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山下吹(11) 山下吹の発明者は?

2020-09-27 09:15:40 | 趣味歴史推論
 西尾銈次郎は、山下吹が摂州多田山下村で、文亀永正(1501~1520)の頃、平安家の銅屋新右衛門によって発明されたとの説を提唱した。(山下吹(10))
今回は、山下吹の発明者の候補を挙げ、山下吹を広めた人を推理する。

1. 猪名川町史1)と川西市史2)から、山下町の吹屋年表を作成した。
 ①その年に記録のあった人は〇で示した。
 ②同じ発音の人は、漢字が違っても同一人物とした。例:二郎兵衛と次郎兵衛、二郎右衛門と次郎右衛門と治郎右衛門、宗左衛門と惣左衛門、など 欄には 次、惣などと違った漢字のみを記した。 
 ③屋号が付いたら屋号のみを記した。屋号無しの場合は〇のみ。例:新右衛門の欄 〇のみは新右衛門、 〇銅屋 は銅屋新右衛門をあらわす。

表 山下町の吹屋年表

この表からわかることを以下に列挙する。
 1. 山下町の吹屋の記録は、天和3年(1683)が最初であった。
 2. (銅屋)新右衛門は、正徳6年(1716)からありその年は山下町吹屋年寄であったが、元禄3年~宝永7年(1690~1710)には、なかった。よって銅屋新右衛門は山下吹の発明者の可能性はない。
 3.  山下町の吹屋数は、元禄3年~宝永7年(1690~1710)に13軒が最も多く、寛政9年(1797)以降は3軒(銅屋、伊勢屋、伊保屋)となり、明治には銅屋1軒になった。銅屋は、昭和まで山下吹を継承してきた吹屋である。
 4. 前報の吉岡銅山の真吹実施時期からみて、天和3年(1683)には、山下町の吹屋は真吹をしていたと考えられる。その吹屋は、次の6軒である。
  角兵衛、太郎兵衛、弥右衛門、二郎兵衛、長兵衛、三郎右衛門。この6軒の当主、先代(父)、先々代(祖父)が山下吹(真吹)の発明者である可能性がある。

2. 広義の山下町の内、吹屋のあったのが北側の下財屋敷であるが、天和、元禄時代の下財屋敷の絵図はないので、参考のためにかなり後の絵図を図1、図2に示した。
 図1は、天保14年(1843)下財屋敷絵図で、北西部に(銅屋)新右衛門が見え、山下町に接する南端中央に「銅山御役所屋敷」(山下役所)が見える。吹屋は2軒しか見られない。
 図2は、同じく下財屋敷絵図であるが、年代が書かれていない。3本煙突の吹屋が3軒あることと吹屋年表から推定すると、寛政9年~天保5年(1797~1834)頃か。北西の吹屋は銅屋新右衛門、中央西端の吹屋は伊勢屋三郎兵衛、南西の吹屋は伊保屋利兵衛(利平)か。

3. 鉱山間歩に大きな良い鉱脈が見つかれば、その近くの吹屋は栄える。銀山町吹屋と山下町吹屋は、近くの間歩の盛衰に対応して、吹場を移して仕事を続けた者もあるのではないか。
正保国絵図(1644~1651)の写しとされる「摂津河内国絵図」の山下町と銀山町付近を図3に3)4)、山下町と銀山町と多田銀銅山間歩の位置関係を示す.図を、図4に5)示した。両町間は15km位あったろうか。
多い時期の吹屋の数は、銀山町の寛文6年(1666)に76軒、山下町の元禄3年(1690)に13軒であり、このことより、多田銀銅山では、小さな規模の多数の吹屋で成っていたことが分かる。また寛文6年の銀山町の吹屋54軒のうち49軒が「かたき吹床」であることより、製錬技術が吹屋仲間に広く伝わっていたと思われる。(山下吹(4))

4. 山下吹(真吹)が発明された可能性が高い慶長~元禄の銀山町と山下町の盛衰と吹屋の動向
 ①慶長期
 慶長十年摂津国絵図に大きく「山下町」と表示されていることから、この時に栄えていたと推測される(山下吹(1))。慶長15年(1610)の山下町甘露寺縁起に「慶長年中下財繁昌依而甘露寺屋敷替被仰付下町只今所移」との記述があ り、この頃に製錬業が盛んになった為、甘露寺が現在地に移転した。「山下甘露寺あて片桐且元書状」から、この移転は慶長七(1602)年には完了したと思われる。6)7)
 ②寛永期
 多田屋市郎兵衛は寛永2年から多田銀銅山で吹屋をしていて、寛文5年(1665)から大坂で銅吹屋を開業し、元禄14年(1701)の銅吹屋18軒の一つになった。8)
 ③寛文期
山師兼吹屋の年寄津慶吉兵衛(つよしきちべえ)が、万治3年(1660)大口間歩の誉田屋敷で銀の大鉱脈を発見し、これをうけて寛文2年(1662)に銀山役所が開設された。最盛期の寛文6年(1666)の銀山町の吹屋(ほとんどがかたけ吹床)は76軒にのぼった。吹屋の筆頭に、本町市郎兵衛の名が見える。また中頃に山下八兵衛の名があり、山下町出身の八兵衛なのであろう。吹屋の場所や出身地が付けられている者とともに、すでに屋号のついた者もある。
 ④元禄期
 銀山ではなく銅山稼ぎが主流となった多田銀銅山では、銅製錬の中心が、銀山町から山下町に移ったことに対応して山下役所が、元禄元年(1688)または元禄3年(1690)に設置された。9)10)
 山下町の次郎右衛門は、民田村山内の4銅山を元禄8年(1695)から宝永3年(1706)にかけて稼行した。11)

考察
 山下吹(真吹)の発明者を文献上で探したが、特定はできなかった。寛文6年の銀山町のほとんどの吹屋がしていた「かたけ吹」が山下吹(真吹)を含むものなら、山下町で山下吹(真吹)を発明した者が、寛永~寛文にかけて銀山町に移り、仲間に山下吹を教えた可能性が高いと推理する。銀山町の吹屋年寄や役人の呼びかけでこの技術が広まったのではないか。
 全国的の広まりについては、大坂の銅吹屋仲間が絡んでいたのではなかろうか。小吹屋多田屋市郎兵衛は、元文・寛保ごろ(1736~1743)、越前面谷銅山の稼行を請負った。小吹屋平野清右衛門は寛永8,9年頃の開業と伝える銅屋であり、万治元年(1658)から8年間備中吉岡銅山を稼行し、銅吹屋でもあった。8) このように、銅屋仲間は、大坂で吹屋をしながら、銅山の稼行をしているから、各地の銅山への技術伝搬や人の移動に係ったであろう。

まとめ
 1. 山下町吹屋年表を作成した。(銅屋)新右衛門は、正徳6年(1716)から記録がありその年は山下町吹屋年寄であったが、元禄3年~宝永7年(1690~1710)には、なかった。よって銅屋新右衛門は山下吹の発明者である可能性はない。
 2.  天和3年(1683)に記録された、角兵衛、太郎兵衛、弥右衛門、二郎兵衛、長兵衛、三郎右衛門の6軒の当主、先代(父)、先々代(祖父)が山下吹(真吹)の発明者である可能性がある。
 3. 寛文6年の銀山町の吹屋の先代や先々代も発明者である可能性がある。

 4. 山下吹の全国的な広まりは、多田銅銀山吹屋の移動とともに、大坂の銅吹屋が絡んでいるのではないか。

注 引用文献
1. 猪名川町史第5巻 多田銀銅山史料編(小嶋正亮執筆)(平成3年 1991)
2. 川西市史第2巻(八木哲浩執筆)(昭和51年 1976)
3. 「摂津河内国絵図」(国立国会図書館所蔵)国立国会図書館デジタルコレクション
4.  web.「八軒家かいわいマガジン」(大水都史を編み後世に伝える会運営)(2015.2.28)
 国立国会図書館所蔵「摂津河内国絵図」の成立年代は不明であるが、大分県竹田市立図書館所蔵の「摂津国絵図」と酷似しており、共に「正保国絵図」を写したのではないかと考えられている。元になったと思われる「正保国絵図」は1644年から作成が始まり、完成は1651年以後とされている。
5. 川西市史2 p446 図13旧多田銀銅山間歩跡位置図
6. 川西市史2 p77,70
7. web. 中島康隆「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」東谷ズム 第10回(2018.2)
8.  住友史料叢書 「銅座公用留・銅座御用扣」解題(今井典子)p1(昭和64年 1989)
9. 「摂津国多田銀山御役所古来勤方大概」の「山下御役所之事」 元禄元年(1688)代官万年伝兵衛の時 猪名川町史5 p86 猪名川町史では元禄元年を採用している。猪名川町史2 p66
10. 「摂州川辺郡多田銀銅山諸御用留」の「山下町御役所御普請覚書」(享保14年(1729)署名)において、元禄3年(1690)代官 設楽喜兵衛の時 猪名川町史5 p462 川西市史2 p148 川西市史では元禄3年を採用している。
11. 「摂津多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」猪名川町史5 p7

図1. 天保14年(1843)山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史7 p296 図62天保14年山下町絵図)


図2.  山下町の北側に隣接する下財屋敷の絵図(川西市史2 巻頭写真5 山下町粗絵図)


図3. 「摂津河内国絵図」(国立国会図書館所蔵) 正保国絵図(1644~1651)の写しらしい


図4. 山下町と銀山町と多田銀銅山間歩の位置関係を示す図 (川西市史2 p446 図13旧多田銀銅山間歩跡位置図)



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