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立川銅山(17)寺西喜助は尾州海東郡寺西村出身で土佐に移った商人ではないか

2022-06-12 08:30:28 | 趣味歴史推論
 明暦元年(1655)~万治~寛文5年(1665)頃の寺西喜助が見つかりそうな古文書類は何かを推理することにした。

1. 寺西姓の始まり
①現代の寺西姓がどこに多いかを検索した。「日本姓氏語源辞典」1) によれば、「寺西」の小地域順位は以下の通りである。
 1 愛知県 海部郡蟹江町 須成川西上(43.6% / 約70人)
 2 愛知県 海部郡蟹江町 須成川西下(27% / 約40人)
 3 愛知県 稲沢市 大矢町村内下(26.5% / 約40人)
 4 愛知県 海部郡蟹江町 須成門屋敷上(22.2% / 約30人)
 5 富山県 射水市 若林(21.4% / 約40人)
 なんと愛知県海部郡蟹江町須成では、2~5軒に1軒が寺西姓である。ここを「寺西」発祥の地とにらんで、「寺西村」が存在したのではないかと推理した。

②「愛知県の地名」2)によれば、海部(あま)郡(江戸期は海東郡といわれた)蟹江本町村は、室町期から成立した大村で伊勢湾岸にあり、江戸期は直接海に臨んでいた。「寛文覚書」には戸数355、人数1587、漁舟62艘とある。「徇行記」は、「概高1976石余 高に准じては戸数多く農商を兼生産とす、舟入は民戸蟹江新田の地も入交り、漁事船稼ぎを以て専ら生産とし、舟入間の川村中にあり、民戸織の如く軒を連ね、戸口多き所なり」と記し、支村舟入れでの鰻・蛤蜆の採漁、津島祭礼車船に毎年4艘ずつ出したことなどを伝える。享保には、魚、青物の市、六斎市が開かれていた。須成村は、「寛文覚書」には戸数158、人数776とあり、「徇行記」によれば概高2140石余は一円蔵入地(藩直轄地)。

③古文書として「寛文覚書」と「徇行記」が参考になりそうなことがわかった。さらに調べると正確には、「寛文村々覚書」(かんぶんむらむらおぼえがき)3)といい、この覚書は、「寛文末年(1672年前後)に成った尾張8郡内にある村々の歴史や現状を書き留めたもので、一種の“国勢調査”とも言える史料集。各村々の村名・庄名・田畑・石高・戸数・人口・寺社・城跡・橋・杁・牛馬・船・夫役などが記されており、当時の各村々の様子を知るうえで最も信頼できる史料の一つとなっている。」とのことであった。また、江戸後期の同様な調査史料が、尾張藩士樋口好古がまとめた「尾張徇行記」(文政5年 1822)である。

「尾張徇行記」(文政5年 1822)は、愛知県図書館の貴重和本デジタルライブラリーで原本が読めた。4) 
 同記は、海東郡の村として、1. 蟹江本町村 2. 蟹江新町村 3. 今村 4. 須成村 5. 徳眞村 ---と58村が挙げて詳細を記しているが、「寺西村」はなかった。
ただ、須成村の項に、「・社2ヶ所堂宇3ヶ所 祠官寺西伊豆守書上に八剱宮草建年紀不詳、天正7卯年修営す、天王祠も草創年紀不詳慶長19寅年修営す、両社境内1段2畝歩前に除、外に神田3段2畝村除、御蘆山8段7畝12歩年貢地是は大宝新田前にあり」の記述が見える。

⑤「寛文村々覚書」3)は、見られなかったので、それに代わるものを探していたら、偶然前記デジタルライブラリーに、「寛文村々覚書」とほぼ同時期の村高付を記した「尾陽八郡村高付」5)があることがわかった。海東郡の220余の村・新田名とその高が記されている。その中に、「寺西村」があった。→写

「尾陽八郡村高付」
・高547石8斗3升 寺西村


 手元に寛文時代の古地図がないので位置を確認できていないが、寺西村は寛文以降に須成村に併合されたと推測する。
寺西喜助またはその先祖が寺西村出身ではないかと推理した。

⑥ 「姓氏家系大辞典」6)によれば、寺西姓は「尾張の豪族なり」とある。寺西直次備中守は、海東郡万場村の出である。7) 万場村も、「尾張徇行記」には記載がないが、「尾陽八郡村高付」にはあった。さらに同時代の武将として、寺西正勝筑後守がいた。8)

2. 寺西喜助が寺西村の出身として、なぜ土佐に移住したかを推測する。
①土佐藩主が尾張から移ってきたことに関係があるのではないか。
 山内一豊の父 盛豊は尾張国黒田城(愛知県一宮市(いちのみやし)木曽川町)の城代として、主君の岩倉城主織田信安に仕えた。永禄2年(1559年)織田信長の襲撃により岩倉城が落城し、盛豊も戦死した。一豊は母とわずかな家臣とともに流浪した後、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦では徳川家康にくみし、慶長6年(1601)土佐一国を領する土佐藩主に任じられた。慶長8年(1603)高知城を築城し、城下町の整備を行った。土佐山内家は江戸時代を通じて16代にわたり土佐藩主を勤めた。9)
黒田城は、寺西村の北方23kmの所にある。一豊は尾張国中を廻っていたに違いない。

寺西喜助またはその先祖は、雄飛する初代藩主一豊または、二代忠義に引かれて新天地の土佐へ移住したのではないか。そして二代藩主の時の執政野中兼山の土木工事や材木商とし財をなした可能性がある。
承応3年(1654)藩主忠義が兼山らにあてた文書に、土佐郡高川、安芸郡佐喜浜に「銅之在よし」と書かれてあることから、藩は銅山開発をもくろんでいたことがわかる。ただ銅山経営は高い技術と大資本を必要とし、幕府の許可を得なければなかったので、容易には着手できなかった。10) そこで、隣藩にある立川銅山で、寺西喜助が試みるのを後押ししたのではないかと筆者は考えた。寺西喜助が鉱山技術を持っていたかは、気になるところである。

まとめ
1. 山師「土佐の寺西喜助」は、本人または先祖が尾州海東郡寺西村出身であり、山内家の東海から土佐への移封に引かれて土佐に移住した商人ではないかとの仮説を提案した。
2. 明暦~寛文頃の土佐藩の古文書や高知城下の町人町の地図で寺西を探してみよう。


注 引用文献
1.  web. -名字の由来、語源、分布-「日本姓氏語源辞典」>寺西姓
2. 日本歴史地名大系第23巻「愛知県の地名」p453 (平凡社 1981)
3. 名古屋市教育委員会編「名古屋叢書続編第2巻(寛文村々覚書 中)」(名古屋市教育委員会発行 1965)
4. 「尾張徇行記」web.愛知県図書館貴重和本デジタルライブラリー「尾張徇行記」p1-2,19
5. 「尾陽八郡村高付」 web.愛知県図書館貴重和本デジタルライブラリー「尾陽八郡村高付」p50 →写
6. 「姓氏家系大辞典」太田亮著p3866(角川 昭和38年 1963)
7. Wikipedia:「 寺西直次備中守」(1557~1649)は、安土桃山時代の武将、大名。美濃本田(ほんでん)城主。江戸初期の加賀藩家老。尾張国海東郡万場村の人。天正14年(1586)九州征伐の後方支援の功で、秀吉から美濃国本田城を拝領した。父は斉藤氏の家臣だった寺西駿河守。斉藤龍興滅亡後から秀吉に仕え、主に後方支援(食料・武器調達、兵員確保など)や占領地の統治等で活躍した。美濃本田(ほんでん)城以外にも越前や近江などで領地をもらい、豊臣政権下で1万石を領する大名となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗れ、徳川家康によって改易とされた。その後、加賀の前田利長(1562~1614、利家の長男)に家臣として誘われ1,500石(能登の鹿島郡津向)の家臣となった。
8. Wikipedia:「 寺西正勝筑後守」(?~1600)美濃国の出身 天正10年(1582年)、織田信長の部将として近江二郡を治めていた丹羽長秀の家臣となり翌年の賤ヶ岳の戦いにおける柳瀬合戦で活躍。その功で長秀が越前に封じられたときに知行1万石を授かる。天正13年(1585年)4月に長秀が亡くなると、その子の長重に仕えていたが、丹羽家の家内騒動で出奔し、豊臣秀吉の家臣となり、加増あって1万3,000石を知行。晩年は秀吉の御伽衆となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前に亡くなった。
尾張国海東郡の土豪の寺西駿河守とその子の寺西直次(備中守)とは同族と考えられるが続柄は不明。
9. web. 高知城歴史博物館 > 城博コラム > 山内家の歴史 > 山内家の由来
10. 「大川村史」p244(大川村史編纂委員会 昭和37年 1962)
補.  一柳直盛は、慶長6年(1601年)、尾張国黒田城(愛知県一宮市木曽川町)3万5000石の城主だったが、5万石で伊勢国へ入部し、神戸藩((かんべはん)伊勢国河曲郡周辺を領有した。寛永13年(1636年)に直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。

写 「尾陽八郡村高付」の寺西村部分



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