気ままな推理帳

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山下吹(23) 熊野永野銅山は宝永頃(1704~)に真吹であった

2020-12-20 10:53:05 | 趣味歴史推論
 熊野永野銅山は、紀伊国熊野(那智勝浦町井関)にあり、熊野銅山の代表的なものである。
小葉田淳「熊野銅山史の研究」で真吹を探した結果、宝永期の吹方の賃銀の記載を見つけた。1) 以下に関連する部分の記述のみを取り出した。

「山の五茄佐良」(やまのいかさら)2)に諸国鉱山の賃銀を記していて、別子・備中吉岡・日向比平などとともに熊野永野銅山について述べ、山師は熊野屋彦太郎としている。賃銀の記録は宝永頃のものである。
概要を整理して記すと(賃銀・扶持は1ヶ月分)
 堀子     賃銀 15匁 扶持方米3斗・味噌・塩
 手子     同  11匁  同
 山留     同  24匁  同
 鉑吹大工   同  36匁 扶持方米3斗6升・味噌・塩
 吹手子    同  21匁  同
 ス灰     同  12匁  同
 真吹大工   同  27匁  同
製錬は山元で鉑吹と真吹が行われるが、鉑吹は1日分の吹数によって、真吹は同じく鉑吹で採取した鈹の貫目を定めて、1吹および鈹10貫目について、大工・手子・ス灰(吹床の築造)の賃銀を決めた。
山元では焼鉑・鉑吹(素吹)・真吹により荒銅を製し、これを大坂へ廻送するのが常例である。
吹方の基準を本前と呼ぶが、永野では鉑吹の本前は4つ吹き(1日に4回吹く)で、生鉑(焼鉱前の鉑)1荷12貫目として、30荷360貫目の分を吹く。
真吹の本前は鈹40貫目を1日に吹くこととなっている。
 熊野屋彦太郎は承応年中(1652~54)から、大坂で銅吹屋を営み、銅輸出業も許された。永野銅山に隣接した平野村二ノ谷銅山を延宝5年(1677)以来稼行している、永野銅山経営もおそらく元禄以前に遡ると思われる。

考察
 賃銀の記録からではあるが、熊野永野銅山の宝永頃(1704~1710)は、焼鉱し鉑吹(素吹)して真吹を行っていて、他の主な銅山と変わるところはなかったことがわかる。鉑吹真吹の1仕舞(本前)は別子の1/2~1/2.5である。熊野には古くより小さな銅山が多数あった。山師、吹屋は熊野屋の他に新庄屋、福山屋、岩井屋などがあった。
阿仁銅山に伝えられた方法も真吹であったのではないか。熊野の諸銅山で寛永、寛文に真吹がなされていたという記録はないであろうか。

まとめ
 「山の五茄佐良」の賃銀記録から、熊野永野銅山は宝永頃(1704~)に真吹であった。

注 引用文献
1. 小葉田淳「熊野銅山史の研究」 史林 63(5)p706-738(京都大学 1980)
web. 京都大学学術リポジトリ「紅」
2.  「山の五茄佐良」 住友史料館蔵 近世公開史料

山下吹(22) 阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった

2020-12-13 10:05:14 | 趣味歴史推論
 阿仁銅山は、出羽国秋田藩(久保田藩、佐竹藩)(現在は北秋田市)にあった銅山で、享保元年(1716)には産銅日本一であった。
阿仁銅山の製錬方法について筆者が見つけることが出来た記述は、唯一、小葉田淳「日本鉱山史の研究」の中の「享保10年(1725)の「秋田金山旧記」に記す阿仁銅山の製錬法も焼鉑・素吹・真吹全て別子と変わりない。」である。1) この情報に基づいて「秋田金山旧記」の内容を調べた。2) 秋田金山(かねやま)旧記の中の「秋田郡阿仁銀山之次第聞書」は、秋田藩の本方奉行や(職制改めで惣山奉行兼)勘定奉行を勤め 鉱山を支配した秋山喜右衛門光春が享保10年(1725)に著した聞書である。聞書は、主に配下の惣山奉行下代(手代頭)安東幸左衛門に尋ね聞き、過去の證文書付等により正確を期したと末尾に記されており、信頼性の参考になる。

秋田金山旧記 享保10年(1725)
(1)秋田郡阿仁銀山之次第聞書 (助詞、送りがなは、筆者が適当に挿入した)
・右銀山(銅山)開始の次第は、寛文10年(1670)、摂州大坂町人北国屋(ほっこくや)の高岡善右衛門長盛と申す者、そのころ身上軽き町人にて、秋田へ下り茶船の宿に仕り候由、右手代の八右衛門と申もの、能代奉行山方助右衛門に訴え出し候は、御当領阿仁山の内に銅有之の候間、御証文申請度由願によつて、阿仁山中見立の事心得候由、証文指出候、しかるところに同年四月、小沢山の内 日平山親山にて扇平と申す山にて始めて銅鉑鉉に当たり、紀州熊野銅山より、金掘子を呼び置き候なれば、すぐに銅に吹立申し候、----
銅は御当領にて始めて出し候故、不案内に付き右山奉行石井清左衛門、山師北国屋に段々尋ね候えば、吹き出し候銅を箇に造立て致し、上方へ相廻し候由申し渡す。右1箇の銅、唐目100斤と申すは熊野にて1丸と唱え候て、16貫目の由に申し候、---
・その後 奥州津軽の二階屋弥惣右衛門と申す者が板木沢銅山を見立て、摂州大坂町人の大坂屋久左衛門手代が三枚を見立て申し候。それ以後、和泉屋長四郎、同茂兵衛、同勘右衛門等と申す者が山を見立て、北国屋を始め、すべて11ケ山の山師11人有之候、山師名数多き故にこれをはかり、北国屋は小沢一方にとりかかり、大坂屋は、脇山へ仕入取替買方なども致し候由、北国屋は27,8年の間、小沢方稼ぎ候由申す事に候、---
・元禄年中に至り、山師北国屋善右衛門、大坂屋久左衛門、久保田町人の中村多治兵衛、右3人請山に候ところ、----、 元禄9年(1696)右請山御取上げ、御直山に成られ候、---、大坂屋久左衛門請山師に仰せ付けられ、元禄11年(1698)再び請山始め、同14年(1701)まで、出入り4ヶ年、久左衛門1人にて、運上平米役を以前の通り納め候。
・----
鉑焼釜の事
 1釜に鉑80荷、または50荷、37荷、不同有之候、右は500荷入候竈も有之候えども、日数冷めかね候故、当時は150荷入も上下候、右鉑1荷と申すは12貫目にて、たとえば150荷入候えば、目方1800貫目、焼木1丈四方1棚ほど入り申し候。右竈20日ほどにて燃え、冷め候て、銅に吹き申し候。
寸吹(素吹)の事
 大てん満と申すフイゴ2挺立て吹き申し候。燃釜より出し候、1吹に12荷ずつ、但し1荷は12貫目、1日4つ吹、48荷を1仕舞と申し候。但し小沢は48荷、板木澤は40荷、三枚と二ノ又は37荷吹き申し候、当山吹方、北国屋時代、紀州熊野より山師呼び寄せ候て、吹初め候故、今に、30荷を1仕舞と申す事古法に候。
 寸吹の節、上にからみという物出し候を流し取り、その下に銅皮という物出し候を、何枚も取り申し候、その外、床尻銅が4つ吹1仕舞に2,3枚、或いは4枚同じからず有り出申し候。右寸吹手伝、4人入り申し候。
真吹の事
 沸フイゴと申すを1挺吹申し候 寸吹より1日吹申し候銅皮を、翌日真吹一と仕舞致し吹申し候、1日出銅は板に致しこの枚は5,6枚、または7,8枚出候、但し1枚目方は7,8貫目ずつ、この板数銅歩付善悪多少により、不同有之、右真吹手伝3人。
寸吹真吹共で、1仕舞の炭の入り方は、およそ250貫余りより270貫まで、平均年により不同有之候。
・床屋人数の件
 床大工は銅吹き候ものなり、巧者不巧者候て、前日の高下、炭その外かかりもの、多少有之候、寸吹手子は床大工の手に付く者にてフイゴさしなり、真吹手子は右同断、寸吹手子は炭をば扱き、粉にして土へ練り合わせ、床を拵え候、欠番打は右の諸役の手代りの事。
・床1枚という事
 寸吹真吹取合、1枚と申し候。床屋1枚事なり、寸吹真吹共で、人数は7,8人程入り申し候、小沢は9人入り申し候、然る間、48荷を1仕舞に吹き申し候、脇山は37荷と不同有之に付き、人数不同に候。
・----
右の通り、安東幸左衛門が久保田に参り候節、銅山の次第相尋ね、話の趣、つぶさに聞書候、古来当山の次第は、幸左衛門の祖父、その外話伝え候通り申し聞き、且つ慶長元和寛永以来、梅津主馬政景指し出し候證文書付け、またはその頃の御家老中、段々指し出され候證文書付け等、幸左衛門が所の持ち致し、入り披き見候、別ヶ條記候の趣符合致し候、並びに数ヶ條の文言、なお幸左衛門に見させ、相違の処加筆改め置きものなり。
 享保10丁巳年10月(1725) 秋山喜右衛門光春
右光春の聞書、元文4未年(1739)、秋山宮内之を写し、同年7月、岡田清三郎これを写し、寛保3亥年(1743)某写し、寛政元年(1789)またこれを写す。

(2)御手代の覚
 小沢山御手代頭御給斤金 20両   安東幸左衛門
右は山元において下し置かれ候分、右の外、5合8人御扶持、御給銀7枚、久保田において下し置かれ惣山奉行下代に候
 同役 御給 35両 菅原新兵衛
 ----

考察
(1)阿仁銀山之次第聞書とあるが、実際は阿仁銅山である。
開坑が寛文10年(1670)とすれば、これは、開坑55年後の聞書で比較的新しいものである。安東幸左衛門の祖父時代からの事であり、何代も前のことでないので、記憶が残っていよう。3) しかも最も確かな人である安東幸左衛門からの情報である。また政務に携わるものとして、秋山喜右衛門は正確を期していたことが、種々の文書とのつきあわせをしていることからわかる。また数度の写しの歴史も記されている。

(2)阿仁銅山の製錬方法は、一口でいうと「鉑1800貫目(150荷)を20日間で焼鉱し、1日に焼鉱576貫目(48荷)を4吹で素吹し、出来た鈹を1吹で真吹し、銅板5~8枚(1枚7,8貫目)すなわち35~64貫目を得、炭量は250~270貫目である。」となる。これは、山下吹(18)で記した元文4年(1739)の別子銅山の吹き方に近い数値である。小葉田淳がすべて別子と変わりないと指摘したとおりであった。
開坑してから55年の間に、製錬法を変更したとは書かれていない。よって、当初から、基本的には上記の製錬法であった可能性が高い。西尾銈次郎の「東北諸銅山に熊野式の還元法が広く行われた」という証拠はなかった。

(3)大坂屋久左衛門の当主年表によれば、4) 初代は慶長8年(1603)に大坂北炭屋町で銅吹を開始し、その頃から佐竹氏家臣の要請を受け、秋田の銅山開発に着手したとある。二代の時、寛文10年(1670)に三枚山に銅鉱を発見し、阿仁銅山全山支配のきっかけとなった。二代の時に、銅山経営、銅吹屋、銅屋として泉屋住友に次ぐ豪商になった。切上り長兵衛が一時働いていた伊予立川銅山も稼行していた。
11ヶ山の請負山師の内、北国屋、大坂屋、泉屋、鴻池などが大坂由来であり、金だけでなく、人や技術や情報も大坂から容易に来る状態にあった。このことは、場所は離れているが、鉱山業に関して秋田と大坂は非常に近いことがわかる。

(4)寸吹、真吹に用いられたフイゴについての記述は、銅製錬では、最も古いものではないかと思う。きちんと記録されている証拠でもある。
寸吹用の大てん満(天満)は、天明4年(1784)に著された「鉄山必用記事」には、「「吹差フイゴ」(箱フイゴ)について、大坂天満の吹子屋助右衛門という者は数代に亘ってフイゴを作っており、その製品は京都、江戸の外、諸国に広く普及している」と書かれているので、5)この天満であろう。延享5年(1748)の「改訂増補難波丸綱目」によると、大坂菅原町(吹子屋町)には吹子屋助右衛門を頭として20軒余の吹子屋があった。6)7)
少し後の尾去沢銅山では、「伝馬」を使うと記されている。また地方により「大伝間」「天馬」という表示があった。8)「てんま」は普通名詞となっていて箱フイゴを表したのかもしれない。
真吹に用いた「沸フイゴ」は、(にえふいご?)は、より強い風を送る型なのであろうか。尾去沢銅山では、真吹に「伝馬」2丁のほかに「沸足」と称するフイゴを用いたとある。9)「沸足(にえあし)」は、日本刀製作で、焼き入れによってできるマルテンサイト粒子組織の刃文のことで、10)これをフイゴの名前にしているということは、微妙な焼き入れ温度を制御できる型式のフイゴなのかもしれない。それを真吹に使ったということか。

まとめ
1. 秋山喜右衛門著 秋田金山旧記「秋田郡阿仁銀山之次第聞書」によれば、阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった。 
2. 製錬(焼鉑・素吹・真吹)のやり方やスケールも別子銅山と変わりはなかった。
3. 寛文10年(1670)の開坑当時から真吹であった可能性があり、それを裏付ける資料の発見が待たれる。

注 引用文献
1. 小葉田淳「日本鉱山史の研究」p72
2. 「秋田金山旧記」秋田県史 資料 近世編下p333~340 (秋田県編 1979)→図1.2.3.
 秋田県立図書館の茂木亨氏に資料の入手等でお世話になりました。お礼申し上げます。
3. web. 森朋久「秋田藩銅役人の職制的考察」明治大学大学院紀要 第26集 p209~216(1989)
安東幸左衛門の祖父は土佐と名乗り、阿仁銅山開初、すなわち北国屋の請け山であった時に、水無番所で銅箇を調べ、運上を取る役を勤めており鉱山役人であった。
4. web. ホームページ「豪商 大坂屋久左衛門」>大坂屋当主年表
大坂屋久左衛門当主在任期間
初代(1596-1661)、二代(1661-1682)、三代清浚(1682-1715)、四代甚之烝清胤(1715-1723)、五代吉之助清達(1723-1724)、六代智清(1724-1770)、---
5. web. 「ふいごの話」>ふいご職人
6. web. レファレンス協同データベース(大阪府立中之島図書館提供 2016.10.22登録)>吹子屋町
7. web. ホームぺージ「夢通信」(衣川製鎖鉱業株式会社)>鞴神社参拝記
8. 今井泰男「鞴論考」日本の産業遺産Ⅰ p69~85(玉川大学出版部 1986)
9. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p233(勁草書房1964)
10. web. ホームページ「おさるの日本刀豆知識」>日本刀の見所>沸と匂
図1. 秋田金山旧記「阿仁銀山之次第聞書」の発見開坑の部分

図2. 秋田金山旧記「阿仁銀山之次第聞書」の真吹の部分

図3. 秋田金山旧記「阿仁銀山之次第聞書」のあとがきの部分


山下吹(21) 享保15年(1730)の足尾吹は、真吹であった

2020-12-06 08:51:19 | 趣味歴史推論
 足尾銅山は、慶長15年(1610)に百姓の治部、内蔵が露頭を見つけたことからはじまったとされてきたが、この百姓治部とは、実は足尾郷を支配していた星野治部左衛門(初代)であることを、墓の存在、過去帳、系図などから池野亮子が証明した。その成果を「足尾銅山発見の謎」(随想舎2009)に書いている。足尾銅山発見の経緯には日光山の領地復活の狙いがあったとしている。

 足尾銅山開坑(1610)から江戸中期までの製錬方法を探るために、村上安正「足尾銅山史」を調べたが、残念なことに全く記載がなかった。そこで、製法の参考にすべく、この「足尾銅山史」から、銅山の発見、開発状況を書き出したのが以下である。

(1)慶長19年(1614)「諸国鉱山見分覚書」には、足尾に住む農民治部、内蔵が黒岩山で銅の露頭を発見したのちに、二人の生国を記念して、黒岩山を「備前楯山」と改め、その功績を長く世に伝えることにしたという。
(2)元文元年(1736)「足尾山仕供指し出し候書付弐札の写し」(願王院への差出文書)
 足尾銅山は「慶長15年(1610)3月播磨国治兵衛、備前国清右衛門と申す者、銅見出し、座禅院様へ御披露申し上げ、翌亥年(慶長16年(1611))酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)様へ、問(間?)吹差し上げ候、その刻恐れ乍ら、大猷院様(徳川家光)御袴着御祝儀の節御披露申し上げ、御吉事の山と御沙汰御座候由---」
(3)寛政8年(1796)「足尾銅山草創記」(足尾山仕の差出文書・日光輪王寺文書)
 「慶長年中銅山見出し候は、百姓の内、治部、内蔵と申す者両人にて見出し候の処、播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門と申す者聞き及び罷り越す。このもの儀才覚ものにて山先伐(代?)り相勤めさせ候、右のもの大金(を)仕ため(為溜)、本国に罷り帰り申し候、その節建て置き候石碑、今もって御座候---」
(4)年不明「足尾銅山御掛御役人姓名控」(足尾から利根川岸までの足尾銅山街道上、5つの宿の2番目の花輪宿の名主であり御用銅問屋の高草木家所蔵)
 「百姓治部、内蔵が銅山を見出し、----花輪村弥右衛門、澤入村十右衛門一同、日光座禅院座守へ申し立て、翌亥年(慶長16年(1611))酒井雅楽頭御取次をもって、間吹銅差し上げ候処(中略)、大猷院様(徳川家光)御袴着御祝着御当日、間吹銅献上、その節御代長久吉事の銅山と、御褒詞の御上意なり下され置き、それと御用山に仰せ付けられ候。銅一式御用の儀銅山師どもへ仰せ付けられ候段聞き及び候て、播磨国山崎治兵衛、高坂清右衛門と申す者、罷り越し山先名代 吉田太郎右衛門儀山先* を相勤め、十文字鑓御免無高にて江戸表の儀は被官格付けられ候由に御座候---」
 *吉田太郎右衛門儀山先:因幡池田藩の家来で山先人として、幕府の命をうけて足尾銅山に招かれた。

栃木県史資料編の記述や文言とは、わずかな違いがあるが、製錬に関係することについての筆者の推理は以下のとおり。
 「日光山と星野治部左衛門らが、播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門を招き、露頭を教え、試し掘り、見立て、鉑吹→真吹して真吹銅(荒銅)を作らせ、これを幕府に献上した。
 幕府は、御用山として開発すべく、因幡池田藩に吉田太郎右衛門を山先として出させ、その名代(部下)として播磨国山崎治兵衛、備前国高坂清右衛門をあて、この二人に銅山開発を遂行させた。」

 間吹銅は、以下の3つの可能性ある。①真吹で得られた荒銅すなわち真吹銅 ②真吹で得られた荒銅を間吹して得られた精銅 ③還元法で得られた荒銅を間吹して得られた精銅。①、②であれば、真吹がなされていたと言える。ただこの文書を書いたのは、実際の約120~180年も後のことなので、慶長当時に間吹、間吹銅といっていたかどうか。
足尾銅山の山に、備前楯山と名付けられたことは、備前山師の貢献が大きかったのであろう。普通なら「備前」と国の名を前に付けることはまずないであろうから。
播磨国と備前国から来た山師は、隣の摂津国山下町や多田銀銅山と関わりのあった者たちの可能性がある。山下吹が足尾銅山の開坑時の慶長からなされていた可能性が出てきた。

「宝の山」を調べたら、索引に「足尾吹」が1ヶ所あり、本文にその吹き方の概略が記されていた。以下のとおりである。3)→図

享保15年戌4月(1730)、与右衛門・山留八郎兵衛見分**
会津領 黒沢村銅山
・床屋 足尾吹

 鉑450貫目ばかりを升19杯に〆6吹し、直ちに間吹に致す。
 升は、横1尺8寸、長さ1尺8寸8分、深さ8寸。升に〆4斗1升7合6夕(75.33リットル)
 右に炭160~170貫目
 間吹に、(炭)60貫目ばかり。
  **山留八郎兵衛は、「宝の山」の中で、非常に多くの見分記録を残した山留である。

考察
 この間吹は荒銅を得る工程であるので、真吹を意味することは明らかである。また「直ちに」とは、6回に分けて鉑吹して得た鈹をまとめてそのまま「直ちに」真吹したということである。鈹の焙焼はしていないということである。「真吹に60貫目ばかり」とは、前の行と同じ炭の重量を指し、原料の鉑450貫を処理するのに入用な炭の重量を 鉑吹用と真吹用に分けて記している。
「鉑を焙焼することなく、生鉑を鉑吹(荒吹、荷吹、素吹ともいう)し、得られた鈹を直ちに真吹して真吹銅(荒銅)を得る方法」を足尾吹と称していたことが分かる。すなわちこれが足尾銅山の製錬方法であったと推定できる。この記録は享保15年(1730)であり、開坑してから120年経っている。しかも北隣りの会津藩銅山の記録であるが、足尾吹に関して貴重である。
120年経っているが、真吹であったという記録があったことは、足尾銅山が開坑当時から 真吹であった可能性がでてきた。すなわち、山下吹が誕生して間もなく摂津から、播磨、備前の山師によって伝えられた可能性がでてきた。
「山下吹(7)において、足尾銅山(維新前)の山下吹は素吹を指しているが、いつから行われていたか、初めから山下吹と言っていたのかということである。足尾銅山開坑の慶長期に、多田銀銅山で山下吹が発明されたと筆者は推測しているので、すぐ足尾銅山に伝わるには、早すぎると思う。山下吹が導入されたのは、もっと後であろう。」と筆者は記したが、取り消したい。

まとめ
 享保15年(1730)の足尾吹は、生鉑を鉑吹し、得られた鈹を真吹し荒銅を得る方法であった。

足尾銅山関連の古文書には、製錬方法が記載されたものがあるに違いなく、その発見は今後の課題である。

注 引用文献
1. 池野亮子「足尾銅山発見の謎」-治部と内蔵」の真相をもとめて-(随想舎 2009)
2. 村上安正「足尾銅山史」p30~31(随想舎 2006)
3. 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」p37(住友史料館 平成3年12月 1991)「宝の山」は、泉屋本店で宝永の末年(1710頃)に着手し、30年後の元文5年(1740)まで段々に書き綴られたものである。
図.「宝の山」 会津藩黒沢村銅山・足尾吹の部分