気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(17) 柄実(がらみ)説

2021-05-30 08:33:47 | 趣味歴史推論
 本報は、筆者の仮説である。
1. 「からみ」を「空味」と表記したものは、見つけられなかった。「空」は「無」「何も実体のない空間や状態」を意味するので、「からみ」には不適当であったのであろう。「物のからみ」には実体がある。「空」ではない。だから「空」の字を使わなかったと思う。「からみ」の「から」は「何もない」を意味する「空」からきているのではないと思う。「空」の読みも一般には「くう」であるし。
正味鏈にしたものを処理して、そこから「空味 何もないもの」が生成するというのは、論理的にもおかしい。
そこで「何もない から」を意味するものでないところに語源を探すことにした。

2. 「からミ」初出が石見銀山の大久保長安の覚書であったので、「からみ」の語源を石見銀山に探すことにした。
「石見銀山通信」の情報に基づいてまとめると以下のようになる。1)
間歩中で銀掘がどんどん打ち削っていく石のうち、銀を含んだ値打ちのある石を「鏈(くさり)」と呼び、たいした値打ちのない素石を「柄山(がらやま)」と呼んだ。間歩で適当な大きさに砕かれた塊は、鏈と柄山(捨石 素石 脈石)とに二分され、「入手」(いりて)によって、叺(だつ)に詰められた。叺とは藁で作られた”かます”の方言で、大小のサイズがあり、大は9貫目(約34kg)入り、小は4.5貫目(約17kg)入りだった。
叺に詰められた鏈は、荷(に)と呼ばれ、「荷負役」(においやく)によって間歩の外の役所の脇にある鏈置き場に運ばれた。掘人が自分で背負ってくこともあった。
一方、「柄山」の詰まった叺は、「柄山負(がらやまおい)」に背負われ、間歩近くの河原などにある柄山捨場(がらやますてば)に運ばれた。2)3)

3. 素石は、「がらやま」と発音されたことから、「柄」の字をあてたと思う。山は岩石を表すが、なぜ「がら ガラ」と発音されたのか。筆者は、この素石を分けてポイッと放り出した時や、集める時に生じる音が「ガラ」「ガラガラ」と聞こえるので、大した値打ちのない岩石を「がらやま」と言ったと思う。オノマトペによる柄(がら)である。

4. 正味鏈を吹きて生成した(実になった)たいした値打ちのないものを、「ガラの実」と言い、これが「ガラ実」→「柄実」(がらみ)となったのではないか。「柄実」は、たいした値打ちのないものである。しかしよく調べると、銀や銅が残っていたり、焼鉑を熔かしやすくしたり、有用であることがわかってきた。そこで、有用感を出すために、濁音の「ガラ」を静音の「カラ」に変え「カラミ」と呼び、「からミ」とかなで書いたのではないか。現場の大久保長安が率先して使ったので(あるいは指示して)、それ以降、皆が「からミ・からみ」を使ったのではないか。石見銀山の文書では「からみ・鍰の由来(10)」に記したように、一貫して「からみ」が使われ、「柄実」はなかった。大久保長安より前の石見銀山の文書に「柄実」はないであろうか。

5. 江戸期の鉱山関連の書籍や文書で、「柄実」を多く使っているのは、佐渡金銀山である。
佐渡では、文禄4年(1595)、石見国から来た山師により、鶴子銀山が稼行された。その頃に、「柄実」が伝わったのではないか。そして、この「柄実」は、石見では使わなくなったが、佐渡では生き残り使われたのではないか。
由来(1)で、示した「独歩行(ひとりあるき)」(1804~1829頃) には、多くの状態と名称の「柄実」が記されており、「柄実」が製錬工程で重要であったことがわかる。4)「金銀山敷岡稼方図」(1700年代後半)にも「柄実」、「カラミ」が記されている。
 見付けた最も古い「柄実」は、寛永20年(1643)「未6,7両月、相川上下組小役銀高」(佐渡国略記)である。5)

上組     3貫826匁6分 内
 ねこ    90筋     役銀 810匁
 磨     44柄        220匁
 柄実買    7人        70匁
 歩替屋   17人         170匁
 ゆり板   104枚        416匁
 鍛冶屋   3軒          30匁
 大床屋    5軒        400匁
 万小役             850匁6分
 吹分床    6軒        420匁
 小床屋   11軒         440匁
右は門御帳の通り相究め如斯御座候、銀取立御運上屋へ納め申し候
 寛永20年未7月29日
                鈴木八右衛門
                川住権右衛門

下組
 (略)

 柄実買は、からみには銀分が含まれているので、回収して商売にしていた。この頃には、「柄実」は、「からみ」とも発音されていたかもしれない。
これ以前は、「佐渡古実略記」(神代~寛永11年(1634)を調べる必要がある。6)

「柄実」についてもう少し調べてみよう。 

注 引用文献
1.  web. 石見銀山ガイドの会公式ブログ「石見銀山通信」2011.1.23
2. 日本鉱業史料集第9期近世編「石見銀山絵巻・大森銀山絵図等」(日本鉱業史料集刊行委員会 昭和63年 1988)
石見銀山絵巻は石見銀山資料館本
p15 荷柄山運出之図 →図1
3.  別冊太陽「石見銀山」編集人 湯原公浩 p11 (平凡社 2007.11)   
石見銀山図解(中村俊郎氏蔵)より 荷柄山取扱図 →図2
・web.渡部浩二(新潟県立歴史博物館学芸課研究員)「日本鉱山絵巻の分類と鉱山技術の伝播・交流に関する研究」(科研費補助金研究成果報告書 平成23.5.30)
「なお、近年、石見銀山絵巻の原図は、19世紀前半に、石見銀山の地役人で絵師であった阿部半蔵光格の手によるものであることが指摘されたが、佐渡金銀山絵巻の成立は1730年代と見込まれ、佐渡金銀山絵巻が石見銀山絵巻に先行したとする本研究の指摘はそれを裏付けるものとなった。」
・web.「石見銀山通信」2018.08.21, 2019.12.24 
阿部家8代当主阿部光格は、「石見銀山絵巻」の下描きをした人と言われている。
4. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」p582~665(刀水書房 1986)
 史料(11)「ひとりあるき」(佐渡高校舟崎文庫所蔵文書)下 吹分所取扱
5. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」p264(刀水書房 1986)
「佐渡国略記・上巻」p135(新潟県立佐渡高等学校同窓会 1986)
「佐渡国略記」は、寛永12年(1635)から天保7年(1836)までを収める佐渡国の編年体記録。著者は相川町年寄伊藤三右衛門。天保年間(1830~1843)に書きあげられた。
6. web.国会図書館デジタルコレクション「佐渡国略記・上巻」の中の「佐渡古実略記」4~7巻

図1. 荷柄山運出之図


図2. 荷柄山取扱図
   

からみ・鍰の由来(16) 「鍰」(からみ)を使いはじめたのは、南部藩の人たちである。

2021-05-23 08:30:29 | 趣味歴史推論
 「からみ」は、不要な金属成分と脈石を一体ものとして除く操作でできるものであり、有用な金属がまだ含まれていること、焼鉑を熔かしやすくすること、等有用なものである。そこで、銅や鉛と同じように1字の漢字で、表記したいと考えた人が「鍰」を仮借したのであろう。それは誰であったか。

これまでのまとめ
1. 赤穂満矩「鉱山聞書」(1785)の明治初年に筆写された写本には、「鍰」が使われていた。赤穂が「鍰」を使っていた可能性は高いが、不確定である。原書の発見が待たれる。また著作目的が秘伝を息子に伝えると記載されていて、いつ公開されたのかがわからない。「鍰」の発信源となり得たのか不明である。(由来(5)(8)(15))
2. 「銅山記」(1797以降)に「鍰」が使われているが、原書の書かれた年が確定できない。
筆書和書(原書又は写本)は、岩手県立図書館所蔵であるが、字を確認できていない。(由来(13))
3. 「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)(1812)
 尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを幕府に願って許された件を記している。これが「鍰」が書かれた年月がはっきりした最も古いものである。(由来(11))
4. 「御銅山傳書」(1849)
尾去沢銅山は明和2年(1765)南部藩の御手山(直営)となり、それ以降の銅山に関連する稼行仕法の秘伝、定法、定目をとりまとめた筆写本が「御銅山傳書」である。これを筆写したのは、嘉永2年(1849.3.10)で、南部藩御銅山廻銅支配人で尾去沢銅山の稼行の責任者であった内田家の内田周治である。多くの「鍰」が使われている。(由来(12))
5. 「山要録」(1840)
「山要録」は、秋田藩の阿仁鉱山の鉱山旧記であり、成立は天保11年(1840)である。
「冶金の曙」著者の「かまさい」氏から、本ブログ「からみ・鍰の由来(10)」へ以下のコメントをいただいた。
「秋田藩で「からみ」が、南部藩では「鍰」が使われていた感じでしたが、『山要録』で「カラミ」18か所に対して一か所だけ「鍰」が使われていたのが何気に印象的でした。
 鐇 薪鍰板ナトヲ割ルニ用ユル 」 
鐇は、ちょうな たつぎ。この頃には南部藩の「鍰」を使うのが伝わっていて、試しに「鍰板」で使ってみたのか。

考察
1. 赤穂満矩の子孫が「鉱山聞書」をすぐに公開したのであれば、この書が南部藩の人に影響を与え、南部藩や尾去沢銅山で「鍰」を使うようになったと考えられる。遅ければ、南部藩には、赤穂満矩より前に、鍰を使いだした人がいるということになる。
2. 南部藩雑書には、文化9年(1812)より前に「鍰」がある可能性がある。
南部藩雑書は、日誌であり、複数の家老名が書かれているので、個人の日記に比べ、日時や記述内容の信頼性が高い。
南部藩は明和2年(1765)、坂牛新五左衛門を銅山御用懸元締に任じた。尾去沢、不老倉など御手山稼行となった。この頃から「鍰」が使われた可能性を、南部藩雑書で調べられるかもしれない。
3. 大坂銅吹屋の字が南部藩に及ぼした影響について
①大坂銅吹屋では、貞享期に、「しぼり」に対して、「鍰」「鉸」を仮借して使っていた。
「鍰」(からみ)の使い方は見られない。
②「鉱山聞書」の「しぼり」は、目次に2ヶ所、本文に12ヶ所、挿絵に4ヶ所が 全てが「絞」であり、「鉸」はなかった。
南部藩には大坂銅吹屋の「鉸」「鍰」の文字の情報が伝わらなかったのか、あえてそれを採用しなかったのか。

現時点での結論
1. 「鉱山聞書」の筆写は明治初年であること、および原書が公開され南部藩内で影響を与えた年がはっきりしないので、赤穂満矩が鍰を使いはじめた人であるとは確定できない。
2. しかし、「鍰」を使い始めたのは、南部藩であることは、確実である。
3. 南部藩雑書の「捨鍰」(1812)の記述が、確定出来た年月の最古のものである。


注 引用文献
1. 「日本鉱業史料集」第一期 近世篇1「山要録」(白亜書房 1981)
  筆者はまだ見られていない。

からみ・鍰の由来(15) 赤穂満矩は南部藩四角岳鉱山の支配中、不老倉鉱山の総山中

2021-05-16 08:57:40 | 趣味歴史推論
 以前に、「鉱山聞書」の著者赤穂満矩は尾去沢銅山の山師であったと書いたが、孫引きであり、出典は分からず、麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」にもあたったが、記載はなかったので、取り消す。本当に実在した人物であったのか、「鉱山聞書」と「中岳山頂の猿田彦大神命の石碑」の二つしか史料は見つからなかった。

1.「鉱山聞書」(1785)1)
序 →図1
 予幼年の頃、父母に随いて銅山に養われ、父祖より相伝処の下財の業を聞き覚え、なお壮年に至りて、名ある金堀に毎事尋ね問て、その道を学び、これを我が胸中に秘して、ただ一身の日用たりなんの望みを思いて、書き溜たる事一つもなし。然れども、愚息に伝ふべきのために、今既に方寸の胸を開き集め書す。下財を営み世を渡る者、農工商の道は嘗て知らず、十国十山を家として一生を送る。しかれどもその利筋に暗き時は、必ず諸人の先途に立ち難からんか。
 慶長年中に東照権現御定めの法式、往昔明暦2年、出羽国秋田郡向銀山に定め、山州伊豫国別子立川、佐渡国金山 紀州熊野銅山 丹波国幾野銅山 等に流義を定め、それより諸国諸山に法式を定む。中にも日本の始は、金花山より黄金を内裏に奉りし式を集め、今世に行わるゝ流義は、岩戸開き、外記流、振袖流とて、三派あり。中にも岩戸開きは宗元にして、専ら神道を学び遷す、以て教えを世に残す。
 しかるに予既に50歳に及び、余命久しからざる事を思い、之によって胸中に貯たる所の九牛が一毛、愚子の愛情におぼれ、後人の誹りをも顧みず、一冊として微言を筆にとどめ残して、金堀の一助とす。汝これを常に修練して、欠けたるを補い誤れるを正し、他見する事之有るべからず。これ則ち人の薄智微言を笑わん事を恐れ恥ずべきのみ。
 時に天明5年乙巳正月吉日       赤穂氏満矩
  日本山の始陸奥金花山なり
 皇の御代栄えんと東なる 陸奥やまに黄金花さく

跋 →図2
 右この一番に住し、思出し筆を染め、書進み候。よって前後わきまえず乱筆文字も不分明たるべく存じ候。御推見ならるべく候。随分再覧致され口伝を得、下財の途を相嗜み申さるべき事に候。当世農商の道にて日用暮し難く無産無渡世は、ただ金堀より外他事之無し候。功を得ては立身易く一生を送り候。必ず以て他見之有るべからず、人の誹りを相慎むが故に候也。
 天明5年乙巳正月      南部四角岳支配中 書
                 赤穂利兵衛満矩

2.「中岳山頂の石碑」(1783)2)3)
 正面 猿田彦大神命
 側面 天明三年卯七月十三日 
    奉斎  不老倉総山中
 背面 出鉑増進(近?) 
    中嶽 □ 赤穂氏
    山内安全

(文字は、引用文献2 からと、2中の背面写真から筆者が読み取ったものである。石碑の重さは凡そ50貫とのことである)

検討
(1)聞書から、赤穂氏満矩は天明5年(1785)に南部四角岳(しかくだけ)鉱山支配中であり、石碑から赤穂氏は天明3年(1783)に不老倉(ふろうぐら)鉱山総山中であることがわかった。
(2)四角岳(しかくだけ)は、岩手県、秋田県、青森県の三県の境界にある山(1003m)で、その西隣に中岳(ちゅうだけ)(1024m)があり、それらの根に銅山が見つかった。4)この地域は、江戸期には南部藩(盛岡領)であった。→図3
(3)「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)には、四角岳銅山、狼倉(おいぬくら)銅山の出銅記録が延宝6年(1678)から、記載されている
 ①斎藤長八「不老倉鉱山誌」の年表では以下のとおり。2)
 延宝6年(1678)1月20日 白根・狼倉両山吹出銅1,034箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
         6月7日 狼倉銅58箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
         10月15日 狼倉銅220箇、黒沢尻番所改め他領へ出す。
         10月24日 四角岳銅101箇、松山番所改め他領へ出す。
 延宝7年(1679)----以下略---
        (1箇は、約16貫)
 ②麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」には、産銅高を以下のようにまとめている。5) 
      延宝5年(1677)    6年   7年   8年   天和元年   2年
 白根銅山     53,121貫    57,576  39,819   37,729   39,611  101,772
 狼倉銅山     ---      3,560    4,705     ---     4,091    2,493
 四角嶽銅山    ---       1,214    8,863   4,848     563    ---

(4)狼倉銅山は、明和2年(1765年)から南部藩の直山となった時から、不老倉(ふろうぐら)銅山に改称された。狼オイヌとはオオカミのことで、オイヌ→おいぬ→老いぬ→不老へ、倉(くら)は岩場のことで岩石の露出の多い所を意味し、狼のすむ岩の多い所を意味する。2)
(5)著作と石碑建立の時期は、どちらも天明の大飢饉の最中であるが、飢饉は、天明3~4年が特に厳しかった。天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火し、火山灰を降らせたのである。
年表によれば、南部藩雑書に以下の記載あり。2)
・天明4年(1784)3月1日 不老倉銅山出火、床屋残らず、外に中間小屋、大炭倉、小炭倉、竹蔵、御米蔵、荒物蔵を焼失す。
・天明6年(1786)5月9日 大湯町惣老名共の願出るには、卯年(天明3年)の不作以来困窮その上数十軒焼失し夫伝馬を勤め兼ねるとのことなので、3ヵ年中50貫文宛下し置かれ銅山等の夫伝馬御用滞りなく勤めるよう命ずる。
(6)支配中(しはいちゅう)と総山中(惣山中)(そうさんちゅう)について 
「中」は、「集団の一同、全体」を意味する。家中、氏子中、連中、惣中、村中、老中など。本来は、複数の構成員からなる総体を指した。その一員も、---中と呼ばれた。よって---中という役職者は、複数人いる。6)
平凡社世界大百科事典「阿仁鉱山」によれば、「1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。」とある。7) 
支配中は、支配役数名がいるうちのひとりを意味するのであろう。総山中(惣山中)とほぼ同じ役職と思われる。どちらも場合も、その鉱山に複数人いる山師の一人であったということになる。
(7)不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師の記録
年表には、「南部藩雑書」「諸山」「立山文書」「白根史蹟」などから抽出した、延宝8年(1680)~寛政7年(1795)間の不老倉鉱山、四角岳鉱山の山師、見立願人、山先、稼行者の名前が18人程挙げられているが、赤穂満矩の名前はなかった。2)
(8)不老倉銅山の捨鍰
 年表によれば、以下の記述がある。2)
・文化13年(1816)4月 白根の左七、不老倉銅山の捨鍰働方を来る7月まで出銅50箇の見込みで願い出る。(白根談叢)
・文政2年(1819)この年、不老倉銅山において捨鍰稼行が行われた。(浅井資料)
「白根談叢」原書で「鍰」が漢字の「鍰」であったか確認したいところである。

考察
1. 「鉱山聞書」の目的は、序によれば、鉱山経営・技術の秘伝を息子に書き残すことである。秘伝は口伝が基本で、書き残すことは同業者から誹りをうけることになる。しかし「他見無用 秘伝なり」と書いてあるが、著者は、公開されることを本当に期待しなかったのであろうか。知り得たことをまとめて、謙遜はしているが誇りをもって、鉱山業の進歩に貢献したいと願ったのではなかろうか。
この本は、赤穂の子孫が何時公開したのであろうか。写本をいつ(南部藩内?)で、多数配布したのであろうか。
「鍰」を仮借した事だけなら、秘密にすることもないから、本に書くよりだいぶ前に、皆に言っていたかもしれない。
2.  江戸時代の書や文書で、「鉱山聞書」および「赤穂満矩」について言及されているものを、筆者は見つけていない。この和書の秘が守られていたためであろうか。
また 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」も何ら言及していない。日本鉱業会誌 vol. 28(No.329~332)(1912)には「鉱山聞書」が公開されており、「古事類苑・金石部1」(1896~1914)には、部分的に採録されている。8)それらを麓三郎が知らなかったとは思えない。技術面では参考になったと思うのであるが。
3. 石碑には「赤穂氏」までの刻字とのことだが、普通は、個人の名まで彫る。「満矩」の字が土に埋もれていないか。どなたか登山の折に確認していただけたらうれしい。序に「赤穂氏満矩」と「氏」を入れているが、何か意味があるのであろうか。 
4. 赤穂姓
明暦3年(1657)~寛文5年(1665)の間、「大湯代官」に任じられたのが赤尾又兵衛卓頼(700石)であり、その父赤尾伊織頼賢は近江国赤尾村の出身であった。9)10)日本姓氏語源辞典によれば、「赤穂」は「赤尾」から出た場合もあるとのことなので、11)上記の赤尾氏から出た可能性はないか。また 現在「赤穂」姓の人が、岩手県二戸市、青森県八戸市に居られるので、繫がりがある人はいないであろうか。石碑により、実在人物であると確信するが、子孫が分かると決定的である。
5. この「鉱山聞書」(国会図書館蔵)写本は、明治初年と見られる。
からみ・鍰の由来(8)に示したように、「この書は、巖州邪麻郡下谷地村々長直助所蔵」と巻末に書かれている。巖州とは、岩代国(いわしろのくに)のことである。明治元年12月7日(1869.1.19)に、陸奥国から岩代国、磐城国、陸前国、陸中国の4国が分立し、岩代国は明治9年まで存在し以後福島県となった。その耶麻郡下谷地村(やまぐんしもやちむら)(現在は、福島県耶麻郡西会津町)の村長直助が所蔵したものである。本文とこの所蔵の筆跡は似ていることから、この写本は、明治初年になされたものと推定され、比較的新しいものであることが分かった。赤穂満矩の原書やその頃の写本は、図書館、博物館、歴史文化博物館等や旧家にないであろうか。字を問題にすると、著作当時の和書が、必要になる。

まとめ
 赤穂満矩は「鉱山聞書」で、四角岳鉱山の支配中であること、中岳山頂に不老倉鉱山の総山中として鉱山の出鉑増進、山内安全を祈願した石碑があることから、実在した人物である。

 南部藩雑書(南部藩家老席日誌)に「赤穂満矩」「鉱山聞書」の記載の有無をいつか調べてみたい。12)

注 引用文献
1.  赤穂満矩「鉱山聞書」国立国会図書館所蔵 コマ数2~3(図1),57~8(図2)
2.  斎藤長八「不老倉鉱山誌」(大湯郷土研究シリーズ1 平成12年 2000)
  石碑p96 年表p103~112 不老倉の由来p5
 鹿角市十和田市民センターの佐藤智美氏と大湯郷土研究会副会長の三上豊氏のお蔭でこの本を読むことができ、情報を得ることが出来ました。お礼申し上げます。
3.  Wikipedia「中岳 (鹿角市・八幡平市)」に猿田彦大神命の石碑の正面写真のみあり。 
4.  Web. 木下亀城「不老倉及四角鉱山調査報文」地質調査所報告 第107号p67~115(東京地学協会 昭和5年1930)
5.  麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p56(勁草書房 1964)
6.  Wikipedia 「老中 ろうじゅう」  
7. Web.exite辞典「阿仁鉱山」 出典:平凡社 世界大百科事典
8. web. 国会図書館デジタルコレクション 神宮司庁古事類苑出版事務所 編「古事類苑・金石部1」(明治29年~大正3年 1896~1914)
 明治政府による官撰百科事典である。
9.  Web. 鹿角市先人顕彰館研究員編「鹿角人物事典」p5(鹿角市教育委員会 2020.3)
 「赤尾卓頼(あかおたくより)」
10.  Web. 近世こもんじょ館>きろく解読館>池田衛士家
 『参考諸家系図』によれば、赤尾美作守清国の末流赤尾伊織頼賢は、近江浅井郡赤尾村(滋賀県・伊香郡の誤りか)に住居して京極若狭守忠高に仕えたと伝える。三子あり、
嫡子又兵衛卓頼は江戸に住居、明暦三年南部重直に召抱えられ七百石を領して鹿角郡大湯城を預かり花巻郡代を勤めたが、寛文五年禄を辞して江戸に帰り、一時浪人の後、常陸土浦藩土屋但馬守政直の家臣となり、後その家老職を勤めたという。子孫は同家の長臣となったと伝える。一説には土屋家仕官は南部家の推挙ともいう。
 その二弟は伊兵衛頼茂で、池田家の祖である。頼茂は、兄卓頼と行動を共にして明暦三年南部家に出仕、三百石を食禄して者頭を勤めた。寛文五年禄を辞して江戸に帰り、やはり兄卓頼と共に土屋但馬守政直の家臣となった。その子は赤尾三平頼勝といい盛岡に生まれた。成人の後江戸に出て父に従い土屋氏の邸に居したが、後同家中池田重右衛門の婿養子となり、その家領二百五十石を継いで池田重右衛門と改めた。頼勝はその後元禄五年に盛岡の母を介護する理由で主家の許可を得て家族共々に盛岡に移住、南部家に帰参して十五人扶持(高九十石)を食禄し同八年死去した。(以下略)
11. web. 「日本姓氏語源辞典」>赤穂
12. 「南部藩雑書」(盛岡藩家老席日記)盛岡市教育委員編 第30巻安永8年(1779)~第40巻文化7年(1810)(東洋書院 2013~2016)

図1. 鉱山聞書 序


図2. 鉱山聞書 跋


図3. 不老倉鉱山、四角岳鉱山、白根鉱山、尾去沢銅山などを含む鹿角周辺の地図


からみ・鍰の由来(14) 「鍰(しぼり)」は、泉屋「上棹銅帳」貞享4年(1687)にあり

2021-05-09 09:01:38 | 趣味歴史推論
 近世初期に開発された南蛮吹は、「南蛮しぼり」「しぼり吹」ともいわれ、「しぼり」に対して、一般には「鉸」の字を使ったが、住友では、「鍰」を使った。抜銀した銅を「しぼり銅」といい、「鉸銅」「鍰銅」を使った。結果、江戸期には、「鍰」が「しぼり」と「からみ」の二つの意味で仮借されたのである。どちらが先かを知るために、鍰(しぼり)の字の記録を探った。その結果、上棹銅帳の貞享4年(1687)~元禄11年(1698)に数多くの記録があった。

1. 「上棹銅帳」(1687~1698)1)
①貞享4年卯(1687)5月より9月まで →図1
(A)  240,043斤  代 203貫222匁8分 (銅100斤は銀84.661匁)
・間吹(B)  31,172斤  代 27貫951匁9分3厘 (100斤89.67匁)
・ほと(C)  7,252斤  代  5貫811匁1分3厘 (100斤80.126匁)
・合ほと     226斤  代 169匁5分    (100斤75匁)
・白根銅     330斤  代275匁2分8厘    (100斤83.42匁)
・(合計)鍰銅(D) 279,023斤  代237貫430匁6分4厘(押合100斤85.0935匁)
②元禄11年寅(1698)7月より12月まで →図2
(A) 297,947斤5  代 259貫964匁2分5厘(銅100斤は銀87.25匁)
・間吹(B) 432,631斤  代 356貫185匁1分 (100斤82.33匁)
・程銅(C) 20,181斤5  代 17貫557匁9分 (100斤87匁)
・(合計)鍰銅(D) 750,760斤  鍰銅請払帳  代銀633貫707匁2分5厘

上記のような2~6ヶ月毎にまとめられた記載が貞享4年(1687)3月~元禄11年(1698)12月の11年間に39ヶ所ある。
A,B,C,Dに相当する語の数の内訳は、以下のようになる。
 A:  27  上鍰 6  鍰銅 5  鉸銅 1            合計 39ヶ所
 B: 間吹24  間吹銅7  真吹4  まふき1  まふき銅1  なし2  合計 39ヶ所
 C: ほと 22  ほと銅 10  程銅 4  程 3           合計 39ヶ所
 D: 銅 17  鍰銅 16  鉸銅 4   2            合計 39ヶ所
 
2. 「銅座公用留」(1701)2)
 覚 →図3
多田鍰銅2257貫目
 右は銅致所持候、銅座へ御買可被下候哉、又は入札にて売払可申候哉、但毎年拙者方より長崎銭座下地かねに吹合申候に付、その合かねに吹申度御座候、御指図次第如何様共可仕候、以上
 巳(元禄14年 1701)4月9日       塚口や長左エ門 印
・---
・多田銅入札有之銅の内、此方・大塚や半分宛買取候に付き、大塚や一所に銅座へ断候書付扣
 長谷川六兵衛様御代官多田鉸銅2159貫400目、今日入札御座候、右銅高の内1079貫700目、値段銅10貫目に付き59匁4分替に、私方へ買請申候に付き、御断申上候。残る銅は右同値段にて大塚屋甚右衛門方へ買請申候、以上
 巳4月9日                泉屋吉左衛門 印
                         金福 印
「銅座御用扣」(1702)3)
 覚
・長谷川六兵衛様御代官所多田鍰御銅2183貫800匁、昨11日入札にて御払被為成候、この内1091貫900匁、私方へ買受申候、相残り銅、富屋藤助殿へ買受被申候に付、御断申上候、以上
 午(元禄15年 1702)6月12日      いつミや吉左衛門
 銅座御役所     一枚宛
 長井藤右衛門様 

3. 「鼓銅図録」(文化8~13年(1811~1816)の著作)の南蛮吹
増田綱が著した鼓銅録には、南蛮吹の解説に、「是をしぼりと名づく。字は住友氏は鍰を用ふ。其の他は通じて鉸を用ふ。倶に仮借なり。」とある。「鼓銅図」には、「此の銅をしぼり銅といふ」「鍰吹用具」とある。

考察
1. Aは、「鍰」の字が38ヶ所とほぼ全てが「鍰」を使っているが、「鉸」が1ヶ所あった。
Dは、銀の含有されない銅(間吹やしぼり銅)を指しているが、これを抜銀した銅である「鍰銅」と書いたのが、半数ある。
2. 銅座公用留および銀座御用扣においては、泉屋、塚口やが、多田銀銅山の山元で抜銀された銅を多田鍰銅、多田鉸銅と表示している。使い分けには厳密さはなかったことが伺える。
なお小葉田淳には、「鍰銅とは山元で抜銀した銅を示し」と書いたものがあるが、4)これは正確ではない。住友史料館によれば、山元だから、大坂の吹所だからといった理由で、鍰・鉸の使い分けがされたわけではないとのことである。
3. 貞享4年よりもっと古くから「鍰(しぼり)」は使われていた可能性が高い。
4. 「ほと銅」とは、吹床(南蛮床など)の炉口に溜まる銅のことをさす(住友史料館による)。「程」とも書かれており、「程」の読みは「ほど」であること、火床(ほど)からみて、読みは「ほど銅」であると筆者は思う。
5. 今日、鍰(しぼり)は、生き残っていない。鉸(しぼり)は、金属加工の「へら鉸(しぼり)」で使われている。

まとめ
 泉屋の「上棹銅帳」の貞享4年(1687)に、鍰(しぼり)、鍰銅(しぼりどう)があった。
 鍰(しぼり)は、鍰(からみ)より100年以前から使われていた。


 鍰(しぼり)については、日暮別邸記念館館長倉本勉氏、住友史料館にご教示いただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 住友史料叢書「上棹銅帳」p217,390(思文閣 平成元年1989)→図1,2
2. 住友史料叢書「銅座公用留」p64(思文閣 昭和64年 1989)→図3
3. 住友史料叢書「銅座御用扣」p296(思文閣 昭和64年 1989)
4. 小葉田淳「日本鉱山史の研究」p27(岩波 昭和43年 1968)
図1. 上棹銅帳 貞享4年


図2. 上棹銅帳 元禄11年


図3. 銅座公用留 元禄14年


からみ・鍰の由来(13)尾去沢銅山「銅山記」(1797以降)に「からミ」「鍰」あり

2021-05-02 08:47:22 | 趣味歴史推論
 「銅山記」は、尾去沢銅山の経営、作業行程、仕様、定目など銅山に関わる文書を集めた和書で、岩手県立図書館蔵(新渡戸文庫)のものである。1)2)3) 解題によれば、寛政9年における「釜燃込春木」「木炭渡方」の記載があり、これが最も新たな年次であるので、この書の成立は、寛政9年(1797)以降となるとある。筆者が見た解読文の活字本は、「からみ」「鍰」については、原本和書の通りに写されていると見なした。以下に「からみ」「鍰」が出てくる節を示した。

「銅山記」(1797以降)
鉑に紛らわしきもの附付の善悪 →図1,2
・赤沢にあわ(粟)と言うは、きんすかり(銀ずかり)の事。これもむかし金工ども、下げ鉑へわざ仕掛け候由、よく糀鉑に紛らわしきもの也。山下げ鉑羽色に多し、相下げ候てば、鉑と粟とは相分り申さず候。燃込焼合悪しく床屋吹方からミねばり床の内ともにとかく床の内に滞りあり候てば、出し先へ鈹銅気のもの相捨り候もの也。鉑拵方は気を付け、床屋鉑吹真吹ともに心得あるべし。
・色という道具名は、黒鉑からす鉄鉑の中へ入り申し候てば、鉑と殊の外紛らわしきもの也。燃込には余り障り無い様なれども、床屋吹方にてはからミねばるもの也。
・さびとく白てり、これは床屋吹方殊の外重く昼夜難渋致し候節、右燃込の砌、鉑生に寄り1~2升相加え吹方致し候えば、こわり申さず、さらさらと熔け申し候。何の山にてもこれあり候事に候。但し毒無しの時は床屋のからミ入れ候ても熔ける也。吹方こわりものは、床大工巧者入れるもの也。不巧者にては鳴子を引臼を抜くもの也。鳴子を引けば、鉑生ばかりに寄らずもの也。床大工銘々伝法ありの事に候えども、前後風の取り様、土居の突き様にて風悪しく相廻しあて申さず候えば焼熔けかね候もの也。

真吹床入吹上げの次第附土居水盛りの事 →図3,4
・土居の突様、風取様次第御座候間、羽口竹の上へ水盛り、前フイゴ後フイゴ風不同無し様に、土居突申し候大工口伝あるよし、床入り候には第一炭灰吟味致すべき事。炭灰入口歟又は炭灰あらぐ御座候てば、床たもちかたぐやけくつる、尤もとき埏吟味申すべき事。これも濃いと薄いと甚だ違いあり、とき埏悪しく又は加減悪しければ床の内炭灰やけ流しみ銅余計相出る、したがって尻銅面悪しく流の銅に相成り大きく不益也。床入候て風の位を見、それより女釜床半分ぬりかけてらし炭を入れ床焼申し候。床焼かげん見候には床の底てらしを除けて見色也。右色にては生焼け也。床の底赤く成りたる節、大釜を塗り仕掛け申し候。段々吹方いたし焼をかけ口炭を打ち吹申し候。さて又あかまり候節、大工は前に代わり卸し切殊の外念入れ、前の方へ返し粉救い(こすくい)を遣わし卸し切口明け候時、相残り候卸し切取除け、しかみ掻き出しは、右取り跡口へかけ吹方する也。鍰ミかき候て、それより盛取り、鈹上げ申し候。吹きに尻銅上げ候。床焼きかね候か、亦はこわり物なれば床の内へいかり付け、鈹へ尻銅吸い上げ候て、銅面悪しぐ在りのもの也。出しへ捨てり候ものは、しかけ如く温み背負あぶみ、高いかり釜かしら床大工ほうきに気を付け申す事第一也。尤も真吹床入炭灰吟味の事頓して同様也。
・卸し切の仕様前々大工相代り、あかまりよく相くたぎ懸返し、粉救い遣い、前肩へ粉救いへ入れ何べんもよく卸し切り、の白くなる程にいたし候を良しとす。右卸し切りそまつあり候えば、あかまり床の内へ入るばかりにてになる流るゝ也。よくよく念入れ申すべき事。

「銅山記」全体では、「からミ」3ヶ所、「鍰」3ヶ所、「鍰ミ」1ヶ所あり。

考察
1. 筆者は、「銅山記」の原本和書で字を確認することはできなかった。また原本和書が成った年は、1797年以降であるが、はっきりした年月日や編者が書かれていない。筆写されたものとすると、その筆写者、年も不明である。
2.「鍰」3ヶ所のほかに、「鍰ミ」が1ヶ所ある。「ミ」を付けたのは、はずみなのであろうか。いずれにせよ、1800年頃には、「鍰」を使っていたことが、この「銅山記」が示している。

まとめ
 「銅山記」には、「からミ」3ヶ所、「鍰」3ヶ所、「鍰ミ」1ヶ所あり。

注 引用文献
1. web. 国立国会図書館デジタルコレクション「鹿角市史史料編第26集」11,15コマ
2. 「銅山記」鹿角市史資料編第26集p1~55(鹿角市役所 市史編さん室 平成6年1994) 解題 安村二郎 p12→図1 p13→図2 p20→図3 p21→図4
3. 新渡戸文庫は、盛岡の教育者、郷土史家の新渡戸仙岳(にとべせんがく)(1858~1949)が、収集した史料蔵書5000冊を昭和24年に岩手県立図書館に寄贈したものである。
Web. 岩手県立図書館>いわての歴史シリーズ>新渡戸仙岳、 web.盛岡市>新渡戸仙岳、
Wikipedia「新渡戸仙岳」より。

図1. 「銅山記」の一部分-1


図2. 「銅山記」の一部分-2


図3. 「銅山記」の一部分-3


図4. 「銅山記」の一部分-4