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切上り長兵衛の戒名「海山利白」が示すこと

2019-01-15 21:58:18 | 趣味歴史推論
5か月前のブログ「切上り長兵衛は実在した」の中で戒名について、以下のように考察した。

「海山利白信士」は(かいさんりはくしんじ)と読むのが妥当であろう。山は漢音にてサンと読むとあるから。道号の「海山」(かいさん)も、戒名の「利」と「白」も一般的に使われる。
山の鉱石を鋭い鏨(のみ)で打ち、利を生み出すことに優れた人を表していると思う。

筆者は仏事に詳しくないが、長兵衛について少し調べ、親しみが増した現時点で、再度戒名が示すことを、戒名をつける人の観点から考察してみたい。
道号について
山 道号には、まず「山」をぜひとも入れたいと思うに違いない。全国の鉱山を渡り歩きついに別子の銅山を掘り当てた。山=鉱山=鉱石=宝の山 を探すのに一生をかけた長兵衛を表すのに「山」は最も適している。道号のあと一字は、何にするか。

① 山の対比で「海」を持ってきて、大きく「海山」とする。
② 父母の恩は山よりも高く、海よりも深いという。また北条政子は鎌倉武士に対して、頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深いと説いた。泉屋にとって、別子露頭の知らせをもたらした長兵衛の恩は山よりも高く、海よりも深い。だから「海山」とする。
③ 臨済宗僧侶「海山元珠(かいさんげんしゅ)」の道号「海山」をいただく。海山は、方広寺大仏鐘銘事件の折、銘文の作者清韓をただ一人弁護した。1)2) この大仏と鐘は、泉屋を創業し南蛮吹きを完成させた蘇我理右衛門が納めた銅で作られた。3) 泉屋と海山は縁がある。海山は周囲に惑わされることなく、自分の意志を貫いた気概ある人だった。長兵衛もそうであったからこそ、別子露頭の知らせを泉屋に持ってきた。
戒名について
利 
① 利は、切上りの切と同じ刀部(刀(かたな)、刂(りっとう))である。名前の切上りの「切り」を意味する。
② 山、鉱石の目利きを意味する。
③ 白を利する。すなわち 泉屋(白+水)に利益をもたらしたことを讃えている。

① 優れたを意味する。
② 白は泉屋(泉は白+水から成り立っている)を表している。また蘇我理右衛門が南蛮吹きを完成するのに、白水という南蛮人からヒントを得たともいわれる。4)5) この二つのことから「白」で泉屋を表す。
③「りはく」は、唐の大詩人「李白」を連想させる。李白は25歳から十数年諸国を遍歴して、酒を好み、名詩をたくさん作った。6)7) 長兵衛も全国を渡り歩き、鉱山の切上り名人であった。

まとめ:「海山利白」は、泉屋への貢献と関連を想起させる戒名であると思う。あるいは、泉屋はこの戒名をおくることで、切上り長兵衛への感謝を示しているのではないかと思う。

戒名をつけたのは、慈眼寺の和尚か。あるいは泉屋から頼まれて京都、大坂の僧侶がつけて、濱井筒屋に頼んで慈眼寺で祀ったのであろうか。後者の可能性も大いにありうると思う。

注 引用文献など
1. 国書人名辞典第一巻p423(岩波書店 1993.11)
海山元珠(かいさんげんしゅ) 僧侶(臨済)
 [生没] 永禄9年(1566)9月1日生、 寛永19年(1642)1月23日没。77歳 [名号] 法諱、元珠。道号、海山。[経歴] 美濃国不破郡曾禰の人。慶長3年(1598)師南化玄興から海山の号を贈られた。同8年、妙心寺住持となり、のち東山の祥雲寺に住した。方広寺大仏鐘銘事件の折、銘文の作者清韓を弁護したことで知られる。[著作] 海山和尚語録
2. ホームページ菜根道場>戦国房>師弟が通る日本史>第陸頁 大龍和尚(海山元珠)と鉄牛
海山元珠が日本史上に姿を現す最も有名な事象は、慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件である。この事件は、亡き豊臣秀吉供養の為に豊臣秀頼が再建した方広寺の大鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の銘が「「国家安康」は家康の「家」と「康」を分断して呪い、「君臣豊楽」は「豊臣」を「君」として「楽」しむと詠ったものだ。」と言い掛かりをつけて大坂の陣への戦端とした事件である(この事件が言い掛かりである事は方広寺の鐘銘が現存する事からも明らかである。「国家安康」も「君臣豊楽」も普通に使われる四字熟語である)。勿論すぐに戦になった訳ではなく、方広寺大仏殿開眼供養の延期を幕府より命ぜられた豊臣方では片桐且元が銘文の作者である清韓文英(せいかんぶんえい)を伴って、家康のいる駿府に発った。清韓は京都五山(足利義満によって格付けされた京都臨済宗の五大名刹で、上位から天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の更に上位に置かれている南禅寺の長老で、二人は駿府に着くや本多正純の命で阿部川宿に足止めを食い、南光坊天海(天台宗)と金地院崇伝(臨済宗。清韓と同じ南禅寺)の糾問を受けた。これが仕組まれた陰謀である事に気付き得ない片桐と清韓が後年「黒衣の宰相」とも「大欲山気根院僭上寺悪国師」とも称された怪僧達に抗し得る筈もなかった。幕府は京都五山十刹の学僧達を召し、天海・林羅山立会いの下、銘文に対する審議が為された。しかしながら審議とは名ばかりで、幕命に媚びたか、清韓の博学多識が妬まれたのか、学僧達は「銘文が長過ぎて勧進帳の様だ」とか、「大御所様の御名を裂いて「安」を入れたのが悪い」とか、「かような文章は田舎僧のもの」などといった、「子供の口喧嘩でももうチョットマシなこと言うぞ?」と言いたくなる様な悪様な批判が集中した。しかし、そんな誹謗の嵐の中に唯一人、「愚にもつかぬひがごと」と一言の下に言い切った老僧がいた。その老僧こそが海山元珠であった。
 「愚にもつかぬひがごと」は言い換えれば「馬鹿みたいな道理に合わない間違い」という意味で、快活なぐらい、天海と崇伝の言い分を叩き斬っている。
3. 泉屋叢考第5輯「蘇我理右衛門壽濟翁の研究」p23住友修史室(昭和29 1954)
豊臣秀吉が創建し、子秀頼が再興した京都東山方広寺の大佛及び彼の大坂役の原因をなした梵鐘の銅は、いづれも翁がこれを納めたという所傳がある。即ち「文殊院由来書」に次のように見えてゐる。
 慶長七年ニ又六條東山方廣寺大佛殿ニ廬舎那佛ノ像高サ六丈三尺ヲ銅ニテ鋳給フ。此時泉屋理右衛門ニ被仰付、大分ノ銅ヲ入ル。亦慶長十九年ニ鐘出来ル。同銅ヲ賣ル。
4. 同上p14「南蛮吹の傳習とその技法」
5. 住友グループ広報委員会ホームページ>住友の歴史>歴史表>蘇我理右衛門 など
蘇我理右衛門(そがりえもん)(1572-1636)
蘇我理右衛門は天正18年(1590)に、19歳という若さで京との寺町五条に銅吹きと銅細工の店を開業、屋号を泉屋と称した。そして、白水という南蛮人から、粗銅より銀を絞り出す原理をならい、慶長年間(1596-1615)に南蛮吹きを完成した。(白水の二字を合わせて泉屋としたという説もある。)これにより泉屋は大いに栄え、銅精錬の他、銅山経営や銅貿易にも携わり、銅業界での地位も高まった。京都東山の方広寺の大仏(現存せず)や大坂冬の陣の原因とされる「国家安康 君臣豊楽」の銘文のある大梵鐘の銅も大部分は理右衛門が納めたと言われる。
住友政友の姉と結婚。蘇我理右衛門は住友財閥の業祖と呼ばれ、義弟の住友政友は家祖と呼ばれる。
6. 新字源 p492(角川 昭和43年 1968)
李白(701-762)盛唐の大詩人。字は太白。青蓮居士と号した。蜀の人。若くから諸国を遍歴し、賀知章の推薦で玄宗の宮廷に迎えられたが、三年後に追われ、再び放浪。安史の乱の時、永王璘の反乱に加わった疑いで夜郎に流された。のち、許されて帰り、代宗から左拾遺に任じられたが、その時すでに死んでいた。生まれつき酒を好んだ。その詩は自由奔放,高妙清逸で、杜甫と並称して李杜という。
7. Wikipedia  李白

小説・漫画の中の切上り長兵衛の年令

2019-01-06 19:05:55 | 趣味歴史推論
泉屋吉岡銅山の田向重右衛門へ 別子の露頭の存在を知らせた元禄3年(1690)当時の切上り長兵衛の年令を、史誌、史話、小説、漫画などではいくつと書いているかを知るべく探した結果、僅かに次の3点があった。

1.小説 芥川三平 「別子開坑記」(1986)1)
 「30前后の屈強な男」と書かれている。

2.小説 高嶺憧 「あかがね物語」(1991) 2)
年の頃は四十少し前、少々無鉄砲で気難しいところもあったが、職人としての腕は確かだった。それにもの(鉱石)を目利きする勘は相当なものらしい。

3.漫画 住友四百年「源泉」(2012)3)
描かれた長兵衛の目元の感じから四十代と筆者はみた。対する田向重右衛門は36歳なのだが、かなり若く描かれている。この漫画は、少なくとも長兵衛を田向重右衛門よりかなり年上として描いている。

 「別子開坑二百五十年史話」(1941)には、「長兵衛はこれまで同じ阿波出の山留源四郎や久右衛門といっしょに備中へ渡って、吉岡銅山に雇はれたものだが、この一両年前に長兵衛は郷里に近い伊豫に立ち越して、同國新居郡立川銅山で稼いでいた。」と長兵衛の鉱夫経歴がかなり短いように書かれている。4) これが長い間一般に公開された唯一の情報源であった。
しかし「宝の山」(1991.12)が一般に公開され、これにより切上り長兵衛が渡り鉱夫として全国の多くの鉱山で働いていたという経歴が明らかとなった。5) この情報により切上り長兵衛の年令は上がったと筆者は推測する。

注 文献など
1.芥川三平 創作「別子銅山 露頭発見記(四)」新居浜郷土史談 第64号 p38(昭和55.11 1980)として発表、のちこの連載をまとめて 単行本 別子開坑記 (昭和61.7 1986)として発行。
2.高嶺憧 「あかがね物語」(5)益友 第38巻第7号(平成3.7 1991.7) p18
3.漫画 作:西ゆうじ 画:長尾朋寿 住友四百年「源泉」第五話「歓喜の銅山発見」(講談社 2012.4)住友の歴史を参考にして創作された物語ですと書かれている。
インターネットで 住友グループ広報委員会>住友の歴史>漫画>住友四百年「源泉」で読める。
4.住友本社庶務課編 別子開坑二百五十年史話p55 昭和16(1941)国立国会図書館デジタルコレクション
5.住友史料叢書[6] 監修小葉田淳 編集住友資料館今井典子「宝の山 諸国銅山見分扣」(思文閣出版/京都 平成3.12 1991.12)

漫画 住友四百年「源泉」第五話「歓喜の銅山発見」