天満村寺尾家と尾張藩寺尾家の家紋が三つ扇で同じなので上柏村と天満村の寺尾家は血縁関係にあるとした。しかし 上柏村の寺尾家と尾張藩士寺尾家との繋がりが文献により異なり、筆者は混乱していた。はっきりさせるべく、筆者は2024年2~5月の間、ブログ「フクロウ日誌」著者のK氏と詳細なやりとりを行った。K氏の綿密な研究により納得のいく状態になったので、本報で要点を記させていただく。
K 氏は「士林泝洄」と翻刻されている尾張藩の江戸初期「分限帳」8件と「伊予今村家物語」を調査し、系図を作成した。暫定版とのことであるが、以下に示す。
筆者の疑問点は、①正俊と喜右衛門は同一人物ではないか②そうであれば、直政は喜右衛門が伊予から逃れるときに連れてきた二人の幼児の一人ではないか③福富覚書の幼児二人は、「士林泝洄」に系図の誰に相当するのか であった。それらが、K氏の上記系譜ではっきりしたのである。K氏には多大な時間と労力をおかけしました。お礼申し上げます。
各人について得られた情報や筆者が推定した情報を以下に記す。
寺尾壱岐守:具定村に居住、慶長9年(1604)新田の境争いの訴訟で敗れ、川之江の座敷牢に入れられた。喜右衛門は娘婿の福富半右衛門と謀り、壱岐守を奪い取り戻すべく、万一失敗したら自害なさるべく、紙中に脇差しを隠し壱岐守に届け、11月29日夜奪い取る作戦は決行直前にもれ、喜右衛門らは川之江城代に追われる身となった。壱岐守は自害した。1)2)
寺尾正俊:忠吉公(徳川家康の4男)に仕えるまでの経歴を記しているのは、今村家譜だけである。3)この家譜から推測すると、川之江城主河上但馬守安勝は天正10年(1582)に滅亡し、その頃の乱で寺尾正俊は友人が戦死したので上柏村を出て、本州へ渡った。その後は、「正俊は、松平忠吉卿の武州忍(おし)で召し出され、150石を賜り、清洲に移った後、倍150石を加えた。その後、敬公(徳川義直初代尾張藩主・徳川家康の9男)に仕え、押奉行、大坂役、川並奉行を勤めた。老いに及んで職を免じ寄合をした。寛永13年(1636)正月29日卒。」と記されている。2)
寺尾直政:正俊の長男。元和3年(1617)14才の時、義直公に召し出され小姓となり、小十人頭、同心頭、家老職と進み禄5千石。寛永9年(1632)尾張藩江戸屋敷において足軽頭佐々又左衛門を侮辱したため、付家老成瀬家に御領けとなる。佐々又左衛門は死罪になったが直政は百日で許され、寛永18年(1641)(39才)にはさらに3千石を加増された。正保2年(1645)従五位下弾正少弼に叙任、のち越前守、土佐守となる。慶安3年(1650)義直が病死すると殉死。享年48。法号は全順。2)4)
寺尾直龍:成瀬隼人正虎の次男である。殉死した直政に子がなく、2代藩主光友の命により、寺尾家を嗣いだ。遺領8千石を賜り大寄合となった。寛文3年(1663)老中となり実父成瀬正虎からも新田2千石を譲り受け1万石となった。延宝3年(1675)発狂し犬山に蟄居。享保9年(1724)卒。享年85。2)
「フクロウ日誌」によれば「直龍の政治姿勢をみると、貧民に手厚い処置を施したり、新田開発に積極的であったり、減税などの温情ある政策を行い、ときには主君の好色、乱費を諫めてもいる。だが何度も藩主に政策の提言を出そうとしても反対派の妨害にあい、さらに藩と役人の不正を糺す試みなども挫折している。老獪な家臣、直政時代の旧臣下たちからすれば、世間知らずで融通の利かない一本調子の直龍に手を焼いていたということであろう。彼が精神的病(狂疾)によって蟄居させられたと記す者もあるが、むしろ彼の実直、清廉さが政治には向いておらず、その純粋な理想主義は濁世に溺れ挫折し、周囲に追い詰められて自ら身を引いたというのが事実に近いと思われる。---直龍が犬山に蟄居となったのはまだ30歳を過ぎたばかりのことである。それから50年ほど後に逝去しているから、その人生の大半は隠居生活だったことになる。」5)
寺尾喜右衛門:上柏村に居住。慶長9年(1604)壱岐守事件で妻・二子と共に、尾張藩士の兄を頼って尾張に逃げた。敬公(義直)御代に召し出され250石を賜る 寺尾左馬助(直政)に属す。2)
寺尾作右衛門:福島左衛門太夫正則に仕えた後、敬公(義直)に召し出され出され250石を賜い御供番となる。慶安3年(1650)卒。2)
寺尾仁左衛門:「福富覚書」には、寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った二人の幼児は、「今の寺尾次郎左衛門、同仁左衛門ことの外幼少にて御座候---」とあり、それぞれ家来に背負わせて逃げた。その幼児の一人である。
父の家領を嗣ぎ、直政組に属す。250石。1)2)
寺尾次郎左衛門:寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った幼児のひとり。
敬公(義直)の御代に召し出され50人組、俸禄を賜う。病により蟄居、後病癒えて直政同心となり、200石を賜う。その後熊谷与兵衛竹腰山城守に属す。延宝9年(1681)卒。1)2)
長女 福富半右衛門妻:(1589?-1604) 慶長6年(1601)に福富半右衛門に嫁ぎ、慶長9年出産直後、壱岐守事件で夫により涙ながらに刺殺された。1)
次女 今村又兵衛近秀妻:(1600?-1679) 寶樹院高妙大姉。3)
今村近秀(1585-1654)は、元和9年(1623)領主加藤左馬助より世々里正職を拝命した。妻は長男又兵衛義勝(1623-1682)を生んでおり、慶長9年事件時に5才とすれば、生年は1600年となる。慶長9年事件時にこの娘を連れて尾州へ逃げるのは難しいと判断した寺尾喜右衛門は、懇意であった今村家にこの娘を匿い育ててくれるように頼んだのではないか。そして娘は成人し、近秀と結婚したと推測する。娘を頼んだ際、寺尾家屋敷を今村家が引き継くように指示したのではなかろうか。もともと、喜右衛門は、父寺尾壱岐守を牢から力ずくで取り戻したにしても上柏村に住み続けることは出来なく、尾州に逃げ去ることを想定していたはずである。屋敷と娘を今村家に頼むことは最初から考えていたと思う。
まとめ
上柏村寺尾家から出た尾張藩寺尾家の系図を明らかにした。
注 引用文献
1. 改定史籍集覧第15冊所収「福富半右衛門親政法名浄安覚書」p394-407(近藤活版所 明治35年1902)編纂近藤圭造(瓶城)
web. 国会図書館デジタルコレクション コマ数202-280
福富半右衛門(ふくとめはんえもん 伝右衛門とも称した)は、寛永4年(1627)尾張藩主徳川義直公(徳川家康の9男)の前で馬上戦闘の駆け引きを披露、寺尾直政組として500石の武人であった。その武功を問われたので、覚書として差し出した。その覚書を貞享元年(1684)6月引馬野八が書き写した。
2. 松平秀雲「士林泝洄」尾張藩士の系譜を集めた系図資料。延享4年(1747年)ときの書物奉行松平秀雲(君山)らによって完成した。
web. 名古屋叢書 続編 第18巻 「士林泝洄 第2」巻第37 p233-239(名古屋市教育委員会編 1967) 国会図書館デジタルコレクション コマ数123-126
3. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)中の今村家系図と「今村家家譜 坤」この家譜は、宝暦7年(1757)後裔今村義忠謹記と書かれている。
今村又兵衛近秀について
「今村近秀 今村甚兵衛秀之次男也 今村又兵衛 上柏辻に住す 本辻と云-----
君為人恭謹温順有器忠量甚深自施人日本於村中哉 豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家移豫州宇摩郡真庄山口郷 其後裔喜右衛門尉正俊天正之比 川之江城主川上但馬守常運乱興時 友人村中石川弥右衛門尉戦死終打負而遂于尾州大納言義直公為執事家老 其寺尾旧園別居今辻唱 元和九癸亥(1623)時領主加藤左馬助応召世々里正職命上哉----承応三甲午(1654)二月一日天年七十歳而病没 法諡号行樹院薫窓精笹居士 曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女 延宝七丑未(1679)秋九月十二日卒 号寶樹院高妙大姉」
この家譜は、寺尾喜右衛門と寺尾正俊が同一人物であるように記しているが間違いであるので注意が必要である。また寺尾土佐守直政の先祖が宇摩に移ってきたのであろう。家譜の「後裔喜右衛門尉正俊」は、「後裔寺尾正俊」が、「曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女」は「曽娶寺尾喜右衛門女」が正しいのであろう。
因みに、近秀の腹違いの従兄である今村勝義は、別子銅山を試掘したと言われる三島今村祇太夫義元の父である。6)
4. web. 日本掃苔禄>掃苔帳>寺尾直政
5. フクロウ日誌(2017.7.29)>寺尾直龍 ①
6. 本ブログ「三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた」(2022.7.17)
補足:福富半右衛門「福富覚書」より
福富(ふくとめ 福留とも書かれる)半右衛門は土佐の人で、祖父の福富飛騨守親政は長宗我部元親の重臣であり、父の儀重は豊後府内陣(戸次川の戦い)で天正14年(1586)戦死した。半右衛門は文禄の役(1592)・慶長の役(1597)で戦功をあげ、関ケ原の役(1600)では西軍に就き敗れた長宗我部盛親を守って土佐に帰り閑居していた。半右衛門は、文禄元年(1592)の朝鮮攻め時には福富七郎兵衛と称し17才と記されていることから、生年は天正4年(1576)である。
慶長6年(1601)前田久衛門と共に土佐を発ち、働き口として伊予正木(松前)の加藤左馬助の家老畑二郎兵衛に仕官を頼んだ。丁度川之江に新城を取り立てて、川村権七を城代(6500石)としたので、半右衛門は、川村権七組として職を得、4月26日川之江に着いた。慶長6年(1601)暮に秋山嘉兵衛の仲人にて、寺尾喜右衛門の娘と結婚した。半右衛門は寺尾喜右衛門の娘婿となったのである。以下略
K 氏は「士林泝洄」と翻刻されている尾張藩の江戸初期「分限帳」8件と「伊予今村家物語」を調査し、系図を作成した。暫定版とのことであるが、以下に示す。
筆者の疑問点は、①正俊と喜右衛門は同一人物ではないか②そうであれば、直政は喜右衛門が伊予から逃れるときに連れてきた二人の幼児の一人ではないか③福富覚書の幼児二人は、「士林泝洄」に系図の誰に相当するのか であった。それらが、K氏の上記系譜ではっきりしたのである。K氏には多大な時間と労力をおかけしました。お礼申し上げます。
各人について得られた情報や筆者が推定した情報を以下に記す。
寺尾壱岐守:具定村に居住、慶長9年(1604)新田の境争いの訴訟で敗れ、川之江の座敷牢に入れられた。喜右衛門は娘婿の福富半右衛門と謀り、壱岐守を奪い取り戻すべく、万一失敗したら自害なさるべく、紙中に脇差しを隠し壱岐守に届け、11月29日夜奪い取る作戦は決行直前にもれ、喜右衛門らは川之江城代に追われる身となった。壱岐守は自害した。1)2)
寺尾正俊:忠吉公(徳川家康の4男)に仕えるまでの経歴を記しているのは、今村家譜だけである。3)この家譜から推測すると、川之江城主河上但馬守安勝は天正10年(1582)に滅亡し、その頃の乱で寺尾正俊は友人が戦死したので上柏村を出て、本州へ渡った。その後は、「正俊は、松平忠吉卿の武州忍(おし)で召し出され、150石を賜り、清洲に移った後、倍150石を加えた。その後、敬公(徳川義直初代尾張藩主・徳川家康の9男)に仕え、押奉行、大坂役、川並奉行を勤めた。老いに及んで職を免じ寄合をした。寛永13年(1636)正月29日卒。」と記されている。2)
寺尾直政:正俊の長男。元和3年(1617)14才の時、義直公に召し出され小姓となり、小十人頭、同心頭、家老職と進み禄5千石。寛永9年(1632)尾張藩江戸屋敷において足軽頭佐々又左衛門を侮辱したため、付家老成瀬家に御領けとなる。佐々又左衛門は死罪になったが直政は百日で許され、寛永18年(1641)(39才)にはさらに3千石を加増された。正保2年(1645)従五位下弾正少弼に叙任、のち越前守、土佐守となる。慶安3年(1650)義直が病死すると殉死。享年48。法号は全順。2)4)
寺尾直龍:成瀬隼人正虎の次男である。殉死した直政に子がなく、2代藩主光友の命により、寺尾家を嗣いだ。遺領8千石を賜り大寄合となった。寛文3年(1663)老中となり実父成瀬正虎からも新田2千石を譲り受け1万石となった。延宝3年(1675)発狂し犬山に蟄居。享保9年(1724)卒。享年85。2)
「フクロウ日誌」によれば「直龍の政治姿勢をみると、貧民に手厚い処置を施したり、新田開発に積極的であったり、減税などの温情ある政策を行い、ときには主君の好色、乱費を諫めてもいる。だが何度も藩主に政策の提言を出そうとしても反対派の妨害にあい、さらに藩と役人の不正を糺す試みなども挫折している。老獪な家臣、直政時代の旧臣下たちからすれば、世間知らずで融通の利かない一本調子の直龍に手を焼いていたということであろう。彼が精神的病(狂疾)によって蟄居させられたと記す者もあるが、むしろ彼の実直、清廉さが政治には向いておらず、その純粋な理想主義は濁世に溺れ挫折し、周囲に追い詰められて自ら身を引いたというのが事実に近いと思われる。---直龍が犬山に蟄居となったのはまだ30歳を過ぎたばかりのことである。それから50年ほど後に逝去しているから、その人生の大半は隠居生活だったことになる。」5)
寺尾喜右衛門:上柏村に居住。慶長9年(1604)壱岐守事件で妻・二子と共に、尾張藩士の兄を頼って尾張に逃げた。敬公(義直)御代に召し出され250石を賜る 寺尾左馬助(直政)に属す。2)
寺尾作右衛門:福島左衛門太夫正則に仕えた後、敬公(義直)に召し出され出され250石を賜い御供番となる。慶安3年(1650)卒。2)
寺尾仁左衛門:「福富覚書」には、寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った二人の幼児は、「今の寺尾次郎左衛門、同仁左衛門ことの外幼少にて御座候---」とあり、それぞれ家来に背負わせて逃げた。その幼児の一人である。
父の家領を嗣ぎ、直政組に属す。250石。1)2)
寺尾次郎左衛門:寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った幼児のひとり。
敬公(義直)の御代に召し出され50人組、俸禄を賜う。病により蟄居、後病癒えて直政同心となり、200石を賜う。その後熊谷与兵衛竹腰山城守に属す。延宝9年(1681)卒。1)2)
長女 福富半右衛門妻:(1589?-1604) 慶長6年(1601)に福富半右衛門に嫁ぎ、慶長9年出産直後、壱岐守事件で夫により涙ながらに刺殺された。1)
次女 今村又兵衛近秀妻:(1600?-1679) 寶樹院高妙大姉。3)
今村近秀(1585-1654)は、元和9年(1623)領主加藤左馬助より世々里正職を拝命した。妻は長男又兵衛義勝(1623-1682)を生んでおり、慶長9年事件時に5才とすれば、生年は1600年となる。慶長9年事件時にこの娘を連れて尾州へ逃げるのは難しいと判断した寺尾喜右衛門は、懇意であった今村家にこの娘を匿い育ててくれるように頼んだのではないか。そして娘は成人し、近秀と結婚したと推測する。娘を頼んだ際、寺尾家屋敷を今村家が引き継くように指示したのではなかろうか。もともと、喜右衛門は、父寺尾壱岐守を牢から力ずくで取り戻したにしても上柏村に住み続けることは出来なく、尾州に逃げ去ることを想定していたはずである。屋敷と娘を今村家に頼むことは最初から考えていたと思う。
まとめ
上柏村寺尾家から出た尾張藩寺尾家の系図を明らかにした。
注 引用文献
1. 改定史籍集覧第15冊所収「福富半右衛門親政法名浄安覚書」p394-407(近藤活版所 明治35年1902)編纂近藤圭造(瓶城)
web. 国会図書館デジタルコレクション コマ数202-280
福富半右衛門(ふくとめはんえもん 伝右衛門とも称した)は、寛永4年(1627)尾張藩主徳川義直公(徳川家康の9男)の前で馬上戦闘の駆け引きを披露、寺尾直政組として500石の武人であった。その武功を問われたので、覚書として差し出した。その覚書を貞享元年(1684)6月引馬野八が書き写した。
2. 松平秀雲「士林泝洄」尾張藩士の系譜を集めた系図資料。延享4年(1747年)ときの書物奉行松平秀雲(君山)らによって完成した。
web. 名古屋叢書 続編 第18巻 「士林泝洄 第2」巻第37 p233-239(名古屋市教育委員会編 1967) 国会図書館デジタルコレクション コマ数123-126
3. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)中の今村家系図と「今村家家譜 坤」この家譜は、宝暦7年(1757)後裔今村義忠謹記と書かれている。
今村又兵衛近秀について
「今村近秀 今村甚兵衛秀之次男也 今村又兵衛 上柏辻に住す 本辻と云-----
君為人恭謹温順有器忠量甚深自施人日本於村中哉 豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家移豫州宇摩郡真庄山口郷 其後裔喜右衛門尉正俊天正之比 川之江城主川上但馬守常運乱興時 友人村中石川弥右衛門尉戦死終打負而遂于尾州大納言義直公為執事家老 其寺尾旧園別居今辻唱 元和九癸亥(1623)時領主加藤左馬助応召世々里正職命上哉----承応三甲午(1654)二月一日天年七十歳而病没 法諡号行樹院薫窓精笹居士 曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女 延宝七丑未(1679)秋九月十二日卒 号寶樹院高妙大姉」
この家譜は、寺尾喜右衛門と寺尾正俊が同一人物であるように記しているが間違いであるので注意が必要である。また寺尾土佐守直政の先祖が宇摩に移ってきたのであろう。家譜の「後裔喜右衛門尉正俊」は、「後裔寺尾正俊」が、「曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女」は「曽娶寺尾喜右衛門女」が正しいのであろう。
因みに、近秀の腹違いの従兄である今村勝義は、別子銅山を試掘したと言われる三島今村祇太夫義元の父である。6)
4. web. 日本掃苔禄>掃苔帳>寺尾直政
5. フクロウ日誌(2017.7.29)>寺尾直龍 ①
6. 本ブログ「三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた」(2022.7.17)
補足:福富半右衛門「福富覚書」より
福富(ふくとめ 福留とも書かれる)半右衛門は土佐の人で、祖父の福富飛騨守親政は長宗我部元親の重臣であり、父の儀重は豊後府内陣(戸次川の戦い)で天正14年(1586)戦死した。半右衛門は文禄の役(1592)・慶長の役(1597)で戦功をあげ、関ケ原の役(1600)では西軍に就き敗れた長宗我部盛親を守って土佐に帰り閑居していた。半右衛門は、文禄元年(1592)の朝鮮攻め時には福富七郎兵衛と称し17才と記されていることから、生年は天正4年(1576)である。
慶長6年(1601)前田久衛門と共に土佐を発ち、働き口として伊予正木(松前)の加藤左馬助の家老畑二郎兵衛に仕官を頼んだ。丁度川之江に新城を取り立てて、川村権七を城代(6500石)としたので、半右衛門は、川村権七組として職を得、4月26日川之江に着いた。慶長6年(1601)暮に秋山嘉兵衛の仲人にて、寺尾喜右衛門の娘と結婚した。半右衛門は寺尾喜右衛門の娘婿となったのである。以下略
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