気ままな推理帳

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山下吹(20) 尾去沢銅山は、宝永2年(1705)に真吹であった

2020-11-29 08:21:04 | 趣味歴史推論
 「尾去沢銅山の製錬法は、元禄宝永期に阿部小平治が請けて稼行していた頃は、熊野吹と称する還元法が行われていたようであるが、藩の直山となった明和以降は、以下に記したように酸化法(別子銅山と同じ 真吹法)となっていたとみられる。(「明治工業史 鉱業編」第4節熔鉱(西尾銈次郎執筆)による)」1)と書いたが、これは間違いであることがわかったので訂正する。
たしかに明和(1770頃)以降は、南部藩尾去沢銅山の「御銅山傳書」で、真吹1枚に必要な経費とその内訳「真吹一枚入方積」にあるとおり、真吹であった。2) しかしそれよりかなり前から真吹であることが 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」を今回調べていてわかったので、以下に記す。3)

 尾去沢銅山の始まりは通例寛文6年(1666)、尾去沢の山師長尾重左衛門が見立てたとされている。
阿部小平治4)は元禄8,9年頃から尾去沢の稼行に携わったかもしれない。藩から稼行を受けたのは元禄13年(1700)であって、13ヶ年の定であった。
阿部小平治「銅山行方御用目録」は、尾去沢、崎山等の銅山稼行に関して宝永元年~4年(1704~1707)の撮要を記したものである。その前半は専ら吹方即ち製錬に関する定目めいたものが掲げられ、後半は主に産銅に関する数字が記載されている。尾去沢銅山の産銅は、年7,8万貫~10万貫。

 宝永2年(1705)における床屋の数は、素吹床3軒、真吹床2軒であったらしく、吹方働人数は、素吹大工5、真吹大工4、吹子指など14、炭灰5、ゆり物10、合計38人、鉱石焙焼の焼釜は合計143筒であった。床数は宝永3年(1706)4月に増加して4丁となり、ほかに崎山分とも都合5丁となった。
床1丁吹1日分の入方は、銭 23貫559文であり、その内訳中主なものを挙げると
・生鉑 2斗2升、1升400文として (鉑の買上値段ではなく鋪方諸入用の平均である)     8貫800文  
・炭 30俵代  但し焼釜、真吹用分を含む                      4貫200文
・春木 80丁代                                 1貫40文
・鉱石運搬駄賃                                  264文
・素吹賃 吹大工1人180文、手子3人280文、炭灰搗1人80文、以上飯米諸色を含む          540文                    
真吹賃 大工1人114文、手子2人208文、炭灰搗1人70文、以上飯米諸色を含む           392文 
・焼釜賃 釜大工1人90文、手子2人154文、ねば取1人70文                   313文 
・床役金 但し1ヶ年床1丁につき40両として                        450文 
・手代その他の給代切米等                            3貫200文
 等である。

まとめ
 尾去沢銅山では、宝永2年(1705)に、真吹床数、真吹大工、真吹賃が記録されているので、真吹であった。

注 引用文献
1. ブログ「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(8)」
2. 「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写し 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))「真吹1枚入方積」は、「御銅山傳書」(上) p140~144
3. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p78~83(勁草書房 1964.9.30)
4. web. レファレンス協同データベース>事例詳細>宮城県図書館提供(2020.3.22登録)より
 初代阿部小平治重貞(没年元禄4年(1691)、二代阿部小平治重頼(没年享保6年(1721))は、仙台藩(伊達藩)西磐井郡山ノ目村(一関市)の豪商で、鉱山稼行、材木・米の商い、新田開発等を行った。

山下吹(19) 鉱山至宝要録(元禄4年1691)は、真吹であった

2020-11-22 08:33:03 | 趣味歴史推論
 明治時代の鉱業冶金学の権威である渡邊渡は、本邦固有の錬銅法に甲乙の2種があるとした。その本質は、
①甲(還元熔解法)は、銅鈹を焙焼して酸化銅にし、これを木炭で還元して粗銅を得る方法である。---東北、北国で実施された奥州吹
 Cu2S+O2→Cu2O,CuO+SO2  C+O2 →CO Cu2O,CuO + C,CO → Cu+CO2
②乙(酸化熔解法)は、銅鈹を空気中の酸素と反応させ、硫黄分を酸化し、粗銅を得る方法である。---中国、四国、西国で実施された真吹(山下吹)。
 
Cu2S+O2→Cu+SO2
西尾銈次郎がこの説を日本鉱業会誌や著書「日本鉱業史要」で肉付けして紹介し、その内容は広く引用されてきた。1)2)
慶長年代以後発達せる東国および北国の銅山においては主として還元製錬法が行われてきたとしているが、本当であろうか。筆者は、当初から山下吹(真吹)がなされたのではないかと思い、それを史料で検証することにした。東国の秋田藩(久保田藩、佐竹藩)院内銀山、同じく秋田藩阿仁銅山、盛岡藩(南部藩)尾去沢銅山、下野国足尾銅山等について調べてみることにした。

「鉱山至宝要録」(元禄4年)は、秋田藩士であり、院内銀山の惣山奉行であった黒澤元重が著した鉱山技術書である。
経歴:「延宝2年(1674)に「かね山」の役を申しつけられ、同4年(1676)まで一人でつとめ(惣山奉行)同5年からは同役一人増し二人で勤め、延宝8年には役替りがあり、惣山奉行から離れている。天和、貞享年間も銀山のことに当たり、元禄2年には江戸の御勘定奉行衆より藩の金山のことを尋ねられた時、元重自ら記録を差し上げている。」3)

吹立方 →図 4)
・略
・右寸吹(素吹)したる鈹をまた床にて吹きて銅にするなり。これを真吹と云い、床を真吹床と云う。寸吹時の床尻は、真吹に及ばずして、銅に成る。寸吹床と真吹床は、その拵え違うなり。銀吹(床)とはもちろん違うなり。
真吹したる銅も、床尻の銅も、別床にて銀しぼり取り、この床をしぼり床とも南波床とも云う。常の床とは格別の拵いなり。銅より銀出る事多少とも、銅へ鉛を入れてとかし、その鉛を灰吹して取るなり。
・以下略
 
考察
 秋田藩では、素吹に続いて真吹が普通に行われていたことを示している。黒澤元重は、「かね山」の役に延宝2年(1674)からついており、少なくともこの時からこの吹き方であったと推定される。もし延宝2年(1674)から著作した元禄4年(1691)の間に、製法が代われば、そのことを記録していたであろう。またその前の時代に別の吹き方であったなら、そのことも書いていたのではないか。全く他の吹き方に言及していないということは、かなり昔から寸吹(素吹)のあと真吹していたことがうかがえる。実績例が記されていないので、外から聞いた情報で真吹のことを書いている可能性も全くないわけではないが、当時の鉱山技術書として書いた著者の意気込みからすれば、確かなことを書いているのではないか。

まとめ
 秋田藩院内銀山の惣山奉行であった黒澤元重の「鉱山至宝要録」によれば、少なくとも延宝2年(1674)から真吹をしていたと推定される。

注 引用文献
1. web.西尾銈次郎「日本古代鉱業史要」 日本鉱業会誌460号p453 (大正12年1923)468号 p180(大正13年 1924)
2. 西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)
3. 黒澤元重「鉱山至宝要録」三枝博音「日本科学古典全書第十巻」p1-41(朝日新聞社 昭和19年 1944)
4. web. 工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録>47コマ
図 鉱山至宝要録 の真吹の部分

山下吹(18) 別子銅山の山下吹

2020-11-15 09:00:23 | 趣味歴史推論
 別子銅山の開坑時における製錬法を書いた泉屋・住友の記録を探したが見つけることができなかった。吉岡銅山の製錬方法で開始したと考えるのが妥当である。
泉屋は天和元年(1681)から吉岡銅山を稼行しており、貞享2年(1685)に代官後藤覚右衛門に提出した覚書に「此真吹銅8貫60目」とあるから、1)別子銅山では元禄4年(1691)から真吹していたのは、確実である。
筆者が見られるのは、「別子銅山公用記」所収の「別子銅山覚書」元文4年(1739)である。2) これには、鉑吹に続き真吹(間吹の表現)の項がある。

・鉑吹1仕舞に焼鏈50荷を6吹に仕り候、この出来鈹8,90貫目より120貫目まで、床尻銅2,3貫目より4,5貫目、一円床尻これ無し鉑石も御座候、この吹炭170貫目より200貫目入り申し候。
間吹1仕舞に鈹100貫目吹き申し候、この出来銅30貫目より40貫目まで、鈹の善悪により不同御座候、銅数およそ10枚より13,4枚御座候、この吹炭36,7貫目より40貫目程入り申し候。

 江戸期の別子では、真吹は、間吹や、二番吹と呼ばれたが、記述内容から見て、ずっと真吹がなされたとがわかる。しかしその真吹と山下吹の関係に言及した泉屋・住友の江戸期の記述は見つからなかった。筆者が見つけることができたのは、昭和16年(1941)の「別子開坑二百五十年史話」の一節だけだった。3)→図
 
 因みに別子開坑後、住友家では焼鉱から鈹を製するまでの製錬 素吹または荒吹 作業を、一番吹 古来別子ではイトビン吹または伊豫吹と称す といい、鈹より粗銅を取るまでの製錬作業を二番吹といった。(粗銅を製錬して精銅とするのは、三番吹である)。これはすなわち本邦古代の酸化製錬法に、文亀・永正のころ改良を加えて出来た山下吹を採用したものに外ならない。製錬法としては他に徳川氏の初期より盛んになった東国および北国の諸銅山において奥州吹と称する還元製錬法が専ら行われていたが、同法によれば焼鉱を熔解して床尻銅と同時に出来た鈹を、さらに再び焼鉱竈に還して焙焼せねばならぬという作業上の無駄が多く、これに比し山下吹は時間と経費を節約し、かねて収銅率を高めることが出来たので別子ではこの法に依ったものと思われる。

 内容は、西尾銈次郎の説を引用したものであり、特に新たな知見はなかった。

注 引用文献
1.  気ままな推理帳「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石源の添加はなかった?(5)」(2020.3.22)の中の図 吉岡銅山の素吹の物質収支(1685) 「泉屋叢考」第12輯 p31(住友修史室 昭和35年 1960)より。
2. 「住友別子鉱山史」別巻 p79 (住友金属鉱山株式会社 平成3年 1991)
3.  平塚正俊「別子開坑二百五十年史話」 p95(住友本社 昭和16年12月 1941)
図 「別子開坑二百五十年史話」の山下吹の部分

 

山下吹(17) 「かたけ物」「かたけ吹」「銀かたけ」「かたけ」とは?

2020-11-08 08:00:00 | 趣味歴史推論
 この1週間で、「かたけ」の意味について妥当と思える解釈にたどりついた。きっかけは赤穂満矩「 鉱山聞書」(1785)(あかほみつのり こうざんききがき)を見たことである。この本には山下吹(2)で書いたように「銀堅気とは、銅の気交りて色黒くなりたる」とあるので、以前から見たいと思っていたができずにいた。しかし、web検索していたら、写本が、webで見られることがわかった。1) 以下に「 鉱山聞書」から「堅気」「かたけ」が書かれた部分を示した。

銀山の山色 およそ200余品有りと云う。→図1
・粘目 ・鵜の目やに ・黄炉粕(きろかす) ・巻とふじ ・堅気(かたき) ・羽殻砒石(はから) ・留粕(るかす) ・緑青透 ・漬しやに ・小白目 ・にすみ ・鳥の返し ・ふけ透 ・黄土光 ・菜の葉 ・茶なのは ・べにから ・似たりのり目 ・六方 ・朱石 ・山鍰(からみ) ・道明地 ・雲母(きら) ・緑青菜の葉 ・のし目 ・群青羽色 ・ 以下略

銀山吹方働方 →図2
・堀荷 ・羽色吹 ・石吹 ・腐吹 ・灰吹の時
・吹湯の上、赤く曇りかかるをかたけ差しと云う。その時楢(なら)木炭を粉にして振りかければ剥げるなり。煙草の粉を振りかけてフイゴを休みて吹けば剥げるなり。

銀位の事 →図3
・銀位白く光り無きを     南鐐の上銀 と云う2)
・白く光り有るを       次とす、日の下 と云う
・赤く濁りたるを       金かたけさし と云う
・黒く濁りたるを       皺目銀 と云う
・赤はぜて光有るを      金かたけ と云う
  これを絞りて銀を除き、金を取るなり、秘法 

銀堅気を抜事 →図4
・銀堅気と云て、銅の気交りて色黒く成りたるを、銀100目に鉛10匁加えて吹き、よく鮮たる時、硫黄と(に?)塩少し入れ合粉にして、振りかけるに、右銀の上に皮かかる。これを火箸にてかき取れば、銅気皆取れるなり。一度も二度も取るべし。

検討
1.「かたけ」は「かたけ差し」「金かたけさし」「金かたけ」の3ヶ所、「堅気」は、「銀堅気」「堅気(かたき)」の2ヶ所があった。
先ず、「かたけ」から考察する。
銀が主成分であるが、「金かたけ(きんかたけ)」という。金が何%か含有されているのであろう。赤く爆(は)ぜて光る外見であるという。
銀が主成分あるが、「金かたけさし(きんかたけ差し)」という。「金かたけ」より、金の含有量が少ないのであろう。
これらの3例の「かたけ」は、「かたけ」の前に付いた金属(この場合には金)が「少し含まれている」という意味であろう。堅い(硬い)という意味はない
「かたけ」を国語辞典で探した。「日本国語大辞典」にだけに、「少し含まれている」という意味の使い方が書かれていた。3)
「かたけ 接尾語 方言 ②名詞に付いて、そのものの混じっていることを表す。」
これが「金かたけ」の場合の解釈、使い方であろう。
これに対して、「銀堅気」は、銀が主成分であり、「金かたけ」の場合と異なる言い方である。もし、「金かたけ」にならうなら、銀が主成分の「銅かたけ」というべきである。

2. 山色(やまいろ)とは、色、模様、光り具合、たとえなどの外見で識別するために名付けられた鉱石のことである。それが200余りもの品種名があるということは、結果としてその金属が得られたので、外見の特徴を探し、名付けたのであろう。
この中に「堅気(かたき)」がある。銀を含んだ鉱石を探しているのに、上記の「かたけ」の意味「すこし含まれている」では、全く名付けにならない。ということは、「堅気(かたき)」は、鉱石の外見や性質を表しているということになる。
多田銀山の重要な大口間歩の鏈の極上品は、「銀銅綴れ」といい、砕こうとしても槌にひっついて砕けないような性質のものであったという。(参照 山下吹(4))
このように堅くて粘りのある性質の銀含有銅鉱石を「堅気」と云ったのではないか。「かたき」は所・時代により「かたけ」とも云われたのではないか。
「宝の山」の多田銀山の「堅ゲ物」が「堅気(かたき)」という鉱石であると推定される。前報の「かたけ物」「堅ケ物」「かたけもの」も同様である。

3. 「銀堅気(ぎんかたけ)」も鉱石と同様に、その「物性が堅い銀」を指すと推論する。銅がかなり多く含まれるので、堅くなっている。

4. 「堅気」や「かたけ物」等の銀含有銅鉱石から銀を取り出す吹き方を「かたけ吹」と呼んだと推論する。
 
5. 山下吹(4)の天秤座・銀座で「かたけ」と呼んだのは、いつも銀を扱っているので、「銀かたけ」の「銀」を省略してもわかるからではないか。

結論
1. 「かたけ物」とは、堅くて粘りのある性質の銀含有銅鉱石をいい、「かたけ吹」とは、銀含有銅鉱石から銀を取り出す吹き方をいい、「銀かたけ」とは、銅が含まれていて堅い銀をいい、銅座の「かたけ」は、銀かたけ の省略であると結論する。
2. 「金かたけ」は、少しの金が含まれて赤爆ぜて光る銀のことをいう。


注 引用文献
1.  web. 工学史料キュレーションデータベース>鉱山聞書
巌州(福島県)耶麻郡下谷地村村長直助所蔵の本を、明治5年(1872)藤本明信が写し、それを明治15年(1882)謄写したものである。著者の赤穂満矩(あかほみつのり)は、尾去沢銅山の山師で天明5年(1785)に鉱山聞書を著した。
図1. 銀山の山色43コマ  図2. 銀山吹方働方46コマ  図3. 銀位の事64コマ  図4. 銀堅気を抜事65コマ
2. 南鐐(なんりょう)は中国の銀山の地名に由来し、純銀に近いもの(Wikipedia)。「銀位の事」の記述によると、純度の高い銀は、光らないようだ。
3. 日本国語大辞典第二版第三巻 p707(小学館 2001)
かたけ 接尾語 方言
①名詞に付けて、そのものもともに、一緒にという意を表す。ごと。ぐるみ。
(岡山県児玉郡、広島県、徳島県、美馬郡、香川県、愛媛県周桑郡)
②名詞に付いて、そのものの混じっていることを表す。
(山口県豊浦郡「砂かたけ」、愛媛県)
③名詞に付いて、もて余したり卑下する気持を表す。など。なんか。
(高知県)
図1. 鉱山聞書 「銀山の山色」の部分


図2. 鉱山聞書 「銀山吹方働方」の部分


図3. 鉱山聞書 「銀位の事」の部分


図4. 鉱山聞書 「銀堅気を抜事」の部分


山下吹(16) かたけ物 と かたけ吹

2020-11-01 09:25:52 | 趣味歴史推論
 山下吹(2)2020-07-19 では、かたげもの と 足り物 の解釈を以下のように書いた。
「宝の山」の「摂津多田銀山  堅ゲ物 但し足り物、則山本にて鍰(しぼり)取り、銅大坂へ上る。」を読んで、
「堅ゲ物(かたげもの)」とは、多田銀山の銀は「銀堅気(ぎんかたげ)の品質のものである」といっていることである。「鉱山聞書」(1785)によれば 銀堅気とは「銅の気交じりて色黒く成りたる」銀のことである。2)銀は本来白銀色で軟らかいものであるのに対し、銅(あるいは別の金属かもしれない 筆者)が少し含まれているため堅い(硬い)ものになっていると筆者は推測する。黒くなるということから、不純物として銅だけではなく他の(金属)不純物も含まれていたのではないかと思う。堅ゲ物(かたげもの)は、大坂の銅吹屋において、合吹・南蛮吹・灰吹されて得られた(純)銀に比べ品質が一段劣るとして低価格であった。但し、銀の含量は基準を満たしていたので「足り物」であった。」
すなわち「かたげものは、銀カタゲそのものを意味していること、足り物は、銀の品質が基準を満たしていること」を意味しているとした。
しかしその後、この解釈は間違っているかもしれないと思うようになったので、本ブログ以降で再考する。

「宝の山・諸国銅山見分扣」で「かたけ吹、堅ケ吹」および「かたけもの、堅けもの、堅ゲ物」をすべて拾い出した。以下の1~17(Pはぺージ数)である。

1. P5 摂津多田銀山 堅ゲ物 但し足り物、則山本にて鍰取、銅大坂へ上る。右請負の儀、場所望次第、明りにて𨫤通り見立、公儀へ願候えば見分被成、50間限に法地立て相渡る、但土底獄法地なり、證文取之候て、吹屋その外人数相極め候、見立候はば、山先料1ヶ月45匁づつ、右中間より取之候、運上は吹屋より出之、鉑は36貫目を1駄と定売買致之、床は山下吹に仕候。

2. P67 石州邑智郡出羽村組見分所 享保10年見分 ・都賀西村の内 橋かたを(橋ケ峠)二ヶ所 島根県邑智郡美郷町都賀西橋ケ峠
 但一ヶ所は細鉉にて、7,8間切見申たる由、今一ヶ所は横𨫤にて、丈夫に相見え、明りに4,5寸皃鏈𨫤の内だけ有之候、これも所の百姓取付の時分、6,7人中間にていたし、銀山下財をやとい稼見候由、しかれども鉉台より高く仕掛け申候故、鏈に逢候事おそく、もっとも鏈逢吹候所、銅に相成候由、かたけ物と相見え、則右山稼候九郎右衛門と申もの存命に居申、このものの噂にて候、---

3. P69 石州美濃郡美濃町都茂 都茂村の内 ・かちじ 古鋪 但堅ケ物、いにしえは銀山と相見え、竜頭共には上石金少しづつ相見候、これも丸茂村次郎兵衛この節稼居候、敷内南かづきよく見え候、午未へ向かって下り見申したくものにて候。

4. P78 播磨神崎郡神崎町作畑 ・作畑山  かたけ物 元文3年(1738)より初る 山師生野の吹屋

5. P102 備後深安郡神辺町三谷 三谷鉛山 元禄11年(1698)福山落去より後、御代官所
・𨫤北南へ・北の方元禄末、三谷庄屋六郎右衛門稼申由、これも段々水貫有之、下口稼ぎ申由、赤銅金・銅鉑・石銀・からす、堅ケ物

6. P102 備後・さとも 銅鉑に石銀
 右は福山医者・紺屋・所の庄屋3人ともに稼ぎ申候由、給銀にて候故、1倍ならでは堀申さず由、直段に成り候わば、3杯も掘べく申す由。かたけ吹、床尻に成り候由、鈹らしきものはまた跡へ仕掛け、鉑吹に仕候由、6貫目難波吹・灰吹致し候えば、80匁銀有之、これを内、2割引き白銀に遣候由。
右の通、宝永5年(1708)夏まで稼申候由。

7. P104 備後佐草の内坂田銅山 神石郡三和町時安 古山
但北南共に見分、勿論北ノ谷は新引割、ぬたに白物、梅ノ木同前之鉉見え申候、この方へ向かい申さず候。
P106 備後坂田銅山 神石郡三和町時安 仕からし
 但堅ケ物、むかし米安く、福山領内稼申由、牛馬に焼け煙吹、煙あたり申すと村方より申立、福山公儀より御留候由。

8 P294 乙本異文
備後佐草銅山 元禄午年(元禄15年(1702)か) 八右衛門・弥次右衛門、山留六右衛門案内にて、罷越、見分致候処、先年吹からみ皆堅ケ吹にて候由、勿論𨫤通りねば𨫤にてとくけ見へ申由。

9. P104 備後甲奴郡総領町五箇  五ヶ村牛子谷銅山 見分 元禄16年(1703)3月 儀右衛門・弥次右衛門・山留八郎右衛門
 牛子谷銅山𨫤通北南、元禄7,8のころ堀子一丁前にて牛子谷組頭甚右衛門取立分にて、麦為喰入谷沢端へ引渡し候。𨫤のうちより水際かう口明け、4,5尺ばかり下4間ほど南へ走り有りの由、見分の時分間符口川底へ成り候、右の所明かり見分仕候処、びりはへはみ出しにて候。
右の所より一丁ばかり奥に堅ケ物𨫤、これも北南へ通る、これ右の比より沢端より引割、𨫤の内より口明ケ申由、上競取候間は吹分り、銅も鉛も少々取候由、---

10. P158 備後永野銅山 神石郡神石町永野  奥平大膳大夫様御領分備後國神石郡
・𨫤筋東西北被、堅ケ物、𨫤筋丈夫に見え候、明り山形も大躰に御座候。

11. P173 備中相野山 古鋪
 但四ツ留より走り30間下り、12間水仕上ゲ有之候えども、走り分は明り見分致す、銅はかたけもの走りより出有之候、下り詰は一向火燈り申さず故、相止め有之、8間程四ツ留より下り、水抜2間切掛有之候、取明見分も致したき場所也。

12. P174 備中いばら笹か谷 古鋪 井原市笹賀町
但銅𨫤かたけ物、取明け見分致す、走り1間程掘、鉉に合居申候えども、庄屋田地の内有之、自分に掘掛申候えども、元銀無数、相止め居る、これは今少走り申たき場所。

13. P175 備中セイサコ土琤(そう)鋪 井原市清迫(いばらしきよさこ)
但走り70間、下り30間、下り詰よりまた山向へ20間、引立に𨫤巾2尺面有りは、石かねかたけ物、別して思入無之候。

14. P175 備中セイサコ姫路領の内古鋪 井原市清迫
かたけもの𨫤、四つ留より4間程行、引立模様よろしく候えども、庄屋・百姓も出合有之、相止め居る、見分よろしく候。

15. P175 備中いはら川之上
但新山明り見分、かたけ物の様に相見え申候、脇石は珍しき石有之、これまで見及び申さず候、模様よろしく相見え申候えども、𨫤筋細く御座候。

16. P175 安芸広嶋飯室 新口 広島市安佐北区安佐町飯室(あさちょういむろ)
かたけ物、明り見分ばかり、望なし。

17. P194 作州久世早川八郎左衛門様(天明7年~享和元年(1787~1801))御代官所
備中簗瀬鉛山二ヶ所見分の次第
・三蔵間符立𨫤、巾3尺程小𨫤共3本走る、四ツ留口針先酉、1丈竹樋12丁下る、四棚操水3人懸り西向、切地よろしからず由にて樋11丁目より跡向東走り直す、直に石8間切、銅金石金逢銅金巾6尺程、所々に石かね少々ずつ有之候、引建針先卯、切地4丁前有る。
・灰吹は与井村七郎治方にて致候也、孫十郎儀、この節作州へ帰り有之、留主番1人・山留1人上座に詰る。
右鋪仕替も致候わば、引立もよろし、銅金面鉑に直り候時は、太く、かたけものに御座候、当時銀主困窮致候由、横番・水引にてしだいに7,8人ならでは得かこい申さず候、丈夫に懸候はば、相応に合べく申し候、灰吹銀御買上1割8歩に御座候由。

1~17の鉱山の場所を地図に示した。→図

解析と考察
1. 書き方で分類すると
 かたけ物  6ヶ所 (2 4 12 13 15 16)      
 堅ケ物   4ヶ所 (3 5 9 10)          
 かたけもの 3ヶ所 (11 14 17)          
 堅ゲ物   1ヶ所 (1)                 

 かたけ吹  1ヶ所 (6)               
 堅ケ吹   1ヶ所 (8)                 1
 以下は一番多い「かたけ物」と表示する。
2. 「かたけ吹」は、多田銀山だけでなく、備後のさとも(6)、佐草銅山(8)でもしていたことが分かった。
3. 「かたけ物」とは何であろうか。
 ヒントになりそうな文として以下のがある。
   9(牛子谷銅山)では「右の所より一丁ばかり奥に堅ケ物𨫤、これも北南へ通る」とある。
  10(永野銅山)では「𨫤筋東西北被、堅ケ物、𨫤筋丈夫に見え候」とある。
  11(相馬山)では「 銅はかたけもの走りより出有之候」とある。
  12(いばら笹か谷)では「銅𨫤かたけ物、取明け見分致す」とある。
  14(セイサコ姫路領の内古鋪)では「かたけもの𨫤、四つ留より4間程行、引立模様よろしく候えども」とある。
  15(いはら川之上)「新山明り見分、かたけ物の様に相見え申候」とある。
  17(簗瀬鉛山)「銅金面鉑に直り候時は、太く、かたけものに御座候」とある。
 これからわかることは、𨫤や鉱石を見分して「かたけ物」と記していることである。すなわち𨫤(鉱脈)を形成する鉱石についての言い方である。ではどのような鉱石をさすのであろうか。
「銀かたけを生む銅鉱石」と推定するのであるが、「岩盤が硬い銅鉱石」を指している可能性もある。
「足り物」とは、「掘るに足るもの すなわち掘る価値のある鉱石」を意味するのではないだろうか。
4. 「宝の山・諸国銅山見分扣」には日本全国、奥州、中部、近畿、中国、四国、九州の 鉱山、銅山について書かれているのだが、「かたけ物」は、多田以西・中国地方の鉱山にのみ見られることがわかった。地質的に鉱脈、鉱石に特徴があるのだろうか。それとも別の理由か。

まとめ
「宝の山」に書かれた「かたけ物」は多田以西・中国地方の14ヶ所の鉱山にのみ見られる。「かたけ物」は「銀かたけを生む銅鉱石」と推定するが、「硬い銅鉱石」の可能性もある。まだ結論しがたい。

「かたけ」という語は、「かたけ物」「かたけ吹」「銀かたけ」「かたけ」に見られるが、これら四つは同じ意味で用いられているのであろうか。関連しているのであればどれが元であるのか。明らかにしたい。

注 引用文献
 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」(住友史料館 平成3年12月 1991)
 図 かたけ物・かたけ吹 の鉱山一覧(「宝の山・諸国銅山見分扣」より作成)