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天満村寺尾九兵衛(3) 先祖は鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか

2024-07-07 14:09:49 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋寺尾九兵衛家の先祖について、公表された資料を調査した。
以下の3つの説が見つかった。
第1の説「寺尾九兵衛家は、500年前まで常磐(ときわ)の武士であった」
「土居町誌」(山上統一郎執筆 1984)に以下の記述がある。
「寺尾家は、今から500年程前まで常磐(ときわ)の武士であったが、戦いに敗れ、所々を経て天満に落ち着いて、郷士になった。郷士は、平時は農をしているが、事があれば地方人を従えて大名の戦列に加わるので、大名と庄屋の中間に地位にあった。宇摩郡では、豊田の秋山、川之江の長野が郷士であった。寺尾はまた天領の大庄屋でもあった。宇摩郡では、土居組の加地、川之江の猪川などがそれであったが、寺尾と猪川は天領の大庄屋、加地は西條領の大庄屋であった。寺尾家は農にも従ったが、運送業が主であった。天満港は仏崎で西風を防ぎ、海が深い、東風が強い時は近くの大島が避難港となる。」
 郷土史家の記述なので、何らかの調査結果に基づいているはずであるが、出自の根拠は書かれていない。寺尾家の口伝であろうか。500年前は、(1984-500=)1484年で文明16年に相当し、応仁の乱(1468~1477)頃である。戦いに敗れ、所々を経てとあるので、3世代が渡り歩いたと仮定すると(1484+20×3=)1544年(天文13年)頃に天満に落ち着いたことなる。これは天正元年(1573)の29年前となる。
 では常盤(ときわ)の武士とはなんであろうか。
筆者は、常盤家(ときわけ)の家臣を意味していると推測した。常盤家は、桓武天皇を祖とする鎌倉北条氏の一派で「吾妻鏡」や「太平記」にも登場する相模国の名家である。常盤家の祖は北条時茂(ときもち/ときしげ 1240~1270)であり、北条義時(鎌倉幕府第2代執権、北条政子の弟)の孫である。屋敷を鎌倉郡常盤郷に構えたため「常盤殿」と呼ばれ、常盤(ときわ)を称した。この常盤北条氏の家臣として寺尾家があったのではないだろうか。ではその寺尾家はどこに居たのか。寺尾の地名が付く場所を相模国(神奈川県)に探すと3ヶ所ある。2)3)→図
①寺尾村(高座郡渋谷荘 綾瀬市)
 鎌倉幕府の御家人渋谷重国(しぶやしげくに)は相模国高座郡渋谷荘を本拠とした(~1194~)。現在の東京都渋谷区から神奈川県綾瀬市の地域である。長子の光重(地頭職)は、宝治合戦(1247)の恩賞として薩摩国川内川流域を下賜され、光重は長男の重直を相模国の渋谷荘に留め、他の5人の男子に薩摩の各領地(地頭職)を与え、それぞれ東郷氏、祁答院氏、薩摩鶴田氏、入来院氏、高城氏となった。領地は美作、伊勢にも及んだ。入来院祖となった定心(じょうしん)の次男重経(しげつね ~1277)は、綾瀬市寺尾村を本領とし、地名をとって寺尾氏と名乗った。綾瀬市史によれば、文永/弘安の役を経て、重経は、渋谷氏一党の鎌倉幕府における役割の中心を担っていたようだ。9)この寺尾重経の後裔が、薩摩国と相模国の寺尾氏となった。相模国寺尾氏の情報は、鎌倉幕府と執権北条氏が亡んだ頃(1333)以降の文書に見つからないようである。
筆者の推理は「常盤北条氏の家臣としてあった寺尾氏一族は、相模国にいたが、常盤北条氏の没落と共に勢力を失い、応仁の乱(~1477)頃には後北条氏に敗れ、一部が伊予国宇摩郡にやってきた」である。
寺尾城が2ヶ所ある。
②川崎市多摩区菅馬場 寺尾城(菅(すげ)寺尾城) 室町時代に寺尾若狭守によって築造されたと言われる。若狭守はその後、後北条氏(小田原北条氏、北条早雲を祖とする北条氏)の家臣となって、諏訪氏を称したと言われている。
③横浜市鶴見区馬場 寺尾城 室町時代の諏訪三河守の居城とされる。後北条氏の旗本であった。この諏訪氏は、信濃の諏訪氏の支流とのことである。
 名字の由来を検索すると、4)「寺尾氏は信濃国埴科郡寺尾(現長野県松代町)発祥。諏訪神党関屋氏の支流という。」とある。上記の②③の寺尾城主も先祖は、諏訪の名称から推測すると信濃国寺尾発祥と思われる。②③のケースは、後北条氏(祖は北条早雲(1456~1519)~5代)の家臣であったので、後北条氏が1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びるまで、両寺尾城の家臣(その中に寺尾氏を名乗ったものがいたのではないか)は、力があったと考えられる。一方、天満村寺尾家はその時には既に天満村で力を持っていたと思われるので、この両寺尾城の家臣の後裔ではないと筆者は推理した。
2. 「天満村郷土誌」(1912)によれば、5)
「寺尾九兵衛は、今を去る300有余年天正年間前より天満村に居住し、家主代々九兵衛を襲称し 明治年代に至り 求馬 貫一 和 を経て現代助二郎まで系統連綿たり」とある。
天正元年(1573)より前、即ち秀吉時代より前から天満村に居住していたとある。この証拠は示されていない。口伝か? 出自については記されておらず、第1の説を否定するものではない。

第2の説「周布郡寺尾村の発祥」
3. 信藤英敏「宇摩の苗字」(1983)には、以下の記載がある。6)
「寺尾: 伊予三島・川之江市両市と土居町に百戸ほど。宇摩地方としては多い部類にはいる。周布郡に寺尾村、村高285石7斗7合の地があるから、ここを発祥の地とする族かと思う。」と記している。
この説の信憑性を調べた。「日本地名大辞典」(1981)7)には「寺尾の地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。」とある。この記述を検討した。
「中川村郷土誌」(1914)の大字の名称由来の項には以下の記載があった。8)→写
「大字寺尾:弘安4年6月(今より620年前*)元寇筑紫に来襲の際北條氏の家臣寺尾三郎右衛門義之故あって此地に病歿せしものなりと言い伝う。墓跡等據(よ)るべきものなければ詳ならざれども、按(あん)ずるに或いは之より寺尾と称ぶに至りしものならずや」
*正しくは、弘安4年(1281)は今(1914)より633年前である。
 鎌倉幕府第8代執権北条時宗が御家人を統率して元寇と戦った。郷土誌の「弘安4年6月」は、元寇襲来の月日を記しているのであって、寺尾が没した日ではないと筆者は読んだ。北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、関東から博多への行きがけか帰りがけかに何等かの理由(急病?)でこの地に留まったと思われる。そしてこの地で病歿したのではなかろうか。この地に寺尾の名がついたとすれば、没するに当たり、この地の寺に大きな寄進をしたのではなかろうか。以下は筆者の推理であるが、安養寺の山下六院の一つ地蔵寺への寄進がある。堂坂の地蔵さんの三墓や、鎌倉時代建立と推測される五輪塔(五輪さん)があることも、鎌倉時代との関連が想定される。9)この北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、上述した寺尾重経の一族である可能性がある。
 もし寺尾家が地頭職等としてこの地に居住していたのであれば、その一族が残り、「寺尾」姓がこの地にあってもよさそうなものであるが、現在、丹原町寺尾とその周辺には、「寺尾」姓は1軒もない。10)
よって長期間寺尾家がこの地に住んで居たのではないと思う。もし、一族がすぐに天満村に移住したとすると、天正時代の300年程前になり、寺尾九兵衛家にとっては、古すぎる。
 
 次報で述べるが、天満村寺尾家と上柏村寺尾家が同じ家紋(三つ扇)であることが分った。よって同族であったと思われる。そこで上柏村寺尾家の出自を調べた。
第3の説 「上柏村寺尾家は、豊後国宇佐八幡宮旧臣であった」
4. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)で引用している「今村家家譜坤の巻」には今村又兵衛近秀について記した中に
「豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家が豫洲宇摩郡真庄山口郷に移り---」とある。11)
すなわち上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったという。この家譜は、他の記述をみると信憑性に少々問題があるので、そのまま信じることはできない。筆者は、豊後国宇佐八幡宮の氏の姓に寺尾がないか、および付近に寺尾の地名がないかを調べたが、見つけられなかった。よって八幡宮旧臣であったという記述は今のところ肯定できない。
5. 宮脇通赫「伊豫温故録」(1893)によれば12)
「寺尾土佐守直政宅跡: 上柏村字居屋敷にあり。土佐守は天正以前当村の地頭にしてこの地に館す。天正年中その家亡ぶ。今の住人今村喆逸の祖その館跡に移住し子孫世襲して現今に至る。この宅内の築山は夢窓国師行脚の時この館に留錫して自ら築く所なりと云ふ。」
 次次報で述べるが、「福富半右衛門覚書」「士林泝洄」等によれば、「寺尾土佐守直政宅跡、天正年中その家亡ぶ」の記述は間違っている。正しくは「尾張藩家老寺尾土佐守直政の祖父寺尾壱岐守(父寺尾正俊も青年まで居たようだ)や叔父寺尾喜右衛門の住宅跡で、慶長9年(1604)にその家亡ぶ」である。また、寺尾土佐守が地頭であったのではなくその祖先が天正以前に地頭であったということであろうか。地頭の直接的な証拠を筆者は見つけられなかったが、その可能性は上柏村にある瀧神社の由緒から伺うことができる。13)
 瀧神社の由緒によれば、「室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれている。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立した。」とある。細川頼之(よりゆき)(1329年生-1392年歿)は、室町時代初期の守護大名で室町幕府2代管領であった。
 細川頼之は、貞治元年(1362年)四国を平定した。管領となった頼之は足利義満を補佐していたが、政変があり、敗れた頼之は、領国の四国へ落ちて行き、河野通堯らを破り、永徳元年(1381)、河野氏と和睦した。以後細川氏が宇摩新居郡を支配した。この事から、瀧神社の由緒が事実なら、社殿は、1381年以降に寺尾氏によって建立されたことになる
 夢窓国師(1275生~1351歿)は、禅僧で禅庭・枯山水の最高の完成者でありその庭があるということは、細川氏と寺尾氏の緊密な関係があったからではないかと想像する。
 今の住人今村喆逸の祖とは、八代前の今村又兵衛近秀(初代義親の孫)であり、近秀の妻が寺尾喜右衛門の娘であった。11)
 上柏村は天満村から直線距離で東15kmにある。筆者が調べた限りでは、両寺尾家が親戚関係を示す証拠は、家紋以外には見つけられなかった。

まとめ
1. 天満村大庄屋寺尾九兵衛の先祖は、鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか。
2. 同族の上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったと今村家譜に記載されているが信用し難い。
3. 上柏村寺尾家は、永徳元年(1381)頃に室町幕府2代管領細川頼之の命で、瀧神社を建立しているので上柏村の地頭であったと推測できる。


 中川村郷土誌では、丹原史談会長今井義親様と中川公民館様にお世話になりました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1.「土居町誌」(寺尾つた女の項)p832(1984)執筆山上統一郎の経歴:土居町藤原(天満神社から東南約4km)に居住。第6代の豊岡小学校校長。著書に、「書による星山先生研究」(1986 尾崎星山は、土居町北野村出身の勤王家・教育者である)、「安藤正楽遺墨集」(1978)、「土居町誌」人物編などがある。
2. web. 「MARO参上」寺尾城(川崎市)、寺尾城(横浜市)
3. web. 「埋文よこはま」33号(2016) 横浜の中世城郭「寺尾城の堀跡を発見」
4. web. 「名字由来net」
5. 「土居町誌」p89(1984)近世史部分執筆は郷土史家の真鍋充親 
6. 信藤英敏「宇摩の苗字」(昭和58年1983)信藤英敏は、昭和48年「宇摩史談会」創立初代会長 「角川日本地名大辞典」38愛媛県分担執筆 「川之江城の研究」など
7. 「日本地名大辞典」38愛媛県(角川 1981)の寺尾<丹原町>の項
「寺尾:高縄半島南部、中山川の南岸に位置し、中央構造線の断層崖の麓一帯。地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。
[近世]寺尾村:江戸期~明治22年の村名。周布郡のうち。松山藩領。「慶安(1648)郷村数帳」では、高285石余、うち田215石余・畑69石余、「元禄村浦記」285石余、「天保郷帳」300石余、「旧国旧領」305石余。「周布郡大手鑑」による宝永7年(1710)の家数50軒・人口166、牛22・宇摩8、田16町余・畑13町余。神社は日吉神社。用水堰は中山川にかかる寺尾堰がある。以下略。
8. 「中川村郷土誌」第一篇p55(中川村 大正3年 1914)編者 三毎柏東 →写
9. 「中川村 歴史と文化財」p12~18(郷土を見直す会 平成21年 2009)
10.「ゼンリン住宅地図」愛媛県 西条市 2 東予・丹原・小松(2022)
11. 石川士郎「伊予今村家物語」p58(今村武彦発行 2006)
12. 宮脇通赫「伊豫温故録」p365(松山向陽社 大正4 1915)明治26年(1893)書の再版である。
国会図書館デジタルコレクション「伊豫温故録再版」コマ196/335
13. web. 瀧神社ホームページ>由緒
「御祭神は素戔嗚尊・稲田姫尊・大巳貴尊の三柱。室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれています。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立しました。御祭神が素戔嗚尊ということもあり災厄を封じる神様として多くの人に参拝され、牛頭天王にあやかった牛馬の病気平癒・厄除祈願は三郡の信仰を集め、農家の人々が連れてくる牛馬が後を絶たなかったといわれています。明治時代の神仏分離令により薬師堂は廃止され、松柏町内の神社がこの地に合祀されました。現在の本殿は貞享3年(1686)再建の社で現存する市内最古の神社本殿です。拝殿天井に描かれている龍の絵は、中曽根村今村伊八郎幽山斉が描いたもので、おそらくは薬師堂の天井に描かれていたものだといわれています。」
図. 相模国の常盤・寺尾村・寺尾城(鎌倉幕府~室町幕府時代)

写.「中川村郷土誌」(1914)名称由来「大字寺尾」



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