気ままな推理帳

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立川銅山(2)熊野屋彦四郎は 明暦3年~寛文10年の稼行主である

2022-02-27 08:42:01 | 趣味歴史推論
 立川銅山(たつかわどうざん)の山師として神野旧記に記された熊野屋彦四郎についての情報を調べたら、唯一、小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」にあった。1)2)

 「立川銅山は、西条藩の一柳監物の時代(明暦3年~寛文10年(1657~1670))に紀州彦四郎が稼行主であったという。彦四郎は熊野屋彦太郎・同彦三郎の同族と見られる。」3)

 小葉田敦が引用した「新居郡立川村理正年譜」2)と前報の「別子開坑二百五十年史話」に記載の「新居郡立川村庄屋神野家の文書」とは、同一なのか、異なるのかはどちらも原典を筆者は見ていないのでわからない。前者には、紀州彦四郎とあり、後者には熊野屋彦四郎と書かれていたのであろうか。後者にも紀州彦四郎と書かれていた可能性もある。
小葉田敦は、熊野屋一族が「彦〇郎」の名を持つことや、一族が吹屋、山師であること、時期的に合うことから、両者は同一人物であると推論したと思われる。
 
熊野屋彦四郎の山師としての力を推定するために、同時期の熊野屋彦太郎、彦三郎の活動・経歴を見てみる。以下は、小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」の引用である。

熊野屋彦太郎は承応年中(1652~1654)から大坂で銅吹屋を営んでいて、延宝3年(1675)に大坂の福山屋次郎右衛門・新庄や清右衛門とともに江戸で銅輸出業の許可を訴願したところ、彦太郎のみが古来の銅吹屋であり、かつ熊野屋彦三郎同家のゆえをもって聞き届けられたという。彦三郎は延宝元年(1673)すでに銅輸出業を許されており、また彦太郎は熊野の銅山を稼行していた山師で平常は和歌山に住し、大坂の店は道頓堀新難波東の町にあった。4)
 熊野屋彦太郎が元禄以前に稼行していた銅山は、那智勝浦町色川地区の諸銅山で、平野村二ノ谷銅山は延宝3年(1675)から、田垣内村西山銅山は寛文4年(1664)石見半左衛門が稼行しその後を彦太郎が継いだ。同村東山銅山は、寛文7,8年(1667,8)から太地角右衛門が、4,5ヶ年掘って、その後を彦太郎が元禄10年(1697)まで稼行を続けた。彦太郎は、平野銅山と前後して元禄のころ既に熊野銅山を代表する重要な永野銅山も稼行していたことが推測される。5)
元禄5年(1692)以後毎年泉屋は熊野屋彦太郎から棹銅を買い入れており、同5年6千斤、同7年(1694)3万斤、同9年(1696)1万斤であった。6)
熊野屋は明治維新まで200余年銅吹屋を営み、末期には銅吹屋仲間5人の中の1人として存続したのである。それとともに熊野銅山の山師を代表するものであった。7)」

 彦四郎と同時代の熊野の銅採鉱製錬技術は、日本の中でも進んでいたことは、以下の記述でわかる。
「秋田領の阿仁銅山は、寛文10年(1670)阿仁の主要坑となった小沢に銅鉱が発見せられて、ついで菅草・二ノ又・真木沢・三枚・一ノ又等が開発された。大阪の北国屋吉右衛門の手代八右衛門により小沢の銅鉱発見がなされたというが、彼は熊野銅山より金堀を呼び寄せおき、銅を吹いたことを伝える。金堀は岩見(石見)甚左衛門ほか数人であったともいう。8)」

彦四郎の時期には、彦太郎、彦三郎はすでに銅吹きや山師をしていたと推定できる。立川銅山としては、熊野屋という採鉱・製錬に力を有した一族に稼行されていたといえる

 では、なぜ熊野屋彦四郎の稼行は続かなかったのであろうか。稼行期間は、13年と見られるが、なぜ止めたのかは記録にない。産銅の減少、湧水、自然災害、本人の死など種々の可能性が考えられるが、わからない。産銅の減少であれば、峰を超えた所に露頭を探索して発見し、開発申請をしていてもよさそうなものだが、それはなかったのである。また、立川銅山にしか、彦四郎の名が出てこないのは、なぜか。立川銅山を止めた後に、熊野地方の銅山などにその名が見られてもよいのだが。

まとめ
 明暦3年~寛文10年(1657~1670)の稼行主である熊野屋彦四郎は、銅吹屋、山師の熊野屋彦太郎・彦三郎の同族と見られる。

注 引用文献 
1. 小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」のうち「第1章 熊野銅山史の研究」p443 「第2章 銅吹屋熊野屋と熊野銅山」p467(思文閣 平成5年 1993)
2. 1)の引用文献として「新居郡立川村理正年譜」。これは明治15年4月新居郡立川村庄屋神埜家で調整された記録。
3. 第3代西条藩主一柳直興(ひとつやなぎなおおき 従五位下監物)は、正保2年~寛文5年(1645~ 1665)在職し、寛文5年改易処分を受けた。西条領はこののち徳島藩・松山藩の預かり地を経て、公儀御料(代官支配地)となった。寛文10年(1670)紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男の松平頼純が3万石で入封し、再び西条藩が立てられた。
4. 1)のp444、p465
5. 1)のp468
6. 1)のp446
7. 1)のp473
8. 1)のp44

立川銅山(1) 龍河神社の古狛犬の寄進は 天保8年服部平右衛門だった

2022-02-06 08:33:13 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛が働いていた当時の立川銅山の状況に興味がある。切上り長兵衛は、なぜ立川銅山山師に、峰を超えた所の鉱床の有望性を話さなかったのかを推理してみたいのである。
「別子開坑二百五十年史話」には、以下の記述がある。
「新居郡立川村庄屋神野家の文書には、立川山村は寛永13年以来、西条藩主一柳侯の領地であって、領内最初の稼行請負人は、西条在の戸左衛門であると記録されている。いくばくもなく、その稼行を土佐の寺西喜助に譲り、さらに、紀州の熊野屋彦四郎、大坂の渡海屋平左衛門、大坂屋吉兵衛と時に中絶しながら、請負人は転々として変わった。領主もまたかわって寛文5年に一柳侯は除封となり、同10年紀州藩の分家松平頼純侯がその後を承けた。別子開坑の元禄4年、立川銅山は松平侯の支配、大坂屋吉兵衛請負の時代だったが、翌5年大坂屋吉兵衛は没落して、新居郡金子村の眞鍋弥一右衛門が新たに稼ぐことになったのである。」
 寛永の開坑から元禄4年までの名前が書かれている請負人は以下のとおりである。
① 西条 戸左衛門
② 土佐 寺西喜助
③ 紀州 熊野屋彦四郎
④ 大坂 渡海屋平左衛門
⑤ 大坂 大坂屋吉兵衛
 この人たちの存在を知るべくインターネット検索したところ、④の渡海屋平左衛門には、追加の情報が見つかった。それは、坪井利一郎が「立川銅山関係遺産として、龍河神社の階段参道に渡海屋平左衛門が寄進した狛犬がある。また、一宮神社参道には立川銅山師たちが寄進した灯篭がある。」と記していたことである。1)

 早速、龍河神社(りゅうかわじんじゃ)に確認に行った。その古い狛犬は参道の二の鳥居のそばにあった。この鳥居には、「奉寄進 氏子中 安永八亥年九月吉日」とある。→写真1,2
狛犬は体長60cm、盤台は32cm径25cm高、台座は57cm四角32cm高である。狛犬と盤台はかなり劣化が進んでいるが、台座は花崗岩で比較的良好であり、その刻字は読めて、次のとおりである。
 拝殿に向かって右の狛犬の台座 →写真3
  于時天保八丁酉八月吉日  (ときに てんぽうはち ひのととり はちがつきちじつ)
 左の狛犬の台座 →写真4
  願主 服部平右衛門政胤  (がんしゅ はっとりへいえもん まさたね)

「亍」は、于の異体字。
願主の服部平右衛門は、天保元年(1830)~天保8年(1837)の別子銅山支配人である。2)
台座の取り換えは、寄進者が別子銅山の長なので、ありえない。安永8年(1779)に建立された鳥居の脇に、天保8年(1837)狛犬が据えられたと考えるのが妥当である。渡海屋平左衛門とは関係がなかった。

まとめ
 龍河神社の古い狛犬は、天保8年(1837)に別子銅山支配人の服部平右衛門が寄進したものである。

注 引用文献
1. 坪井利一郎「旧別子銅山案内を読む」の中の「立川銅山」の項目(2017.2)
 web. 新居浜市立図書館>別子銅山・住友>講座「別子銅山を読む」>平成28年度講座第5回「旧別子銅山案内」
2. 住友別子鉱山史(別巻)p235(住友金属鉱山 平成3年 1991)

写真1. 龍河神社の二の鳥居と古い左右の狛犬


写真2. 左の狛犬と鳥居


写真3. 右の狛犬の台座


写真4. 左の狛犬の台座