1月7日。
七草粥を食べる日だが、若い世代は今は食べるのだろうか。
人日の節句である。
私の世代が知るもうひとつの1月7日は、28年前、1989年のこの日だろう。
昭和の歴史が終わった。
私は当時大学受験真っ最中。
最後の共通1次試験が目前に迫っていた。
折しも今は、平成天皇の即位が議論されている。
数十年後に、今年のことを思いだす人がいるかもしれない。
さて、それから9年後の1997年1月7日。
覚えているだろうか。
福井県三国町の日本海で重油タンカーナホトカ号がひっくりかえり、大量の重油が日本海を汚染したことを。
福井は私の故郷で、三国の海岸はこども時代によく遊びに行った海だ。
小正月に帰省した時に、油だらけの真っ黒な海を見て絶句した。
「日本海が終わった」
そう想うほどに壮絶な状況だった。
荒ぶる真っ白の吹雪と、黒い油膜がうねる荒波のコントラスト。
でも、いつもの冬の荒々しい波ではなく、重々しい波に、涙が出るどころか、この世の終わりとばかりに震えたものだ。
実に、20年前のことである。
ここで活躍したのが全国から集まった青年ボランティアである。
その2年前の1995年が阪神大震災を機にボランティア元年と呼ばれ、間をおかずに勃発した災害に、国民が反応した。
全国から集まった善意が地域住民の不屈の想いと重なり、日本海はよみがえった。
そして私もまた重油を掬いに行ったボランティアの1人である。
もちろん、暮らしの学校「だいだらぼっち」の子どもたちも。
その当時、新聞に紹介された記事を2件、紹介する(毎年紹介しているけれど、まあおつきあいいただきたい (笑))。
泰阜村田本、通年合宿所ダイダラボッチ(辻英之所長)の子供たち11人(小学生6人、中学生5人)は19、20の両日、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故で海岸への漂着被害を受けている福井県坂井郡三国町を訪れ、ボランティアで重油回収作業を手伝った。
辻所長(26)は福井市の出身。小正月で実家に帰省した際、三国町で重油回収作業に参加し「一人でも多くのボランティアが必要」と感じ、子供たちに福井からファクスで参加を募った。
合宿所で生活する子供たちの中には、神戸市灘区から来ている小学生もおり「阪神大震災の時のお礼もしたい」と全員が賛同。19日が授業参観で、20日が振り替え休日となっていたことから、19日午後にマイクロバスで三国町に入った。
日本海は荒天で、回収作業は20日の午前中、2時間ほどしかできなかった。しかし、子供たちは、海岸の石を一つひとつ持ち上げ、すき間にたまった重油をすくい出したほか、石に張り付いた重油をふき取る作業に一生懸命に取り組んだという。
19日は、辻所長の友人宅に泊めてもらい、現地の人から重油が海や環境へ与える影響など、貴重な話を聞くこともできた。
辻所長は「わずかな時間しか参加できなかったが、小さなカの積み重ねが大切だということを学んだと思う。日本海が元の姿を取り戻すまではしばらく時間がかかる。また機会を見て、ボランティアに参加したい」と話している。(終)
1997年(平成9年)1月24日(金曜日) 信濃毎日新聞
重油回収 僕らも
泰阜村 山村留学の子供たち参加
福井・三国町で深刻さを実感「また行きたい」
日本海のタンカー重油流出事故で、下伊那郡泰阜村の山村留学施設「グリーンウッド遊学センター」(辻英之所長)の子供たちがこのほど、タンカーの船首部が漂着した福井県三国町で、全国から集まったボランティアに交じって重油回収に協力した。
ボランティア参加したのは、関東、中京方面から山村留学し、村内の小中学校に通う子どもたち13人。19日に現地入りし、20日の午前中、海岸に打ち寄せた重油の回収を手伝った。
「チョコレートが溶けたような感じ」(子供たち)で至る所にこびり付く重油を、竹べらやスコップでこそげ取り、石を一つひとつ布でぬぐう。「気の遠くなるような作業だった」と辻さん。神戸市民をはじめ、全国からボランティアが詰めかける中、子供たちは新聞やテレビニュースでは想像もできなかった被害の深刻さと、人々の支援の力を実感した。
福井市出身で、小学生のころ現場近くの海岸に遠足に出掛けたという辻さん。たまたま帰省していた18日に三国町に立ち寄り、汚染のひどさを見て、センターにファックスを入れた。支援の呼び掛けに、子供たちは即座に参加を決定。阪神大震災で被災し村に来ている小学五年生も、高校受験で横浜市に帰っていた生徒も駆け付けた。
「またボランティアに行きたい」と子供たちはいう。「元通りのきれいな海に戻すには相当時間がかかるはずだ。助け合いがどんなものなのか、感じ始めた子供たちと、また現地に行きたい」と辻さんも考えている。(終)
いや~若いな(笑)
阪神大震災の時(1995年)、被災児童を暮らしの学校「だいだらぼっち」で3年間預かった。
そのこどもが、1997年の福井重油事故では、先頭に立って重油を掬ってくれた。そそう、私は、神戸のこどもたちにも、ふるさとを助けてもらった一人である。
その恩を、私は一生忘れない。
2011年から今まで、東北のこどもたちを支援することに奔走してきた。
支えられた自分が、今度は東北を支えてきた。
同じことは昨年の熊本地震でも。
あの時、重油をすくった子どもたちは今、30歳を超えた。
そのうちの一人は、この春、結婚する。
もちろん、私も参列するつもりだ。
うれしすぎる。
きっと彼らは今でも、周囲のひとびとを支えているはずだ。
それでいいのだ。
ひとは、傷つけば傷つくほど、ひとにやさしくなれるのだと想う。
苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、ひとを想いやれるのだと想う。
支え合いは、支え愛。
1月7日はいつも、愛を感じる日なのだ。
七草粥を食べる日だが、若い世代は今は食べるのだろうか。
人日の節句である。
私の世代が知るもうひとつの1月7日は、28年前、1989年のこの日だろう。
昭和の歴史が終わった。
私は当時大学受験真っ最中。
最後の共通1次試験が目前に迫っていた。
折しも今は、平成天皇の即位が議論されている。
数十年後に、今年のことを思いだす人がいるかもしれない。
さて、それから9年後の1997年1月7日。
覚えているだろうか。
福井県三国町の日本海で重油タンカーナホトカ号がひっくりかえり、大量の重油が日本海を汚染したことを。
福井は私の故郷で、三国の海岸はこども時代によく遊びに行った海だ。
小正月に帰省した時に、油だらけの真っ黒な海を見て絶句した。
「日本海が終わった」
そう想うほどに壮絶な状況だった。
荒ぶる真っ白の吹雪と、黒い油膜がうねる荒波のコントラスト。
でも、いつもの冬の荒々しい波ではなく、重々しい波に、涙が出るどころか、この世の終わりとばかりに震えたものだ。
実に、20年前のことである。
ここで活躍したのが全国から集まった青年ボランティアである。
その2年前の1995年が阪神大震災を機にボランティア元年と呼ばれ、間をおかずに勃発した災害に、国民が反応した。
全国から集まった善意が地域住民の不屈の想いと重なり、日本海はよみがえった。
そして私もまた重油を掬いに行ったボランティアの1人である。
もちろん、暮らしの学校「だいだらぼっち」の子どもたちも。
その当時、新聞に紹介された記事を2件、紹介する(毎年紹介しているけれど、まあおつきあいいただきたい (笑))。
1997年(平成9年) 1月22日(水曜日) 中日新聞
福井の重油回収 県内の若い力も支援活動
泰阜のダイダラボッチの小中生 11人、駆け付け奉仕
すくい出しやふき取り
福井の重油回収 県内の若い力も支援活動
泰阜のダイダラボッチの小中生 11人、駆け付け奉仕
すくい出しやふき取り
泰阜村田本、通年合宿所ダイダラボッチ(辻英之所長)の子供たち11人(小学生6人、中学生5人)は19、20の両日、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故で海岸への漂着被害を受けている福井県坂井郡三国町を訪れ、ボランティアで重油回収作業を手伝った。
辻所長(26)は福井市の出身。小正月で実家に帰省した際、三国町で重油回収作業に参加し「一人でも多くのボランティアが必要」と感じ、子供たちに福井からファクスで参加を募った。
合宿所で生活する子供たちの中には、神戸市灘区から来ている小学生もおり「阪神大震災の時のお礼もしたい」と全員が賛同。19日が授業参観で、20日が振り替え休日となっていたことから、19日午後にマイクロバスで三国町に入った。
日本海は荒天で、回収作業は20日の午前中、2時間ほどしかできなかった。しかし、子供たちは、海岸の石を一つひとつ持ち上げ、すき間にたまった重油をすくい出したほか、石に張り付いた重油をふき取る作業に一生懸命に取り組んだという。
19日は、辻所長の友人宅に泊めてもらい、現地の人から重油が海や環境へ与える影響など、貴重な話を聞くこともできた。
辻所長は「わずかな時間しか参加できなかったが、小さなカの積み重ねが大切だということを学んだと思う。日本海が元の姿を取り戻すまではしばらく時間がかかる。また機会を見て、ボランティアに参加したい」と話している。(終)
1997年(平成9年)1月24日(金曜日) 信濃毎日新聞
重油回収 僕らも
泰阜村 山村留学の子供たち参加
福井・三国町で深刻さを実感「また行きたい」
日本海のタンカー重油流出事故で、下伊那郡泰阜村の山村留学施設「グリーンウッド遊学センター」(辻英之所長)の子供たちがこのほど、タンカーの船首部が漂着した福井県三国町で、全国から集まったボランティアに交じって重油回収に協力した。
ボランティア参加したのは、関東、中京方面から山村留学し、村内の小中学校に通う子どもたち13人。19日に現地入りし、20日の午前中、海岸に打ち寄せた重油の回収を手伝った。
「チョコレートが溶けたような感じ」(子供たち)で至る所にこびり付く重油を、竹べらやスコップでこそげ取り、石を一つひとつ布でぬぐう。「気の遠くなるような作業だった」と辻さん。神戸市民をはじめ、全国からボランティアが詰めかける中、子供たちは新聞やテレビニュースでは想像もできなかった被害の深刻さと、人々の支援の力を実感した。
福井市出身で、小学生のころ現場近くの海岸に遠足に出掛けたという辻さん。たまたま帰省していた18日に三国町に立ち寄り、汚染のひどさを見て、センターにファックスを入れた。支援の呼び掛けに、子供たちは即座に参加を決定。阪神大震災で被災し村に来ている小学五年生も、高校受験で横浜市に帰っていた生徒も駆け付けた。
「またボランティアに行きたい」と子供たちはいう。「元通りのきれいな海に戻すには相当時間がかかるはずだ。助け合いがどんなものなのか、感じ始めた子供たちと、また現地に行きたい」と辻さんも考えている。(終)
いや~若いな(笑)
阪神大震災の時(1995年)、被災児童を暮らしの学校「だいだらぼっち」で3年間預かった。
そのこどもが、1997年の福井重油事故では、先頭に立って重油を掬ってくれた。そそう、私は、神戸のこどもたちにも、ふるさとを助けてもらった一人である。
その恩を、私は一生忘れない。
2011年から今まで、東北のこどもたちを支援することに奔走してきた。
支えられた自分が、今度は東北を支えてきた。
同じことは昨年の熊本地震でも。
あの時、重油をすくった子どもたちは今、30歳を超えた。
そのうちの一人は、この春、結婚する。
もちろん、私も参列するつもりだ。
うれしすぎる。
きっと彼らは今でも、周囲のひとびとを支えているはずだ。
それでいいのだ。
ひとは、傷つけば傷つくほど、ひとにやさしくなれるのだと想う。
苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、ひとを想いやれるのだと想う。
支え合いは、支え愛。
1月7日はいつも、愛を感じる日なのだ。
代表 辻だいち