気ままな推理帳

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濱井筒屋は加藤家の屋号であることが証明できた

2019-06-30 21:43:19 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋が加藤家の屋号であることを証明したい。
慈眼寺の檀家で西原墓地にあった分が現在は土ケ谷(つちがや)墓地と真光寺墓地の二つに分かれて存在するとご住職が教えてくれた。そこでまず土ケ谷墓地を探したところ、昭和58年に加藤登氏が建立した「加藤家代々祖等之奥城」の墓誌に、慈眼寺の過去帳で井筒屋幾右衛門と井筒屋貞正妻と書かれていた仏様がそれぞれ加藤幾右衛門、加藤貞正信勝妻と書かれていた。→写真参照
この二仏は戒名と没年月日が完全に一致したので取り違えはない。加藤家の墓誌に加藤幾右衛門とはっきり書かれていることにより、井筒屋が加藤家の屋号であると証明できた。ただ残念なことに江戸時代の墓の刻字ではないことである。建立者のご子息の話では、昔は高さ50cm程度の江戸時代の個々の墓が10基程近くにあったが、昭和58年にこれらを整理まとめて墓誌にしたとのことである。
墓誌にある江戸時代の四人の仏様(加藤信賢、加藤忠、加藤貞正信勝、加藤幾右衛門娘てん)は、慈眼寺の過去帳では見つからなかった。見落とした可能性もないではないが、頭に濱井筒屋、井筒屋と付いている仏様のみをとりだして井筒屋年表を作ったので、外してしまった可能性がある。濱井筒屋や井筒屋は付いておらず、加藤---- と姓が付いていたり、新居浜浦東で名だけだったりした可能性がある。できれば再度過去帳を見て確認したい。
また加藤敏雄氏の墓とその区画にあると想定する井筒屋忠七・三左衛門の墓は見つかっていないので、見つけたい。

切上り長兵衛の位牌は本位牌である。
以前のブログ「切上り長兵衛は実在した」では以下のように書いた。
「切上り長兵衛の位牌は繰出位牌の中の白木板で、位牌の字は
皈眞 海山利白信士各位 宝永五子年三月廿九日
裏面に俗名、年齢は書かれていないようだ。
皈(き)は 帰の俗字である。臨済宗、曹洞宗では、新帰元(新たに亡くなった、真実に帰るという意味)として、物故、帰元、帰眞などと白木の位牌の戒名の上に書かれる。帰眞(きしん)とは、この現実世界から眞寂本元の世界(仏国浄土の世界)に帰ったという意味である。この位牌には、皈眞と書かれているので、仮位牌である可能性が高い。仮位牌は、葬式のときに用いられ、四十九日の忌明けで成仏するとその証として本位牌に替える。本位牌には、「帰眞」「霊位」とも取り、戒名のみにする。ただし、位牌に上頭文字として、物故、帰元、帰眞と書かれるともあり、この場合の位牌が本位牌なのかどうかは、わからない。
位牌の文字は、宗派が同じでも、時代、地域、寺により異なることがあるという。今の場合、仮位牌かどうかは繰出位牌の中の他の位牌を調べて比較すればわかることではあるが。」
今回、江戸時代の数百基の墓を見たが、そのうち約3割の墓には、帰眞、皈眞、歸眞などが刻字されていた。墓にも刻字されていることから、切上り長兵衛の位牌は本位牌であるといえる。

写真. 加藤家の墓誌

切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋忠七・三左衛門で、半鐘の寄進者である

2019-06-22 10:51:43 | 趣味歴史推論

慈眼寺ご住職の厚意で、過去帳を見せていただき、忠七あるいは濱井筒屋と記された仏様だけをとりあげ、濱井筒屋年表を作った。表参照。
報告済みの忠七あるいは濱井筒屋に関する情報は以下のとおりである。
① 宝永6年(1709)岸段右衛門殿与州銅山へ下ル新ゐ浜忠七船ニ乗船---宝永六年日記
② 宝暦6年(1756)摂州兵庫沖にて、新居浜浦井筒屋忠七船が銅を積み登り節、大風雨に遭い難船した。----年々諸用留七番
③ 文化元年(1804)7月20日 為登銅250丸積 勇力丸忠七----大福帳
④ 弘化元年(1844)勇力丸が為登銅250丸積×8回-----銅請払書
⑤ 宝暦年間の天亮和尚の時期(1749~1756)忠七が慈眼寺に半鐘を寄進----半鐘銘文
⑥ 寛延2年~宝暦年間(1749-1763)に濱井筒屋が切上り長兵衛を追善供養---過去帳

上記に事項と濱井筒屋年表を照らし合わせて以下のことがわかった。
1. 宝永6年(1709)の忠七を初代忠七とする。
2. 濱井筒屋の屋号は、享保10年(1725)に使い始め明治15年(1882)まで続いた。
3. 宝暦6年(1756)に難船したのは、2代忠七・三左衛門である。
4. 勇力丸(1804 1844)は、5代忠七・五兵エ と6代忠七・嘉平の時である。
5. 切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋2代忠七・三左衛門であり、半鐘の寄進者である。時期は慈眼寺住職第10世天亮和尚の宝暦年間である。

結論:慈眼寺の過去帳と半鐘銘文から、切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋2代忠七・三左衛門であり、半鐘の寄進者であることがわかった。このことにより、切上り長兵衛の位牌や過去帳に書かれたことの信憑性が非常に高まった。

表.濱井筒屋年表


慈眼寺の半鐘銘文を読み下し文とした

2019-06-22 09:15:24 | 趣味歴史推論
前報の「濱井筒屋忠七が寄進した慈眼寺の半鐘」の銘文を理解したいと思った。
漢文の素養がなく仏典にも疎い筆者が、読み下し文とすることは無謀であるが、漢和辞典(諸橋大漢和、新字源など)、異体字字典、インターネット検索で調べて、何とか読み下し文としたので、ここに示す。自分でも真の意味がとれないところ、しっくりとしないところがいくつかあり、問題であることは明らかである。正しい文にしたいので、間違いの指摘や解釈のヒントを頂きたいと思う。よろしくお願いします。

無先之形摸一且寄之功受雖千歳夫朽腐者乎予為之銘曰
咄箇鐘子元是鋼銅百錬範形一撃脱夢育談般若聲證圓通掛著殿上打調宮商
曽有新居濱之住井筒屋忠七者允尖山天亮和尚應世之日寄法鐘一
助三霊冥福者不図破而不堪調則也故改打尖小鐘而耳雖然令

前永平當寺十三世周方谷代造焉
讃州豊田郡辻村住忠兵衛正隆作
豫州新居郡金子村慈眼禅寺常住
日本寛政七龍舎乙卯天初夏吉辰

先(さき)の形(かたち)を摸(さぐ)ること無く、一且(いったん)寄(よ)すの功(こう)を受ける。千歳(せんざい)と雖(いえど)も 夫(そ)れ朽(く)ち腐(くさ)るものか。予(よ)之(これ)を為す。銘に曰く。
ああ、箇(こ)の鐘子(しょうし)は、元(もと)は是(こ)れ 鋼銅(こうどう)なり。百の錬(れん)、形に範(のり)し一撃すれば、夢を脱し、談を育(はぐく)み、般若(はんにゃ)の聲(こえ)は、円通(えんつう)の證(あか)し。殿上(でんじょう)に掛け著(つる)し、宮商(きゅうしょう)を打ち調える。
曽(かつ)て有り。新居浜の住 井筒屋忠七は允尖山天亮(いんせんざんてんりょう)周応和尚世の日に、法(ほう)の鐘一つを寄す。
(いずみ)の 三霊(さんれい)の冥福(めいふく)を助くは、図らずも瓶(かめ)破れて、調則(ちょうそく)に堪えず也。故に改めて小鐘を打ち尖(つ)けば、耳に雖然(さながら)令(れい)。

単語の注 
寄:よす、寄進
乎:か、や 反語を表す
咄:呼びかける声
錬:鍛錬、ねり鍛える
範:のりす、型に流し込む
圓通:佛菩薩の妙悟、極めて優れた悟り
殿上:宮殿または殿堂の上、ここでは本堂
掛著:掛けてつける
調:しらべる、楽を奏する、韻律を合わせる、音楽の音色
宮商:五音中の基本となる宮商二音の義、転じて音楽の調子、音楽、音律
:字書になし。サンズイを水と置き換え、口の上に水を置いた「呇」として探したところ、「泉を意味する」(Wikipedia「古壮字」)ことがみつかったので、ここでは「いずみ」とした
三霊:①天・地・人 ②日・月・星③天神・地祇・人鬼
冥福:死後の幸福
:斯の下に瓦 かめ
調則:手本に則(のっと)り調(ととの)えるとした
雖然:さながら、が、けど、逆接用法
令:よい
常住:所有
龍舎:りょうしゃ、「歳次」と同義で、五行思想で星の宿る位置を表す、歳(ほし)乙卯に次(やどる)
天:年
吉辰:きつしん、吉日

浜井筒屋忠七が寄進した半鐘が慈眼寺に現存した

2019-06-14 08:57:14 | 趣味歴史推論
2019年6月8日、慈眼寺のご住職から「井筒屋忠七が寄進した鐘が慈眼寺にある」と告げられた。あまりの事に驚き、幸運に感謝した。早速慈眼寺にとんでいき、ご住職に鐘を見せていただき、いきさつなどを伺った。写真に撮り、銘文を少し解読したので、報告する。井筒屋の足跡が古文書の文面だけでなく、実物として確認できたので、非常に価値がある。
 その半鐘(小さな釣鐘)は、慈眼寺本堂に、ご本尊様から見て右手の隅の天井近くにつるされている。外口径36cm、総高63cmの立派な釣鐘である。ご住職は、天明6年(1786)建立された本堂を平成2年(1990)に解体し、平成4年(1992)に再建立、落慶した。1)解体した際にこの鐘を大事に思い、現本堂につるしたとのことである。半鐘は、もともとは、本堂にあって法要の開始の知らせや、催事を賑やかにするためなどに使われてきたものである。(その後、一般には火事の知らせに用いられるようになった)
この半鐘の銘文は以下のとおりである。2)

無先之形摸一且    
寄之功受雖千歳
夫朽腐者乎予為
之銘曰

咄箇鐘子元是鋼銅
百錬範形一撃脱夢
育談般若聲證圓通
掛著殿上打調宮商

曽有新居濱之住
井筒屋忠七者允
尖山天亮和尚應
世之日寄法鐘一

助三霊冥福者
不図破而不堪 
調則也故改打尖
小鐘而耳雖然令

前永平當寺十三世周方谷代造焉
讃州豊田郡辻村住忠兵衛正隆作

豫州新居郡金子村慈眼禅寺常住
日本寛政七龍舎乙卯天初夏吉辰

筆者は漢文の素養がないので、全文の読み下し、解釈は後日にしたい。まずは事柄を記述したところのみを抜き出す。

「かつてあったことだが、新居浜に住んでいた井筒屋忠七は、允尖山天亮周応和尚の世(1749~1756)の日に、仏法の鐘一口を寄進した。
永平慈眼寺の前13世方谷巨周和尚の代に造った。
讃州豊田郡辻村に住む忠兵衛正隆が作った。
予州新居郡金子村慈眼禅寺の所有物である。
寛政7乙卯(1795)年初夏吉日。」

井筒屋忠七が鐘を寄進してから、方谷和尚が銘文を作り実際に鋳造されたのは、40年後の寛政7年(1795)になったということであろう。

今後、銘文の解読及び井筒屋忠七について調べたい。

注 引用文献など
1. 白石正雄 慈眼寺史(平成4年11月 1992)
慈眼寺歴代住職
第10世 天亮周応和尚 寛延2年戌辰(1749)~宝暦6年丙子(1756)
第11世 玉峯玄透和尚 宝暦6年丙子(1756)~安永7年戊戌(1778)
第12世 大雄徹道和尚 安永7年戊戌(1778)~天明7年丁未(1787)
第13世 方谷巨周和尚 天明7年丁未(1787)~寛政7年乙卯(1795)
第14世 月泉義笑和尚 寛政7年乙卯(1795)~文化8辛未(1811)
第23世 知関大宗和尚 昭和60年乙丑(1985)~現在
2. 異体字の刻字を筆者の推定で→の先の字に置き換えている(正しさは不明)
→受  →尖 

写真:慈眼寺本堂にある井筒屋忠七寄進の半鐘




新居浜浦西の庄屋の加藤家は、新居浜井筒屋ではない

2019-06-01 14:13:33 | 趣味歴史推論
「西條誌」(1842)1)には「新居浜浦と呼び始めたのは、松平家が西條藩主になってからの事だ」と書かれてあり、それまでは新居浜村と呼び(庄屋役は七左衛門 百姓)、それ以前の古くは大円浜(おおえのはま)といい、後に大江と書く。浦とは浜辺の村のことで、初代藩主松平頼純は、寛文10年(1670)からで、その時に、加藤角右衛門が新居浜浦の西の庄屋に、同族の七太夫が東の庄屋に任ぜられたと系図に記されている。
御代島に松苗を植えたこと、庄屋の家号が御代島屋(商売用には代島屋(よしまや))であること、家系図などから、庄屋の先祖が御代島城主の加藤民部正だと考えられる。2)
時は下り、新居浜浦庄屋の加藤吉三郎が天明5年(1785)巳6月に提出した「御代島御座敷建直し御窺いに付き、私の先祖の来歴等御尋ねの御返書」には、加藤家の代々について以下のように書かれている。2)

西の庄屋
 初代 加藤角右衛門(吉三郎の先祖 万治年中(1658-1661)40石)
 二代 弥兵衛(浦方本家相続 40石 家号 御代島屋 商売用には代島屋)
三代 清太夫(せいだゆう)(万治年中~寛文4~5年(1664~1665)に本家家来の内7軒召し連れ御代島へ引っ越し松苗を植え、畑開きした。寛文8年 甚左衛門と変名)
四代 半右衛門(浦方本家相続も若死、内間不勝手、17~8石、なお島方は弟の甚左衛門が相続)
五代 吉三郎(半右衛門跡養子に相成り浦方本家相続 大工職 27~8石、島方は甚左衛門子の甚左衛門相続 後に久四郎と変名)
六代 権左衛門(浦方本家相続 若年の頃は弥兵衛と申す。組頭役を勤める。30石、島方は久四郎相続のところ、お咎めの品あり三郎兵衛が相続)
七代 三郎兵衛(浦方本家相続、島方と両方をかけもつ 大工職 天明4年(1784)より、吉三郎と変名)

東の庄屋  
初代 加藤七太夫(儀左衛門の先祖)

結論:西の庄屋の加藤家は、商売用屋号が代島屋であること、大工職であること、廻船を所有していたとは記載されていないこと、から、新居浜井筒屋ではない。

東の庄屋の加藤家は、加藤儀左衛門(1785ごろ)の祖先で初代は加藤七太夫あるが、その間の相続した主人名、経歴等については、記載がない。新居浜井筒屋である可能性は残っており、調べていきたい。

注 引用文献など
1. 矢野益治「注釈西條誌」(新居浜郷土史談会 昭和57.6 1982)
2. 千葉誉好「郷土古文書史料集 57 新居浜浦庄屋 加藤家文書(1)」郷土史談第142号p38(新居浜郷土史談会 1987.5)