気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

山下吹(1) 発祥の地とされる摂津国多田山下町

2020-07-12 09:36:17 | 趣味歴史推論

 別子の銅製錬法は、伊予吹ともいわれ、山下吹が元であるともいわれている。黄銅鉱の酸化製錬法である。黄銅鉱の素吹で得られた銅皮を炭燃焼の助を借りながら、空気中の酸素で鉄分、硫黄分を酸化し、その発生する熱で高温を保ち、荒銅を得るという真吹が山下吹の本質ともいわれている。この原理は、1856年にイギリスで発明・実用化された鉄製錬法のベッセマー法(熔銑に空気を吹き込んで不純物ケイ素や炭素と反応させ、鋼(炭素が少ない)を作る方法で、酸化熱によって鉄の温度が上がり、燃料がいらずに熔けた状態にできる)と同じであり、より古くしてなされた日本の貴重な発明であるという指摘もなされている。但し、山下で始まったので山下吹といわれているようだが、その方法や定義ははっきりしない。論じる人により異なっているように思える。山下吹の由来や技術については、「冶金の曙」に要点が簡潔にまとめられているが、筆者はそれをスタートとしてさらに山下吹に迫りたい。1)

 次回以降に紹介する文献に記されているが、銅鉱の酸化製錬法,いわゆる山下吹は、摂津国多田荘山下町で始まったと伝えられている。その時期は、文亀~永正年間(1501~ 1521)、天正(1573~1591)、慶長(1596~1614)、寛永9年(1632)以前、元禄(1688~1703)など諸説がある。

 「山下」は多くの地域にありうる地名であり、本当に摂津国多田の山下なのかについても検討されなければならないであろう。しかし今のところ文献に示された、摂津国山下町として、町の成立経緯についてまず調べた。

 山下町の成立経緯は、中島康隆の説「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」が説得力ある。2) その説は、「「川西市史」で「山下町は銀銅製錬のために造られた町」と断定されているが、3)、天正2~5年頃に完成した塩川氏の城下町(侍町と町人町)が、慶長から江戸前期にかけて銀銅製錬の町に変貌したと考えるのが妥当である」であり、筆者は納得したので、その説に基づいて以下の年表を作成した。

天文10年(1541)    塩川国満が摂州多田に獅子山城(ししやまのしろ 多田一蔵城 いわゆる「山下城」)を築城。

元亀(1570~73)頃   獅子山城の麓に侍町が成立か?(後の江戸期に下財屋敷とよばれる地域)。 

天正2~5年(1574~1577)南隣接地に商業地(町人町)が完成、これを山下町(狭義)といった。侍町と町人町を合わせ、塩川家獅子山城下町が完成した。 

天正4年(1576)     国満病死 塩川長満城主(3万石)

天正5年(1577)9月   「高代寺日記」に「近来(2月に紀州遠征で戦死した多田)元継ノ古室娘共ニ山下へ帰ル」とあり、初めて「山下」名が記される。

天正7年(1579)     長満が信長から「銀子百枚(16kg)」を賜る。(信長公記)

天正8~14年(1580~1586)の間に破城(防御施設等を破却)された可能性がある。

天正11年(1583)    羽柴秀吉によって所領を半減させられたと思われる。

天正14年(1586)    長満病死

天正16年(1588)春~夏頃 塩川氏滅亡、廃城、侍町廃絶。(城下町として最長14年続いた)

天正16年(1588)   「言経卿記」に「冷泉為満、早朝ニ摂州多田郷銀山見物ニ被行了、此此出来也」とあり。これが多田鉱山から銀が産出した「最古の文献」である。

慶長(1596~1614)頃  廃城したので、侍町が吹屋や下財居住の下財屋敷として形成される。(時期は筆者の推論)

慶長10年(1605)    慶長十年摂津国絵図に「山下町」の表示あり。

元禄3年(1690)      下財屋敷に幕府の「多田銀山山下役所」設置。

文化12年(1815)    「笹部村野山之一件」に「吹場の火事が多かったので、1軒、2軒と退いて天正2年に山下町ができた」と記された。

考察

中島康隆の城下町説が妥当と思う筆者の根拠として一つ提示したい。慶長十年摂津国絵図(図3)には、「多田古城 塩川」とあり「多田ノ庄内 山下町 四十石八斗五升」と書かれて大きな四角枠で囲まれている。絵図で他の地区の表示は 「□□村」であり、「□□町」と「町」表示されたところは見当たらない。自然発生的に吹屋と下財屋敷が集まった所を当時は「町」と表示しない。このことは、山下町が城下町の商業地である町人町を起源としていることを表している。図2の掟書きの安土山下町のようにである。よって、城に近い北隣接地(後に下財屋敷となる)は侍町に違いない。

山下吹がいつ生まれたかを城下町起源とする上記年表に基づき推論する。図1.で天保10年(1839)の下財屋敷の方には、吹屋と鍰捨場が多数箇所あり、一方、町人町には見られない。この事から、広義の山下町(下財屋敷+山下町(狭義))で天正以後に吹屋があったとすれば、下財屋敷の方である。また元禄元年の銀山役所も下財屋敷に設置されたことからも、吹屋は下財屋敷の方である。天正16年(1588)に塩川氏滅亡し廃城になったことにより、侍町は廃絶となり、さびれたであろう。一方、銀の生産は銀山地区で栄えていたので、買鉑によりさびれた侍町で吹屋を始める者が出てきたのではなかろうか。その時期は廃絶してからほどなくではないかと推測する。それは慶長年間である。下財屋敷の方で銀銅の製錬精製が始まり、町人町もにぎわいを取り戻したので、慶長十年(1605)摂津国絵図に、「山下町 四十石八斗五升」と書かれたのであろう。

まとめ

 山下町で吹屋ができたのは、慶長年間であろう。よって、山下吹が生まれたのは、慶長以降であろう。山下吹の発祥の地は「山下」や「山下村」ではなく、あくまでも「山下町」なのである。

年表を作成するにあたって中島康隆氏に貴重な教示をいただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献

1. web. ホームページ「冶金の曙」>スクラップBOX(2) >山下吹き法 および製錬法(酸化還元について)は >関連情報>製錬について>銅製錬

2. web.中島康隆「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」東谷ズム(ヒガシタニズム) 特に、第10回(2018.2) 第12回(2018.8) 第14回(2019.1)

3. 川西市史第2巻(執筆 八木哲浩)p49(昭和51.3 1976)

4. 慶長十年摂津国絵図(1605) にしのみやデジタルアーカイブ(西宮市)

図1. 獅子山城と山下町、下財屋敷 2の中島康隆第12回から転載

図2. 慶長摂津国図絵の山下町, 天保14年の下財屋敷 2の中島康隆第10回から転載

図3. 慶長十年摂津国絵図の山下町部分 4の「にしのみやデジタルアーカイブ」より



最新の画像もっと見る

コメントを投稿