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伊豫軍印(18) 八雲琴創始者中山琴主の経歴

2023-07-02 08:45:21 | 趣味歴史推論
 窪田英樹「八雲琴の調べ」1)を基にして、「土居町誌」2)「天満・天神学問の里巡り」3)により中山琴主の経歴をまとめた。(暦年、歳は不確かな箇所あり)

1. 中山琴主の経歴
・享和3年(1803)5月15日 父 岸(加藤)大策正昌、母 加藤八重子 の長男として、天満村で生まれた。岸家は下天満で代々医者 実弟は大岸元琴。生まれながら視力が弱かったので、4、5才となると母は牛頭天王宮へ連れて行って視力が強くなるように願をかけると共に、近藤益春宮司から読み書きの指導を受けさせた。
・文化7年(1810)7~8才 関の峠で「吉の都」師匠から三味線や浄瑠璃を習った。
・文化14年(1817)14才 京へ出立。京で音曲の名人菊岡検校に三絃琴、三味線を習い、免許皆伝を受けた。紀州に行き関口流の剣道を錬磨し印可を受けた。菊岡の計らいで但馬の西村五兵衛家で子弟に筝曲を教えるうちに、眼がよくなり、出雲に向かった。
・文政3年(1820)10月 17才 天日隅宮(あめのひすみのみや)(出雲大社御本殿)で御神意を得て、二絃の八雲琴を創案した。眼病の治癒を感謝して参籠中の出来事と伝えられる。八雲琴は、非常に篤い敬神の念から神に供えるものであり、非常に宗教色の濃い楽器になった。出雲では大社の宮司千家、北島の両家を初め多くの神官・社家に伝授した。
以後、八雲琴、医業、柔術を生業とした。この20年間、八雲琴の普及に全国を旅した。 
・天保14年(1843)40才 京に居を定めた。三味線の印可。八雲琴で公卿・文人を魅了し、多くの支持者と弟子を得た。
・嘉永6年(1853)50才頃 公卿中山忠能(勤皇派)の知遇を得て、中山の姓を許された。仁孝天皇の皇女淑子内親王にも教授することとなり、孝明天皇の天聴を賜った。
・安政5年(1858)55才 「神傳八雲琴譜」を著した。
・文久2年(1862)59才 出雲大社の神官加藤昌晨の次男多利穂(たりほ)を養子に迎えた。
・明治元年(1868)65才 青風山の山頂に出雲大社、青風大明神と大田大明神を祀った。→写
・明治2年(1869)11月10日 66才 牛頭天王宮は八雲神社と改称。     
・明治6年(1873)頃 70才を超えて 京都深草(霞谷に庵)から郷里に帰った。かなり裕福であった。石の橋をかけ道を作り、神社へ御旅所の土地を寄進した。
 ・親類の加藤長次を新に養子に迎えた。
・明治9年(1876)73才 薩摩、萩、美川、山城、大和、南部福島を巡った。(旅日記)
・明治12年(1879)76才 伊豫軍印を寄附した
・明治13年(1880)77才 9月18日没す。琴主の檀那寺は、八雲神社のすぐ西の井源寺(真言宗)である。

2. 琴主と関係のあった人物(略歴は琴主存命中(~1880)のみ)
(1)千家尊福(せんげたかとみ)(1845生~1918没)4) 
・81代出雲国造(1872~1882)、出雲大社宮司。明治6年(1873)1月、出雲大社敬神講を結成した。現在の出雲大社教の前身であり、出雲大社のご祭神の大国主大神の御神徳を主眼とした布教活動を行なった。神歌を爪弾く八雲琴が大きな役割を果たしたと思われる。八雲琴は幕末から明治にかけて爆発的に広まり、千家尊福の時代にピークを迎える。

(2)佐草美清(さくさよしきよ)(1794生~1862没)
・出雲大社でも最も格の高い上官(じょうがん 国造を補佐する高級神職)。国学者。琴主は佐草の篤い信任を得て信仰で深く結ばれていたと思われる。

(3)中山忠能(なかやまただやす)(1809生~1888没)
京都公卿の中でも、琴主を一番引き立ててくれたのが中山忠能であった。忠能の長女慶子は孝明天皇の典侍となり、後に明治天皇となられる皇子祐宮(さちのみや)を産む
・幕末の公家、宮中政治家。父は忠頼 母は綱子。明治天皇の生母慶子の父。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで88廷臣の列参奏上に参画、同年5月議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され、文久1(1861)年10月江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持、尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ、同3年1月議奏を辞職した。翌元治1(1864)年7月、前年の8月18日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが、その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、参朝・他人面会・他行の禁止に処せられる。慶応3(1867)年1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視、中御門経之らと共に王政復古の政変を画策,討幕の密勅作成に関与した。政変後、三職制が新設されて議定に就任。以来、輔弼、神祇官知事、神祇伯。明治2(1869)年9月王政復古の功により賞典禄1500石を永世下賜。同4年麝香間祗候、同7年華族会館の設立に尽力、御歌会式取調掛、柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛、明宮(大正天皇)御用掛などを務め、80歳で没した。著作『中山忠能日記』5)

(4)一條忠香(いちじょうただよし)(1812生~1863没)
・一條忠香公筆の「牛頭天王」の額は、琴主が奉納したものである。
・官位は従一位・左大臣。一条家22代当主。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊王攘夷派の公家と対立した。余技で絵を能くしたほか、鹿背山焼で好みの煎茶器を作らせた。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の実父にあたる。著作『一条忠香日記抄』6)

(5)有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)(1835生~1895没)
・熾仁親王筆の「八雲神社」の額は、琴主が奉納したものである。
・幕末・明治時代の皇族。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持。元治元年(1864)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門の変で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。慶応3年(1867)王政復古とともに総裁職に就任。翌年の戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿、福岡県知事、元老院議長を務め、明治10年(1877)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となった。著作『熾仁親王日記』7)

注 引用文献
1. 窪田英樹「八雲琴の調べ-神話とその心-」(東方出版 1986)
2. 「土居町誌」p754(宇摩郡土居町教育委員会 昭和59年 1984)
3. 「天満・天神学問の里巡り」5、6、25、38、47番(天満公民館 令和3年 2021)
4. Wikipedia「千家尊福」
5. 朝日日本歴史人物事典
6. Wikipedia「一條忠香」
7. 日本大百科全書(ニッポニカ)「有栖川宮熾仁親王」

写 青風神社と琴主(「天満・天神学問の里巡り」より)



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