目
     銅       200目
     柄実(からみ) 1貫500目
 この揚り(生成物)
     銅皮8~900目程
     湯折(ゆおり)600目程
   この湯折と申すは鉛銅鉛の塊り候を申候。焼汰物その外の品々を湯に吹卸し候意にて湯折と唱え申候。
 右4口を掛り役人見届け、貫目帳面に記、荷吹床へ為吹入申候、床掘り方の儀は、須灰(すばい)にておのれと窪く指し渡し、向え6寸横へ1尺2寸、深さ7寸程に炉を造り、矢炭と唱え長き丸炭を並べ、その上へ細かなる炭を置き、合鉛・柄実・地銅を吹入申候。銅汰物の儀は銀汰物と違い、嵩多に吹入につき、火勢強く無き候にては、吹き解け申さず候につき、フイゴは大坂表より宜品指下し仕付け申候。よく吹き解け候えば火をはね、箒にて水を打ち、炉の中へ浮み候「どぶからみ」をどぶ掻きにて掻き捨て候えば、地銅は湯に成り残り申候。この吹方を地吹と唱え、さてまた炭を並べ鉛焼汰物を掛けよく吹き解かし、前条の地吹同様火をはね、水を打ちどぶ柄実を掻き捨て、その節は銅皮を片取り、これを1番皮と唱え、皮片しまい湯色相見え候節、水を打ち冷やし地銅鉛を下り堅り候を取り揚げ、これを湯折(ゆおり)と唱え、この吹方を二つ吹と号し、1日大概6挺吹立候内、5挺迄は右同様の仕法に吹立て、6挺目は銅皮片取り候後、湯折そのまま指し置き、なおまた炭を掛け、5挺分片取り溜し置き候銅皮を打ち砕き、銅100目・鉛50目指し加え吹き入れ、よく吹き解かし候節火をはね、「どぶからみ」を掻き捨て、またまた銅皮を片取り、これを2番皮と唱え溜め置き、追って荒銅に吹立申候。さて2番皮片取り候後、水を打ち冷やし湯折取り上げこの吹方を「掛け返し吹」と唱え申候。

考察
 佐渡では銅鉱に含まれた銀を取り出す点を基本に荒銅つくりの方法が組まれているのであろう。通常の素吹にあたる荷吹(にぶき)では、大量の鍰(からみ)のリサイクル仕込みが行われている。「4口を掛り役人見届け、貫目帳面に記す」とあるから、仕込の物は4種しかなく、この中に「珪石」はないので、明らかに珪石の仕込はなかったと言える。
  
まとめ
「独歩行」には、荷吹(素吹)での珪石添加はなかった。

注 参考文献
1. 作者不詳「独歩行」の内の「銅山勝場」 三枝博音編纂 日本科学古典全書 第10巻 「第3部 産業技術篇 採鉱冶金(2)」p439~455(朝日新聞社 昭和17年 1942)
 佐渡鉱山の経営、採鉱、製錬、貨幣製造等の技術や記録が書かれた報告書の集まりである。記録年代は記されていないが、内容から見て、文化の終わり頃から文政年間にかけてできたものと思える(三枝博音)。
・勝場(せりば)とは粉成・吹立を行う製錬所のこと。(歴史民俗用語辞典)