気ままな推理帳

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伊豫軍印(17) 幕末~明治初期の印で 中山琴主の自作又は公家から贈られた説の提唱

2023-06-25 08:30:25 | 趣味歴史推論
1. 本印は、権威を示した公印ではなく、侘び寂びに則って作られた私印、工芸作品である可能性が高い。本印は、古印の特徴をほとんど持っていないことから、擬古印を狙った印ではない。擬古印を狙うのであれば、楷書体の「印」の字は使わず、篆書体、隷書体の字にしていたはずである。擬古印として皆を惑わす意図はなかったことがわかる。

2. 本印は腐食跡がないので、出土品ではない。伝来品(伝世品)の古印であれば、あるべき由緒書がない。由緒書が重要であることは、神社や公家なら当然知っていることであるにも拘わらず、由緒書がない。所有者の移り変わりを記す書き物もない。これらのことを考えると、本印には由緒書が無い方が都合よいと考えざるを得ない。

3. 本印は、中山琴主が奉納したようだと神社に伝わっている。琴主は、八雲琴を介して高位の公家や神官とつながりがあった。そのうちの誰からか贈られた印の可能性がある。しかし、彼らの地位や立場を考えると「伊豫軍印」という論議を呼びそうな印文の印を作らせることはしないのではないか。しかし、公に出ることがない遊びであれば、あり得るかも知れない。贈り主の名と添え書きがあってもしかるべきだが。

4. 本印は、中山琴主が印文を考え、京阪の工芸家に作らせた印である可能性がある。自身の守り印、天満の神社を護る印、故郷の伊予を護る印として奉納したのではないか。

5. 本印は、幕末~明治初期に作られたもので、公家や神官が琴主に贈ったか、琴主自身が作らせたものであるという説を提唱し、今後それを検証していきたい。

まず、中山琴主の生涯を知ることから始めよう。

 ここまで書いてきたところで、新たな情報を6月23日に入手した。それは、八雲神社のある天満公民館が令和3年に発行した「天満・天神学問の里巡り」冊子である。1) これには以下の文が載っていた。
1. 「伊豫軍印」は、八雲神社の「宝物古器目録」に、明治12年(1879)中山琴主寄附 とある。尚、琴主の入手経路は不明である。
2. 軍印の箱の中に「奈良朝時代、伊予に配置された軍団に下付されたもの」と記されている。

 少なくとも、明治12年の琴主寄附は確かであろう。琴主死去の前年である。箱書きについては、筆者の今までの検討結果からは、正しくないと思う。

注 引用文献
1. 天満公民館(近藤三千代編集)「天満・天神学問の里巡り」24番(天満公民館・天満自治協議会発行 令和3年8月 2021) 本冊子は、郷土史家岡本圭二郎が執筆し、平成13~23年の間、公民館報「てんま」に計100回掲載されたものをまとめたものである。地域の歴史や文化、風景、先人たちなどを紹介している。
本冊子は、公民館のご厚意で送っていただきました。お礼を申し上げます。

写 「天満・天神学問の里巡り」製作:天満公民館


伊豫軍印(16) 本印は奈良朝の軍団制の印でも平安朝の健児制の印でもない

2023-06-18 08:17:27 | 趣味歴史推論
 本印は奈良平安朝の古印であるという説の真偽を、今までの検討に基づいて、判断したい。

 奈良朝の軍団制の伊予軍団の公印ではない根拠を以下に列挙した。「伊豫軍印」を本印と表す。
1. 現存古印の鈕制からすると、官公印の類はおおむね弧鈕無孔であり、もって当時のそれも弧鈕無孔であろうことが推測される。これに対して本印は、有孔である。
2. 遠賀団印・御笠団印に似た点がほとんどない。
両団印は篆書体であり、これに対して本印は楷書体である。両団印は方42mmに対して本印は方37mmと小さく、高さ52mmに対して25mmと小さく、鈕の厚さは11mmに対して3mmと薄く、印台の厚さ9mmに対して3mmと薄い。両印の重さ約210gに対して本印は51gと軽い。両印は重厚なのに対して、本印は軽妙である。
3. 古印(郡印・郷印)の鈕・印台は、左右対称で整った形状で、公印の権威を表している。本印は、左右非対称でゆがんだり欠けたりした形状で、権威とは遠く、古代の公印でない可能性が高い。
4. 古印の莟鈕の孔は、完全な円形である。一方、本印の鈕孔は円形ではなく、歪んだ方形でしかも滑らかな曲線で形成されていない。対称性がなく整った形ではない。
5. 古印の印側は、印面からほぼ垂直に数mm立ち上がりきちんと台が形成されているが、本印の印側は、立ち上がりがだらっとしてなし崩し的である。
6. 古印の印台の4縁は、直線的で欠けたところはないが、本印では左右に2ヶ所欠けた箇所がある。鋳造の際に銅がちゃんと入らなかっと思われる。印の表面状態は滑らかであり、腐食劣化でできたとは考えにくい。四隅の形状もまちまちで整っていない。
7. 古印の郭は、しっかり直線で形成されている。本印の郭は、直線的に繋がっておらず、欠けているところが多くある。
8. 現存する奈良平安朝の古印の方と重さの相関式を求めた。その結果、本印の計算値は実物の約3倍の重さであった。即ち本印は団印や郡印に比べて印面が少し小さく、重さが1/3と軽すぎる。奈良平安朝の公印でない可能性が高い。
9. 本印の楷書の「印」という字は 日本古印に見つからない。篆体様でないので、公印でない可能性が高い。
10. 奈良朝の130余りと推定される軍団のなかで、記録があるのは、25である。ほとんどの軍団の呼称は「〇〇団」であるが、中には「〇〇軍団」もある。しかし「〇〇軍」はない。よって本印の「伊豫軍印」の印文がある確率は低い。現存する印は、「遠賀団印・御笠団印」である。
11. 「〇〇団・〇〇軍団」の「〇〇」には、所在する郡名をあてた(例外1件あり)。たとえ伊予郡に軍団があったとしても、その軍団は、「伊予団」または「伊予軍団」と呼ばれ、「伊予軍」とは呼ばれなかったであろう。よって「伊豫軍印」という公印はなかったであろう。

 平安朝の健児制の健児所の公印ではない根拠を以下に列挙した。
1. 印の形状や重さが古印と異なる点や「印」という字が楷書体である点などから、平安朝の公印でない可能性が高い。
2. 健児は、国司の部下で国府廻りの警護が主な役目である。伊予国の健児数は僅か50人と少ない部署である。それが、「伊豫軍」という呼称を持つとは考えられない。部署の発する書に押す公印の存在を示す記録はない。
3. 日本古印で、印文に「軍」という字の入った印は見つからない。

まとめ
1. 本印は、奈良平安朝の公印としての特徴を持っていない。
2. 本印は、奈良朝の軍団制の印でも、平安朝の健児制の印でもないと結論する。


次回から、本印は中山琴主が絡んだ江戸時代以降の工芸作品であるという説を提案しその可能性を検証したい。

伊豫軍印(15) 伊予国の軍団跡は「団」の訛った「旦・旦の上」村か

2023-06-11 08:36:18 | 趣味歴史推論
 伊予国の奈良時代の軍団制下の軍団と、平安時代の健児制下の健児所(こんでいどころ)について調べる。栗田寛(1890)は、伊予国の軍団数は3、その一つは国府のある越智郡にあると推定した。(←伊豫軍印(14))それらの軍団はどこに置かれていたのか。また健児所のあった国府は越智郡のどこにあったのか。

1. 軍団所在地を推定した説
(1)栗田寛の説を受けて、明治の歴史地理学者原秀四郎が、明治44年(1911)に郷里波止浜での講演で(記録「越智郡郷土誌材」(1914))、初めて伊予国の軍団所在地についての説を示した。1)2)

原秀四郎「越智郡郷土誌材」(1914)→写
「但し国府を守護する兵営なる軍団あり。すべて王朝の地方制度にては軍団は2郡3郡又は4郡を1区として1ヶ所づゝ設けられ今日の歩兵一大隊位の兵力ありし様なり。そのうちにても国府近くには必ずその1団あり。郡名まれには所在地の地名をその冠称とす。越智国府近くのは越智団と云いしならん。今日、越智郡に「旦」と称する処ありて、之を「ダン」と訓ず。周桑郡にも「旦の上」という村あり、その隣村に兵庫山の城趾あり。新居郡にも「旦の上」という村あり、「ダンノウヘ」と訓ず。即ち皆「団」の遺名にして察する所、東伊予にては2郡づゝに1団を置きしものと思わる。兵庫は「ヘイコ」と読まずして「ヘウゴ」と訓ず。軍団の兵器を入れ置く庫なり。周桑郡には「旦」と「兵庫」と共に地名残るも越智団の兵庫の位置は不明なり。但し「旦」村の近くに霊山の故城趾あり。その城は後世のものなるも、早く烽燧(トブヒ 夜と昼ののろし)など設けられしやも知るべからず。長門の豊浦郡には火の山壇ノ浦(団ノ浦)など相近く存在せり。なお「旦」村近くの地方の諸君の研究を希望す。
 又ご承知の通り、軍団の制は奈良朝限りにて止み、平安朝には之に変わりて、健児という志願兵を以て、国府や関所や駅鈴を納めたる庫やを守らすこととなり。その屯所を健児所と云へり。健児は之を「コンデイ」と訓じ、健児所は之を「コニソ」と訛りて訓むなり。又警察的任務を執る諸国の検非違使の役所を検非違使所(ヒイソ)と訛り、税務を掌る役所を税所(サイソ)と訛りて唱ふ。又制度敗れたる後にもなお国府近傍に世襲的に土着する豪族ありて、之を在庁官人と云い、略して在庁(ザイチャウ)と云う。その役所を留守所(ルスソ)といへり。かかる名称が地名小字となりて国府趾近傍に遺存することあるべし。御気附きの方は御報知ありたし。
 なお序に申さんに、当時制度のもっとも完全に行われたるは奈良朝の方なるが、その時代の出雲風土記を参考にするに、「国内において軍団の外に所々に烽燧(トブヒ)と戍(マモリ)とを置かれし如し。わが越智郡において風土記は残らざる故に仕方なきも、かゝる古蹟が地名となりて残りおらずやと考えおるなり。そのうち宮崎梶取岬の辺なる日山(ヒノヤマ)は出雲の例によれば或いは烽燧の遺蹟にあらずやとも思わる。烽燧は単に「ヒ」とも訓み、或いは別に狼煙(ノロシ)と云う名にて残ることもあり。」

(2)さらに昭和49年(1974)に、日野開三郎らは、道後平野にも2軍団、すなわち伊予郡と久米郡に軍団があったという説を提案した。3)

日野開三郎ら「伊豫市誌」(1974)
「従来、既に指摘せられている三軍団はいずれも東予、すなわち道前の地に限られていて、道後の地には関係がない。しかし、五郡がおかれ、大条里制が敷かれていた道後に、この重要地の治安をになう軍団が全くおかれていなかったとは考えられない。こうした考えに立って調査を進めたところ、果たして川上町と伊豫市の宮の下とに、その遺址が発見せられた。久米郡川上町字北方にある「旦の上」は軍団の遺址とみて誤りはない。次に伊豫郡字宮ノ下のホノギに「段ノ上」(長泉寺付近)がある。ここは断層線の北側に展開する扇状地の扇の頂付近にあって、道後平野の南部を展望できる好位置の高地である。段ノ上の段は旦と同じく団の転訛で、伊予国の遺址とみるべきである。付近に式内社の伊曽能、伊予、高忍日売の諸神社がある。また、伊予郡の郡家の所在にも近く、こうした一帯の要地を押え、西瀬戸内海の交通安全に、にらみをきかす大きな役割をになって設置せられた軍団であろう。」

2. 検討
 原、日野両説の根拠は、「団」が転訛して「旦」「段」になったという字名によっている。考古学的に軍団遺蹟を見つけることは、難しいことであろう。記録にある軍団でも遺蹟の発見に至った所は検索する限りなかった。よって今のところ、この字名によって推量するしかない。
 軍団は国府や郡衙(郡家)の所在地にさほど遠くない軍事的要地に設置されたと考えられる。南海道から近い距離の土地や、見通しが良い扇状地上の扇頂部や段丘上の小高い土地は移動や軍事訓練に好適である。
 「旦」「旦之上」は愛媛県に特徴的な転訛なのであろうか。四国の他の国では地名に「旦」は見当たらない。軍団が制度上なくなった後、ある伊予国司がその土地を「旦」と記すように指示したのではないだろうか。土地の形状が似ている場所は多数あるが、数か所だけ「旦」「旦之上」と名が付いているのは、意味があるのであろう。
両説をまとめると栗田寛の説の3軍団より多いが、以下のようになる。

軍団の推定所在地 →図
         推定軍団名     郡名   推定地      
原秀四郎説  1.  越智団      越智郡  櫻井村字(今治市)
       2.  桑村団      桑村郡  庄内村字旦之上(西条市)
       3.  新居団(神野団) 新居郡  中萩村旦之上(新居浜市)
日野開三郎説 4.  伊予団      伊予郡  宮ノ下段ノ上(長泉寺付近)(伊予市)
       5.  久米団      久米郡  川上村北方旦之上(東温市)

健児所の推定所在地  伊予国府の直近  越智郡蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺(今治市)4)

以下に各所について考察する。
①越智郡櫻井村字旦(今治市)
「旦」は、国分寺、国分尼寺跡に近く、眼の前を南海道が通っている土地である。国府、郡衙の所在地は、未確定であるが、蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺が有力のようである。4) 国府、郡衙地の他説も含めて、「旦」から皆、数kmの範囲である。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「越智郡 旦村・高544石4斗3升、内 田方527石9斗1升7合、畠方16石5斗1升3合 日損所、芝山有」とある。5)
②桑村郡庄内村字旦之上(西条市)
 扇状地の扇頂に位置する。「旦之上」の「旦」に軍団があったとすると、東0.5km程度の距離に兵庫山城址がある。すぐ近くを南海道が通っている。郡衙は検索するも不明である。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「桑村郡 旦ノ上村・高765石7斗8升 内 田方716石8斗3升6合、畠方48石9斗4升4合、日損所、小川有、芝山有」とある。
③新居郡中萩村旦之上(新居浜市)
「旦之上」は、筆者宅2階から見える見通しのよい緩やかな斜面の平地である。新居郡衙(郡家)は中村本郷にあったとされており、東2km程の近い距離である。また眼の前を南海道が通っている。西1km(大生院)には正法寺があり、奈良時代から開けていた。
「旦之上」の「旦」が軍団跡と関係があるかもしれないとは、筆者は今迄知らなかった。「中萩の歴史探訪」によれば、「旦ノ上」の地名の由来については「この字地は、渦井川と小河谷川による扇状台地にあり、岡村断層の上にあることから付いた地名である」と書かれている。なお岡村断層の下側の地名は「岸の下」である(岸は崖の意味か)。6)今回の推定からすると「旦」すなわち「団」は「岸ノ下」にあったのかもしれない。
慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「新居郡 萩生村・高1,173石7斗9升 内 田方396石4斗9升4合、畠方777石2斗9升6合、柴山有、日損所」とある。
④伊予郡宮ノ下段ノ上(長泉寺付近)(伊予市)
ここは「段ノ上」であるが、「団」の転訛としている。断層線の北側に展開する扇状地の扇の頂付近にあって、道後平野の南部を展望できる好位置の高地である。郡衙に近いと書かれているが、筆者が検索するも郡衙跡は不明である。
宮ノ下村は古くは南神崎村といわれ、慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「伊予郡 南神崎村・高2,023石5斗6升5合 内 田方1,034石2斗5升、畠方989石3斗1升5合、日損所、松林山少有、芝山有」とある。
⑤久米郡川上村北方旦之上(東温市)           
「旦之上」には遺址が発見せられたとあるが、筆者はその情報にたどり着けなかった。「旦の上」は軍団の遺址とみて誤りはないとのこと。久米郡衙は、2006年の報告書によれば、現松山市来住(きし)町(来住廃寺跡)にあったことがわかってきた。7)「旦之上」は、この郡衙から東10kmとかなり遠くにあるので、現時点で判断すると、立地としては少し問題がある。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「久米郡 北方村・高1,279石1斗9升 内 田方1,132石2斗1升、畠方146石9斗8升 林有、小川有」とある。

健児所  
 伊予国府は、越智郡蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺である可能性が高い。4) 軍団のあった櫻井村字旦とは4km程離れているので、国府・兵庫・駅鈴庫の守衛を少数でするには不便である。健児所は軍団のあった旦から、国府のすぐ近くに移されたのではなかろうか。その方が国司の命令が伝わり管理監督しやすくなる。

まとめ
1. 原秀四郎説:伊予国軍団跡は、「団」の訛った「旦・旦之上」にあり、越智郡旦、桑村郡旦之上、新居郡旦之上の3ヶ所である。越智郡旦は国府のある郡にあること、桑村郡旦之上は、近くに兵庫の地名があることから、妥当と思われる。

2. 日野開三郎説:道後平野の伊予郡段ノ上、久米郡旦之上の2ヶ所も候補としたい。
3. 健児所は、伊予国府のすぐ近くに設けられたはずである。


注 文献
1. 原秀四郎講述「越智郡郷土誌材」p38(東予新聞社 1914)→写
 原秀四郎(1872~ 1913):越智郡波止浜町出身、明治時代の歴史地理学者、帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。(Wikipediaより)
web. 川合一郎「原 秀四郎 ―その伝記書誌的考察―」『歴史地理学』51(3)(2009)
2. 景浦稚桃「伊豫軍印に就て」伊予史談 第5巻2号(18号)p6(大正8年9月 1919)
3. 日野開三郎、日野尚志「古代の伊豫市とその周辺」伊予市誌 特別寄稿(昭和49年 1974) web.データベース「えひめの記憶」>書籍一覧(市町村誌)> 伊予市誌
 日野開三郎(1908 - 1989):愛媛県伊予郡出身、昭和期の東洋史学者、文学博士、九州帝国大学教授(1946~1972)(Wikipediaより)
 日野尚志:愛媛県伊予郡出身、歴史地理学者、佐賀大学教授
4.  web. 愛媛県埋蔵文化財センター「第1章 伊予国府研究史-推定地諸説と研究の現状」p3(2018.4)
5. 愛媛県立図書館編集 愛媛県史料1「伊予国旧石高調帳」(昭和49年 1974)
6. 中萩古文書を読む会編集(主筆内藤雅行)「中萩の歴史探訪」p158(2011)
7. 史跡久米官衙遺跡群調査報告書(松山市 埋蔵文化財センター 2006)
・伊予国軍団推定地の図は、「愛媛県史 古代Ⅱ・中世」p233(1984)の図(郡境)を転用し、南海道は、p72~80の条理図を参考にして書き入れた。
図 伊予国軍団推定地


写 原秀四郎の伊予国軍団所在地推定 (原秀四郎「越智郡郷土誌材」より)


伊豫軍印(14) 「〇〇団・〇〇軍団」はあるが「〇〇軍」はなく 〇〇には郡名をあてた

2023-06-04 08:10:20 | 趣味歴史推論
 律令軍団制の観点から、「伊予軍印は奈良平安時代の伊予軍団の印である」という説を検証する。
先ず、律令軍団制について関係のありそうなところの知識を、栗田寛「栗里先生雑著」(1890)や橋本裕「律令軍団制の研究」(1982)などから抽出し、筆者の覚として記しておく。

大宝令(701) 第17篇 軍防令 第1条 軍団編成条
 「凡軍団、大毅、領一千人。少毅副領。校尉、二百人。旅帥、一百人。隊正、五十人。」
 本条は軍団編成の令なり。すべて国別に軍団を組織編制し、1軍団に団長として大毅1人を置き1千名の兵士を統率せしめよ。該1団を分割統率するに、団長の下に、少毅2人を置き各500人ずつ、校尉5人ありて各200人ずつ、旅帥10あり100人ずつ、隊正20人あり50人ずつを統領せり。1)

 軍団設置後間もない「続日本紀」慶雲元年(704)条では、兵士は10番に分かたれ、短いスパンで年に数回上番する勤務形態であった。
 養老律令(757)の軍防令は、正丁(せいてい、21 - 60歳の健康な男)三人につき一人を兵士として徴発するとした。この規定では国の正丁人口の三分の一が軍団に勤務することになるが、実際の徴兵はこれより少なかったようで、一戸から一人が実情ではないかとも考えられている。 兵士の食糧と武器は自弁で、平時には交替で軍団に上番し、訓練や警備にあたった。2)

軍団の役割
 吉永匡史「律令軍団制の成立と構造」(2007)によれば、以下のようである。3)
「軍団は平時においては国司による糺察活動の実行手段として機能し、戦時では出征将軍の指揮下で征討軍の主力として征討任務にあたった。軍毅は兵士の個別技能の「師」であり、軍団の軍事力を最上の状態で即時発揮できる体制に整えておく管理者であった。軍団兵士の任務で重要なのは、軍事訓練と国司の地方支配に必要な治安維持活動の属する職務である。特に、兵庫(武器庫)の守衛と罪人追補が重視されていた。他に関の守固、軍糧倉の守衛、倉庫・城隍・器仗・堤防の修理・修営などがある。
この平時の軍事訓練(特に陣法式)により全国画一的な軍隊になり、戦時、全国各地から動員した軍団兵士を一個の軍に編成し、将軍の号令通りに動かすことができるのである。」

 橋本裕「律令軍団制の研究」(1982)には、史書・正税帳・計会帳などの古文書の検討、団印の発見などによってその名称の知られる律令軍団の一覧がある。4)
 律令軍団一覧表
No.   国名   所在郡名   軍団名    出典
1    大和   添上郡    添上団   天長(833)養老軍防令義解
2    大和   高市郡*   高市団   同上 少なくとも天平10年(738)以前に存在
3    駿河   安倍郡*   安倍団   天平10年(738)駿河国正税帳
4    相模   余綾郡    余綾団   天平10年(738)駿河国正税帳
5    相模   大住郡*   大住団   天平10年(738)駿河国正税帳 国府高座郡の可能性有 
6    近江   滋賀郡*   滋賀団   天平宝字年(757)東大寺封租進上解案帳、続日本紀天平神護2年(766)
7    陸奥   丹取郡    丹取軍団  続日本紀神亀5年(728)
8    陸奥   白河郡    白河軍団  続日本紀神亀5年(728)
                白河団   太政官符弘仁6年(815)、左経記長元7年(1034)
9    陸奥   安積郡    安積団   太政官符弘仁6年(815)
10   陸奥   名取郡    名取団   太政官符弘仁6年(815)、三代実録貞観11年(869)
11   陸奥   磐城郡    磐城団   続日本後紀承和15年(845)
12   陸奥   行方郡    行方団   太政官符弘仁6年(815)
13   陸奥   玉造郡    玉造軍団  続日本紀神亀5年(728)
                玉造団   太政官符弘仁6年(815)
14   陸奥   小田郡    小田団   太政官符弘仁6年(815)
15   越前   丹生郡*   丹生団   天平宝字2年(758)越前国司牒
16   佐渡   雑太郡*   雑太団   三代実録元慶3年(879)、延喜民部省式(905)
17   但馬   気多郡*   気多団   続日本紀延暦3年(784)
18   出雲   意宇郡*   意宇団   天平6年(734)出雲国計会帳
                意宇軍団  天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
19   出雲   神門郡    神門軍団  天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
20   出雲   飯石郡    熊谷団**  天平6年(734)出雲国計会帳
                熊谷軍団** 天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
21   安芸   佐伯郡    佐伯団   天平10年(738)周防国正税帳
22   長門   豊浦郡*   豊浦団   天平10年(738)周防国正税帳、続日本紀神護景雲元年(767)
23   筑前   御笠郡*   御笠団   昭和2年(1927)出土銅印
24   筑前   遠賀郡    遠賀団   明治32年(1899)出土銅印
25   肥前   基肆郡    基肆団   日本紀略弘仁4年(813)
*国府のあった郡  **現在知られる軍団の中で郡名と異なった呼称を持つ唯一の例

・ほとんどの軍団の呼称は 「〇〇団」であるが、中には「〇〇軍団」もある。しかし「〇〇軍」はない。「〇〇」には、所在する郡名をあてた(例外1件あり)。

全国軍団数と兵士総数の推定
 幕末の歴史学者栗田寛「栗里先生雑著」(1890)は、以下のようにして推定している。5)
官符(類聚三代格などの記載)等によれば、筑前は15郡にして4団、筑後は10郡にして3団、豊前は8郡にして2団、豊後は8郡にして2団、肥前11郡に3団、肥後14郡に4団、日向5郡にして1団、陸奥36郡に10団、出雲10郡に3団、相模8郡にして2団ありと記されている。また国府にほぼ必ず1団が置かれており、国府所在の郡名をその団名としている。諸国の軍団の名を挙げたるものおよびその団数等を平均して粗密繁簡はあるが、おおよそ4郡に1団を置いていると見積もった。3郡また2郡しかない国は軍団がないとしたところもある。このように考えて、仮に5畿7道軍団配置表を作った。
全国の軍団数 131   兵士総計 12万9100人
(当時の日本の推計総人口約500万人に対して大きな割合である。)

全国の配置表のうち、南海道については以下のとおりである。
・紀伊(管郡7)軍団1 名草団 1千人
・淡路(管郡2)なし
・阿波(管郡9)軍団2 名方団 1千人、〇〇団 1千人
・讃岐(管郡11)軍団2 阿野団 1千人、〇〇団 1千人
伊豫(管郡14)軍団3 越智団 1千人、〇〇団 1千人、〇〇団 1千人
・土佐(管郡7)軍団1 長岡団 1千人
 上記9軍団兵士およそ9千人

 四国の軍団については、全く記録がないので、栗田寛は、伊予国には、3軍団が存在したと推定し、その内の一つは、国府のあった越智郡にあったはずであり、その軍団名は越智団であると推定したのである。あくまで推定ではあるが、越智団があった可能性は非常に高い。軍団数3は、不確実である。各団の兵士数は標準的な定員1000人としている。

健児制(こんでいせい)
 軍団兵士制は、延暦11年(792)に陸奥・出羽・佐渡・大宰府の他は廃止され、健児制に移行した。天長3年(826)には対蝦夷戦争が継続していた陸奥・出羽を除いて軍団は廃止された。健児制は武芸に秀でた者を選抜し、国府・兵庫・駅鈴庫を守衛するのが主な任務である。
延暦11年(792)官符(延喜兵部式)には、諸国健児として以下の数が挙げられている。5)
山城国20人、大和国70人、河内国20人、和泉国20人、摂津国30人、------出雲国100人、石見国30人、隠岐国30人、播磨国100人、-------長門国50人、紀伊国60人、淡路国30人、阿波国30人、讃岐国100人、伊豫国50人、土佐国30人
 総計3934人
これにより、健児数は、軍団兵士数に比べ、非常に少なくなったことがわかる。

まとめ
1. 130余りと推定される軍団のなかで、記録があるのは、25である。四国の軍団の記録は全くない。
2. ほとんどの軍団の呼称は「〇〇団」であるが、中には「〇〇軍団」もある。しかし「〇〇軍」はない。
3. 「〇〇」には、所在する郡名をあてた(例外1件あり)。
4. 伊予国の健児数はわずか50人と少ない


注 文献
1. 窪美昌保 著『大宝令新解』(南陽堂 大正13) web. 国会図書館デジタルコレクション
2. Wikipedia 「軍団(古代日本)」
3. 吉永匡史「律令軍団制の成立と構造」史学雑誌116(7)p37(2007)web. J-STAGE
4. 橋本裕「律令軍団制の研究」p153(橋本裕氏遺稿集刊行会 1982)web. 国会図書館デジタルコレクション
5. 栗田寛「栗里先生雑著巻12」p7~24(明治23年(1890))web. 国会図書館デジタルコレクション「栗里先生雑著:15巻下」軍団の制附健児の制
栗田寛(1835- 1899)幕末水戸藩に仕えた国学者・歴史学者。元東京帝国大学教授。『大日本史』において最後まで未完であった「表」「志」を執筆した。号は栗里。Wikipediaより