気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(5) 鉱山至宝要録の写本(1787以降)に「鍰」あり

2021-02-28 08:59:31 | 趣味歴史推論
 「鉱山至宝要録」(元禄4年)は、秋田藩士であり、院内銀山の惣山奉行であった黒澤元重が著した鉱山技術書である。日本科学古典全書第10巻(三枝博音編纂)「鉱山至宝要録上」1)とインターネットで見られる「工学史料キュレーションデータベース」の「鉱山至宝要録上」和古書2)で「からみ」の表記について調べた。この両書は、原本に、安永2年(1773)の平賀源内らの巡視や天明7年(1787)2月までの院内銀山の状況を記した節が、追加されたものである。両書は項目の順序が違うところもあるが、その内容はかなり近い。
この和古書は、原本(1691)を1787年以降に書写し、かつ加筆したものか、更にその後、それを図書館印の1910年までに書き写されたものであることがわかる。

 調べた結果は以下のとおりである。
1. 日本科学古典全書第10巻(三枝博音編纂)「鉱山至宝要録上」活字本→図1
「からみ」3、「鍰」6 合計9ヶ所ある。


2. 「工学史料キュレーションデータベース」の「鉱山至宝要録上」和古書→図2,3,4
「から実」1、「からみ」1、「からミ」3、「鍰」4 合計9ヶ所ある。


 図2のはじめ(以下の で表した所)には、 
・銀鉑を床にて吹、はやよき頃と思う時、フイゴを指止め、上の火をのけ、銀より上に有る物をかきのけて取り、それから実と云。其のからミにも銀の残る有り、左様のからみは、又吹返せば銀有り、五度も六度も吹ても、銀有る事あり。銀気なくなりたるを、捨てと云。銀と鉛は重き物故、二色一つに成りての下に有るを水をかけて堅まらせてとり、其の堅まるを氷ると云。---

とある。から実→からミ→からみ→鍰とわざわざ4種の表記をしている。鍰が「からみ」を指す字であることをわからせるような書き方になっている。この書き手が、鍰を使いはじめた可能性がある。

まとめ
 1. 「鉱山至宝要録」の写本(1787以降)に「鍰」があった
 2. 元禄4年(1691)の黒澤元重著の原本にすでに「鍰」が使われていて、後の人がそのまま書き写したのか、1787年以降の書写者が「からみ」を「鍰」へ書き換えたのかは、決定できない。
 3. 原本または原本に近いものでさらに調べよう。

注 引用文献
1. 「鉱山至宝要録(上)」日本科学古典全書(三枝博音編纂)第10巻 p12-41 (朝日新聞社 昭和19年 1944)→ p35-36(図1)
(校訂は、秋田県史所収の「黒澤氏至宝要録」を底本とし、徳永氏の所蔵にかかる「至宝要録」(写本)を参考とした)とある。
2. web. 「工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録上 コマ34(図2)、35(図3)、46(図4)
この和古書は、書写者名や年月日は記されていない。東京帝国大学附属図書館明治43年9月12日の図書館印。工学士松下親業氏寄贈とあり。
松下親業は、福島県1854年生 明治13年(1880)工部大学校(東京帝国大学工学部の前身)鉱山科卒業し(同期に牧相信)、院内銀山(当時官営)に勤務した。

図1. 鉱山至宝要録上 吹立方の一部(日本科学古典全書)


図2. 鑛山至寶要録上 吹立方の一部(工学史料)


図3. 鑛山至寶要録上 吹立方の一部(工学史料)


図4. 鑛山至寶要録上 吹立方の一部(工学史料)


からみ・鍰の由来(4) 「鉱山聞書」の写本(1872)に「鍰」があった

2021-02-21 09:26:34 | 趣味歴史推論
 「鉱山聞書」は、尾去沢銅山の山師であった赤穂満矩(あかほみつのり)によって、天明5年(1785)に書かれた鉱山書である。東京大学工学・理工情報学図書館の「工学史料キュレーションデータベース」の「鉱山聞書」で「からみ」表記について調べた。1)

「鉱山聞書」
---
銀山の山色 凡そ200余品有りと云う。
・粘目 ・鵜の目やに ・黄炉粕 ・ ・ ---・朱石 ・山 ・道明地 ・-----
-------
銀山吹方働方(→図1)
・堀荷 三つ切*を1荷と云う。(*莚(むしろ)を三つに切った叺(かます)のこと)
 右堀荷は大にして、唐臼に掛けて、笊(ざる)にて通し、直ちに板にて取る也。板は惣留(そうどめ)とて板に付きを残さず留める也。井替え切り捨てる板先きを揚げせりして、挽(ひき)臼に掛けて又板にて取るなり。
・羽色吹 是は板にて取りたる羽色なり。但し、大フイゴに掛けて吹く也。羽口は石羽口とて、腐(くさり)硯石を唐臼に掛けて粉にし是を塩水にてねり羽口にして紙蔦を入れ堅く拵え、半年位使うなり。釜は掛けず切羽口にて吹くなり。羽色に盃宛掛けて一吹にするなり。合(あい)からみ1盃、地鉛30匁、鉄10匁、炭は一吹に2貫目位要るなり。解(とけ)たる時は、返し吹する也。それより右鉛灰吹に掛ける也。
・石吹 堀荷そのまま平目にからみ、右石を吹く也。地鉛30目、相(あい)1盃、鈷(ならし)20匁、炭1貫目、石2盃を吹くなり。
・腐(くさり)吹 ねば物・羽色物・堀荷そのまま石を拾い則吹く也。是は、大床に掛け、荷三つ切1荷を則吹く也。地鉛150目、合からみ4盃を入れて吹く也。すべて吹方は十山十色にて品々伝え有るなり。
熊野床法(→図2)
 地床洞堀丸を8尺、深さ8尺堀にして扨石を以て巻上げる。---
---床の四方6尺の内所々に炭を置き焼く也。それより本床入れてを一吹吹きて、それより焼を吹くなり。巻上げより24日也。
幾野床(生野床) 松葉吹と云う。
 地床石巻なし四方5尺に洞堀してねばを以て塗上げ、3尺四方にして寸灰を以て2尺踏み込み7日干し、塗上げは3日干して中床とす。それより寸灰を2度に入れ炭を以て焼に各3日づつ也。本床に入て5日程火を入れて干す。25日位にて吹方成る也。---
野床(→図3)
 右野床打は、差し渡し5尺、深さ6尺に洞堀して、下2尺の内、死石の大石を以て敷き、水道と云うものを石を以て巻き上げ、その上をねばにて塗り上げ、内のり深さ3尺、差し渡し4尺にして、寸灰を2尺に入れて中床とすい。それより本床に入て、15日位火を入れて吹くなり。----
・寸灰(寸吹?)65荷を一と仕舞とす本吹也。是を3つに割り朝床2つ目仕舞の口と云う。---
・真吹大皮吹は損也。小鈹吹は格別皮歩廻りよし。大略70貫目位吹はよし。
・寸吹大荷を3吹きにして床にあくりて自然に流るゝ時は吹切りの焼赤まり、次第にに潜り、桃と云うものになり、丸く堅まり、替えの時流れて出口へ出るものなり。外はからみにて割ってみれば内は残らず釣焼なり。まんてうとも云うなり。

まえがき
 天明5年(1785)乙巳正月吉日 赤穂氏満矩
あとがき(→図4,5)
・この書は、巖州邪麻郡下谷地村々長直助所蔵
・明治5年壬申(1872)9月之を写す 藤本明信之を写字す 奉呈 河原田東山朋臺閣下
・この書は、藤本明信の蔵本なりしを河原田盛美より借覧し謄写に付して以て参考に供す 明治15年(1882)8月4日 農務局報告課
 所蔵 東京大学工3号館図書室

考察
1. 山鍰は、外見性状が「からみ」に似た銀鉱石であろう。「堀荷は、大鍰にして」とは、堀荷を釜に入れ、焙焼したものを大鍰というのか。「あいからみ」は「合(相)鍰」などと表記されている。前々報の佐渡金山の「アイカラミ」と同じような物か。
2. 「からみ」の表記は、「からみ」4ヶ所、「鍰」4ヶ所、「緩」3ヶ所 合計11ヶ所あった。「緩」は「鍰」の写し間違いである。
3. この書の履歴は以下のようであろうか。
「1785 赤穂満矩著」 →「xxxx写し村長直助所蔵」 →「1872 藤本明信写し」 → 「1882 農務局報告課写し(本写し)」 
「1882 農務局報告課写し」は、3ヶ所が「緩」と間違って書かれている。よって
① 藤本が「緩」と写し間違えたのなら、原本または村長所蔵書には、「鍰」と書かれていたことになる。
② 農務局が写し間違えたのなら、藤本の写しに、「鍰」と書かれていたことになる。
しかし、写し間違えたのが藤本か農務局かは特定できない。但し、「1872年の藤本写し」には、「鍰」が書かれていたと言える。
また原本(1785)に「鍰」と書かれていた可能性がある。原本または、それに近い写本を探そう。
4. 鉱山聞書には、熊野床、生野床、野床の形状、作り方、略図が記されていて、参考になる。

まとめ
 鉱山聞書の写本(1872)に「鍰」があった

注 引用文献
1.  東京大学工学・情報理工学図書館 web.「工学史料キュレーションデータベース」>「鉱山聞書」 コマ数 43,45,46(図1),53(図2),55(図3),65(図4),66(図5)

 図1. 鉱山聞書の銀山吹方働方の部分

 図2. 鉱山聞書の熊野床の部分

 図3. 鉱山聞書の野床の部分

 図4. 鉱山聞書のあとがき(所持者名)

 図5. 鉱山聞書のあとがき(写し履歴)


からみ・鍰の由来(3) 院内銀山の梅津政景日記は、慶長18年(1613)に「からミ」であった

2021-02-14 09:22:55 | 趣味歴史推論
 梅津政景(うめづまさかげ)は、秋田初代藩主佐竹義宣の家臣で、院内銀山奉行・惣山奉行・勘定奉行・家老を歴任した。慶長17年(1612)から寛永10年(1633)の死の4日前まで私日記を付けた。その日記巻二に「からみ」が書かれていることを日本国語大辞典で知ったので、その部分を以下に示した。1)
読み下し文は、筆者が句読点、濁点、送りがなを入れた。「からミ」の「ミ」は、元の字が「三」である変体仮名である。大日本古記録では、原本の変体仮名のまま用いたと例言に書かれている。ここでは、字形の似ているカタカナの「ミ」で表記した。

1. 梅津政景日記巻二上 
・慶長18年(1613)8月  
 床役屋の小走り 石見覚右衛門・江戸覚蔵 と申す者 8月6日昼 牢舎致し候。
その様子は、去る3日に、越後喜三郎と申す者、鑿脇(のみばき)の札を取り、鑿脇買い候由、しかる処に、その内にからミ御座候を、ゆりわけ、鑿脇のゆりものをば、桶に入れ、からミをば こも(菰)に入れ、持ち通り候処を、床役持候の丹後與兵衛・尾張次右衛門・京ノ甚兵衛・越後源蔵の下の小走り右両人が見付け、手代の大津與右衛門・越前四郎兵衛の所へ召し連れ参り候由、
 手代両人の者の申し付け分は、からミの札なくして、からミ持ち通り候事不届きなり、2ヶ月の役を出し候えと申し付け候由、
 喜三郎は迷惑致し、尾張善介と申す者を頼み、詫び言致し候付けて、手代の者、からミ1ヶ月の役にて用捨て致し候由、喜三郎かたじけない由申し候て、銀2匁ずつ両人の手代の者に出し候て、盃まで致し、罷り帰り候が、但し、からミ・ゆりものを持ち罷り帰るべきと致し候処に、
 彼の2人の小走りども、このからミは我らのはながみに致し候とて押さえ候由、これは迷惑の由申し候えば、後々より定めさせる事の候間、ぜひともこのからミは返すまじきよし、2人の者申し候由、
 ぜひにかなわず候て、善介の申し分は、左候はば手代の衆頼み入り候ゆえに、酒を小走り衆に買わせ申すべき候ゆえに、御策媒(さくはい)候えと申し候えば、手代両人の者の申し分は左候はば、そのからミにて銀10匁吹き候はば、5匁小走りに出しさせ候え、20匁吹き候はば10匁、ないし50匁も吹き候はば20匁も、小走りに出し候えと申し候由、
 善介の申し分は、このからミに、何ほど銀有るべくの儀も知らず事候ゆえに、銀5匁にて、合点致させ候様にと、善介申し候えば、手代の者合点にて、銀子5匁請い取り候由、
 然るところに、小走り右両人5匁にては合点致しまじく由申し候て、腹を立て返し候由、これについては、喜三郎同宿の伊勢與五右衛門の申し分は、さて何ほど銀子御取り有るべきと申し候て、大声致し候由、
 小走りどもの申し分は、右より善介策媒候ところを、脇より指し出し、入らず儀申し候と叱り候由、與五右衛門の申し分は、同宿に居候へば、喜三郎は同前の事候ゆえに、さて申すことに候て、雑言を小走りどもと云い合い候由、
 然るところに、床役手代の四郎兵衛が奥より木刀を持ち来り、夜中に参り、大声致し、慮外の由申し候て、與五右衛門の頭を病ませ候由、これについては與五右衛門が刀を押し回し候由、脇より床役屋の者共集まり、刀を取り、昨夜半の時分(川井)加兵の所へ持参候、夜中に候ゆえに、双方返し候、今朝 加兵・我(梅津政景)等同前に、右の様子詮索致し候、
 加兵・我等の申し分は、からミの札なく候て、からミ持ち通り候分には、1ヶ月の役銀にて相済み候えば、是に子細なし、そのうえ銀子2匁ずつ手代両人に出し候えば、喜三郎儀は、無残(かわいそう)なところの様子に候ところに、右これからミを小走りども取るべしと申す儀は不届きなり、何処よりの教えぞと尋ね候えば、床役持4人の者は申すに及ばず、手代2人の者も申さず、右策媒人善介の有日の物語りに、後々もからミ札取らずして、からミなど持ち歩き候者をば、役儀は役屋へ取り、からミをば小走りどもはながみ分に致し候と申し候ゆえに、取り申すべくと申し候由、
 挨拶致し候、善介に尋ね候えば、我等床屋を致し候て居候えども、からミの出入りの儀、手前の儀申すに及ばず候、仲間のをも不承知候、このたび始めての由返答致し候、
 加兵・我等の申し分は、両人の小走りいよいよ曲事なり、よしんば4人の床役持候者の申し付けか、また手代両人の申し付けか、さ無くば、いづこの奉行の代にも左様の引きかけあるか、又何者の役持候時の覚もあって申し候ども、二重取りにて不届きなるところに、あまつさえ何も知らぬ善介の物語りによって、からミ押さえたるなどと、公儀への志尚人に成り難き曲事の由申し付け候、
 また手代四郎兵衛に申し付け分は、小走りども、不届きの儀申し出候ども、申し付け、おさえは到らず、その身どもの申したきままに申させ、その上小走りと與五右衛門抗い口論の衍儀、双方召し連れ、披露は致さず、木刀をもって、與五右衛門の頭を病ませ候事、小走りの不届き、口論を請け取り、喧嘩相手になり候間、過銀1枚を出し候えと申し付け候、
 また與五右衛門に申し付け分は、床役小走りの者無理なる儀申し出候はば、喜三郎とかく挨拶致し、成らず所をば披露致すべきところに、同宿といいながら、喜三郎よりさし出し、その身入れずからかい致し候、その上四郎兵衛が木刀をもって、頭を病ませ候はば、そのまま逃げ来り、披露致し候はば、その身道理にこれ有るべきところに、刀のそりをなおし、抗い候えば喧嘩なり、その科に過銀1枚を致し候えと申し付け候、
 但し右覚右衛門・覚蔵の事は、山師どもがしきりに詫び言致しに付きて、牢より出し、8月27日の夜、山師どもに渡し、山中を追い払い申し候。

2. 梅津政景日記巻二下
 院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳 慶長18年3月8日
・入役 正月より6月晦日までの分 高31貫目也 加賀長兵衛 
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・床役 てつ、からみ共に 正月より6月晦日までの分 高15貫550目也 能登太郎兵衛・同太郎右衛門・山先正左衛門
 -----
 地子役、板役、流役、傾城役、煙草役、炭灰役、砰(ずり)役・山川共に、麺類役、番匠・檜物・桶役、造り酒役、湯風呂役、鍛冶役、道砰・鑿脇役、灰吹役、米の小売役、餅米役、材木役、具米・引喰役、あと院内の7つの役

まとめ
1. 文中の「からみ」の表記は18ヶ所全て「からミ」である。「鍰」は使っていない。院内銀山で「からミ」が使われていたことから、銅吹きより以前に銀吹きに「からミ」と使われていたがわかった。よって、より古くから銀吹きをしていた石見銀山で使われていた可能性が高い。石見銀山の古文書で慶長18年以前のもので「からみ」を探そう
2. 「からミの札」「からみ役(税)」があった。院内銀山では、業者や商店に27種の税(役)を課けた。その中で、床屋は、床役と共に、からみ役を納めた。からミには、銀がまだ含まれているので、吹けば銀が得られる価値あるものであった。

注 引用文献
1.  大日本古記録「梅津政景日記一」(上)p219~222(図1.2.3.)  (下)p236~238(図4) (岩波 昭和28年 1953)
 例言には、秋田県立秋田図書館の梅津政景自筆の原本で校正したと記されている。
図1. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分1

図2. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分2

図3. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分3

図4. 梅津政景日記 慶長18年院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳の一部分
 

からみ・鍰の由来(2) 辞典を引く

2021-02-07 09:23:57 | 趣味歴史推論
 からみ・鍰に関して辞典を引いた。

1. 日本国語大辞典第二版第三巻(小学館 2001)
からみ【鍰】 [名]
 鉱石を溶かして精錬するとき生ずるかす。かなくそ。
 *梅津政景日記-慶長18年(1613)8月6日「其内にからみ御座候を、ゆりわけ、のみばき  のゆりものをは、おけに入、からみをは込に入」
 *日本山海名物図会(1754) 1.銅山床家「石土の湯となりたるをからみといふ」
 *随筆・凌雨漫録(1804-30頃か)「真韛(まぶき)といふは、銅より白め、殻実(カラミ)をぬき取て正味斗りに仕上て」

2. 諸橋大漢和辞典 巻11 (大修館 初版昭和32年 平成元年修訂第二版)
【鍰】クワン、ゲン、ヱン
 ①目方の単位 ㋑100分の3斤 ㋺6両3分の2 ㋩6両
 ②わ、環

3. 新字源 (角川 1968)
【鍰】カン(クワン)
 (形声。 音符爰 ヱン→クワン)
 ①貨幣のめかた。6両
 ②わ(輪)環
 日本語の語義 からみ。鉱石を精錬したときに出るかす。

4. 漢和辞典改訂新版(旺文社 1986)
【鍰】カン(クワン) ゲン
 解字 形声。金と、音を表す爰エン(カンは変わった音)とから成る。
 意味①貨幣の目方。6両(周代の1両は約16g)をいう。
   ②わ(輪)。=環
 国語の語義 からみ。鉱石を精錬したときに出るかす。鉱滓コウシ

5. 新字源 (角川 1968)
【柄】ヘイ ヒヨウ がら
なりたち 形声。木と、音符丙ヘイ(とる意→秉ヘイ)とから成り、手にとる木、「え」の意を表わす。
意味①え。器物のとって。
  ②つか。刀剣の手でにぎるところ。
  ③もと(本)「徳之柄也」
  ④いきおい。権力。「政柄」
  ⑤しろ(代)、材料。「話柄」
日本語の語義 がら。㋐きれ地などのもよう ㋑大きさ。体格。㋒身分。性質。品格。「人柄」

6. 漢和辞典改訂新版(旺文社 1986)
【柄】ヘイ ヒヨウ がら・つか
 解字 形声。木と、音を表す丙ヘイ(握り持つ意→秉ヘイ)とで、木でできた器物のにぎりの部分、「え」の意を表す。
 意味①。器物のえ。取っ手。
   ②つか。刀剣の手で握る処。
   ③支配する力。権力。「政柄」
   ④材料とするもの。「話柄」
 国語の語義 がら。 ㋐織物の模様。㋑大きさ。体格。「大柄おおがら」㋒身分・品格・性質。「人柄」㋓種類。「銘柄」

7. 日本国語大辞典第二版第三巻(小学館 2001)
からみ【辛味】[名]
(形容詞「からい」の語幹に接尾語「み」のついたもの。後に「あじ」を意味する「み(味)」の意識がまじっている)
①からいこと。からさ。ひりひりと舌をさす辛さ。
②食物に辛い味を添えるもの。とうがらし、ワサビ、からし、ショウガ、大根おろし、その他、味覚、嗅覚を刺激する辛さをもったもの。辛味料(しんみりょう)。やくみ。かやく。

考察
1. からみは、慶長18年(1613)までさかのぼれた。梅津政景日記を見てみよう。
2. 柄実は、佐渡金銀山で使われていた。柄の読みは「がら」なので、柄実 は、GARAMI と発音された可能性がある。「がらみ」なので「柄実」を当て字にした可能性がある。
発音が GARA とすると「がら」の1字の当て字は、「柄」しか漢和辞典にない。KARAとすると「から」の当て字は、「空」「唐」「殻」「辛み」「絡み」など多くある。
3. からみ、カラミでは濁点を打っていない可能性もあるので、KAかGAを決められない。但し、辛味はKARAMIとしか発音しないので、少なくとも多田銀銅山の「からみ」はKARAMI と発音されたであろう。辛味の当て字の記録は貴重である。 
4. 随筆・凌雨漫録(1804-30頃か)では、「殻実をぬき取て正味(しょうみ)ばかりに仕上て」とあり、殻(実)は、「からKARA」 としか発音しないので、1804-30年頃は、一般的には KARAMI と発音されていたのであろう。
5. 鍰は、諸橋大漢和によれば中国の漢字では、①貨幣の目方、6両(約100g)②輪、環 であり、鉱滓の意味はなかった。新字源などには、日本語の語義としてからみがある。やはり、誰かが、鍰を仮借したのは確実である。からみを漢字1字で表記したいと思った人が、日本で意味を持って使われていない漢字であることを条件として探した結果、からみが緩く流れる様を見て、爰を旁とし、金偏にした漢字「鍰」を仮借したのであろうか。鍰の成り立ちの形から見ると中国の「目方6両や輪」より、日本の「からみ」の方がぴったりである。